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七夜 空桑(くうそう)の実

七夜 空桑の実 4

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 今、舜は、その《聚首歓宴の盃》を、前にしていた。
 盃は、黄帝の親指と人差し指に、ほんとうに軽く、摘ままれているだけである。
 だが、それに騙されては、いけない。
 以前、舜は、その黄帝の様子に油断して、盃を黄帝の手から奪い取り、逆に、盃に襲われることになってしまったのだ。
 黄帝は軽く摘まんでいるだけなのだが、普通の人間なら、〇.一秒も堪えていられないほどの力、なのである。
「どうしたのですか、舜くん? 君が欲しがっていた盃ですよ」
 相変わらずの惚けた口調で、黄帝は言った。
「わかってるよっ。本物かどうか確かめてるんじゃないか」
 誰が聞いても、言い訳としか聞こえない言葉を吐いて、舜は、呪われた盃に手を伸ばした。 慎重に、どんなに凄まじい力で襲い掛かられても、持ちこたえられるように。
 今、その盃を、黄帝から、受け取る。
「え――」
 舜が上げた声で、あった。
「どうかしましたか、舜くん?」
 黄帝が、のんびりとした口調で、問いかける。
 イメージが壊れるから、そういう喋り方はやめてほしいのだが……。
「オレ……信じられないくらい、強くなってる。――ほら、あんたと同じように、親指と人差し指だけで、盃が摘まめる」
 ここで、黄帝が大きく溜め息をついたことは、言うまでも、ない。
「あのですね、舜くん。私は君の父親ですし、その父親のことを『あんた』と呼ぶのは――」
「お父様っ。――ほら、見ろよ。すごいだろ? オレ、一生懸命、あんたの――お父様のイジメに耐えたもんなァ」
 舜は上機嫌で、盃を手に、踊りまくっている。
 その傍ら、デューイも、舜の姿を見ながら、にこにことしている。
 舜が嬉しいと、自分も嬉しい、という青年なのだ。
 その理由は――特に言う必要もないだろう。
 デューイにとって、神のように崇めている黄帝は、恋愛対象にならなくても、まだわずか十六、七年しか生きていない――それ所以に、人間に近いものを持っている舜は、充分、恋愛対象になり得るのである。
「これでやっと、あいつを呼び出せるぞ」
 舜は、ぶんぶん、と盃を振り回しながら、満足げに言った。
「ああ、そうそう」
 と、黄帝が、それを見ながら、口を開いた。
 今までの経験からして、厭な予感がしないでもない言葉である。この青年がそういう風に言い出す時に限って、落とし穴が待っているのだ。
「……何だよ?」
 一瞬にして気分を殺がれて、舜は訊いた。
「その盃の封印を、炎帝に解かれないようにしてくださいね。危険な盃ですし、力が覚醒すると、厄介ですから」
「覚醒って……。じゃあ、これ、力を封じてあるのかよ?」
「ええ」
 ケロっとした口調で、黄帝は言った。
 舜の力で、盃を扱えていた訳ではないのである。
「クソォっ! どうせ、あんたのことだから、また何かやってると思ったんだっ。オレが喜ぶのを見て、陰でクスクスと笑ってたんだろ? オレがすっかり勘違いして、盃を扱えた気分になって、喜んでるのを見て――っ!」
「うーん……。笑っていた積もりはないのですが……」
「早く封印を解けよっ。オレは、自分の力で盃を扱うんだっ。あんたの力なんか――」
「舜くん。私は、笑っていない、と言ったはずです。――聞こえていませんでしたか?」
 いつもと変わらない口調で、黄帝は言った。
 それでも舜は、口を噤んだ。
 この青年、怒りが顔や口調に出ないから、恐ろしいのだ。
「聞こえたけど……だけど、オレ――ぼく、自分の力で……」
 舜は、語調を落として、うつむいた。
「自分の力で扱えるようになりたいのなら、まず、封印を解くことから始めなさい。その盃のように危険なものを管理するためには、力を封じておかなくてはならないのですから――。私は、君のためにその盃をあげたのではなく、君を、その盃の保管者として選んだだけなのです。君が、その盃を満足に保管できない、というのなら、君には、その盃を持つ資格はないでしょう」
「……」
「使い方は、君が決めてもいいのです、舜くん。きちんと管理さえ出来るのなら」
「……はい、お父様」
 結局、最後には、この父親の言葉に従うことになってしまうのである、舜は。
 何しろ、その力でも、正しさでも、ただの一度も勝てたためしはないのだから。
 ボケているとしか思えない、訳の解らない人格の青年でも、この世にある力と知識、神秘と呼ばれるものの大半を管理し、理解している、恐らく唯一の存在なのだ、彼は……。



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