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160 永久なる貴石の瞳
しおりを挟む俺は愛馬を泉のほとりへと引き寄せ、その筋肉質な首を撫でてやり――ぶるぶる、と唸っては頭を下げて水を飲むその馬に、いくらか心が和み。
側で凄い、凄いと辺りを興奮気味に見渡しているユンファ様へと振り返る。
「……ふ、…少し、水を飲まれてください」
「うん」
幼子のように素直なユンファ様は、泉のほとりにしゃがみ込み――その透明な水を、白い両手ですくい上げては手首の根本に赤い唇をつけ、それを飲んだ。
それですら感動したか、はぁ…っと息を呑み、側に立つ俺を見上げて――にっこりと笑う。
「…これが泉?」
「そう」
「はは、なら…初めて飲んだ。泉の水を、初めて飲んだ」
ユンファ様は嬉しそうに笑うと、地面に腰を下ろした。
そして、着物の裾をペラリとまくり――履いていた白足袋を脱ぎ捨てると、その白く長い足の指先を、恐る恐るちょんと泉の水へつけ。
あ、と嬉しそうな声を出すなり、その白い足を、泉の浅瀬に両方浸けた。
「……はぁ…っ、冷たいね、泉の水というのは……」
「…ふふ…そうですね。しかし、あまり長く浸かられてはなりませぬ。お体が冷えてしまいますから」
冬が来て、ようやっとその季節が終わりかけの今では――足のみとはいえども、冷たい水に浸れば凍え、あわや風邪でも引きかねぬ。…ましてやその御身に宿るは我が子、そうお体を冷やさせるわけには。
「…冷やしすぎは腹の子にも悪い」
「…うん…、でも、もう少しいいかい……」
「ええ。…」
俺もユンファ様の側にしゃがみ込み、…座り。
履き物を脱いで、冷たい泉の水に両足を浸した。…頭が冴えるような冷たさだ。――思わずゾクリとして、背骨までキーンとした。
「…………」
「……随分…遠くへ来たような、そんな心持ちがする……」
ユンファ様は、ぽうっと泉の青い水を眺めている。
月明かりにチラチラと光り、その月明かりさえも透かしている透き通った水は、彼の白い足をより美しく見せる。
しかし、そりゃあ外のことをほとんど知らぬ彼にとってはもう随分来たように思えると、俺にも理解はできるが。
俺は笑って、首を横に振った。
「いいえ、まだまだ。――ノージェスは呆れるほどに広大だと、以前お話したでしょう、ユンファ。」
するとチラリ、「はは、そうだね…」と、今は濃い紫色に見える瞳が切れた横目に、俺を見て苦笑する。…そしてまたユンファ様は、ぼんやりと足下の水を見下ろし。
「…しかし、この年までロクに外に出たことのなかった僕にしてみれば、これだけでもう、随分冒険したようなのだ……」
「…それはもちろん、理解しておりますが。…いかがですか、外の世界というのは。」
俺は隣の、ユンファ様の片手を握った。
…すると彼は、眺め見下ろしている水面からの光を反射する横顔で、ふふ…と鼻先、やわらかく笑った。
「…凄く綺麗だよ…。何もかも面白くて、新鮮で…凄く楽しい。」
「…それは何よりだ」
「…うん、この泉も凄く美しいね。ソンジュの瞳の色にそっくりだ。――この泉を見ていると、初めて君の目を見た日を思い出す……」
「………、…」
あまりにも美しい微笑みをたたえた横顔だ。
…俺も思い出す。――あの日、見惚れあったそのときを。――あの美しい薄紫色の瞳は、とても印象的であった。……それこそ俺の魂には、もうあの瞬間にユンファという胡蝶が深く刻まれていたのだろう。
きっと来世ではもう、俺は迷わずユンファのことを見つけ出すことが叶うほどに――誰よりも美しい、その貴石のような薄紫色の瞳、到底忘れようにも、もう金輪際忘れられぬ。死のうと、生きようと、呆けようと、もう決して忘れられぬことだろう。
「…この泉にまで、一目惚れしてしまいそうだよ」
「…はは…俺の目は、これほど透き通っておりますか」
「うん、凄く綺麗だ。君の青い瞳も、この泉も。」
「そうでございますか、それは恐悦至極。…しかしながらユンファ、この泉に惚れるのはおよしくださいませ。――やきもちが妬けまする。」
俺がなかば本気でそう茶化せば、ははは、とユンファ様は、くすくすその肩を揺らして笑った。――しかし彼、はたと儚げな表情をしては。
「……、ねえ、ソンジュ……」
と、ユンファ様は隣の俺へ振り向き、申し訳なさそうな顔をしている。
「…すまない…。僕は、君に何度も酷いことを言った。それに、何度も君に冷たくして……」
「…はは、もうそんなこと、よいのです。…」
心優しいユンファ様は、やはりそのことにお心を痛めていたか。――しかし俺はカラリとした笑いがこみ上げて、破顔する。
「…というより、許す何も…そもそもユンファのあれらが、俺を守るためのことだとはその当時もよくよく理解しておりました故。…俺は、端から貴方様を恨んでなどおりませぬ。」
俺がそう言えど、ユンファ様は悲しげに、また青い泉を見下ろす。――水面の光が反射したその横顔は、ちらちらと揺れる光に照らされて、本当に綺麗だ。
「…それでも、僕が酷いことを言ってしまったのは事実だ。ソンジュを傷付けて……」
「それを言うなら…ふ、――俺とて、貴方様に初めて接吻をされたとき、ユンファを想えばこそ、とはいえ…貴方様に酷いことばかり申し、貴方様を傷付けました。…しかし、もし貴方様があのときの俺を許してくださるのならば、それと同じように、どうぞご自分を許されよ。」
俺はユンファ様の手の指の間に、己の指を差し入れて絡め、きゅっと繋いだ。――すると彼は眉をたわめながらも、にっこりとして俺へ振り返る。
「……はは…ソンジュが僕のつがいで本当によかった。こんなに優しくて格好良い狼、他にはいないよ。」
「…それは俺のセリフだ、ユンファ。これほどに美しく心優しい胡蝶、決して他にはおりませぬ。…」
「…ふふ、照れるな…、……」
「……ふ……」
俺たちはまた――見つめ合う。
…ちらちらと揺れる光に下から照らされた、その薄紫色の瞳は、ところどころが濃い紫、群青、薄青く――本当に、我が胡蝶の瞳は、貴石の瞳だ。
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