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第七話 塩谷潤という男
「いつでも呼んで! 私、どこにいても必ず駆けつけるから!」
大きな声でそう言うと、さすらいの派遣ナース・真柴綾はニカッと笑った。その手にはいつものゆで卵。重症患者が運ばれてきたときも、生死を分かつギリギリの現場に立った後も。ひとたびゆで卵を頬張れば、綾は元気を取り戻す。単なるカロリー補給だけではない、彼女にとってゆで卵は唯一無二の相棒なのだ。
「真柴さん、本当にありがとうございました!」
「私いつか真柴さんみたいなナースに、きっとなってみせますから!」
「綾ちゃんはワシの命の恩人だ。死ぬまで、いや死んでもお前さんのことは忘れんよ!」
綾を見送る人々の手にも、希望のゆで卵が握られている。
「またきっと会える。それまでみんな、元気でいてね!」
振り返った綾は真っ直ぐ前を見据え、次なるナースコールに導かれるように一歩を踏み出した。
***
ブシュッ!
開いた腹から噴き出した血に、恭弥の手がピタリと止まる。
(おかしい。この傷だけでこんな出血量になるはずがない)
「渡瀬先生、バイタルが……っ!」
「わかっている! くそっ、どこだ!?」
交通事故で運ばれてきた男は腹部を強打しており、このままでは死を待つのみ。一縷の望みをかけて、恭弥は開腹手術に踏み切ったのだ。損傷した内臓の奥に手を差し入れる。そして――
「ここだ! 鉗子、すぐに縫合するぞ! 命を手放すな、必ず助けてみせるっ!」
叫びともいえる声に、スタッフ全員が腹を決めた。大丈夫だ、この人についていけば間違いはない。救急救命医・渡瀬恭弥、誰もが天才と認める男。そしてついに。
「手術は成功しました。もう大丈夫ですよ」
「ああっ、先生! ありがとうございますっ……う、うぅっ……」
安堵に崩れ落ちた女性――患者の妻に、恭弥は手を差し伸べた。彼が培った経験と勘は、今日も無事一人の命を繋ぎ止めたのだった。
***
九月の連休。亜嵐さんの引率で『劇場版ナースコール・真柴綾』を観にいったときのことだ。
「やっぱり綾ちゃんカッコいい~! いざってときの対応力だけじゃなくって、看護師を見下すクソ医者やペイハラ患者を怒鳴りつける度胸とか、どこを取っても痺れちゃうんだよね~。ま、まあ本当に? 患者さんを怒鳴るなんてしないけどさ? でもドラマでスカッとするくらいは許されるよね!」
神戸牛のビフカツサンド――分厚いヒレ肉はジューシーなピンク色で、絶妙な火の入れ加減だ――にかじりつきながら、看護を学ぶ白石さんはうっとりと目を細めた。カリッと焼かれたパンを摘まむ指先までが、淡い桃色に染まっている。
「あとね、『救急医・渡瀬恭弥シリーズ』の渡瀬先生もめちゃくちゃステキなんだよね。ドラマ版の鈴木克己も、これ以上ないナイスキャスティング。奇跡を起こすオペの腕といい、いつも冷静さを失わない理性といい、何もかもが完璧すぎっ! あぁ~、あんなお医者さんと仕事がしたいっ!!」
向かいの席で蕩ける白石さんの姿に、俺と亜嵐さんは顔を見合わせた。
「美緒、気をしっかり持て。あれはな、『フィクション』なんだぞ?」
「もうっバカにしてっ! わかってるっつーの! 師匠ってつくづく女心がわかってないよねっ!」
不憫にでも思ったのか、いつもより優しく諭した亜嵐さんに、白石さんはぷくっと顔を膨らませた。そして汗が浮かんだグラスを取ると、白ブドウのジュースをゴクリと飲んだ。
「んんっ。でも、でもね? 全部が作り話とは限らないって、ファンの間では考察されてるの。原作者の塩谷潤先生って、作家になる前は医療機器の営業マンしてたんだよ。ってことはワンチャン、モデルがいるかもしれないじゃない?」
「へえ、塩谷さんってそうなんだ」
指先についたソースを紙ナプキンで拭う。普通のとんかつソースとは違い、洋風でいて華やかな香りがする。デミグラスと赤ワインだけではなさそうだ。
話を聞いていないわけではないが、つい上の空で言葉を返すと、白石さんは鼻息も荒くテーブルに身を乗り出した。
「そうなのっ! ほら、塩谷先生の作品って医療系ばっかりでしょ? 真柴綾も渡瀬恭弥も、東堂みゆきも江藤俊一も星野ひかりも、全部がリアルで緻密なんだよね。だからさ、モデルがいる説を私は信じることにしたんだ。うぅ~、本物の綾ちゃん看護師かぁ、やっぱり憧れちゃうなぁ~!」
熱く、それはそれは熱狂的に、彼女は『塩谷潤作品愛』を語っていた。
そして現在――白石さんはというと、失神寸前である。こぼれ落ちそうになった買い物袋は、俺がすかさず回収した。手荷物どころではないのだ。白石さんは黒づくめの男に視線を定め、生まれたての子鹿のように震えている。
「一体どうし……って、あら美緒ちゃん。どうかしたの?」
絶叫を聞きつけて厨房から出てきた翠さんは、ミトンをはめたままの手で白石さんの肩をポンと叩いた。その衝撃で息を吹き返すと、白石さんはカタカタと歯を鳴らしながら「し、しおっ、しおしおしおしお……」と呪文のように繰り返した。
「なぁに、お塩? 買ってきてって頼んだかしら?」
「ちっ違いますっ! あそこ、あの人っ! し、しし、塩谷潤先生じゃないですかっ!」
店内にいた客の視線が白石さんに集まり、次に彼女が指を差した人物に向かう。突然耳目を集める羽目になり、黒づくめの客は居心地が悪そうに身じろいだ。なんだかとても申し訳なくなる。ローズメリーに流れる雰囲気に浸っていたのに、突然叫ばれて好奇の視線に晒されるなんて、気の毒すぎるじゃないか。
「こら、美緒ちゃん。お客さまを指差さないの!」
白石さんの手を押さえる翠さんの声には、珍しく怒気がこもっていた。俺にはそれが店主としての矜持に感じられた。ローズメリーはお気楽に営まれている店ではない。来てくれた誰かをもてなすために、翠さんはいつだってあらん限りの慈愛を込めている。そんな場所でお客様に不愉快な思いをさせるなんて、絶対にあってはならないのだ。
翠さんは静かに、けれど素早く塩谷さんのテーブルに歩み寄ると、腰を折って深々と頭を下げた。
「塩谷さま、不躾がございまして誠に申し訳ございません」
「い、いえ、俺は別に。そこまでされることじゃ……」
「少々お待ちくださいませ」
翠さんは厨房にとって返すと、白い器を盆に載せて戻ってきた。
「お詫びにもなりませんが、こちらはキノコのキッシュです。秋限定の品でございます、ぜひご賞味くださいませ」
「ありがとう、ございます」
的確かつ否と言わせぬ勢いで、テーブルに紙ナプキンとカトラリーが並べられる。塩谷さんは観念したように翠さんに会釈して、フォークを手に取った。
気まずさはあっても、キッシュの味は変わらない。翠さん自慢のそれはチーズのコクとキノコの香気が相まって、極上の味わいだ。亜嵐さん曰く、この時期はこれを目当てにする常連客も多いという。ただ俺は、そのチョイスが気になった。
(食後みたいだけど……デザートじゃないんだな)
そう思った途端、脳の回路が先ほどの探偵ごっこと繋がった。アップルパイは買うが、店内ではスイーツを食べない男。そして客の好みを把握している翠さんが出したのが、セイボリーのキッシュ。そのふたつから導き出されるのは――
(塩谷さんはきっと、甘いものを食べないんだ)
となると、パイを食べているであろう黒づくめの一味は一体何者なのか? 友人、恋人、家族――ありそうなシチュエーションを思案していると、遠慮がちな呼びかけが耳に届いた。
「あー、もしもしお嬢さん。話しかけてもいいだろうか? あなたは俺を、その……俺の正体をご存じのようだが」
「は、ははは、はひーーーーっ!?!?」
ようやく立ち上がった子鹿ならぬ白石さんは、ビクッと背を伸ばして素っ頓狂な声を上げた。
「いやあの、ボリュームを控えてもらえると」
「申し訳ありません」
荷物を厨房に置いて戻ってきた亜嵐さんが、背後から白石さんの口を手で塞ぐ。白石さんは何が何やらですっかりテンパっているが、亜嵐さんの登場にホッと息を吐いた塩谷さんは会話を継続した。
「一目で俺の正体を見破ったのだから、あなたを俺の作品の読者、もしくは映像作品の視聴者だと推測するのだが。そうであるなら、その……」
「フガグガ?」
口をモゴモゴさせる白石さんと、彼女を取り押さえる亜嵐さん、そして成り行きを見守る俺。一同を見渡してから一旦視線を落とし、意を決したように再び顔を上げた塩谷さんは、ちょいちょいと手を振って俺たちを招き寄せた。
「少々、その、話を聞かせてもらえないだろうか?」
「……っ!?!?」
白石さんはポニーテールを逆立てて、今度こそ白目をむいた。
***
「まずは自己紹介からだな。俺は塩谷潤、作家として活動している」
ローズメリーの最奥。四人掛けのテーブルを陣取って、『塩谷潤先生を囲む会』が始まった。なお最初に行った席割りで、既に一悶着が起きている。
「ひーっ、ムリムリムリっ! 藤宮くん、席変わってよぉ~!!」
いつもの如く亜嵐さんと並んで座ろうとしたら、必死の形相の白石さんに腕を取られた。憧れの作家先生の隣に座るなんて、嬉し恥ずかしどうやってもできないというのだ。
「何を言う、せっかくの機会ではないか」
などと言いそうな亜嵐さんも、彼女らしからぬ混乱ぶりに強くも出られず。結局俺が塩谷さんの隣に座ることになった。そして塩谷さんの正面に亜嵐さん。対角線上に座ることで、白石さんはどうにか意識を保っている。
「西園寺亜嵐です。食文化を研究がてらフードライターをしています」
「俺は藤宮湊、大学で栄養学を専攻しています」
氏名と所属をシンプルに。それぞれが名乗ったところで、三人の視線が白石さんに注がれる。
「あひゅ……し、白石美緒でぶひゅ。かんぎょ学部に通ってましゅ……」
顔を赤らめて視線を泳がせる白石さんに、俺は心の中で首を横に振った。
(残念過ぎるって、白石さん。それじゃ完全に不審者だよ)
とはいえ、これもメガトン級のアクシデントゆえだ、同情くらいしないでもない。しかしあまりの醜態っぷりに情状酌量のキャパをオーバーしたらしく、亜嵐さんはことさら大きく「はぁーあ」と言って顔を顰めた。
「美緒、しっかりしろ。憧れの先生を前にしているのだ、普段よりもっと集中すべき場面だぞ」
「っプぎゃ、ぁたっ! だ、だって……」
慌てて舌を噛んだ白石さんは、口元を両手で押さえて隣の亜嵐さんを見た。その様子に塩谷さんは、とても申し訳なさげな声を出した。
「どうか落ち着いてくれ、ケガなんてさせたくはない。……とはいえ、それだけ反応してもらっているのを俺は喜ぶべきなんだろうな」
「きゃしゅっしゅ!? ごしゅんぴゃいなっきゅ! じぇんじぇんいたきゅありゅまっしぇん!」
ご心配なく全然痛くありません、で正解だろうか? いやいや、脳内翻訳が必須であること自体がよろしくない。どうにかして白石さんを再起動しなければ――そう考えて辺りを見回したとき、コツコツと木の床を踏む足音が近づいてきた。
「紅茶を淹れ直しました。茶葉はダージリンですよ」
銀の盆に大きなポットを乗せた翠さんが、テーブルの隣に立った。華やかで甘味のある芳香にふわりと包まれる。
(そっか、塩谷さんはダージリン派なんだった)
ダージリンは亜嵐さんも好きで、二階の小さなキッチンにも常備されている。紅茶の王様と呼ばれるが、俺のイメージはオーダーメイドのスーツとコートを纏い、ステッキを持った英国紳士だ。
白地に草花紋と金彩をあしらったカップがテーブルに置かれ、白石さんはやっと我に返った。よかった、英国紳士が彼女の背筋を伸ばしてくれたらしい。
「こちらはお茶請けね」
続いて置かれたのは、カップと揃いの柄の皿。盛られているのは、一口サイズのキュウリとハムのサンドウィッチだ。素朴に見えるけれど実は隠し味にクリームチーズが使われていて、「サンドウィッチはこれ」という客も多い人気メニューである。
「あ、あれ? 翠さん、ケーキはないの?」
翠さんのお手製ケーキを愛好する白石さんは、サンドウィッチを見て眉を下げた。これだって十分美味しいけれど、スイーツ女子には物足りないに違いない。
「うふふ。そう言うと思って、美緒ちゃんにはこれもあるわよ」
「アップルパイ! やったぁ、ありがとう翠さん!」
紅茶とスイーツで鮮やかに白石さんを立て直すと、翠さんは「ごゆっくり」と微笑んで厨房へ戻っていった。
やっとのことで落ち着き、全員が紅茶をひと口飲んだところで、塩谷さんは「こほん」とひとつ咳払いをした。
「あー、飲食しながらで結構。俺のわがままでこのような場を設けて頂き感謝に堪えない。そちらのお嬢さん――白石さんは俺のファンとのことだし、そんな相手にこんなことを言っていいのか判断に迷うのだが」
塩谷さんは一旦言葉を区切り、紅茶をもうひと口含んだ。そして再び目に力を入れた。
「実は新シリーズの企画が進んでいるんだが、スランプで思考が混線状態なんだ。編集者に付き合ってもらったり、ファンレターを読み返したりもしたんだが、どうしても出口が見つからない。ついにはこれまで書いてきたものすら疑わしく思えてきて……お願いだ、君が感じている私の著作の魅力について、その熱量で語ってくれないだろうか」
「……っ!?」
塩谷さんは、テーブルにぶつけそうな勢いで頭を下げた。ベストセラー作家といえど、そんなに切羽詰まるものなのか。ただ癒しを求めていたんじゃない、深い瞑想の場所としてローズメリーを選んでいたのか。不愛想な男の真相に、俺は心底同情した。
そんな俺とは対照的に、白石さんの瞳にはメラメラと炎がふき上がった。尊敬する作家本人を前にしてその魅力を語るなんて、ガッツあふれる彼女には手抜きのできない案件だ。
白石さんはアップルパイの皿に一瞥もくれることなく、「あのですね」と口を開いた。
***
「――ってシーンが胸に迫ってきて! それに患者目線に立つのって、当たり前だけど出来ないときもあって。でもだからって現場の忙しさに流されちゃいけないし、医療従事者が忘れちゃいけない根っこだと思うんです。私はまだ学生だし、看護助手のアルバイトだけで理想論しか言えないけれど、塩谷先生の物語はそこが一貫してるんですっ!」
「ふむふむ、看護学部生の目にはそんなふうに映るのか。それで、他には?」
テーブルに両腕をついて熱弁を続ける白石さんと、教会で神父が捧げる祈りを聞くがごとくの塩谷さん。二人の様子を、けれど俺は引き気味に眺めている。なんというか、言い知れない気恥ずかしさに身の置き場がなくて、既に三杯のダージリンを飲み干している。
(うーん、プロの作家さんってこういうものなのかな?)
亜嵐さんもプロのライターだ、自分の記事についてこれくらい熱心に語られたら嬉しいのだろうか? もしそうなら、今後は記事を隅々どころか暗記するまで読み込んで、熱いディスカッションを交わそう。拳を握ってチラリと視線を向けると、斜め前に座る亜嵐さんは邪教の徒を見るような目を二人に向けていた。……そうか、やっぱり塩谷さんの姿勢がレアなのか。
(とはいえ書ける書けないは、作家さんの生命線だもんな。重度のスランプを抜けるためなら、手段なんて選んでられないってことか)
であれば、塩谷さんの本気度も納得できる。
(この邂逅が塩谷さんと白石さん双方のためになればいいな)
なんて他人事のように考えながら、四杯目の紅茶を注いだところで――
ガタッ!
塩谷さんが勢いよく立ち上がった。興奮しているのか、強く握り込まれた両手が空を切る。
「白石さん、君という人は……! フィクションとノンフィクションをごっちゃにしつつ、とはいえ現場からも目を逸らしていないなんて、とても興味深い生態だよ! それはきっと、公平であろうとする君だから持てる感覚なのだろうな。そして……それこそが、俺が求めていた斬新な視点だ! あぁ、一刻も早く編集者と打ち合わせをしなければ! 本当にありがとう、この礼はいつかまた改めて。今日はこれで失礼させていただくよ!」
迷惑料込みということで、テーブルに伝票は置かれていない。当然というより気すら回らないといったふうに、塩谷さんはジャケットを抱えて一目散に戸口へ向かった。カウンターの前にいた翠さんが、待ってましたとばかりに小さな箱を手渡す。「あっ!」という顔でそれを受け取ると。
チリリリン!
いささか乱暴にベルを鳴らして、人気作家・塩谷潤はローズメリーから退場していった。
大きな声でそう言うと、さすらいの派遣ナース・真柴綾はニカッと笑った。その手にはいつものゆで卵。重症患者が運ばれてきたときも、生死を分かつギリギリの現場に立った後も。ひとたびゆで卵を頬張れば、綾は元気を取り戻す。単なるカロリー補給だけではない、彼女にとってゆで卵は唯一無二の相棒なのだ。
「真柴さん、本当にありがとうございました!」
「私いつか真柴さんみたいなナースに、きっとなってみせますから!」
「綾ちゃんはワシの命の恩人だ。死ぬまで、いや死んでもお前さんのことは忘れんよ!」
綾を見送る人々の手にも、希望のゆで卵が握られている。
「またきっと会える。それまでみんな、元気でいてね!」
振り返った綾は真っ直ぐ前を見据え、次なるナースコールに導かれるように一歩を踏み出した。
***
ブシュッ!
開いた腹から噴き出した血に、恭弥の手がピタリと止まる。
(おかしい。この傷だけでこんな出血量になるはずがない)
「渡瀬先生、バイタルが……っ!」
「わかっている! くそっ、どこだ!?」
交通事故で運ばれてきた男は腹部を強打しており、このままでは死を待つのみ。一縷の望みをかけて、恭弥は開腹手術に踏み切ったのだ。損傷した内臓の奥に手を差し入れる。そして――
「ここだ! 鉗子、すぐに縫合するぞ! 命を手放すな、必ず助けてみせるっ!」
叫びともいえる声に、スタッフ全員が腹を決めた。大丈夫だ、この人についていけば間違いはない。救急救命医・渡瀬恭弥、誰もが天才と認める男。そしてついに。
「手術は成功しました。もう大丈夫ですよ」
「ああっ、先生! ありがとうございますっ……う、うぅっ……」
安堵に崩れ落ちた女性――患者の妻に、恭弥は手を差し伸べた。彼が培った経験と勘は、今日も無事一人の命を繋ぎ止めたのだった。
***
九月の連休。亜嵐さんの引率で『劇場版ナースコール・真柴綾』を観にいったときのことだ。
「やっぱり綾ちゃんカッコいい~! いざってときの対応力だけじゃなくって、看護師を見下すクソ医者やペイハラ患者を怒鳴りつける度胸とか、どこを取っても痺れちゃうんだよね~。ま、まあ本当に? 患者さんを怒鳴るなんてしないけどさ? でもドラマでスカッとするくらいは許されるよね!」
神戸牛のビフカツサンド――分厚いヒレ肉はジューシーなピンク色で、絶妙な火の入れ加減だ――にかじりつきながら、看護を学ぶ白石さんはうっとりと目を細めた。カリッと焼かれたパンを摘まむ指先までが、淡い桃色に染まっている。
「あとね、『救急医・渡瀬恭弥シリーズ』の渡瀬先生もめちゃくちゃステキなんだよね。ドラマ版の鈴木克己も、これ以上ないナイスキャスティング。奇跡を起こすオペの腕といい、いつも冷静さを失わない理性といい、何もかもが完璧すぎっ! あぁ~、あんなお医者さんと仕事がしたいっ!!」
向かいの席で蕩ける白石さんの姿に、俺と亜嵐さんは顔を見合わせた。
「美緒、気をしっかり持て。あれはな、『フィクション』なんだぞ?」
「もうっバカにしてっ! わかってるっつーの! 師匠ってつくづく女心がわかってないよねっ!」
不憫にでも思ったのか、いつもより優しく諭した亜嵐さんに、白石さんはぷくっと顔を膨らませた。そして汗が浮かんだグラスを取ると、白ブドウのジュースをゴクリと飲んだ。
「んんっ。でも、でもね? 全部が作り話とは限らないって、ファンの間では考察されてるの。原作者の塩谷潤先生って、作家になる前は医療機器の営業マンしてたんだよ。ってことはワンチャン、モデルがいるかもしれないじゃない?」
「へえ、塩谷さんってそうなんだ」
指先についたソースを紙ナプキンで拭う。普通のとんかつソースとは違い、洋風でいて華やかな香りがする。デミグラスと赤ワインだけではなさそうだ。
話を聞いていないわけではないが、つい上の空で言葉を返すと、白石さんは鼻息も荒くテーブルに身を乗り出した。
「そうなのっ! ほら、塩谷先生の作品って医療系ばっかりでしょ? 真柴綾も渡瀬恭弥も、東堂みゆきも江藤俊一も星野ひかりも、全部がリアルで緻密なんだよね。だからさ、モデルがいる説を私は信じることにしたんだ。うぅ~、本物の綾ちゃん看護師かぁ、やっぱり憧れちゃうなぁ~!」
熱く、それはそれは熱狂的に、彼女は『塩谷潤作品愛』を語っていた。
そして現在――白石さんはというと、失神寸前である。こぼれ落ちそうになった買い物袋は、俺がすかさず回収した。手荷物どころではないのだ。白石さんは黒づくめの男に視線を定め、生まれたての子鹿のように震えている。
「一体どうし……って、あら美緒ちゃん。どうかしたの?」
絶叫を聞きつけて厨房から出てきた翠さんは、ミトンをはめたままの手で白石さんの肩をポンと叩いた。その衝撃で息を吹き返すと、白石さんはカタカタと歯を鳴らしながら「し、しおっ、しおしおしおしお……」と呪文のように繰り返した。
「なぁに、お塩? 買ってきてって頼んだかしら?」
「ちっ違いますっ! あそこ、あの人っ! し、しし、塩谷潤先生じゃないですかっ!」
店内にいた客の視線が白石さんに集まり、次に彼女が指を差した人物に向かう。突然耳目を集める羽目になり、黒づくめの客は居心地が悪そうに身じろいだ。なんだかとても申し訳なくなる。ローズメリーに流れる雰囲気に浸っていたのに、突然叫ばれて好奇の視線に晒されるなんて、気の毒すぎるじゃないか。
「こら、美緒ちゃん。お客さまを指差さないの!」
白石さんの手を押さえる翠さんの声には、珍しく怒気がこもっていた。俺にはそれが店主としての矜持に感じられた。ローズメリーはお気楽に営まれている店ではない。来てくれた誰かをもてなすために、翠さんはいつだってあらん限りの慈愛を込めている。そんな場所でお客様に不愉快な思いをさせるなんて、絶対にあってはならないのだ。
翠さんは静かに、けれど素早く塩谷さんのテーブルに歩み寄ると、腰を折って深々と頭を下げた。
「塩谷さま、不躾がございまして誠に申し訳ございません」
「い、いえ、俺は別に。そこまでされることじゃ……」
「少々お待ちくださいませ」
翠さんは厨房にとって返すと、白い器を盆に載せて戻ってきた。
「お詫びにもなりませんが、こちらはキノコのキッシュです。秋限定の品でございます、ぜひご賞味くださいませ」
「ありがとう、ございます」
的確かつ否と言わせぬ勢いで、テーブルに紙ナプキンとカトラリーが並べられる。塩谷さんは観念したように翠さんに会釈して、フォークを手に取った。
気まずさはあっても、キッシュの味は変わらない。翠さん自慢のそれはチーズのコクとキノコの香気が相まって、極上の味わいだ。亜嵐さん曰く、この時期はこれを目当てにする常連客も多いという。ただ俺は、そのチョイスが気になった。
(食後みたいだけど……デザートじゃないんだな)
そう思った途端、脳の回路が先ほどの探偵ごっこと繋がった。アップルパイは買うが、店内ではスイーツを食べない男。そして客の好みを把握している翠さんが出したのが、セイボリーのキッシュ。そのふたつから導き出されるのは――
(塩谷さんはきっと、甘いものを食べないんだ)
となると、パイを食べているであろう黒づくめの一味は一体何者なのか? 友人、恋人、家族――ありそうなシチュエーションを思案していると、遠慮がちな呼びかけが耳に届いた。
「あー、もしもしお嬢さん。話しかけてもいいだろうか? あなたは俺を、その……俺の正体をご存じのようだが」
「は、ははは、はひーーーーっ!?!?」
ようやく立ち上がった子鹿ならぬ白石さんは、ビクッと背を伸ばして素っ頓狂な声を上げた。
「いやあの、ボリュームを控えてもらえると」
「申し訳ありません」
荷物を厨房に置いて戻ってきた亜嵐さんが、背後から白石さんの口を手で塞ぐ。白石さんは何が何やらですっかりテンパっているが、亜嵐さんの登場にホッと息を吐いた塩谷さんは会話を継続した。
「一目で俺の正体を見破ったのだから、あなたを俺の作品の読者、もしくは映像作品の視聴者だと推測するのだが。そうであるなら、その……」
「フガグガ?」
口をモゴモゴさせる白石さんと、彼女を取り押さえる亜嵐さん、そして成り行きを見守る俺。一同を見渡してから一旦視線を落とし、意を決したように再び顔を上げた塩谷さんは、ちょいちょいと手を振って俺たちを招き寄せた。
「少々、その、話を聞かせてもらえないだろうか?」
「……っ!?!?」
白石さんはポニーテールを逆立てて、今度こそ白目をむいた。
***
「まずは自己紹介からだな。俺は塩谷潤、作家として活動している」
ローズメリーの最奥。四人掛けのテーブルを陣取って、『塩谷潤先生を囲む会』が始まった。なお最初に行った席割りで、既に一悶着が起きている。
「ひーっ、ムリムリムリっ! 藤宮くん、席変わってよぉ~!!」
いつもの如く亜嵐さんと並んで座ろうとしたら、必死の形相の白石さんに腕を取られた。憧れの作家先生の隣に座るなんて、嬉し恥ずかしどうやってもできないというのだ。
「何を言う、せっかくの機会ではないか」
などと言いそうな亜嵐さんも、彼女らしからぬ混乱ぶりに強くも出られず。結局俺が塩谷さんの隣に座ることになった。そして塩谷さんの正面に亜嵐さん。対角線上に座ることで、白石さんはどうにか意識を保っている。
「西園寺亜嵐です。食文化を研究がてらフードライターをしています」
「俺は藤宮湊、大学で栄養学を専攻しています」
氏名と所属をシンプルに。それぞれが名乗ったところで、三人の視線が白石さんに注がれる。
「あひゅ……し、白石美緒でぶひゅ。かんぎょ学部に通ってましゅ……」
顔を赤らめて視線を泳がせる白石さんに、俺は心の中で首を横に振った。
(残念過ぎるって、白石さん。それじゃ完全に不審者だよ)
とはいえ、これもメガトン級のアクシデントゆえだ、同情くらいしないでもない。しかしあまりの醜態っぷりに情状酌量のキャパをオーバーしたらしく、亜嵐さんはことさら大きく「はぁーあ」と言って顔を顰めた。
「美緒、しっかりしろ。憧れの先生を前にしているのだ、普段よりもっと集中すべき場面だぞ」
「っプぎゃ、ぁたっ! だ、だって……」
慌てて舌を噛んだ白石さんは、口元を両手で押さえて隣の亜嵐さんを見た。その様子に塩谷さんは、とても申し訳なさげな声を出した。
「どうか落ち着いてくれ、ケガなんてさせたくはない。……とはいえ、それだけ反応してもらっているのを俺は喜ぶべきなんだろうな」
「きゃしゅっしゅ!? ごしゅんぴゃいなっきゅ! じぇんじぇんいたきゅありゅまっしぇん!」
ご心配なく全然痛くありません、で正解だろうか? いやいや、脳内翻訳が必須であること自体がよろしくない。どうにかして白石さんを再起動しなければ――そう考えて辺りを見回したとき、コツコツと木の床を踏む足音が近づいてきた。
「紅茶を淹れ直しました。茶葉はダージリンですよ」
銀の盆に大きなポットを乗せた翠さんが、テーブルの隣に立った。華やかで甘味のある芳香にふわりと包まれる。
(そっか、塩谷さんはダージリン派なんだった)
ダージリンは亜嵐さんも好きで、二階の小さなキッチンにも常備されている。紅茶の王様と呼ばれるが、俺のイメージはオーダーメイドのスーツとコートを纏い、ステッキを持った英国紳士だ。
白地に草花紋と金彩をあしらったカップがテーブルに置かれ、白石さんはやっと我に返った。よかった、英国紳士が彼女の背筋を伸ばしてくれたらしい。
「こちらはお茶請けね」
続いて置かれたのは、カップと揃いの柄の皿。盛られているのは、一口サイズのキュウリとハムのサンドウィッチだ。素朴に見えるけれど実は隠し味にクリームチーズが使われていて、「サンドウィッチはこれ」という客も多い人気メニューである。
「あ、あれ? 翠さん、ケーキはないの?」
翠さんのお手製ケーキを愛好する白石さんは、サンドウィッチを見て眉を下げた。これだって十分美味しいけれど、スイーツ女子には物足りないに違いない。
「うふふ。そう言うと思って、美緒ちゃんにはこれもあるわよ」
「アップルパイ! やったぁ、ありがとう翠さん!」
紅茶とスイーツで鮮やかに白石さんを立て直すと、翠さんは「ごゆっくり」と微笑んで厨房へ戻っていった。
やっとのことで落ち着き、全員が紅茶をひと口飲んだところで、塩谷さんは「こほん」とひとつ咳払いをした。
「あー、飲食しながらで結構。俺のわがままでこのような場を設けて頂き感謝に堪えない。そちらのお嬢さん――白石さんは俺のファンとのことだし、そんな相手にこんなことを言っていいのか判断に迷うのだが」
塩谷さんは一旦言葉を区切り、紅茶をもうひと口含んだ。そして再び目に力を入れた。
「実は新シリーズの企画が進んでいるんだが、スランプで思考が混線状態なんだ。編集者に付き合ってもらったり、ファンレターを読み返したりもしたんだが、どうしても出口が見つからない。ついにはこれまで書いてきたものすら疑わしく思えてきて……お願いだ、君が感じている私の著作の魅力について、その熱量で語ってくれないだろうか」
「……っ!?」
塩谷さんは、テーブルにぶつけそうな勢いで頭を下げた。ベストセラー作家といえど、そんなに切羽詰まるものなのか。ただ癒しを求めていたんじゃない、深い瞑想の場所としてローズメリーを選んでいたのか。不愛想な男の真相に、俺は心底同情した。
そんな俺とは対照的に、白石さんの瞳にはメラメラと炎がふき上がった。尊敬する作家本人を前にしてその魅力を語るなんて、ガッツあふれる彼女には手抜きのできない案件だ。
白石さんはアップルパイの皿に一瞥もくれることなく、「あのですね」と口を開いた。
***
「――ってシーンが胸に迫ってきて! それに患者目線に立つのって、当たり前だけど出来ないときもあって。でもだからって現場の忙しさに流されちゃいけないし、医療従事者が忘れちゃいけない根っこだと思うんです。私はまだ学生だし、看護助手のアルバイトだけで理想論しか言えないけれど、塩谷先生の物語はそこが一貫してるんですっ!」
「ふむふむ、看護学部生の目にはそんなふうに映るのか。それで、他には?」
テーブルに両腕をついて熱弁を続ける白石さんと、教会で神父が捧げる祈りを聞くがごとくの塩谷さん。二人の様子を、けれど俺は引き気味に眺めている。なんというか、言い知れない気恥ずかしさに身の置き場がなくて、既に三杯のダージリンを飲み干している。
(うーん、プロの作家さんってこういうものなのかな?)
亜嵐さんもプロのライターだ、自分の記事についてこれくらい熱心に語られたら嬉しいのだろうか? もしそうなら、今後は記事を隅々どころか暗記するまで読み込んで、熱いディスカッションを交わそう。拳を握ってチラリと視線を向けると、斜め前に座る亜嵐さんは邪教の徒を見るような目を二人に向けていた。……そうか、やっぱり塩谷さんの姿勢がレアなのか。
(とはいえ書ける書けないは、作家さんの生命線だもんな。重度のスランプを抜けるためなら、手段なんて選んでられないってことか)
であれば、塩谷さんの本気度も納得できる。
(この邂逅が塩谷さんと白石さん双方のためになればいいな)
なんて他人事のように考えながら、四杯目の紅茶を注いだところで――
ガタッ!
塩谷さんが勢いよく立ち上がった。興奮しているのか、強く握り込まれた両手が空を切る。
「白石さん、君という人は……! フィクションとノンフィクションをごっちゃにしつつ、とはいえ現場からも目を逸らしていないなんて、とても興味深い生態だよ! それはきっと、公平であろうとする君だから持てる感覚なのだろうな。そして……それこそが、俺が求めていた斬新な視点だ! あぁ、一刻も早く編集者と打ち合わせをしなければ! 本当にありがとう、この礼はいつかまた改めて。今日はこれで失礼させていただくよ!」
迷惑料込みということで、テーブルに伝票は置かれていない。当然というより気すら回らないといったふうに、塩谷さんはジャケットを抱えて一目散に戸口へ向かった。カウンターの前にいた翠さんが、待ってましたとばかりに小さな箱を手渡す。「あっ!」という顔でそれを受け取ると。
チリリリン!
いささか乱暴にベルを鳴らして、人気作家・塩谷潤はローズメリーから退場していった。
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