秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第三章 追憶の英国式スコーン

追憶の英国式スコーン②

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 タラップから降り立った瞬間、靴底に湿ったアスファルトの感触が伝わってきた。
 見上げた空は、どんよりと雲が垂れ込めている。
 冷たい風に混じって、オイルと雨の匂いが鼻を掠めた。

 遠くで聞こえる案内放送は、全て英語だ。
 リズムも抑揚も、日本で耳にした授業のそれとはまるで違う。
 聞き取れない言葉の連なりに、私の胸は高鳴った。

 ――ああ、夢にまで見た地に、私は立っている!

 そう思った途端、飛行機の中で鬱々と考えていた家族の問題が、急にちっぽけなものに思えてきた。
 たとえ離れていても、私は働いて家族の生活を支えているではないか。
 一緒に来なかったのは彼女たちの意志であり、それを私は尊重したのだ。
 それだけで、気分は一気に軽くなった。
 私は意気揚々と入国手続きを済ませ、タクシーで支社のオフィスが入っているビルへ向かった。

 ***

 タクシーを降りて案内されたのは、街の中心部にある古い石造りのビルの一角だった。
 広くはないオフィスは、けれど整理整頓が行き届き、機能的にまとめられていた。
 磨き込まれた木の床と、壁際に並ぶ書類棚。華やかさはないが、きちんと仕事のための場所として整っている。

 そこで私を迎えたのは、現地採用のイギリス人社員たちだった。
 五人いて、そのうち二人は女性だった。

 驚いたのは、彼女たちが若い秘書や独身女性ではなく、家庭を持つ既婚者だったことだ。
 定時を過ぎれば当然のように帰宅し、子どもや夫の世話をする。
 日本で『家庭を持つ女性が働き続ける』姿はまだ珍しかっただけに、私には彼女たちの姿が新鮮に映った。

 またオフィスには日本人の駐在員が二人いたが、彼らは出張や取引先への外出が多く、席にいることは少なかった。

 国も文化も違えば、働き方も違う。
 そんな当たり前の事実に、私は初めて真正面から向き合うことになった。

 単身赴任となった私のために会社が用意してくれたのは、支社からほど近い住宅街にある下宿屋だった。
 レンガ造りの三階建てで、玄関を入ると細い廊下の先に階段があり、それを上がった二階に私の部屋があった。

 朝と夜には食堂に明かりが灯り、食事が用意される。
 朝は決まって、カリカリに焼けた薄いトーストにバターとジャム、そして紅茶。
 夜には、肉と野菜の煮込み料理やシチューが、深い皿に盛られて出てくる。
 日本で妻が作るものと比べれば質素で味気ないものだったが、慣れぬ土地で働く私にとっては、十分にありがたいものだった。

 同じ屋根の下には、他にも数人の下宿人がいた。
 皆それぞれ仕事を持ち、夕食の席で言葉を交わすこともあったが、私はいつも遠巻きにその輪を眺めていた。
 彼らの笑い声を耳にして、ふと日本に残してきた家族のことを思い出すこともあった。
 けれど胸に広がるのは後悔や寂しさではなく、「これでいいのだ」と自分に言い聞かせるような、不思議な静けさだった。

 ***

 周囲の環境に少しずつ慣れてきた頃。
 得意先からの帰り道で昼飯用のサンドウィッチを買い、オフィスで紅茶を淹れていると、女性社員から雑談に誘われた。

「休みの日は何をしているの?」

 どんな答えを期待されているのかわからず、読書や勉強をしていると話すと、彼女たちはあからさまにがっかりとした表情を浮かべた。

「せっかくイギリスまで来たのに!」

 見るべきものはたくさんあるだろう。
 けれど、どこに行けばいいのかわからない。

 そう言うと、彼女たちは顔を見合わせて小さく笑い、肩を竦めた。

「それならまずは、近くのティーハウスに行ってみたら?」

 ――ティーハウス。
 私はとっさに、日本で見たガイドブックに掲載されていた、豪華な三段スタンドを思い浮かべた。
 磨き上げられた銀器と、色とりどりの菓子。マナーも小難しく、ドレスコードもある特別な場所だ。

 場違いにも過ぎる。行ったところで、笑いものにされるに違いない。
 しょぼくれる自分の姿を想像して、思わず眉を顰めた。

 だが、そんな私の顔を見て、彼女たちは吹き出した。

「そんな大げさなものじゃないの。あなたが言っているのはアフタヌーンティーよ。庶民は滅多に行かないわ」
「クリームティーよ。スコーンと紅茶だけのちょっとした軽食だから、肩ひじを張る必要はないわ」

 そう言って気軽に勧めてくれる彼女たちの笑顔に、私はほっとした。
 異国からやってきた自分にも、手が届く『文化の入り口』があるのだと知れたからだ。

 ***

 次の週末。
 気楽にと言われはしたが、普段着で行く勇気は持てず、小綺麗なカラーシャツとスラックスを身に着けて、私はティーハウスを目指した。

 町外れのそこは、石造りの壁に小さな木の看板がかかっているだけの、素朴な店だった。
 重たい扉を押し開けると、カウンターの奥に立っていたのは、年季の入ったエプロンを身に着けた女主人だった。

「一人かい?」

 低くぶっきらぼうな声に、ぎくりと居ずまいを正す。
 店選びを間違えたのではないかと不安になったが、今さら引き返すこともできず、案内された小さな席に腰を下ろした。

 しばらくして運ばれてきた皿を見て、私は息を呑んだ。

 皿の上に乗っていたのは、拳ほどもある丸い焼き菓子。
 香ばしい焼き色に、大きな横割れが走っている。

 途端、私の脳裏に懐かしい光景が蘇った。
 期待に胸を膨らませて蓋を開けると、むわっと立ち昇る蒸気の底に鎮座していた、母の得意料理。
 ふわりと甘い香り、武骨な見た目――目の前の菓子は、あの蒸しパンとそっくりだった。

 とっさに動けずにいる私をちらりと見遣った女主人が、小さなため息を吐いた。

「スコーンだよ。半分に割って、クリームとジャムをたっぷりつけて食べるんだ」

 素っ気ない言葉は、けれど不思議と温かみがあった。
 サンキューと礼を言うと、女主人はふん!と鼻を鳴らして、店の奥に消えていった。

 私はぎこちない手つきで熱々のスコーンを割り、添えられていたクリームと真っ赤なジャムを塗って、口に運んだ。

 ――これは……。
 
 ほろりとくずれる生地の食感。
 濃厚でいて、くどさを感じさせないクリーム。
 そして日本のものとは全く違うイチゴジャム。その強い酸味と濃い風味が、口いっぱいに広がった。

 美味い。

 幼い日に夢中になっておやつを食べた喜びが、胸の奥に蘇った。
 懐かしさに、目の奥がつんと熱を帯びた。
 両親との温かな思い出に包まれながら、次のひと口に焦がれるように、私はスコーンにかぶりついた。

 その次の週末、私の足は別のティールームへと向かっていた。
 初めて体験したスコーンの素晴らしさを興奮気味に語った私に、女性社員たちがうれしそうに教えてくれたのだ。

「お店ごとにスコーンやジャムの味が違うから、食べ比べるのも楽しいわよ」

 その言葉に背中を押されて訪れた店のスコーンは、ややパサつきがあったものの、噛みしめるほどに小麦の力強い香りが広がり、素朴な美味しさを感じさせてくれた。

 翌週に訪ねた別の店では、しっとりとした食感に驚かされた。
 果実味溢れるジャムは香り高く、口いっぱいに広がる豊かな風味に感動した。ただ大きさが控えめだったため、少々物足りないのが残念だった。
 
 ――では、隣町にあるティールームはどうだろう?
 
 気付けば私は、地図を片手に次の一軒を探すようになっていた。
 家族のいない異国での週末だ、自分の好きに過ごしていいはず――。
 ティールーム巡りにのめり込んでいく自分を止めようと思わなかったし、止めるつもりなど微塵もなかった。
 
 やがて下宿の食堂でも、どこにどんな店があるのかと、私は下宿人に尋ねるようになった。
 彼らは面白がって、自分の知る限りの情報を、惜しみなく教えてくれた。

「今度はこっちの店へ行ってみるといい。スコーンが大きくて、腹一杯になるぞ」

 そう言って笑い合う輪の中に、自然と私も加わっていた。
 初めは味気ないと思っていた下宿の食事も、誰かと肩を並べて食べれば、不思議と美味く感じられた。
 湯気の向こうに漂う笑い声を聞きながら、私は幼い日に家族と囲んだ食卓を思い出していたのかもしれない。

 仕事もプライベートも充実していた。満たされていた。
 そんな生活の中で、日本に残した家族に連絡を入れることは、ほとんどなくなっていった。
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