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七夜 空桑(くうそう)の実
七夜 空桑の実 3
しおりを挟む「クソォっ。《朱珠の実》を食べても、まだ傷が治らない」
舜は、そこら中に食らった氷刃の痕を見ながら、悪態づいた。
「おや、もっと手加減した方が良かったですか?」
いつ聞いても腹の立つ、のんびりとした口調で、黄帝は言った。
舜には悔しい限りだが、今はまだ指一本触れることが出来ないので、いつか殴ってやる、と、いつもと同じ心を決め、その悔しさを握り潰した。
何しろ、本を片手の軽い攻撃さえ、躱すことが出来ないのだから。
どこまでも惚けた青年でありながら、凄まじい力を持つ父親なのだ、その青年は。
「なあ、オレ――ぼく、ちゃんと修行して来たし、あれからもう一年経ったし、《聚首歓宴の盃》を試してくれるだろ?」
ちょっと、しおらしい口調で、舜は訊いた。
「うーん……。そうですねぇ……」
黄帝の方は、美しい面貌を歪めて、まだ週刊誌を捲っていたり、する。
彼を知らない人間がその姿を見れば、とても話を聞いている風には見えなかっただろう。
「あの時、ちゃんと約束したじゃないか。一年経ったら、もう一度《聚首歓宴の盃》を試してみてくれる、って」
「うーん……」
と、黄帝は、また唸り、
「覚えていませんねぇ……」
ここで怒っては、いけない。
何しろ、ボケの進行している年寄りなのだから、こういうことは日常茶飯事なのだ。
舜は、怒りに肩を震わせていたが、それでも怒鳴りつけることはせず、
「なら、思い出せるように、毎日、枕元で囁いてやる」
本当にやるのだ、そういうことを、この少年は。
「ああ、そういえば思い出しました。確かに、そんな約束をしていましたねぇ」
黄帝は言った。
白々しい限りの言葉である。
二人がそんな会話を続ける中、デューイは何をしていたのか、というと、茫と黄帝の顔を眺めていただけである。その二人の麗人と暮らし始めて、もう一年半になるのだが、まだ、その美貌を眺めることに、飽きていないのだ。
そも、その二人の麗人とは、何者なのか――。いや、その話をする前に、舜が試してほしがっている《聚首歓宴の盃》の話をしておかなくしては、ならないだろう。
何しろ、《首たちの宴》などと題された、曰くありげな盃なのだから。
その盃は、今を溯ること三五〇年ほど前、明末の《流賊》、張献忠が、生首に酌をして回った、という、恐ろしい曰くつきの盃である。
稀代の殺人鬼と呼ばれた張献忠は、女にも金にも興味を持たず、人を殺すことだけを生きがいに、《殺、殺、殺人……》と、何十万もの民を殺して回り、妻といわず息子といわず、自分の愛するものさえ、殺して来た。
また、張献忠は、友人と酒を酌み交わすことも好きで、その友人たちに酒を振る舞い、帰り道で部下に殺させ、その生首を持って帰らせた、という。そして、軍を移動する間も、その生首たちを持ち歩き、寂しくなると、酌をして回った、と。
その盃が、《聚首歓宴の盃》である。
そして、盃は、張献忠が死んだ後も、自ら血を求めて彷徨い続けるようになり、持ち主に、耐えることのない血をもたらしてくれるように、なった。
血に呪われた盃なのだ。
そして、舜が、そんな盃を試してほしがっている理由、とは――。
「仕方がありませんねぇ……」
黄帝が、緊張感も何もない口調で、衣の中へと、手を差し込んだ。
舜は、ゴクリ、と息を呑んだ。
何しろ、以前に――一年前に、その盃に全身の血を吸われて死んでしまった、という、情けない過去を持っているのだ。
その盃と来たら、とんでもない力を持っていて、その力で人を襲うのである。
一年前の舜には、扱い切れるような代物では、なかった、のだ。
その盃に、ペタ、っと心臓に張り付かれた時の、あの感触といったら――。
「うーん。痒いところを掻くと、どうしてこんなに気持ちがいいのでしょうか」
衣の中に差し込んだ手で、ぽりぽりと胸を掻きながら、黄帝が言った。
どうやら、衣の中に手を差し込んだのは、《聚首歓宴の盃》を取り出すためでは、なかったらしい。
「盃をくれるんじゃなかったのかよっ!」
舜は、もう我慢の限界に達して、その惚けた青年を、怒鳴りつけた。
しかし、動じないのである、この青年。
「ああ、そうでした。急に胸が痒くなって、すっかりそのことを忘れてしまっていました」
この青年、普通の人間には、理解できない。
結局、舜が《聚首歓宴の盃》を試してもらったのは、それから一週間後のことであった。
ちなみに、それは早い方で、酷い時には、何カ月も、そのボケ具合を利用して、はぐらかされてしまうことが、ある。
長く生き過ぎると、ロクな人間にはならない、ということが、皆様にもよく解っていただけただろう。
応援ありがとうございます!
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