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九夜 死霊の迷霧(めいむ)

九夜 死霊の迷霧 13

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「あの……。ぼくのことは覚えてくださっていますか?」
 紅茶のカップを膝に降ろして、一条は訊いた。
「おや、どこかでお逢いしたことがありましたか?」
 は、黄帝の返答である。
「え、あの……」
「何しろ、私もすっかり、年を取りましたからねぇ……」
 どこの誰が、その青年を見て、年だと思うだろうか。
 確かに、年齢のよく判らない――いや、判らない、というより、遥かなる時を生きているような不思議な雰囲気はあるが。
「ほら、髪もすっかり、白くなってしまっているでしょう? やはり、年には勝てませんねぇ……」
「へ……? あの、白髪だったのですか、その髪は……」
「そうですよ。年のせいにしたくはありませんが、今日もうっかり、舜くんを落としてしまいましたし……」
「……」
 もう何を言っていいのか、判らない。
 月の如き美しい銀髪が――銀髪だと思っていたものが、実は単なる白髪であったことも、自分の息子をうっかり落としてしまった、という話も、一条の理解の領域には、属していない。
 本当に神なのだろうか、とそんな疑問も芽生え始めていた。
 もちろん、神というものが、人間の想像通りのものである、と思っていた訳ではないが――それに、神というのは、人間には正体を明かさないものなのだろうが……。
 何しろ、日本の時代劇でも、偉い人は、最後まで正体を明かさず、最後に、実は、とやるものである。――いや、それとは少し違うかも知れないが。
 取り敢えず、一条は、世間話をするために、ここへ来た訳ではないのである。また忘れかけていたが。
「あの、ぼくは、一年前のこの日、この奇峰の絶壁で足を滑らせて、下の岩場に落ちて――。その時、意識を失う前に、あなたの姿を見かけて――。鳥が羽ばたくような音がしたので、目を開けたら、翼を持つあなたがいらして――。月を背にしての姿だったので、ほとんどシルエットに近かったのですが、その銀色の髪だけは、はっきりと目に焼き付いていて……」
 一条は、あの日のことを、思い出せる限りの言葉で、語った。
 しかし、黄帝は、相変わらず、うーん、と腕を組んで、唸っている。
 ガリガリ、という不審な音が聞こえて来たのは、その時であった。
 何の音だろうか、と視線を向けると、そこには、犬用のガムを咬む、舜が、いた。
「あ、あの、息子さんが、犬用のガムを――」
 一条は、慌ててそれを、黄帝に告げた。
 たとえ可愛がっている犬のものであろうと、子供が齧って不衛生なことに、変わりはない。
 だが――。
「あ、気にしないでください。あれは、舜くんの欲求不満の解消用ですから」
「へ?」
「きっと、口に合わないお茶を飲んでしまって、イライラを治めるために、口直しをしているのだと思いますよ」
 何食わぬ顔で、黄帝は言った。
 やはり、この家族のやることは、一条には全く、理解できない。――いや、神のやることなのだから、理解できないのは当然なのかも知れないが。
「私たちは、動物とは相性がいいので、動物用の玩具なら、舜くんも喜ぶのではないか、と思って買って来てあげたのですよ」
「は、はあ……」
 やはり、全く、理解できない。
 何度聞いても、何を聞いても、理解できない。
「――で、何の話をしていたのでしたっけ?」
 ……どうしてもやっぱり、理解できない。
 一条は、少しクラクラとする頭で、
「あ、いえ、いいんです。覚えておいででないのなら……」
 と、小さく言った。
「そうですか。申し訳ないですねぇ」
 黄帝は、相変わらず、のんびりとしている。
 その傍ら、舜がガムを置いて、トコトコと一条の側へと、近づいて来た。


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