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とんずら9
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クラリスは床に叩きつけられる覚悟で目を瞑ったけれど、背中を襲った衝撃は思っていたほど強くなかった。
代わりに、驚くほど近くで声がした。
「──大丈夫ですか? レディ」
なぜか、見目の良い青年が目の前にいた。
それが分かった瞬間、クラリスの顔から、さっと血の気が引いていく。背中が仄かに温かいのは、彼に抱き留められているから。そして、柔らかそうな黒髪と紫紺の瞳にはしっかりと覚えがある。間違いない。リュシアン=ジュネ=ド=サヴォイアその人である。
クラリスは目眩を起こしそうだった。あろうことか、これから助けを求めようとしている相手の上に落ちたのだ。穴があったら入りたい。
彼女の中でそんな暴風が吹き荒れていることなど知る由もない辺境伯は、丁重にクラリスを地面に下ろしてくれる。成長した姿は背こそ高くないものの、細身で洗練されたものだった。髪や目の色と違って子どもの頃とまるで違う印象に、クラリスは訳もなく居心地が悪くなった。
「あの。大変失礼いたしました。お陰で助かりましたわ……」
「礼はいいから掛けなさい。あんな場所から現れた訳の方が気になるからね」
リュシアンが有無を言わさぬ圧で微笑むので、クラリスは恥ずかしさで言い返すことができなかった。
サヴォイア辺境伯領といえば、数年前までは「僻地」の代名詞だった。王都から遠く、めぼしい産業がない北の果て。ここ何代かは、健康や出生に問題がある王族が領主になっていて、まっとうに領地運営されるためしがなかった。
新しく序されたリュシアンも、領民からの風当たりは強かった。就任に至る過程で王位継承権にまつわる忖度があったらしいと聞けば、領民が快く思うはずもない。
ところが、最悪の地位についたはずの彼は、ものの半年で王都にも聞こえる成果を打ち立てていた。まずは、領内の工芸品に着目し、貴族相手に巧みに売り出すことで財を築いた。さらに、新しい商品や技術の醸成に力を入れ、サヴォイアの価値を高めていった。少しずつ街道も整備され始めると、人や物の行き来が増え、人々の暮らしも上向き始めたのだ。
今では、慣習に囚われず、やる気のある者は誰でも歓迎するというサヴォイアは、自由と活気に溢れた新天地と呼ばれるようにすらなっている。
「なるほどね。事情はだいたい分かった」
その噂の辺境伯は、素っ気ないようで、どこか優美な声の持ち主だった。
クラリスは今、彼と向かい合ってこれまでの事情を説明したところだった。
豪胆で革新的と言われる辺境伯は、実際に見ると冷静、深慮という言葉の方がしっくりくる。
彼は物憂げに耳を傾けているだけである種の風格があった。
「それで? ブロイ公爵令嬢は僕に何をお望みなのかな」
「……私と、このアリサを匿っていただきたいのです。私は誓って国を裏切っておりません。必ず真実を詳らかにし、首謀者に相応の報いを受けさせるつもりでおります。……いっときの慈悲で良いのです。どうかご検討ください」
人に頭を下げるなど愚の骨頂である──。そう叩き込まれて育ったクラリスだったけれど、寄る辺ない今、体は自然と頭を垂れる。
そんなクラリスの頭上に、リュシアンは静かに声を降らせた。
「無実なら、公爵家を頼ればいいだろう。何故そうしない」
「意地悪をおっしゃいますね。今の私は公爵家の利となりません。縋ったところで打ち捨てられるだけですわ」
「……ブロイ家の姿勢は存じ上げるけどね。親は親だ。決めつけるのは早計だと思うけど」
クラリスは眉を寄せて顔を上げる。冗談かと思ったら、リュシアンは至って真面目だった。クラリスを見る目に思慮らしきものまで滲んでいて、ありがたいと思うより、口に苦いものが広がった。
「ブロイに親子の情などありません」
「……悲しいことを言うね」
「悲しい? 貴族の家にはよくあることだと思っておりました」
そんなことを当たり前のように口にするなんて、きっとあなたは温かい家庭で育ったのでしょう。そんな皮肉を、クラリスは胸のうちにしまい込む。
リュシアンは嘆息した。
「じゃあ、親の代わりに僕を頼ったのはなぜ?」
「それは……」
クラリスは答えに迷った。
実利主義かと思いきや、抵抗もなく情に厚いことを言う人だ。治外法権だからというような即物的な話は求めいていないだろう。それでも理性的に説明するべきだろうか。情に訴え、頼れる人は他にいないと泣きつくべきだろうか。
「......前に、知人から聞いたのです。辺境伯領は自由であり情に厚い土地だと。領地の気風は主君の心の表れと言います。あなたなら、噂に惑わされず私自身を見てくださると思いました」
結局、クラリスは心のまま思っていたことをつらつらと喋っていた。彼の湖面のように凪いだ目で見つめられると、どうしても平静でいられないのだ。
「なんだ、いい子じゃねえの」
「当たり前です。お嬢様は聡明で、誰よりお優しいのです」
それまで壁際で控えていたカイサルが、思わずというように呟くと、先程彼にやり込められていたアリサが、話すのも嫌そうに、しかし言わずにはおれないというように返していた。
それは当然、主人の耳にも届いている。クラリスは無を装ったけれど、リュシアンは小さく笑みを漏らした。
「確かに、氷の女の噂を知ってると意外な答えかな。でも、悪くないね。──いいよ。君の望みを叶えてあげる。二人とも、私が責任を持って預かろう」
「……本当ですか?」
「こんなことで嘘はつかないよ」
「でも、そんな簡単に……。私たちはお尋ね者なのですよ?」
「関係ないね」
「関係はあるでしょう……!」
「そう思うなら、君はまだサヴォイアを分かってない」
リュシアンは、困惑を隠せないクラリスを見て、くすりと笑った。
「サヴォイアは身内を見捨てない。そういう土地柄だ」
「……私たちは身内ではありません。それとも、辺境伯領では褒め称えれば誰でも身内にしてくれると仰るの?」
「そうではないけど、君は肉親より先にサヴォイアを頼った。僕は存外、それが嬉しいんだよ。クラリス嬢」
とん、と、リュシアンは帯剣を突いて立ち上がる。体格が良いカイサルに比べると小柄な彼が、何故かとても大きく見えて、クラリスは大いに戸惑った。
「だから、僭越ながらブロイ公の代わりを僕が務めさせていただく。いずれにしろ、僕も、そこのカイサルも、助けを求めに来た若い娘を突き出すような真似はできないからね」
紳士的に差し伸べられた手と愉快そうに微笑む様を見比べて、結局、クラリスは躊躇いがちに彼の手を取った。
代わりに、驚くほど近くで声がした。
「──大丈夫ですか? レディ」
なぜか、見目の良い青年が目の前にいた。
それが分かった瞬間、クラリスの顔から、さっと血の気が引いていく。背中が仄かに温かいのは、彼に抱き留められているから。そして、柔らかそうな黒髪と紫紺の瞳にはしっかりと覚えがある。間違いない。リュシアン=ジュネ=ド=サヴォイアその人である。
クラリスは目眩を起こしそうだった。あろうことか、これから助けを求めようとしている相手の上に落ちたのだ。穴があったら入りたい。
彼女の中でそんな暴風が吹き荒れていることなど知る由もない辺境伯は、丁重にクラリスを地面に下ろしてくれる。成長した姿は背こそ高くないものの、細身で洗練されたものだった。髪や目の色と違って子どもの頃とまるで違う印象に、クラリスは訳もなく居心地が悪くなった。
「あの。大変失礼いたしました。お陰で助かりましたわ……」
「礼はいいから掛けなさい。あんな場所から現れた訳の方が気になるからね」
リュシアンが有無を言わさぬ圧で微笑むので、クラリスは恥ずかしさで言い返すことができなかった。
サヴォイア辺境伯領といえば、数年前までは「僻地」の代名詞だった。王都から遠く、めぼしい産業がない北の果て。ここ何代かは、健康や出生に問題がある王族が領主になっていて、まっとうに領地運営されるためしがなかった。
新しく序されたリュシアンも、領民からの風当たりは強かった。就任に至る過程で王位継承権にまつわる忖度があったらしいと聞けば、領民が快く思うはずもない。
ところが、最悪の地位についたはずの彼は、ものの半年で王都にも聞こえる成果を打ち立てていた。まずは、領内の工芸品に着目し、貴族相手に巧みに売り出すことで財を築いた。さらに、新しい商品や技術の醸成に力を入れ、サヴォイアの価値を高めていった。少しずつ街道も整備され始めると、人や物の行き来が増え、人々の暮らしも上向き始めたのだ。
今では、慣習に囚われず、やる気のある者は誰でも歓迎するというサヴォイアは、自由と活気に溢れた新天地と呼ばれるようにすらなっている。
「なるほどね。事情はだいたい分かった」
その噂の辺境伯は、素っ気ないようで、どこか優美な声の持ち主だった。
クラリスは今、彼と向かい合ってこれまでの事情を説明したところだった。
豪胆で革新的と言われる辺境伯は、実際に見ると冷静、深慮という言葉の方がしっくりくる。
彼は物憂げに耳を傾けているだけである種の風格があった。
「それで? ブロイ公爵令嬢は僕に何をお望みなのかな」
「……私と、このアリサを匿っていただきたいのです。私は誓って国を裏切っておりません。必ず真実を詳らかにし、首謀者に相応の報いを受けさせるつもりでおります。……いっときの慈悲で良いのです。どうかご検討ください」
人に頭を下げるなど愚の骨頂である──。そう叩き込まれて育ったクラリスだったけれど、寄る辺ない今、体は自然と頭を垂れる。
そんなクラリスの頭上に、リュシアンは静かに声を降らせた。
「無実なら、公爵家を頼ればいいだろう。何故そうしない」
「意地悪をおっしゃいますね。今の私は公爵家の利となりません。縋ったところで打ち捨てられるだけですわ」
「……ブロイ家の姿勢は存じ上げるけどね。親は親だ。決めつけるのは早計だと思うけど」
クラリスは眉を寄せて顔を上げる。冗談かと思ったら、リュシアンは至って真面目だった。クラリスを見る目に思慮らしきものまで滲んでいて、ありがたいと思うより、口に苦いものが広がった。
「ブロイに親子の情などありません」
「……悲しいことを言うね」
「悲しい? 貴族の家にはよくあることだと思っておりました」
そんなことを当たり前のように口にするなんて、きっとあなたは温かい家庭で育ったのでしょう。そんな皮肉を、クラリスは胸のうちにしまい込む。
リュシアンは嘆息した。
「じゃあ、親の代わりに僕を頼ったのはなぜ?」
「それは……」
クラリスは答えに迷った。
実利主義かと思いきや、抵抗もなく情に厚いことを言う人だ。治外法権だからというような即物的な話は求めいていないだろう。それでも理性的に説明するべきだろうか。情に訴え、頼れる人は他にいないと泣きつくべきだろうか。
「......前に、知人から聞いたのです。辺境伯領は自由であり情に厚い土地だと。領地の気風は主君の心の表れと言います。あなたなら、噂に惑わされず私自身を見てくださると思いました」
結局、クラリスは心のまま思っていたことをつらつらと喋っていた。彼の湖面のように凪いだ目で見つめられると、どうしても平静でいられないのだ。
「なんだ、いい子じゃねえの」
「当たり前です。お嬢様は聡明で、誰よりお優しいのです」
それまで壁際で控えていたカイサルが、思わずというように呟くと、先程彼にやり込められていたアリサが、話すのも嫌そうに、しかし言わずにはおれないというように返していた。
それは当然、主人の耳にも届いている。クラリスは無を装ったけれど、リュシアンは小さく笑みを漏らした。
「確かに、氷の女の噂を知ってると意外な答えかな。でも、悪くないね。──いいよ。君の望みを叶えてあげる。二人とも、私が責任を持って預かろう」
「……本当ですか?」
「こんなことで嘘はつかないよ」
「でも、そんな簡単に……。私たちはお尋ね者なのですよ?」
「関係ないね」
「関係はあるでしょう……!」
「そう思うなら、君はまだサヴォイアを分かってない」
リュシアンは、困惑を隠せないクラリスを見て、くすりと笑った。
「サヴォイアは身内を見捨てない。そういう土地柄だ」
「……私たちは身内ではありません。それとも、辺境伯領では褒め称えれば誰でも身内にしてくれると仰るの?」
「そうではないけど、君は肉親より先にサヴォイアを頼った。僕は存外、それが嬉しいんだよ。クラリス嬢」
とん、と、リュシアンは帯剣を突いて立ち上がる。体格が良いカイサルに比べると小柄な彼が、何故かとても大きく見えて、クラリスは大いに戸惑った。
「だから、僭越ながらブロイ公の代わりを僕が務めさせていただく。いずれにしろ、僕も、そこのカイサルも、助けを求めに来た若い娘を突き出すような真似はできないからね」
紳士的に差し伸べられた手と愉快そうに微笑む様を見比べて、結局、クラリスは躊躇いがちに彼の手を取った。
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