秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第四章 ティーカップの向こう側

ティーカップの向こう側①

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「……痛みはね、時間が癒してくれたよ。もちろん忘れることはないがね」

 そう言って話を結んだ老紳士は、深く息を吐いた。
 俺も西園寺氏も、ただ黙って榊原氏の言葉を受け止めていた。

(……俺なんかに何が言えるんだ。生まれた時代も、背負ってきたものも違う。けど……)

「榊原さん」

 気付けば口が動いていた。

「俺の家も似たようなものです。母さんは俺が高校生になる前に死んじゃったし、父さんは仕事で家を空けることが多くて……今もそうで、俺は自宅から学校に通ってるけど、独り暮らしみたいなものなんです」

 榊原氏が目を見開く。
 と同時に、向かいの西園寺氏の喉が、ひゅっと音をたてた。
 饒舌な彼には似つかわしくない、微かな反応だった。

「榊原さんの娘さんの気持ちは、俺にはわかりません。わからないけど……でも、俺は父さんを嫌ってなんかないです」

 榊原氏の少しグレーがかった瞳が、ゆらりと揺らぐ。

「むしろ、一緒にご飯を食べたいです。もし今、この席に父さんがいたら、絶対に嬉しいです!」

 榊原氏はじっと俺を見つめて、それからゆっくりと視線を伏せた。
 その横顔には、迷いと痛みが混ざり合ったような色があった。

「よろしいですか?」

 そう言って沈黙を破った西園寺氏は、背筋を正して老紳士を真っ直ぐに見据えた。

「ご友人があなたに伝えたかった、デヴォン式とコーンウォール式。その意味について、私から説明をさせていただきたい」
「……いやいや、西園寺さん。今さらどうでもいい話じゃないか……」

 榊原氏がやんわりと遮ろうとしたその瞬間、西園寺氏は声を強めた。

「よくないのです!」

 西園寺氏は勢いよく立ち上がった。

「デヴォン式とコーンウォール式は、単なる順番の違いではありません。そこには土地の風土と、クリームそのものの特性が深く関わっているのです」
「……クリームの特性?」

 榊原氏と俺は、互いに顔を見合わせてから、西園寺氏へと視線を戻した。

「デヴォン州とコーンウォール州は、ともに酪農が盛んな地域です。クロテッドクリームは同じジャージー牛の乳から作られますが、地域ごとに風味が異なるのです。デヴォン産は濃厚で硬め。熱々のスコーンに乗せても崩れず、しっかりと形を保ちます。一方でコーンウォール産は、軽やかで柔らかい。だから先にジャムを塗って熱を遮断し、その上にクリームを乗せるのです」
「……なるほど……」
「順番にも、そういう必然があったのか……」

 榊原氏の瞳に、一瞬だけ光が宿った。

「もちろん、今のは一つの説に過ぎません」

 西園寺氏はようやく腰を下ろし、胸元に指を添えた。

「ですが大切なのは、そこに個性がある、ということです。同じスコーンでも、順番が違えば味わいも変わる。違いは衝突ではなく、多様性を楽しむためにこそあるのです」
「違う背景を……認め合う……」

 榊原氏はうわ言のように呟いた。
 その瞳は、目の前の西園寺氏ではなく、もっと遠い過去にいる家族や友人を見ているようだった。

 俺もまた、西園寺氏の言葉をかみしめた。

 俺と西園寺氏は、今日出会ったばかりだ。互いのことをよく知らない。
 それなのに、ジャムとクリームの順番にこだわって、歩み寄ろうとしなかった。
 せっかく同じテーブルに着けたのに――それは、なんてもったいないことだろう。

 沈黙を破ったのは、ふわりと香る甘い匂いだった。

「ふふ。百聞は一見に如かずですよ」

 カウンターから出てきた翠さんの手には、大きな皿。

「デヴォン式とコーンウォール式の違いは、土地柄だけじゃないの。味わいだって、ちゃんと変わるんですよ」

 皿の上には、ほかほかと湯気を立てるプレーンスコーンが三つ。

「ジャムを後に乗せれば果実の香りが引き立ち、クリームを後に乗せればミルキーさが先に立つ。ぜひ焼き立てで比べてみてくださいな。――イチゴジャムじゃないのが、本当に残念ですけれど」

 翠さんはにっこりと笑った。その笑顔のなんとチャーミングなことか。

「さあ、諸君。イギリスが誇るスコーンの食べ比べをしようではないか!」

 大げさに腕を振り上げる西園寺氏。
 その姿が憎らしいくらい格好よくて、俺は思わず「はい!」と声を張り上げてしまった。

 榊原氏はしばらくスコーンを見つめていた。そして――ふっと視線を逸らした。
 その様子に胸が熱くなり、声が飛び出した。

「榊原さん!俺、榊原さんのこと、きっと好きです!」
「……藤宮くん?」
「だから、一緒にスコーンを食べたいです!」

 この瞬間に。
 ふたりの紳士と同じものを食べられなければ、俺はきっと後悔する。
 チャンスは掴むものだ。

 老紳士の灰色の瞳から、少しずつ躊躇いの色が消えていく。
 やがて大きく頷き、榊原氏はスコーンを手に取った。

「互いを尊重しあう……今が、そのときなのだな」

 そう言った榊原氏の表情に、もう悔恨の影はなかった。

 ***

 食べ比べは、あっけないほどに感動をもたらした。

 焼きたてのスコーンを頬張った榊原氏の瞳が、わずかに揺れる。
 ジャムとクリーム。順番を変えるだけで、確かに味は違っていた。
 その違いを口にすることはなかったが、榊原氏の指先はテーブルの下でかすかに震えていた。

「……トーマス……」

 誰に聞かせるでもなく、榊原氏は小さく名を呼んだ。
 灰色の瞳の端に、きらりと光るものが宿る。

 俺も西園寺氏も、何も言わなかった。
 言葉はいらない。
 今この場に榊原氏がいて、同じものを食べている――それが全てだった。

 やがて榊原氏は、そっとナプキンで目元を拭った。
 翠さんが気を利かせてテーブルの端に置いてくれたサンドウィッチの包みを手に取り、立ち上がる。

「……ありがとう。今日は、良い時間をもらった」

 それだけ言い残し、老紳士はゆっくりと背を向けた。
 その歩みは、思いのほか力強かった。
 去っていく後ろ姿を、俺と西園寺氏は無言で見送った。
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