上 下
244 / 533
十夜 和氏(かし)の璧(へき)

十夜 和氏の璧 16

しおりを挟む


 ――母……。




「蛇を倒したのか、舜?」
 阻まれていた邪心が消え、『和氏の璧』と共に舜の元へ駆けつけたデューイが、消えた姿と禍々しさに問いかける。
「巣穴に潜っただけだ。消えた訳じゃない」
 あれが若飛の母の無念の姿だったのだとすれば、その巣穴は……。恐らく、彼女が死を迎えた場所だろう。
「若飛――」
 舜が、それを若飛に尋ねようとした時、帝の住まう奥の宮から数人の側近たちが姿を見せ、若飛の周りを取り囲んだ。
「この者がそうか?」
「はい。確かに、この者に間違いございません」
「この宦官が蛇に何らかの言葉を放った途端、あの化け物蛇は消え去ったのです」
 後から、ゆうるりと近づいて来た男――いや、位の高い宦官に、先に出てきた側近の宦官たちが始終を伝える。
 恐らく、その位の高い宦官は、帝と共に宮の奥に閉じ籠っていたために、全てを見てはいなかったのだろう。他の者たちにしても、蛇と舜の戦いが途切れ、周囲が静まってから、窓から覗いていたに違いない。
「その者、名は?」
 位の高い宦官が訊いた。
「劉若飛と申します……。直殿監に務めております、東廠長官、魏忠賢さま」
 どんな咎めを下されるのかと怯えるように、若飛はその宦官――東廠長官、魏忠賢を前にこうべを垂れた。
 そして、舜もデューイも、まだ、若飛が口にしたその宦官の名前を忘れてはいなかった。
 素貞から聞いた、帝に取り入って権力を得たと云う、例の堯天舜徳至聖至神である。
「おい、おっさん――」
「舜!」
 相変わらずの礼儀を欠いた舜の物言いに、デューイが慌てて遮ると、
「何だよ? 宦官は“おばさん”って呼んだ方がいいのか?」
 ……遮らない方が良かったかも知れない。事態は余計に失礼な方向へと進んでしまった。
「何だ、この者たちは?」
 明らかに気分を害している。
 もちろん、舜やデューイには畏れる理由はないのだが――何しろ、相手はただの人間である。彼らに舜やデューイを獲り押さえられるはずもないし、指一本触れることも適わないだろう。
 だが、若飛は別である。彼はこれからもここで生活していかなくてはならないし、非力で何の後ろ盾も持たない貧しい宦官なのである。
「こっ、この方々は、あの蛇を退治してくださった尊い方々でございます!」
 己の身のことよりも、この場にあって、まだ舜とデューイを擁護してくれようなど……感激しやすい性質のデューイなど、早くも涙ぐんでいる。
 そして、集まって来た者たちは――、
「あのものの怪を……っ」
「何と!」
 ざわっ、と辺りが色めきだった。
「本当なのか? おまえたちが――」
「退治はしていない。あの蛇は若飛の言葉に落ち込んで、巣穴に戻っただけのことだ」
 正直なのは結構なことだが、ここは若飛の擁護に甘えて、事を丸く収めて欲しかった……とデューイが思ったことは、間違いない。
 上手に世間を渡る、などということは、この少年には無縁の事なのである。
 宦官たちは、何やら顔を見合わせていたが、結局、蛇を追い払った三人を無下に扱うことはしないでおこう、と決めたようで、奥の宮中にもてなした。――が、それも断るのである、舜は。
 デューイなど、帝のおわす宮殿でもてなされるなど、と小躍りしそうになっていたというのに。
「オレたちをもてなすより、せいぜい若飛を珍重に扱ってやることだな」
 と、意味深な言葉を残して、
「行くぞ、デューイ」
 と、翻る。
「舜さまっ、デューイさま! あの蛇は一体――」
 慌てる若飛の呼びかけに、
「ああ、そうだ。――おまえ、何処の出身なんだ?」


しおりを挟む

処理中です...