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番外編 刄/軍医大編

刄/軍医大編 7

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 軍の寄宿舎と言っても、基地内にあるような、警備の厳しい宿舎ではない。戦闘要員である兵士たちがいる訳ではなく、軍医大の教職員や、附属病院の医師や職員、そして、刄のような立場の者……そういった者がいるだけで、重要機密があるわけでもない。
 あるとすれば寄宿舎の方にではなく、大学や病院の方、だっただろう。
 塀の向こうは一般道で、今は雪が降り積もっていた。
 すでに外は暗くなり、刄ももう出掛けるつもりもなく、エアコンのスイッチをONにした。
 そうしてしばらく横になっていたが、雪灯りに透ける支那勿忘草シナワスレナグサの鉢植えに視線が行き、ベッドを下りて、手に取ってみる。
 その時、窓の向こうの通りの先に、その姿が垣間見えた。
 雪を避けるように、街路樹の陰に身を寄せて、ロング・コートとマフラーに身を包むトルソーのシルエットが、浮かんでいる。
「夏声……?」
 刄は、コートをつかむ時間ももどかしく、部屋の外へと飛び出した。
 胸がはげしく、鼓動を刻んだ。
 喉の奥に、熱い塊が、詰まっている。
 自分がこれほど衝動的に、コートを着る間も惜しんで、彼女の元に走っているなど、この状況になっても、信じることが出来なかった。
 彼女のことが、好きなのだ。
 一人でいることが、辛かった。
 もっと、彼女の側に寄り添って、彼女の声を聞いていたかったのだ。
 階段を駆け下り、宿舎を出て、塀の外へと飛び出すと、道の向こう側にいたシルエット――夏声も、それに気付いて、目を瞠った。
「刄……!」
 と、震える声で、足を踏み出す。
 寒さのせいで震えていたのか、その心が震えていたのかは、判らない。――いや、きっと、刄と同じだっただろう。
 刄も足を踏み出そうとして、近づいて来る灯りに気がついた。
 車が、雪道を走って来る。
 暗い中、ヘッドライトの灯りに照らされ、夏声も気付いて足を止めた。
 ホッと息をつき、車が通り過ぎるのを待とうとした時、夏声に気づいてブレーキを踏んだ車のタイヤが、雪で滑って、スリップした。
 ハッ、と思う間もなかった。
 静かな雪の舞う通りに、街路樹にぶつかる車の音が、衝撃と共に激しく響いた。
 そこに立っていた夏声の姿は、車と共に、消えていた。
 何が起こったのか、判らなかった。
 何故、こんなことになったのかも、判らなかった。
 それでも刄は、締め付けられる胸を抑えて、駆け出していた。
 車は街路樹で止まっていたが、夏声の姿はそこにはなく、さらに先――数メートルも、飛ばされていた。
 長いコートが、雪の上に、広がっている。
「夏声――!」
 刄はその傍らに膝をつき、意識の有無を確認した。
 夏声の瞳が、ゆっくりと、開いた。
 状況が解っているのか、いないのか――、
「……。大丈夫。ちょっと、びっくりしたわ」
 と、傍で呼びかける刄の声に、以外にもしっかりとした声で、受け応えた。そして、自分で体を起こした。
 車から降りて来た運転手も、それを見るとホッとした様子で、携帯を片手に、救急車を呼んだ。
「救急車なんていいわよ。すぐそこが付属病院なのに――。恥ずかしいじゃない」
 と、気丈な言葉を口にする夏声に、
「駄目だ。動かない方がいい。どこか打っていたら、どうするんだ?」
 ほっ、としながらも厳しい口調で、刄は言った。
「まるで、お医者様みたいね」
 からかうような、眼差しだった。
「本当だな……」
 ――医者みたい……。
 医者として、患者を診ることが出来るのだろうか、いつか、自分も――。
 刄は、胸を過ったその思いに、希望にも似たものを見つけて、少し笑った。すると、
「やっぱり……」
 夏声が言った。
「ん?」
「あなたは笑うと、優しい顔になると思っていた」
「……」
「あなたが好きよ、刄……。それを言いたくて、ここまで来たの。明日のイヴを――」
 続くはずの夏声の言葉を、刄は唇を重ねて、遮った。そして、
「君が好きだ、夏声……。明日のイヴは一緒に過ごしたい」
 もう迷うことなく、刄は言った。
 間違いなく、初めての恋だった。
 そして――。




 そして、夏声の意識がなくなったのは、病院に着いてからのことだった。
 頭痛を訴えて苦しむ夏声に、もう手術は間に合わなかった。急性の頭蓋内出血で、車にはねられ、頭を強く打ったことが原因だった。
「……何故?」
 何故、彼女のように、懸命に医者になろうとする者が死んでしまい、刄のように、ただ無気力に生きているだけの者が、こうして生き残ってしまうのだろうか。
 彼女が生きていた方が、何倍も人々の役に立ったはずなのに――。
 彼女の方が、何倍も医者になるのに相応しい人間だったはずなのに――。
 何故……。
 あの時、刄が、バラの花束を買うことが出来ていたなら――。
 バラの花束を抱えて、夏声のアパートを訪ねることが出来ていたなら――。
 こんなことにはならなかったかも、知れない……。
 あの花屋で、ただ一言、『バラをください』と言うことが出来ていたなら……。
「俺は……まだ生きていなくては……ならないのですか……?」
 やっと見つけた大切なものを、目の前で失ってしまったというのに――。
 その日を境に、刄にはまた、軍部からの監視がつくことになった。
 刄は何を言う気力もなく、何も喋らず、以前のまま無気力に、その成り行きを受け入れた。
 もう二度と、誰かを好きになったりはしない、と――。
 もう、こんな感情を抱きはしない、と――。

 それから数カ月――。
 部屋には、支那勿忘草シナワスレナグサの小さな鉢植えが、青紫の花を枯らして、乾いていた。
 あの時、店員は何と言っただろうか。
『Chinese forget-me-not』

 forget-me-not――私を忘れないで……。




               完




   ※次回は、司の初恋の番外編を連載します。


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