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99 夢は、夢
しおりを挟む「…ユンファ様、俺の心はたとえ何があろうとも決して移ろわず、いまもなお、貴方様のみをお慕い申し上げております。…」
うつむき、下に垂れたユンファ様の黒髪の先から、ポタンポタンと雫が落ちる。――まるで、その人の涙のように。
「…そういえば昨夜、あまりにも素敵なひと時に、俺はうっかり貴方様に、お伝えし忘れておりました……」
俺はユンファ様を抱き締めたまま、その人の耳元に唇を寄せ、柔らかな声で――そっと、告げた。
「…我が名の字は――松に樹木の樹と書いて、松樹と読みまする…。どうぞ我が本当の名を、お納めくださいませ、ユンファ様……」
「……、…、…」
するとユンファ様は、は、と息を小さく呑み――ぼそりと、失意の呟きを小さくもらす。
「――なぜ、こんな僕なんかに……」と――。
そして、ユンファ様は俺の肩口をグッと押し退けて離れると、ポロポロ涙を流しながら、顔をその両手で覆い隠した。――ひ、ひ、と揺れるその人の白い肩に纏わりついた黒髪が、艶美だ。
「…なぜ、? いらない、そんな…っソンジュと添い遂げられるわけではないんだよ、僕は…っ――もうジャスル様のものなんだ、僕、僕はもう、…っもうソンジュに触れてもらえるような、綺麗な体でもないのに…っ」
「………、…」
そうひくひくとしゃくり上げながら泣いて言うユンファ様に、…拒まれてしまった。――昨夜のうちにきちんと告げていれば、あるいはきちんと受け取ってもらえたろうか。――もう自分はジャスル様のものだ、とユンファ様に言われると、俺は勝手ながらも…――それが忌々しい事実ながらも――かなり、グサリときた。
「…昨夜も申しましたとおり、貴方様のお心は…その美しい魂ばかりでも、――貴方様は、俺だけのものでございます、ユンファ様……」
「……っ、…っ」
しかしユンファ様は、伏せた顔を両手で覆ったまま、ふるふると頭を横に振った。――悲しい、とは…この胸の心痛に違いない。あまりのことに、そのことに関しての言葉が何も出てこない。
「……、それに…貴方様が先ほど乱れたのは、あの媚薬の入った、恐ろしい酒のせいでございます。ユンファ様、貴方様は決して淫売でも、淫蕩でもありませぬ…。全てはあの酒のせいです、どうかご自分を責められるな。」
「……っ、…っ」
俺は、ユンファ様の頭をそっと撫でた。
は、は、としゃくりあげてわずかに揺れるユンファ様の頭…濡れた白い着物が、斜めに伏せられている細長い脚に纏わり付き、その白い肌を透けさせている。――美しい。…官能の眺めではありながら、何よりも美しい体だ。
この体さえも――俺だけのものに、したい。
「…どうせ殺してほしいと願うくらいならば、今すぐ、俺と共に逃げましょう――。」
抱き締めれば、合わさる頬。――ユンファ様は、もうジャスル様のものだ。…こうして頬を寄せ合うことすら、もうそれすら許されない人となってしまったのか。
いや、ユンファ様こそがもう――それすらも、もう許してはくださらないというのか。
嗚咽を堪え、泣いているユンファ様は――俺に身を預け、すり、と俺の頬に擦り寄ってくる。
「……、不思議だ、…不思議だね、ソンジュ……」
「……何がで、ございましょう…」
俺と頬を合わせたまま、ユンファ様は…はぁ…と安堵したようなため息を吐いた。――そして、少しばかり落ち着いた声で、優しく笑い。
「…君に慰められると、元気が出るんだ……」
「…慰めなどではございませぬ、…」
俺は、慰めたのではない。――本気だ。
本気で、共に逃げようと言ったのだ、俺は。
しかしユンファ様は、するりと離れ――縋るよう俺の片手を掴み、両手で包み込んできては…自らのつるりとした額にその手を押し付け、祈るように。
「……僕は…ソンジュの幸せを、願っている…――僕は誰よりも、誰よりも君には、幸せになってほしいんだ……」
「………、…」
俺の、幸せ――。
俺の幸せは、ただ貴方様と添い遂げること。――名誉も地位も、金も何もいらぬ。美しい男も女も、何人もいらぬ。
ただ――ユンファ様ただお一人を、手に入れること。
それだけだ。――それだけだというのに、…ユンファ様は、俺へ残酷なことを言う。
「…嘘を…もう一度言ってくれ、ソンジュ……」
「……嘘…?」
その白い頬をほんのりと桃色に染め、パッと上がったその切れ長の目…薄紫の瞳を潤ませて揺らし、俺を熱っぽく見つめてくるユンファ様は――きゅっと切ない顔をし、
「……ソンジュ、…」
パッと俺に抱きついてきては、離さないとばかりに腕に力を込める。そして彼は、俺の鎖骨に額を押し付けた。
「…嘘として、嘘として…僕を抱き締め、僕の耳元でもう一度…――二人で共に逃げようと、…優しく言ってほしいんだ、ソンジュ……」
「…っ嘘なんかではありませぬ、…――共に逃げましょう、ユンファ様、…」
俺はユンファ様を固く、強く、力いっぱいに抱き締めた。――優しい声は出せなかった。…優しい嘘などではなく、これが必死なほどの願いであったからだ。
しかし彼は、鼻声でこう言うのだ。
「……ありがとう…、ありがとう、ソンジュ…もう我儘は言わないから……」
「…ユンファ様、嘘ではありませぬ、共に……」
俺の言葉を遮る、桃の香のやわい声色。
「…それは、ならない…。もう迷惑はかけられないよ…、僕はもう、君を不幸にしたくないんだ…――ソンジュは…契り合った奥方と、幸せになっておくれ……」
「…ユンファ様、俺の望みはただ貴方様お一人、俺の幸せの全ては貴方様なのだ、――俺は昨日も言った通り、あの女と本当につがい合ったわけではございません、…顔を合わせたのみ、婚礼の儀を執り行ったのみ、…接吻さえしたことはありませぬ、…っですから、…」
俺の言葉は、ユンファ様の微笑に遮られた。
するりと離れていったその人が、諦観をその眉に、その淡い紫色の瞳に宿して、それでいて優しげに微笑んでいた。
「…僕は幸せ者だね、ソンジュ。本当に愛されたい君にも、“鱗粉”の力が効いた……――きっと、いつかわかるよ」
「…“鱗粉”の力などでは…っ」
「…いいや。きっとそのうちに、僕なんかと逃げた先には幸せなどないと、わかるよ、ソンジュ…――君はもう、とうに幸せを手に入れているんだ。…昨夜のあれは、一夜の夢だった……」
ユンファ様は、その目に涙をいっぱいに溜めながら、にこっと俺へ微笑みかけた。
「…本当に、よい夢でした…――ありがとう……」
「…っユンファ様、…ユンファ様、…俺は、…」
俺こそが――諦めきれぬ。
「……僕はもう、ジャスル様のものだ……、君のものにはなれないし、もう…僕はソンジュのものじゃない。」
きっぱりとそう言い切り、ユンファ様は、眉をたわめて笑った。
そして落胆したような、それでいて明るく努めているようなユンファ様の声――彼ははら、と涙を流しながらも笑って、
「…あの一夜の夢は、もう忘れておくれ――。」
ユンファ様はそう言うと、うなだれた。
ふっくらとした下唇を噛み締め、その人は泣くのを堪えている。
「……ユンファ様、到底無理です、忘れられませぬ、…」
「…もう忘れておくれ、ソンジュ…、夢は、夢だ…――夢はね、目が覚めたら、無かったことになるものなんだ……」
彼はもう一度、ただそうとだけ優しく、俺に言い聞かせるように言った。
どれほど言い募ろうとも…あとはもう、ユンファ様はこれっきり――俺に対して、何も言ってはくれなかった。
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