秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第一章 カレーライスの邂逅

カレーライスの邂逅⑥

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 そろそろカレーの皿が空になる、というとき。
 西園寺氏の視線が、ふと俺のトレーに落ちた。

 俺もつられて視線を落とす。
 カレー皿の脇に寄せられた、ガラス製の小皿――氷で冷やされたパイナップル。
 つややかな果肉は氷片のきらめきを反射して、まるで宝石のように輝いている。

「藤宮くん、それは……?」

 その問いに、俺は「あ」と声を漏らした。
 てっきり見て見ぬ振りだと思っていたのだ。

「これは……冷やしパインです」

 小皿を持ち上げて、西園寺氏の目線に合わせる。
 冷気で曇った皿から、甘い香りがふわりと立ち上った。

「冷やしパイン……?だが券売機には……」

 スプーンを持つ美しい手が、わずかに震える。

「はい、券売機のメニューには載ってないですね」
「……ほう?」

 西園寺氏は興味深げに、じっとパイナップルを見つめた。

「食券を渡すときに『パインお願いします』って言うと、こっそりセットにしてもらえるんです。学食のちょっとした秘密で、いわば裏メニューですね」
「裏メニュー……!」

 言葉を転がすように口にした西園寺氏の瞳が、無邪気に輝いた。
 知性と気品が溢れる紳士然とした雰囲気が、この瞬間だけは、内緒の抜け道を知った少年のように楽しげに見えた。
 そのギャップが人間らしくて、とても微笑ましい。

「カレーのあとに食べると、すごくさっぱりするんです。学生の間じゃ、結構人気なんですよ」
「なるほど。スパイスと油の余韻を、冷たい果実の酸味で洗い流すわけか――理にかなっている。実に巧妙だ」

 感心しきりの様子に、俺は心を決めた。

 俺は今日この人から、今まで知らなかった物語をいくつも聞かせてもらった。広い世界の一端を見せてもらった。
 この体験はきっと、俺にとってかけがえのない『宝物』になるはずだ。
 ならばその礼として、せめてこれくらいは渡したい。

「じゃあこれ……どうぞ!」

 皿ごとぐいっと差し出すと、西園寺氏の眉は驚きに跳ね上がった。
 けれどそれも一瞬のことで、美しい顔には困ったような色が滲んだ。

「いや……それはいけない。食べ盛りの学生からデザートを奪うわけにはいかないからな」
「いえ、本当に大丈夫です!俺からのお礼ですから!」
「お礼?」
「いっぱい話を聞かせてもらったお礼です!」

 半ば押し付けるように小皿を押し出すと、西園寺氏は観念したように肩を竦めた。
 そして愉快そうに微笑んだ。

「君は実に真っ直ぐだな。……ふむ。これ以上断るのは、かえって失礼というものだ。ありがたくいただこう」

 優雅な手つきでフォークにパイナップルを刺し、口に運ぶ。
 シャクッ――果肉が砕ける音が響いた瞬間、西園寺氏の表情はぱぁっと明るくなった。

「……っ!爽やかだ。酸味と甘味が見事に調和し、カレーの余韻をさらに引き立てている」
「でしょう?これがあると、学食のカレーをもっと好きになるんですよ」

 自分の手柄のように胸を張ると、西園寺氏も楽しげに笑った。
 その笑顔に、俺の心もほわりと温かくなる。
 少し前まで雲の上の人だった西園寺氏が、同じテーブルで笑い合う『仲間』のように感じられたからだ。
 それが妙に嬉しくて、こちらを窺っていた周囲の視線も、もう全く気にならなかった。

 ***

 冷やしパインを食べ終えた西園寺氏は、紙ナプキンで口元を拭い、改まった調子でこちらを見つめた。

「藤宮くん」
「はい?」
「今日の放課後は……空いているだろうか?」

 真剣な表情と口調。俺はとっさに記憶を辿った。

(今日はバイトのシフトも入ってないよな)

「……はい。特に予定はないです」

 そう答えると、西園寺氏はうれしそうに顔をほころばせた。

「ならば冷やしパインのお礼に、君をクリームティーに招待したい」
「く、クリーム……ティー?」

 初めて耳にする単語に、俺は間の抜けた声を出してしまった。
 ティーというからには紅茶のことだろう。でもその前にクリームが付くとなると……。

「えっと……生クリームを浮かべた紅茶、とかですか?」

 疑問符だらけの俺の予想に、西園寺氏はくすりと笑って首を横に振った。

「そうではない。だが、詳しくはまだ秘密にしておこう。実際に目にしたときの驚きのほうが、ずっと価値があるからね。――おっと、スマートフォンで検索するのもなしだ」

 さらりと逃げ道を塞がれ、余計に気になってしまう。
 ホイップクリームがたっぷり乗ったカップや、泡立て器を持つ西園寺氏の姿が、頭の中を行ったり来たりする。

 ちらりと前を見ると、西園寺氏は挑むような微笑みを浮かべていた。
 その表情に、胸がチリッと高鳴る。

「で、でも……パインはお礼に差し上げたものですし……」

 ――違う。断りたいんじゃない。でも口から言葉が勝手に出てしまう。

(お願いだから、引かないで――!)

 その願いが届いたのか、西園寺氏はさらに言い募った。

「ならば、カレーの秘密を教えてくれた礼として受け取ってほしい。――どうだろう?」

 有無を言わせぬ微笑みに、今度こそ心臓が跳ねる。
 これ以上の反論は無意味だ――俺は魅惑的な誘いを受けることに決めた。

「ぜひ!お願いします!」
「よし、決まりだ」

 西園寺氏は満足げに頷くと、声を落として囁いた。

「放課後、大学の正門前で待ち合わせをしよう。そこからは私が案内する」
「案内……ですか?」
「ああ。いっぷう変わった、特別な店でね。知る人ぞ知る場所だ。君を連れていくには、相応しいと思う」

 特別。知る人ぞ知る。
 西園寺氏ほどの人がそう言うのだ。それだけで期待に胸が膨らむ。

「ただし」

 西園寺氏は人差し指を立てて、真剣な声を響かせた。

「申し訳ないが、このあとの間食は禁止とさせてもらう。たとえパンひと切れといえど、許されない。空腹は最高の調味料だからね」
「は、はいっ!」

 地に足がつかないような浮遊感。そしてまたしても、心の奥に火が灯る。
 今からもう、放課後が待ち遠しくて仕方ない。
 未知の世界に連れ出される予感に、俺は自然と拳を握り締めたのだった。


 
 第一章 カレーライスの邂逅 / 完


 ◆・◆・◆

 秘密はいつもティーカップの向こう側
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