秘密はいつもティーカップの向こう側 ~過ぎし日に蕩ける卵~

天月りん

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第一話 影と光のダイニング

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 久しぶりに帰ってきた自宅。
 けれどそこに、息子の姿はなかった。

 明かりのないリビングは蒸し暑く、それでいてどこか冷たい孤独の影が揺蕩っている。

(こんな時間までどこに……?)

 時計の短針は、十に届こうとしている。

 アルバイトだろうか?単発バイトを入れることがあると聞いている。
 一緒にいてやれない負い目もあり、せめて金銭面での苦労はさせないよう気遣っているつもりだ。
 しかし何事にも『しっかり者』の息子は、小遣いを強請ってくることすらしない。

(あの子に甘えてしまっている自覚は、これでもあるんだがな)

 今や息子の牙城となったキッチンは整理整頓が行き届き、シンクに曇りの一つもない。
 ダイニングテーブルに残されたレシピブックもきちんとまとめられていて、真面目に勉学に励んでいる様子が見て取れる。

(私生活が荒れている……わけではないようだ)

 安堵の息を吐く。
 二十歳を越えた子の素行に口を出すのは憚られるが、それでも乱れた生活を送ってはいないかと心配するのも、親心というものだ。

 ふと、レシピブックをめくっていた手が止まる。
 最後に記されたレシピ――鶏ささみのクリームソテーのページに挟まれていた小さな紙きれが、はらりとテーブルに落ちた。

(これは……しおりか?)

 拾い上げたそれは、名刺大の上等な紙。
 手触りの良い紙片は、けれどなぜか心をざわつかせた。
 
 予感を胸に裏返すと、シンプルな様式で最低限の情報だけが印刷されていた。
 
「……西園寺亜嵐?」

 金で箔押しされた名前を読み上げた藤宮司――湊の父親は、銀縁の眼鏡を指で軽く押し上げた。

 ***

「えっ……藤宮くんのお父さん、マルカホールディングスの部長さんなの?」

 デザートのルバーブ・フールをすくう手を止めた白石さんに、まじまじと見つめられる。
 少しばかり居心地が悪くなり、俺は曖昧な笑みを浮かべた。

 マルカホールディングスは大手の外食チェーンで、いくつもの業態を持つ大企業だ。
 白石さんは、指を折って確認し始めた。

「家族が揃ったときの外食でしょ、どうしてものときのテイクアウトでしょ。それについこの間も、マルカのファミレスで友だちとご飯食べたよ!」
 
 どうやら白石さんは、父の勤め先のヘビーユーザーらしい。
 手頃な値段設定と豊富なメニューは、俺たちのような大学生でも気軽に利用できる。
 店舗も多く、それでいてどの店でも同じ質の料理が出てくる安心感もある。
 
(確かに、便利で使いやすいんだよな……)
 
 そんなことを考えていると、白石さんは目を見開いて、興奮気味に声を上げた。

「すごいね、一流企業じゃん!」
「……そうだね」
「ちょっと、反応薄いなぁ。私たち、来年は就職活動が始まるんだよ?強力なコネがあれば、気持ちに余裕ができるじゃない」

 ――そうきたか。
 俺たちは大学二年生だ。今はまだ、学業に専念すればいい。
 けれど大学生活は四年間しかなくて、三年目に就職活動の準備を始めなければ、希望の職種や企業に進むことは難しい。

 突き付けられた現実に口を開けずにいると、隣に座る亜嵐さんが、ぎろりと音がしそうなほど鋭い視線を白石さんに向けた。

「美緒。縁故がなければ就職できないなど、湊に限ってあるはずがないだろう」
「でもどこにどんな落とし穴があるかわからないのが、人生ってもんじゃないですか!」
「ふん。湊の能力を見極められない職場など、こちらから断ってやるとも」
「まあまあ、二人とも。落ち着いて……」

 いつものごとく言い合いになる師弟を、やんわりと宥める。

「俺は管理栄養士の資格を取って、医療現場に行きたいと思ってるから。父さんのコネは使わないと思うよ」

 肩を竦めて苦笑いを浮かべると、白石さんはきょとんと眼を瞬かせた。
 そして「そっか……そうよね」と頷いて、スプーンをデザートグラスに差し込んだ。

「私たちの場合は、医療系のコネじゃないと意味ないか……」

 一気に熱が冷めた様子でルバーブ・フールを口に運ぶ姿が、いかにも彼女らしい。
 実際の就活現場がどんなものかはまだ知らないが、少なくとも白石さんが行先に困ることはない気がする。

「白石さんはコネなんて要らないよ、優秀だからさ」
「えっ……そう?」

 付き合いはまだ浅いが、彼女の長所はこれでもかというほど見てきた。
 それゆえの言葉だったが、ふへへと笑う白石さんを見て、亜嵐さんは苦々しげに呟いた。

「社交辞令だ、ばか者め――痛っ!」

 頭を押さえた亜嵐さんが振り返ると、後ろには笑みを浮かべた翠さんが立っていた。
 けれど――その目は全く笑っていない。
 銀色の盆がキラリと光った。

「ふふふ。お口が悪いわよ、亜嵐さん。美緒ちゃんは本当に優秀だし、藤宮くんはおべっかなんて言わないでしょう?」
「す、すみません……翠さん……」
「謝る相手が違うでしょう?」

 笑みすら消えた翠さんに冷ややかに睨まれ、亜嵐さんは小さく「ひぃっ!」と悲鳴を上げた。
 それを見た白石さんは、同情的な笑みを浮かべた。

「いいですよ、翠さん。いつものことですし。それ以上叱ったら、師匠が干上がっちゃう」
「美緒ちゃん……立派になったわね。デザートのおかわりはいかが?」
「わーい、いただきます!」

 うれしそうに空のグラスを手渡す彼女をちらりと見遣って、亜嵐さんは拗ねたような口調で言った。

「……ふん。おかわりは結構だが、ルバーブの食べ過ぎには注意するんだな」
「えっ?どういうことですか、亜嵐さん」

 俺は、隣の席の亜嵐さんに向き直った。
 しかし亜嵐さんは視線をこちらに向けることなく、食べかけのデザートグラスを指でなぞった。

「ルバーブは、漢方で使われる大黄を食用に改良した植物だ。整腸や便通改善といった効果があるが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとし――特に初めて食べるときは、量の調整が必要だ」

 飛び出した解説に、白石さんと俺は顔を見合わせた。

「えーっと、それはつまり……おかわりは危険?」
「そうね、個人差はあるけれど。でももう少しくらいなら大丈夫よ。少な目によそってきましょうね」

 そう言って、翠さんはカウンターの奥へと戻っていく。
 その姿を見送った亜嵐さんは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「……まあ翠さんに限って、美緒の腹を痛くさせることはないがな」
「もうっ!師匠の意地悪っ!」
「でもルバーブの効能は本当なんですよね?」

 その問いに、亜嵐さんは「……ふむ」と顎に手を当てた。

「二人とも、薬膳という言葉を知っているか?」
「はいはいっ、聞いたことあります!体に良い食材や料理のことですよね?」

 元気に手を上げる白石さんに、亜嵐さんは満足げに頷いた。

「そうだ。だが、特定の食材――今回のルバーブのように、効能が認められるものを食すというだけではない。薬膳とは全ての食材やそれぞれの味が持つ特性を明らかにし、その組み合わせによって健康を保つという考え方だ。それぞれの体質や体の状況によって食べるべきものを選んでいくが、何にしても一つのものを大量に摂取するのは、バランスを壊すため推奨されることではない」

 デザートグラスに残った最後の一匙をすくうと、亜嵐さんはぱくりと口に入れた。

「……うむ、美味いデザートだ。だが私は、ここまでにしておこう」
「わかりました。あなたには今後一切、おかわりは出しません。――さあ、美緒ちゃん、召し上がれ」

 またしても後ろを取られて焦る亜嵐さんを横目に、翠さんは白石さんの前にデザートグラスを置いた。
 その分量は、一杯目より控え目だ。

「それから藤宮くん、亜嵐さんに焼くホットケーキは、もっと小さくしてくださいな。一つのものでお腹を満たすのは、体に良くないそうだから」
「そ、そんな、翠さん……!」

 顔を青くする亜嵐さんの肩に、俺はそっと手を添えた。

「亜嵐さん、ここは負けを認めましょう」
「湊まで!?いや、だがこれは勝ち負けの問題ではなく……」

 すると二杯目のフールを一匙、にこやかに含んだ白石さんが口を開いた。

「師匠が言ったことは正しいと思います。何でもバランスは大切ですよね。だから私もおかわりはここまでにします。ふふっ、美味しいデザートに免じて、翠さんも藤宮くんも、今日はそのくらいにしてあげてね」
「美緒……」

 にっこり笑う白石さんを、亜嵐さんは天使でも見るかのように眺めた。
 その姿に、翠さんと俺は苦笑した。

「美緒ちゃんがそう言うなら、まあいいでしょう。でも亜嵐さん、本当にホットケーキはほどほどにね?」
「体に良いように、野菜ペーストとか果物を混ぜ込むとか工夫してみようかな?」
「おぉ。素晴らしいアイデアだな、湊!」

 手を合わせて目を潤ませる亜嵐さんを見て、白石さんはぽつりと呟いた。

「なんか師匠……今日はヘタレじゃないですか?」

 一瞬の沈黙――。
 次の瞬間、亜嵐さんを除く三人――もちろん俺も、大いに笑い声を上げた。

「私はヘタレなどではない!」

 白石さんの指摘に亜嵐さんは反論したが、その顔にはどこか楽しげな色が浮かんでいる。
 賑やかな声は、温かな光となってティールームに溶けていった。
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