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45 どうしても貴方がよかった

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「……っ」
 
 俺の胸元の布をきゅうっと掴んで引き寄せ、無理にも俺へ口付けたユンファ殿に、俺は気が動転している。…目上の方では荒々しくしてはならぬとわかりつつも、俺はトッとその人を軽く押し、彼を跳ね除けて離れた。――と、同時に自分でも自然後ろへ引いたか、ガタ、と俺の背が後ろの扉にぶつかる。
 
「…っはぁ、…っな、何を、何をなさるんだ、なんてことを、…」
 
「……、…ふふ…」
 
 顔が熱い。…俺の揺れる視界の中で微笑んでいるユンファ殿も――顔を真っ赤に赤らめていた。…それでいて泣きそうに笑い、…ユンファ殿はかく、と膝から力が抜けたように、ゆっくりと膝を折ってはその場に膝を着き、床の上で正座をしては。
 
 俺の足下でうなだれ――下へ、その長く艶美な黒髪をさらさら垂れさせながら、彼は両手で、下に向いたその顔を覆い隠した。
 
「…ごめんなさい」
 
 そしてユンファ殿は、すぐさま小さな声で謝った。
 
「……ごめんなさい、どうしても貴方がよかった……」
 
 彼はうなだれたまま、指の間から伝うほどの涙を、ぽとり、ぽとり…――光る涙を下へいくつも、いくつも落とし、ユンファ殿は小さな震えた声で、こう言うのだ。
 

「……これでもう…これで僕の、生まれて初めての接吻相手は――ソンジュ様になった……」
 
 
「……、…、…」
 
 俺の胸の中が、ぐらりぐらりと揺れている。
 俺の胸の中で荒波が立ち、その荒波の中で一人、俺は今、なんとか立っているようだ。――ユンファ殿は俺へ、うなだれたままにペコリと頭を下げるのだ。
 
「…ごめんなさい、ソンジュ様…しかし、僕はもう、これで満足でございます…。この思い出さえあれば、…僕はこれで、やっと思い残すことなく明日、ジャスル様のものとなれます……」
 
「……――。」
 
 俺はもう、頭が真っ白だ。
 …そしてユンファ殿は、泣きながら俺に謝ってくるのだ。
 
「ごめんなさい、ごめんなさいソンジュ様、無理に口付けて…――これじゃあ、僕もジャスル様と同じだ……」
 
「……は…――そ、それはどういう、…」
 
 俺は目を瞠り――その嫌な予感に、思わずその場へしゃがみこんだ。…そして俺は、うなだれ、顔を覆い隠しているユンファ殿の肩を、そっと掴む。
 
「…どういう、……まさか、まさかユンファ殿、…」
 
「……、…ソンジュ様…」
 
 するとユンファ殿は、手のひらの中、とてもか細く弱々しい声で――。
 
 
 
「……もう僕は…、僕、――もう…清らかな体では、ないのです…、先ほど……奪われてしまいました……」
 
 
 
「……、…、…」
 
 俺は、…あまりのことに息を止め、言葉を失った。
 だらり……顔を覆っていた手を下げ、正座している腿の上へ置いたユンファ殿は、顔を伏せたまま諦めたように、その切れ長の目を伏せ――その赤い唇の口角を少しばかり上げながらも、…またほろりと、涙を下へ落とした。
 
「…いえ、奪われたというより…――先ほど、僕はジャスル様に、その…純潔を、捧げたばかりということです…。そして、清いのは…唇だけは、必死に守っておりましたので、…この、唇のみで……」
 
「…っし、しかし、しかしまだ、“婚礼の儀”は、……」
 
 明日、だ。
 ユンファ殿とジャスル様が正式にメオトとなるのは、明日――昼から執り行われる、あの“婚礼の儀”を終えてからなのだ。
 つまり、この国の法ではまだ、いくらユンファ殿をご側室として娶られたジャスル様といえども…――ユンファ殿を抱くことはおろか、ジャスル様は彼の体に、みだりに触れることさえ許されてはいない。…はずだが…あのジャスル様ならば、大いにあり得ることか。
 
 ユンファ殿は顔を伏せたまま、泣きそうな、曖昧な笑みをうっすらと浮かべている。
 
「…もうよくわかりません、なぜなのか…、ただ、法にならったのか、なんなのか…正直、僕にはどうかわかりませんが…、何分、ノージェスのことは明るくなく…――その…、つまりそのとき、…その……」
 
 赤い唇がカタカタと震え、…ぎゅっと悔しげに顔を顰めたユンファ殿は、――涙を堪えているよう、その顔を俺から隠すように、ぐっと深くうなだれた。
 そして彼は、腿の上で拳を固く握り、…ときおり声を裏返しながら、詰まりながらも、悔しげに泣きながらも。
 
「…っ二人きりでは、なくて、…誰も止めてくれず、…むしろ、……見られてしまって、…純潔かどうか、調べると言われて、見せろと、…っ見られてしまいました、体を、その…まぐわいも、何も、かも……っ」
 
「……、…」
 
 なんならむしろ――俺の嫌な予感が、当たった…よりも、…二人きりでは、なかった。
 
 むしろ、俺のその嫌な予感など飛び越えてもっと、もっと惨たらしいことではないか。
 つまりユンファ殿は、他人の目があるところで――“接吻”という言葉を、口にすることですらはにかんでしまうような彼が――他人に、裸体を見られた。
 いや、ユンファ殿のこの口振りではおそらく――本当に純潔かどうかを確かめる、というのを口実に、あの部屋にいた者たちへ、秘所を見せるよう強要されたか。
 そしてその後、その者たちに見られながらユンファ殿は、ジャスル様に無理やり暴かれた…――。
 
 ――なんと、卑劣な。
 
 
「――…、…っ」
 
 旦那となるジャスル様だけならばまだしもだ。
 …わざわざ、他の者の目があるところで、そのような汚辱の目に合わされていたとは――そりゃあ、…「ならば死にます」――うなだれた俺は顔が強ばり、あまりの心痛に体がぶるぶる震えている。
 
 
 
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