秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

文字の大きさ
18 / 26
第三章 追憶の英国式スコーン

追憶の英国式スコーン②

しおりを挟む
 タラップから降り立った瞬間、靴底に湿ったアスファルトの感触が伝わってきた。
 見上げた空は、どんよりと雲が垂れ込めている。
 冷たい風に混じって、オイルと雨の匂いが鼻を掠めた。

 遠くで聞こえる案内放送は、全て英語だ。
 リズムも抑揚も、日本で耳にした授業のそれとはまるで違う。
 聞き取れない言葉の連なりに、私の胸は高鳴った。

 ――ああ、夢にまで見た地に、私は立っている!

 そう思った途端、飛行機の中で鬱々と考えていた家族の問題が、急にちっぽけなものに思えてきた。
 たとえ離れていても、私は働いて家族の生活を支えているではないか。
 一緒に来なかったのは彼女たちの意志であり、それを私は尊重したのだ。
 それだけで、気分は一気に軽くなった。
 私は意気揚々と入国手続きを済ませ、タクシーで支社のオフィスが入っているビルへ向かった。

 ***

 タクシーを降りて案内されたのは、街の中心部にある古い石造りのビルの一角だった。
 広くはないオフィスは、けれど整理整頓が行き届き、機能的にまとめられていた。
 磨き込まれた木の床と、壁際に並ぶ書類棚。華やかさはないが、きちんと仕事のための場所として整っている。

 そこで私を迎えたのは、現地採用のイギリス人社員たちだった。
 五人いて、そのうち二人は女性だった。

 驚いたのは、彼女たちが若い秘書や独身女性ではなく、家庭を持つ既婚者だったことだ。
 定時を過ぎれば当然のように帰宅し、子どもや夫の世話をする。
 日本で『家庭を持つ女性が働き続ける』姿はまだ珍しかっただけに、私には彼女たちの姿が新鮮に映った。

 またオフィスには日本人の駐在員が二人いたが、彼らは出張や取引先への外出が多く、席にいることは少なかった。

 国も文化も違えば、働き方も違う。
 そんな当たり前の事実に、私は初めて真正面から向き合うことになった。

 単身赴任となった私のために会社が用意してくれたのは、支社からほど近い住宅街にある下宿屋だった。
 レンガ造りの三階建てで、玄関を入ると細い廊下の先に階段があり、それを上がった二階に私の部屋があった。

 朝と夜には食堂に明かりが灯り、食事が用意される。
 朝は決まって、カリカリに焼けた薄いトーストにバターとジャム、そして紅茶。
 夜には、肉と野菜の煮込み料理やシチューが、深い皿に盛られて出てくる。
 日本で妻が作るものと比べれば質素で味気ないものだったが、慣れぬ土地で働く私にとっては、十分にありがたいものだった。

 同じ屋根の下には、他にも数人の下宿人がいた。
 皆それぞれ仕事を持ち、夕食の席で言葉を交わすこともあったが、私はいつも遠巻きにその輪を眺めていた。
 彼らの笑い声を耳にして、ふと日本に残してきた家族のことを思い出すこともあった。
 けれど胸に広がるのは後悔や寂しさではなく、「これでいいのだ」と自分に言い聞かせるような、不思議な静けさだった。

 ***

 周囲の環境に少しずつ慣れてきた頃。
 得意先からの帰り道で昼飯用のサンドウィッチを買い、オフィスで紅茶を淹れていると、女性社員から雑談に誘われた。

「休みの日は何をしているの?」

 どんな答えを期待されているのかわからず、読書や勉強をしていると話すと、彼女たちはあからさまにがっかりとした表情を浮かべた。

「せっかくイギリスまで来たのに!」

 見るべきものはたくさんあるだろう。
 けれど、どこに行けばいいのかわからない。

 そう言うと、彼女たちは顔を見合わせて小さく笑い、肩を竦めた。

「それならまずは、近くのティーハウスに行ってみたら?」

 ――ティーハウス。
 私はとっさに、日本で見たガイドブックに掲載されていた、豪華な三段スタンドを思い浮かべた。
 磨き上げられた銀器と、色とりどりの菓子。マナーも小難しく、ドレスコードもある特別な場所だ。

 場違いにも過ぎる。行ったところで、笑いものにされるに違いない。
 しょぼくれる自分の姿を想像して、思わず眉を顰めた。

 だが、そんな私の顔を見て、彼女たちは吹き出した。

「そんな大げさなものじゃないの。あなたが言っているのはアフタヌーンティーよ。庶民は滅多に行かないわ」
「クリームティーよ。スコーンと紅茶だけのちょっとした軽食だから、肩ひじを張る必要はないわ」

 そう言って気軽に勧めてくれる彼女たちの笑顔に、私はほっとした。
 異国からやってきた自分にも、手が届く『文化の入り口』があるのだと知れたからだ。

 ***

 次の週末。
 気楽にと言われはしたが、普段着で行く勇気は持てず、小綺麗なカラーシャツとスラックスを身に着けて、私はティーハウスを目指した。

 町外れのそこは、石造りの壁に小さな木の看板がかかっているだけの、素朴な店だった。
 重たい扉を押し開けると、カウンターの奥に立っていたのは、年季の入ったエプロンを身に着けた女主人だった。

「一人かい?」

 低くぶっきらぼうな声に、ぎくりと居ずまいを正す。
 店選びを間違えたのではないかと不安になったが、今さら引き返すこともできず、案内された小さな席に腰を下ろした。

 しばらくして運ばれてきた皿を見て、私は息を呑んだ。

 皿の上に乗っていたのは、拳ほどもある丸い焼き菓子。
 香ばしい焼き色に、大きな横割れが走っている。

 途端、私の脳裏に懐かしい光景が蘇った。
 期待に胸を膨らませて蓋を開けると、むわっと立ち昇る蒸気の底に鎮座していた、母の得意料理。
 ふわりと甘い香り、武骨な見た目――目の前の菓子は、あの蒸しパンとそっくりだった。

 とっさに動けずにいる私をちらりと見遣った女主人が、小さなため息を吐いた。

「スコーンだよ。半分に割って、クリームとジャムをたっぷりつけて食べるんだ」

 素っ気ない言葉は、けれど不思議と温かみがあった。
 サンキューと礼を言うと、女主人はふん!と鼻を鳴らして、店の奥に消えていった。

 私はぎこちない手つきで熱々のスコーンを割り、添えられていたクリームと真っ赤なジャムを塗って、口に運んだ。

 ――これは……。
 
 ほろりとくずれる生地の食感。
 濃厚でいて、くどさを感じさせないクリーム。
 そして日本のものとは全く違うイチゴジャム。その強い酸味と濃い風味が、口いっぱいに広がった。

 美味い。

 幼い日に夢中になっておやつを食べた喜びが、胸の奥に蘇った。
 懐かしさに、目の奥がつんと熱を帯びた。
 両親との温かな思い出に包まれながら、次のひと口に焦がれるように、私はスコーンにかぶりついた。

 その次の週末、私の足は別のティールームへと向かっていた。
 初めて体験したスコーンの素晴らしさを興奮気味に語った私に、女性社員たちがうれしそうに教えてくれたのだ。

「お店ごとにスコーンやジャムの味が違うから、食べ比べるのも楽しいわよ」

 その言葉に背中を押されて訪れた店のスコーンは、ややパサつきがあったものの、噛みしめるほどに小麦の力強い香りが広がり、素朴な美味しさを感じさせてくれた。

 翌週に訪ねた別の店では、しっとりとした食感に驚かされた。
 果実味溢れるジャムは香り高く、口いっぱいに広がる豊かな風味に感動した。ただ大きさが控えめだったため、少々物足りないのが残念だった。
 
 ――では、隣町にあるティールームはどうだろう?
 
 気付けば私は、地図を片手に次の一軒を探すようになっていた。
 家族のいない異国での週末だ、自分の好きに過ごしていいはず――。
 ティールーム巡りにのめり込んでいく自分を止めようと思わなかったし、止めるつもりなど微塵もなかった。
 
 やがて下宿の食堂でも、どこにどんな店があるのかと、私は下宿人に尋ねるようになった。
 彼らは面白がって、自分の知る限りの情報を、惜しみなく教えてくれた。

「今度はこっちの店へ行ってみるといい。スコーンが大きくて、腹一杯になるぞ」

 そう言って笑い合う輪の中に、自然と私も加わっていた。
 初めは味気ないと思っていた下宿の食事も、誰かと肩を並べて食べれば、不思議と美味く感じられた。
 湯気の向こうに漂う笑い声を聞きながら、私は幼い日に家族と囲んだ食卓を思い出していたのかもしれない。

 仕事もプライベートも充実していた。満たされていた。
 そんな生活の中で、日本に残した家族に連絡を入れることは、ほとんどなくなっていった。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

秘密はいつもティーカップの向こう側 ―SNACK SNAP―

天月りん
キャラ文芸
食べることは、生きること。 ティーハウス<ローズメリー>に集う面々に起きる、ほんの些細な出来事。 楽しかったり、ちょっぴり悲しかったり。 悔しかったり、ちょっぴり喜んだり。 彼らの日常をそっと覗き込んで、写し撮った一枚のスナップ――。 『秘密はいつもティーカップの向こう側』SNACK SNAPシリーズ。 気まぐれ更新。 ティーカップの紅茶に、ちょっとミルクを入れるようなSHORT STORYです☕ ◆・◆・◆・◆ 秘密はいつもティーカップの向こう側(本編) ティーカップ越しの湊と亜嵐の物語はこちら。 秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編  ・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」シリーズ本編番外編  ・番外編シリーズ「BONUS TRACK」シリーズSS番外編  ・番外SSシリーズ「SNACK SNAP」シリーズのおやつ小話 よろしければ覗いてみてください♪

秘密はいつもティーカップの向こう側 ―BONUS TRACK―

天月りん
キャラ文芸
食べることは、生きること。 ティーハウス<ローズメリー>に集う面々の日常を、こっそり覗いてみませんか? 笑って、悩んで、ときにはすれ違いながら――それでも前を向く。 誰かの心がふと動く瞬間を描く短編集。 本編では語られない「その後」や「すき間」の物語をお届けする 『秘密はいつもティーカップの向こう側』BONUST RACKシリーズ。 気まぐれ更新。 あなたのタイミングで、そっと覗きにきてください☕ ◆・◆・◆・◆ 秘密はいつもティーカップの向こう側(本編) ティーカップ越しの湊と亜嵐の物語はこちら。 秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編  ・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」シリーズ本編番外編  ・番外編シリーズ「BONUS TRACK」シリーズSS番外編  ・番外SSシリーズ「SNACK SNAP」シリーズのおやつ小話 よろしければ覗いてみてください♪

秘密はいつもティーカップの向こう側 ―TEACUP TALES―

天月りん
キャラ文芸
食べることは、生きること。 湊と亜嵐の目線を通して繰り広げられる、食と人を繋ぐ心の物語。 ティーカップの湯気の向こうに揺蕩う、誰かを想う心の機微。 ふわりと舞い上がる彼らの物語を、別角度からお届けします。 本編に近いサイドストーリーをお届けする 『秘密はいつもティーカップの向こう側』SHORT STORYシリーズ。 気まぐれ更新でお届けする、登場人物の本音の物語です あなたのタイミングで、そっと覗きにきてください☕ ◆・◆・◆・◆ 秘密はいつもティーカップの向こう側(本編) ティーカップ越しの湊と亜嵐の物語はこちら。 秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編  ・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」シリーズ本編番外編  ・番外編シリーズ「BONUS TRACK」シリーズSS番外編  ・番外SSシリーズ「SNACK SNAP」シリーズのおやつ小話 よろしければ覗いてみてください♪

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

~後宮のやり直し巫女~私が本当の巫女ですが、謂れのない罪で処刑されたので後宮で人生をやり直すことにしました

深水えいな
キャラ文芸
明琳は国を統べる最高位の巫女、炎巫の候補となりながらも謂れのない罪で処刑されてしまう。死の淵で「お前が本物の炎巫だ。このままだと国が乱れる」と謎の美青年・天翼に言われ人生をやり直すことに。しかし巫女として四度人生をやり直すもののうまくいかず、次の人生では女官として後宮入りすることに。そこで待っていたのは後宮で巻き起こる怪事件と女性と見まごうばかりの美貌の宦官、誠羽で――今度の人生は、いつもと違う!?

耽溺愛ークールな准教授に拾われましたー

汐埼ゆたか
キャラ文芸
准教授の藤波怜(ふじなみ れい)が一人静かに暮らす一軒家。 そこに迷い猫のように住み着いた女の子。 名前はミネ。 どこから来たのか分からない彼女は、“女性”と呼ぶにはあどけなく、“少女”と呼ぶには美しい ゆるりと始まった二人暮らし。 クールなのに優しい怜と天然で素直なミネ。 そんな二人の間に、目には見えない特別な何かが、静かに、穏やかに降り積もっていくのだった。 ***** ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。 ※他サイト掲載

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

処理中です...