胡蝶の夢に耽溺す【完結】

🫎藤月 こじか 春雷🦌

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49 淫蕩の罪を背負うべき者

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「……――。」
 
 忘れ、ろ…――忘れろと、いうのか。
 呆然としてしまう俺は、…俺に、あの接吻を忘れろというユンファ殿のその言葉に、眉を顰めた。
 いや、――ユンファ殿は、妻帯者である俺を気遣って、そのように言ってくださったのだ。
 それどころか彼は、端からきちんと自分が明日、正式にジャスル様のものとなることを理解していた。
 
 その上で――どうしても、と。
 身も心も、その全てがジャスル様のものとなることを、理解していた上で――いや、もうすでにその身の純潔は奪われてしまったが、しかし――せめて、せめて初めての接吻ばかりは、まだせめて清い己の唇だけは、せめて…と。
 
 
 せめてもの、たった唯一の我儘として――ユンファ殿は俺に、接吻をねだったのだ。
 
 
「……、…、…っ」
 
 俺はあまりのことに、終始嗚咽をこらえて喉を震わせている。――何が、淫蕩だ。
 何が淫乱、何が、何が、…何が“淫蕩の罪”だ。…何故なにゆえに、これほど無垢で清らかなお方が、そんなあらぬ罪で、あのような籠に捕らわれていたというのだ。……まるでわからぬ、ただ美しいというだけで、あらぬ罪を着せられたこのユンファ殿を、俺は。
 
「…何が“淫蕩な罪”ですか、…っ俺は、俺はユンファ殿ほどに清らかなお方を知りませぬ、…っ」
 
 俺が涙をこらえて言えば、ゆっくりと頭を上げたユンファ殿は、伏し目がちに――その美しい微笑みを、伏せている。
 
「……それは…――いわく蝶族はみな、人を魅了し、誑かすような魔力を持って生まれてくるそうで……僕たち蝶はその魔力を、“鱗粉りんぷん”と呼ぶのですが……」
 
「…………」
 
 “鱗粉”――『あぁ嫌だ嫌だ、お前の鱗粉が俺たちを汚すよ、お前なぞあっちへおゆき。』――あの狼と蝶のお伽噺の中、虫どものこのセリフ。…つまりこれは、蝶族が生まれ持っているらしいその“鱗粉”という魔性の力を、表現していたものであったのか。
 
 それはさながら、蝶の羽に付いた粉…蝶が舞うたびにはらはらと落ちるその粉か。
 ちなみに毒を持つ蝶においては、その鱗粉にも毒があるそうだ。…そして、その毒蝶に触れればたちまち触れた部分がかぶれ、あるいは腫れるか、少なくとも痺れてしまうとか。――つまり、その毒蝶の鱗粉と、人をそそのかすような魔力をかけている、ということなのだろう。
 まるで――ひらりひらりと、頭上で美しく舞っている蝶にぼんやり見惚れている人の身に、知らぬ間、その毒の鱗粉が降り掛かっているかのように。
 
 いや――『月も微笑む春の日に、ひらりひらりと目の前で、春の日を祝い、舞い踊る蝶を見た。蝶のお羽は月の色、蝶は舞い踊るたび銀色の、きらきらやさしい、月の光を振りまいた。』――……思えばこの場面においても、『蝶は舞い踊るたび銀色の、きらきらやさしい、月の光を振りまいた。』とある。
 
 そして狼は、その舞いを踊る蝶を見て恋に落ちるのだ。
 なるほど、つまりその“鱗粉”とは、妖艶に人を魅了するような魔力――魔性の魅力、という解釈でまあ合っているのだろう。
 
 ユンファ殿は静かな声で、やはり伏し目がちなままで。
 
「…その“鱗粉”の力が、実は、僕は他の蝶よりも強いそうなのです…――というのも、…僕は小さなころ、叔父に犯されかけました…。叔父は本来とても誠実で、優しい人だったそうですが……」
 
「…………」
 
 そういえば先ほど、ジャスル様もそのようなことを言っていたか。――ただあの人の口振りでは、むしろユンファ殿がその叔父貴を誘われた、というようであった。
 ユンファ殿はぼんやりと虚ろに、やはり伏し目がち…その黒々とした長いまつ毛に、小さなしずくを宿して、震わせていながらに。
 
「…あるとき僕は、叔父に…“ちょっとを見せてごらん”、と言われたのです…――しかし僕はまだ小さく、その言葉の意味は、あまりよくわかってはおりませんでした…。ですから訳もわからず、僕は着物の裾を捲りあげて、叔父に…見せてしまったのです……」
 
「…………」
 
 俺はその場、片膝を立てて座った。――俺が見ているユンファ殿の、その切れ長のまぶたの下にある、まだ薄く涙の張った薄紫色の瞳は、虚ろである。
 
「…そうすれば当然、僕は…叔父に、そのまま…、しかし、危うく犯されかけたところを、通りがかった父上が止めに入ってくださり、事無きを得ましたが……」
 
「…………」
 
 そこでユンファ殿は、少しばかり悲痛げにその美しい眉を顰めた。
 
「…ただ、その後問い詰められた叔父は…、…僕が、誘ったのだと…――僕が自らしもを見せ付けて、叔父を誘ったのだと言って…、誠実であった叔父の言葉ですから、大人はみな叔父を信じました…。…僕の言葉を信じてくれる人は、誰もおりませんでした……」
 
「………、…」
 
 やはり、そうではないか。
 と、むしろユンファ殿のこのお話が腑に落ちている俺は、あまりのことに眉を顰めている。
 
「…そして僕は、年端もゆかぬ内みだりに人を誘い、しかもあまつさえ、親族である叔父を誘ったとして――“淫蕩の罪”を、犯したと……」
 
 
 
 
 
 
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