欲情プール

よつば猫

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溺れる身体1

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「おはようございます」

「おはよう、茉歩」

 あれから数日。

ー「割り切った関係で、1度だけ」ー
その言葉通り、専務の態度は至って今までと変わらない。

 だけど聡との生活では……

ー「似たような立場になれば、苦しみは半減するんじゃないか?」ー
その言葉通り、息苦しさが薄れてた。

 お互い様だから、許せない気持ちが軽くなったのか。
それとも……
私の気持ちが他にあるから、夫婦問題がそこまで気にならなくなったのか。
寧ろその後ろめたさから、聡には優しくなれてた。


「っ、んっ?……っどうした?」
思わず見つめてた私に気付いて、専務が軽く戸惑う。

「あ、いえっ、考え事をしていて……
すみません」

 今まで見慣れてる筈の専務のスーツ姿が、今ではカッコ良過ぎて見惚れてしまう。

 しかもスーツに包まれてるその身体は、逞しくて。
あの夜その身体に抱かれてたなんて……
そう思うだけで、私の全てが疼きを発する。

「そうだ茉歩。
明後日の接待、和食の店だったよな?
フレンチ系の店に変更出来ないか?」

 茉歩って呼ばれる事ですら、今更いちいち嬉しくて。

「わかりました。すぐに変更します」

 それどころか。
専務の視線やその唇、その手や仕草までにもいちいち反応して……
胸が騒ぐ。

 欲に流されたりなんか、しない。
そう思ってたのに。
1度だけで割り切る事が出来ずに、まだ専務を欲してる私は……
すっかり欲に蝕まれてる。

 でも専務は……
私との事なんて、そんなにあっさり割り切れちゃうんですね。
胸が締め付けられる。

 ダメだ、業務に集中しなきゃ……
それ以前に!
私は人妻なんだし、心を改めなきゃ。

 専務への感情を、なんとかサポートモードに切り替えて。
ふと、作業の合間に顔を上げると。
右手で額を覆うようにして、苦しそうに溜息を吐き零す姿が映る。

「っ、大丈夫ですかっ?」

 その声掛けにハッとした専務は、視線を私に向けて意味深に見つめて来た。

 そんな肉食獣のような瞳で見つめないで……
今すぐその身体に捕まえられたくなるから。

「っ、何ですか?」

「っ……
いや、気にしないでくれ」

「体調は、大丈夫なんですか?」

「ああ、問題ない。
ちょっとプランに煮詰まってただけだ」

 そう言って視線をPCに戻す専務を見送って、私もすぐに視界から専務を外した。
でも内心、意味深な視線の理由が気になってたまらなかった。

 実のところ……
専務の態度は今までと変わらない、とはいえ。
少しだけ、素っ気なくなった気がするからだ。

 女たらしな軽い発言は、全くと言っていい程なくなったし。
優しい眼差しで私を映す事も少なくなった。

 男は目的を果たすと興味がなくなるとか、1度寝ると冷めるとかってよく聞くけど……
専務もそうだった?

 それとも……
私の気持ちを察して、一線引いてる?

 あの夜、あんなに激しく求めてくれたのに……
あれは私を抱きながら、別れた彼女さんを想ってた?

 どうしよう……
切なくて堪らないっ……





「茉歩?
なんか今日、元気がないけど……
仕事で何かあった?」

 切ない感情を引きずってた私に、聡から心配の声が掛かる。

「あ、ううんっ。
ちょっと疲れてただけ。
それより、おかわりはっ?
梅雨とはいえ暑くなって来たから、夏バテに備えてしっかり食べてよ?」

 最低だ私!
こんな感情を家庭にまで持ち込んで、それを聡に心配させてるなんて。

「ありがとう。
おかずも栄養満点だし、茉歩のおかげで頑張れるよっ。
じゃあ代わりにさっ、疲れてる茉歩に後でマッサージしてあげるよ!」

「っ、聡……
……ありがとう」

 まだ触れられるのに抵抗があるとはいえ、その優しさに心が痛む。

 どうかしてたっ……
聡との関係を修復させる為に、同じ過ちを犯したのに。
これじゃ本末転倒じゃない!
しっかりしなきゃ……

 そもそも、欲なんて誰にでもあるし。
それに蝕まれても、理性や他の欲で補けばいいし。
私はそうやってコントロールして、クールでいるのが得意だった筈。
そう、こんな欲……
強い意志で抑え付けてしまえばいい。

 だけどこの時、私は忘れてた。
強く抑え付ける程、反発心が募って逆効果だって事を……

 目の前に欲求対象をちらつかされれば、尚更。



「茉歩。
チェックする契約書ファイル、全部持って来てくれ」

「はい。お願いします」

 頼まれた数冊のファイルを差し出すと、以前なら直接受け取ってたのに……

「ああ、ここに置いてくれ」
書類を除けながら、そのスペースを指示する専務。

 すると、端の書類が落ちそうになって。
ファイルを置いていた手を、慌てて伸ばすと。
同じくな専務と、手が触れた。

 あの夜以来の、専務の体温。
それを感じてしまったら、もう駄目だ。
抑え付けられてた欲が一気に弾けて。
どちらからともなく、キュッと指を絡ませた。

 途端、専務はそれを払って。

「っお互い、いい反射神経だなっ」
軽く笑ってその場を躱した。

 拒否されたような状況に、この胸は切り裂かれて。
行き場を失くして暴れる欲に、この心は弄ばれて。
とにかくその感情の渦から逃れたくて……
必死にその手段を模索した。



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