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110 変わらぬ瞳
しおりを挟むたまたまこの度の満月の夜には、ユンファ様の夜伽の相手がおらず――そうして今日に初めてユンファ様へ、この狼の姿を見せる運びとなった俺。
「……ソンジュ…、…ソンジュ…?」
初めて俺の、この人狼の姿を見たユンファ様だ。
目を点にし、ぱちり…ぱちり、とゆっくりまばたきをする彼は、――そっと本を寝台に置くと、すっくと立ち上がっては、俺のほうへおもむろに歩み寄ってくる。
「……はい、ソンジュございます、ユンファ様……」
「………、…」
しゃなり…しゃなり…上品な歩み。
その歩き姿さえ、高潔で美しい。…背筋がピンと伸び、下腹部で組んだ両手。――それでいてもう人のものであるからと、いや…もはや男娼に近いユンファ様の、そのたおやかな長い黒髪は下ろされ、うなじの裏でまとめられている。
薄水色の着物、ただ衿元はかっちりとしており、その長く白い首ばかりが見えている。…近頃の彼は食事のときにのみ口布を着けるため、いま素顔のユンファ様は――うっかり彼に見惚れていた俺の目の前に立つと、ゆっくり首をかしげた。
「…話には聞いていたが…本当に、狼のようだ……」
俺の顔をしげしげと、神妙な顔をして覗き込んでくるユンファ様。…やはり彼、表情が以前より乏しくはなっているようだが――それでも、…なんて端正なお顔立ちか。
するり…俺の頬の辺りを撫でた彼は、思いのほか怯えた様子はなく、ふわり、ふわりとそのあたりの俺の毛皮を撫でてくる。
「…凄いな……」
「…ふふ、驚かれましたか、ユンファ様……」
その優しい手が、胸が擽ったくなるほどに愛おしく、心地良い。――俺がやや自嘲しつつ何気なく尋ねると、ユンファ様は、「うん」とは言いつつも、その態度はやけに落ち着き払っている。
「…立派な毛皮だね」
「……、ぁ、それは…恐れ入ります」
一拍あって、思えば褒められたのかと恐縮する俺に、ユンファ様は――俺の胸元に片手を添えると、…俺の首筋を撫で上げ…撫で下げ。…そうしながら、少しその切れ長の目を柔らかく細める。
「…凄くふわふわだ…、いくらでも撫でていられる」
そうして久しく――ほんのり微笑む彼に、…俺は胸が切なく締め付けられ、まぶたを緩める。
「…はは…言われねばソンジュとわからぬでしょう、この姿では……」
「……? ううん。」
そう首を横に振るユンファ様は、やわらかな微笑みをたたえて、俺の下まぶたをすぅと親指の腹で撫でて。
「…君の目は、何も変わらない。――ソンジュの優しい青い目は、そのままじゃないか。…わかるよ、この毛だらけの狼の姿でも、君なんだと。」
そうユンファ様は神妙な表情で言いつつ…久しく、俺の目を見つめてくださる。…その透き通った薄紫色の瞳で、俺の目を見つめてくださるのだ…――そして彼は俺の下まぶたを、そっとそのひんやりした人差し指の指先で、やわらかく撫でては、はは…と小さく笑う。
「……凄く綺麗だ、ソンジュ」
「…………」
俺はたまらず、…そっと。
久方ぶりに、ユンファ様を、抱き締めた。――「ぁ、」すると身を強ばらせるその人だが、俺は離さない。
「そん、ソンジュ…、僕…駄目だ…ねえ離して……」
俺の腕の中で身じろぎ、抜け出ようとしているユンファ様だが、…俺はより強く、その人の細身を抱き締める。
「…今はどうか、何もおっしゃられるな。…しばしこうして、俺に抱き締めさせてくださいませ、ユンファ様……」
「……、…、…」
俺が固い声で、なかば命じるようにそう言えばユンファ様は、渋々の気配ながらも大人しくなった。
「……はぁ…――。」
思わず震えたため息がこぼれる。
涙が滲むほどに、幸せだ。
やっとユンファ様を、抱き締めることができた――。
俺は目を瞑る。…このまま眠ってしまいたいほどだ。あまりにも幸福で、あまりにも心地良く…あまりにも――ユンファ様が、愛おしく。
「…俺はその実、ずっとユンファ様を、抱き締めたかったのです……」
「……、…、…」
ユンファ様は、俺のことを抱き締め返してはくれないが、かといってもう離れろ、と言うでもなく。
「…………」
「………、…」
しかし…こうして抱き締めていると、ユンファ様の甘い桃の香が俺の鼻をむずむずと擽り、本能には抗えずふんふんふん、と彼の耳辺りを嗅ぐ俺――なんと良い匂いか…――するとユンファ様は顔をそむけ、くすくすと笑った。
「…んっ…もう、ふふ、…っ擽ったいよ……」
「…ははは、これは失礼いたしました…。ユンファ様が、あまりにも良い匂いで……」
その反応すらも愛おしい。
俺は笑ってくれたユンファ様が嬉しく、またぎゅうっとその人を抱き締めた。
「…はぁ…幸せでございます、ユンファ様……ずっとこうしたかった…。叶うならば、貴方様に接吻もしたいしたいとは思っていたのだが、…もはや……」
これだけでも十二分に、幸せだ。
…と、俺は言おうとしたが、しかし――。
「……っあまり、…もうあまり……」
ユンファ様はグッと強く俺の胸板を押し、――深く俯いてはとた、とた、と覚束ない足取りで後ずさる。
「…もう、…もうソンジュとはあまり話さないようにと決めていたんだ、こんな僕じゃ君の目を見ることさえ恥ずかしいのに、…もう、こんな穢れきった僕じゃ、――そんなこと、叶うはずもないのに……」
「……ユンファ様、…そんな……」
「っとても恥ずかしくて、…今の自分が恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないんだ、僕は……、ごめんね、もう大人しくしているから……」
きゅう、と泣きそうな顔をしたユンファ様は、ふっと黒髪を揺らして、俺に背を向けた。――そしてスタスタと足早に歩き、また寝台へと戻るとそれに腰掛け、…彼は読みかけの本をまた、腿の上に置いた。
「…………」
「…………」
やはりユンファ様は、あの一夜のときから何も変わられてはいなかったようだ。――無垢で、純粋で、だからこそあまたの男に抱かれているご自分は穢れきってしまったと、そうした恥ずかしい自分では、俺とはもう目を合わせることもできない、触れてもらえる体でもない、話をすることさえ…俺を穢してしまうようで、おこがましく思えるようで、それは自分が何よりも許せぬ、と。
また、それほどに清い心根の持ち主だ――もしかするのなら、俺のことを守るためとはいえ、俺を侮蔑してしまったことに関しても、心を痛めてらっしゃるのやもしれん。
それでユンファ様は、俺のことを避けていたのか――。
「……、……?」
コンコンコン――にわかに俺の背の裏、扉を叩く音。
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