秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第二章 紅茶館ローズメリー

紅茶館ローズメリー⑥

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 プレーンのスコーンを半分食べ終わったところで、俺は西園寺氏に恐る恐る尋ねた。

「あの、西園寺さん……プレーンを残して先に紅茶味を食べるのは、マナー違反……ですか?」

 きょとんとした西園寺氏は、ふっと笑って軽く首を振った。

「構わないさ、翠さんの遊び心だからね。紅茶味のスコーンも熱いうちに味わってみたいと思うのは、ごく当然なことだ」
「……っ!良かった!」

 割れ目に沿って、紅茶のスコーンを半分に分ける。
 すると小麦の香ばしさの中に、紅茶の優雅な香りがふんわりと広がった。

(……うわぁ、贅沢な匂いだ!)

 もっと近くで嗅ごうと顔を近づけたとき。
 スコーンの生地に、小さな黒い粒が混じっていることに気が付いた。

「……これ、もしかして茶葉かな?」
「さすがだな。茶葉を細かく砕いて入れているはずだ。紅茶の種類は、翠さんのその日の気分によって変わるけれどね」
「へぇ……レシピを見せてもらえたら、俺にも作れるのかな」

 普段から料理雑誌やレシピ動画を眺めているせいか、そんな考えが自然と浮かんでしまう。

 それを聞いた西園寺氏は、一瞬だけ驚いたような表情を見せた。
 しかし出かかった言葉を飲み込むように、すっと口を閉じる。
 そして視線を泳がせると、再び口を開いた。 

「家庭で再現するなら、ティーバッグで代用できるはずだ」
「……?はぁ」

 西園寺氏が何を言いかけたのか気になったけれど、それより今は目の前のスコーンだ。

 鼻を近づけてくんくんと香りを吸い込み、プレーン同様にクロテッドクリームとジャムをこんもりと乗せる。
 それを一かじり――。

「……これも美味い……」

 うっとりと吐息が漏れた。

 ジャムの酸味とクリームのまろやかさに、茶葉の芳醇な香りが重なり合う。
 紅茶の渋さが味となって立ち上がり、噛むごとにふわりと鼻へ抜けていく。
 余韻は驚くほど長く続き、舌の上に新しい景色を描き出した。

 鼻から抜ける香りすら惜しくて、俺はむぐむぐと口を動かした。

「さきほど翠さんが言ったとおり、トラディショナルなクリームティはプレーンなスコーンが定番だ。パンが起源だからね……ああ、いい。食べながら聞いてくれ」

 語りの始まりを察して、口の中のものを急いで飲み込もうとした俺を、西園寺氏は軽く手で制した。
 食べることを優先させるその姿勢に、この人の食への真摯さを、改めて思い知らされる。

 言葉に甘えて、俺は紅茶のスコーンをもう一かじりした。

「九九七年のことだ。イギリス南西部にあるデヴォンという町に、バイキングが現われた。――バイキングは知っているかな?」

 スコーンが口の中に入っているので、こくこくと頷くことで肯定する。

「よろしい。――さて。バイキングたちは町の修道院を襲い、破壊してしまった。彼らが去った後、修道院を建て直すことになったが、作業には人手が要る。そこで地元の労働者たちが協力を申し出て、修道院は無事に再建された。修道士たちは彼らに感謝し、パンを振る舞った。そのパンには、デヴォンで生産が盛んだったクロテッドクリームと、たっぷりのイチゴジャムが添えられていた。――これがクリームティー発祥の物語だと言われている」

 流麗な説明は、やっぱりわかりやすい。
 そして翠さんの『楽しんで美味しくいただく』という言葉が、脳裏に鮮やかに立ち上がった。

 バイキングの襲撃で修道院が破壊されたとき、居場所を失った修道士たちは深く嘆いたに違いない。
 神に誓いを立て、規律を守り、貞淑に暮らしていたというのに――。

 そんな彼らに、周囲の人たちは手を貸した。
 感謝の印として振る舞われたパンは、そこに集った全ての人を笑顔にしただろう。

 誰かと笑い合いながら囲む食卓の素晴らしさを、俺は間違いなく知っている。
 それがあるから、俺は栄養士を志したのだ。

 そして今。
 俺の目の前にあるのは、プレーンと紅茶の二種類のスコーンで、添えられたジャムはラズベリーだ。
 
 伝統から始まったものが、どうやって今の形に広がってきのか――。
 知りたい気持ちがむくむくと湧き上がる。

 口の中のスコーンをミルクティーで流し込み、俺はもうひとつの言葉の意味を西園寺氏に尋ねた。

「あの、西園寺さん。さっき翠さんがクリームティーのことを『今ではアフタヌーンティーの一種』って言ってましたけど……アフタヌーンティーとクリームティーって、どう違うんですか?」

 すると、西園寺氏はジャムをすくう手を止め、「……ふむ」と言って首を傾げた。

「藤宮くん、君はアフタヌーンティーについて、どこまで知っているかな?」
「えっと……豪華なお茶の時間、っていうくらいしか……」
「その認識でおおむね正しい。ただ――」

 優雅な所作でスコーンを咀嚼する。
 そして幸せそのものの顔でティーカップをくいっとあおってから、西園寺氏は続きを話し始めた。

「クリームティーとアフタヌーンティーでは、成立した時代も関わった人々の階級も異なる」
「……時代、と階級……?」
「まずは時代。クリームティーの起源はさきほど説明した通り、十一世紀と伝わっている。片やアフタヌーンティーはそれよりもっと後――十九世紀、今から二百年ほど前の話だ」
「そんなに離れてるんですか!?」

 仲間のように語られているのに、全く違うじゃないか!
 俺は手元の紅茶入りスコーンを、まじまじと見つめた。

「クリームティーは、修道士と労働者たちが分かち合った、素朴なパンから始まった。つまり、庶民に寄り添った習慣だったわけだ」

 俺は紅茶スコーンをもう一口かじりながら、ふむふむと首を縦に振る。

「一方で、アフタヌーンティーを広めたのは、第七代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセルの妻、アンナ・マリア・ラッセル。どうにも耐えがたい空腹を満たすために、彼女は一計を案じたのだ」
「貴族が……空腹?庶民じゃなくて?」

 豪華な食事を楽しんでいるはずの貴族が空腹とは、一体どういう事だろう。

「当時のイギリスでは、基本的に食事は一日二回だった。昼にしっかりと食べ、暗くなってまた晩餐をとる。だが、十九世紀に入ると事情が変わった」
「事情……?」
「ランプ――照明の開発が進んだことで、夜の社交がどんどん華やかになったのだ。舞踏会や音楽会が夜遅くに始まるようになり、それに合わせて夕食もずれ込んでいった。午後八時、九時といった具合にね」
「そんなに遅く!?」

 昼食から夜の晩餐まで、ほとんど何も食べずに過ごすなんて――。
 もし俺が当時の貴族でも、耐えられないし、耐えたくない。

「そこで公爵夫人は考えた。午後四時ごろ、空いた小腹を満たすための軽い食事を、紅茶とともに用意させたのだ。理に適ったやり方を発見した彼女は、サンドウィッチや菓子を添え、女友達を招いて一緒に軽食を楽しむようになった。それがアフタヌーンティーの始まりだ」
「へぇ……なるほど」

 ティータイムを設けた公爵夫人の気持ちが、痛いほどわかる。

 俺はカップを手に取り、ミルクティーを一口啜った。
 口いっぱいに残るクリームと甘酸っぱいジャムの余韻が、温かい紅茶と溶け合っていく。……ああ、幸せだ。

「その後王室にもその習慣は伝わり、やがて上流階級全体の嗜みとなった。そして時を経て、一般の人々にも広まっていった。現代においてアフタヌーンティーは、もはやイギリスを代表する文化と言っても良い」
「じゃあ、クリームティーとは全然違う…?」
「成立の時代も、始めた人々の階級も異なる。だが――」

 そこで一度言葉を切り、西園寺氏はそっと紅茶を口に含んだ。

「どちらも紅茶を真ん中に人が集い、笑い合う時間を生んだという点で同じなのだよ」

 その言葉が、じんわりと心に沁みていく。

 修道士と労働者が一緒にパンを分け合ったクリームティー。
 貴婦人が友を招いて始めたアフタヌーンティー。
 出自はまるで違うのに、行きつく先は「誰かと共に楽しむ時間」なのだ。

(……そうか。食べ物って、ただお腹を満たすだけじゃない。人を繋ぐものなんだ)

 気づけば、口が勝手に動いていた。

「俺も……目の前にいる西園寺さんと、そんな幸せな時間を作りたいです」

 言ってから、自分でもぎょっとした。

(な、なに言ってんだ、俺――!)

 顔が一気に熱を帯びる。
 慌ててカップを持ち直すが、水面が波立って、動揺しているのが丸わかりだ。

(西園寺さん……気を悪くしてないといいけど……)

 ちらりと見ると、西園寺氏は――ほんの一瞬、言葉を失ったように沈黙した。
 けれどすぐに穏やかな微笑みを浮かべて、カップをソーサに戻した。

「……そう言ってもらえるのは、光栄だな」

 その声はさきほどより低く、温もりと優しさを帯びていた。
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