222 / 533
九夜 死霊の迷霧(めいむ)
九夜 死霊の迷霧 14
しおりを挟むきれい過ぎる子供、というのも、怖いものがある。
「あ、舜くん。その方は君の命の恩人なのですから、咬んだりしては駄目ですよ」
黄帝が言った。
「え? 咬む……?」
と、一条は戸惑ったが、
「そんなことしないもんっ。この人、血の匂いがしないから、がまんできる」
その舜の言葉に、一条は、これ以上はないほどに、目を瞠った。
血の匂いがしない、と言ったのだ。まるで、血を求めて夜を翔る吸血鬼のように。
そういえば、舜の翼は、焼け爛れていたとはいえ、蝙蝠のような、漆黒の形をしていなかっただろうか。
そして、一年前に見た黄帝の、シルエットの翼も――。
だが、一条が目を瞠ったのは、彼らの正体を察したせいばかりでは、なかった。
「おじさんのお友だちも、ここに来る?」
舜が訊いた。
「え、あ、いや……。彼はまだ、救助隊を呼びに……。街まで随分あるから、そんなに早くは……」
「街? 突き落としたんじゃないの?」
その舜の言葉に、一条は、蒼冷めた面を、強ばらせた。
「舜くん。何という失礼なことを言うのですか。彼は君の命の恩人ですよ」
心など全く読めない口調で、黄帝が言った。
「でも、ぼく、見たもん。ぼくが落ちてるとき、この人、もう一人の人の背中を押して、ガケの下に突き落とそうとしてたもん。だから、ぼく、それを言おうと思って戻って来たんだけど、かーさまの顔を見たら、忘れたから、今、思い出して、言おうと思って――」
「舜くん。言ったはずです。そんなことを言うのはおやめなさい」
「でも……」
「思い出してごらんなさい。君は、彼がその友人を突き落とすところは、見ていないはずですよ」
「……」
「そうでしょう? 憶測だけで人を疑うような言葉を口にするのは、何よりも酷い行為です」
「……。でも、ぼくが目を醒ましたとき、その人、いなかったもん……。落ちてたときは、ちゃんといたのに……」
「それは、今、彼が言ったはずです。君を助けるために、もう一人の人は、街まで救助隊を呼びに行ってくれたのだと――。彼に謝りなさい、舜くん」
いつもと何ら変わりない口調で、黄帝は言った。
もちろん、舜としては、自分の言葉を信じていたが、それでも、一条が、もう一人の青年を突き落とすところは見ていなかったので、
「……ごめんなさい」
と、小さく言った。
「すみませんねぇ。命を助けていただいた方に、こんな失礼なことを」
「い、いえ……」
一条は、強ばる面のままで、視線を逸らした。
舜は、ムッ、とむくれている。
一条が滝を殺そうとしていたことは事実なのだから、何だか可哀想な気もしたが、一条には、本当のことを言ってやることは出来なかった。
口を開いたのは、黄帝であった。
「ところで一条さん――ああ、今やっと、あなたのことを思い出したのですが――」
本当かどうかは、定かではない。最初から思い出していた、ということも、この青年の場合、充分、有り得る。
「そろそろ成仏なさる気はありませんか?」
滝は、気ばかりが焦る事態の中、街へと車を走らせていた。
何しろ、近くの人里には電話もなく(近くと言っても遠いが)、崖から落ちた幼子の手当が出来る医者、となると、それなりに大きな街にしかいない――いや、救助隊に電話を掛ければいいのだが、夜のことでもあり、辺境のことでもあり、その電話さえも、見つけることが出来ないのだ。
それに――。
「あいつ……」
大丈夫だろうか、と滝は、口の中で小さく、呟いた。
今日の一条は――いや、アメリカから戻って来て逢った一条は、どこか、以前と雰囲気が違っていたのだ。
どこが、と言われても判らないが、時々、ふっとそんなことを思わせる雰囲気を、持っていた。
もちろん、ずっと逢っていなかったせいで、そう思うのかも知れないが。
「今度、シカゴに招んでやろうかな。どうせ、結婚式には招ぶつもりだったんだし」
その席で、一条にも彼女を紹介してやればいい――と、そんなことを考えながら、滝は、アクセルを踏み続けた……。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
31
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる