秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第一章 カレーライスの邂逅

カレーライスの邂逅④

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(あれ?俺、この人の名前……)

 これだけの話を聞いて、こんなにも心が揺さぶられたのに。
 事ここに至って、俺は目の前の青年の名前すら聞いていないことに気が付いた。

(うわぁ……俺、何やってるんだろう……)

 急に気恥ずかしさが込み上がり、喉がひりつく。
 それでも――このまま黙っているなんて、絶対にできない。

「あ、あの……」

 勇気を振り絞って声を出す。
 すると、青年は静かに視線を寄越した。
 今さらだが、不思議な色の瞳と整った顔立ちに、鼓動が跳ね上がる。

「あなたは……一体、何者なんですか?」

 尋ねる声は震えていた。
 青年はわずかに目を瞬かせ、そして穏やかに微笑んだ。

「……そうだな。自己紹介がまだだった」

 椅子の背にかけていたジャケットのポケットから、青年は革の名刺入れを取り出した。
 その仕草には無駄がなく、それでいてエレガントだ。
 差し出されたカードは上質で、金で箔押しされた名前と連絡先だけが記されていた。

 ――西園寺亜嵐――

「……え?さ、西園寺……?」

 どう見ても外国人の顔立ちと、仰々しい和の名前。
 その取り合わせに、知らず首が傾く。
 青年――西園寺氏は、俺の反応を見て苦笑した。

「見ての通りの顔立ちだから、よく驚かれる。こう見えてクォーターなんだ」

 軽く肩を竦める仕草まで、様になっている。

「私は西園寺亜嵐。食文化を探求し、言葉に紡ぐことを仕事としている。肩書きにするなら――フードライター、ということになるかな」

 一篇の詩のように耳に響く声が、胸の奥へじわりと染み渡っていく。

「フードライター……」

 無意識に復唱してしまった俺に、西園寺氏は軽く頷き、柔らかく微笑んだ。
 ただ名乗っただけなのに、どうしてこんなに格好よく見えるんだろう。

「さて。君の名前も教えてくれるかな?」
「あっ……!俺は、藤宮湊。食品栄養学科の二年です」

 慌てて答えると、西園寺氏はその名を一度繰り返し、フッと目を細めた。

「藤宮湊くん……いい響きだ。強さと清らかさを兼ね備えた名だな」
「えっ!?そ、そんな……!」

 名前を褒められるなんて、思ってもみなかった。
 顔が赤くなっていないか心配で、ごしごしと両頬を擦ったところで、ふと思い至った。
 そうだ――最初から気になっていたことを、俺はまだ聞いていない。

「あの……ところで西園寺さん。さっき、すごく悩んでいるように見えましたけど……何を考え込んでいたんですか?」

 すると西園寺氏は少し表情を引き締め、カレーの皿を指先で示した。

「この学食カレーだよ。評判を聞いて味わいに来たんだが……実際、見事な味だ。しかしそれこそが、私にも解けない謎なんだ」
「な、謎……ですか?」

 一つ頷くと、西園寺氏はスプーンでルーをすくってみせた。

「見ての通り、これは単なる小麦粉のとろみではない。ぷるりとしたルーは舌に重く絡まることはなく、後味は驚くほど軽やかだ。にもかかわらず、コクはしっかり残っている。――きっと隠し味があるはずだ。しかしそれが何なのか、特定できずにいるのさ」

 隠し味――その言葉にピンと来る。
 俺はテーブルに手を突き、身を乗り出した。

「あのっ、それなら俺、多分知ってます!食堂のおばちゃんに、こっそり教えてもらったんです!」
「なんだって!?」

 西園寺氏の瞳が、驚きと期待に大きく見開かれる。
 勢いに呑まれながらも、俺は声を張った。

「バナナとトマトのピューレが入ってるんです!それも、バナナ多めで!」
「バナナ……トマト……!」
 
 西園寺氏は眉根を寄せ、次の瞬間、パッと顔を輝かせた。

「なるほど!バナナの柔らかな甘みと、トマトの爽やかな酸味……それなら、この軽やかさも説明がつく!」
「そうなんです!俺もビックリして……蕩けたバナナとトマトの酸味が、ルーをさっぱりさせるんですよね!」

 何年悩んだ難問を突破した学者のような熱量で、西園寺氏は拳を大きく振り上げた。
 目の前の男と意気投合できて、俺は天にも昇る気持ちになった。

「素晴らしい!見事だ、藤宮くん。君のおかげで謎が解けたよ!」
「いや、そんな……!大したことじゃないです」

 慌てて否定したが、内心は誇らしくて仕方ない。
 西園寺氏ほどの人の役に、少しでも立てたのだから。
 そして彼の口から出た「見事」という言葉が、俺の胸にぐっと響いた。

 次の瞬間、俺の目の前に颯爽と右手が差し出された。西園寺氏が、俺に握手を求めてきたのだ。
 俺は慌てて手のひらを拭い、その手を握り返した。
 
 途端――世界がぐらりと揺れた。
 
 温かく、けれど凛とした力を宿す大きな手のひら。
 手を取った――ただそれだけで、西園寺氏の内に広がる知識の海に沈んでいく――まるで夢を見ているようだ。

 本当はもっとこうしていたい。
 強く思うも、離れていく気配に名残惜しさを感じながら、俺は手を解いた。
 それから、指先に残る熱を逃がすまいと、拳をギュッと握り込んだ。

「これで全てがクリアになった。――さあ、あとはゆっくり食事を楽しもうじゃないか!」

 西園寺氏は嬉々としてスプーンを掲げ、カレーを口に運んだ。
 その所作は、ただの学食カレーを、晩餐会のひと皿に変えてしまうほど優雅だ。

 気を取り直し、俺もスプーンを取り、一口食べる――うん、やっぱり美味い。
 いや、この美味さは、彼と一緒だからこそに違いない。
 弾む鼓動を感じて、俺は夢見心地になった。 
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