秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

文字の大きさ
22 / 26
第四章 ティーカップの向こう側

ティーカップの向こう側①

しおりを挟む
「……痛みはね、時間が癒してくれたよ。もちろん忘れることはないがね」

 そう言って話を結んだ老紳士は、深く息を吐いた。
 俺も西園寺氏も、ただ黙って榊原氏の言葉を受け止めていた。

(……俺なんかに何が言えるんだ。生まれた時代も、背負ってきたものも違う。けど……)

「榊原さん」

 気付けば口が動いていた。

「俺の家も似たようなものです。母さんは俺が高校生になる前に死んじゃったし、父さんは仕事で家を空けることが多くて……今もそうで、俺は自宅から学校に通ってるけど、独り暮らしみたいなものなんです」

 榊原氏が目を見開く。
 と同時に、向かいの西園寺氏の喉が、ひゅっと音をたてた。
 饒舌な彼には似つかわしくない、微かな反応だった。

「榊原さんの娘さんの気持ちは、俺にはわかりません。わからないけど……でも、俺は父さんを嫌ってなんかないです」

 榊原氏の少しグレーがかった瞳が、ゆらりと揺らぐ。

「むしろ、一緒にご飯を食べたいです。もし今、この席に父さんがいたら、絶対に嬉しいです!」

 榊原氏はじっと俺を見つめて、それからゆっくりと視線を伏せた。
 その横顔には、迷いと痛みが混ざり合ったような色があった。

「よろしいですか?」

 そう言って沈黙を破った西園寺氏は、背筋を正して老紳士を真っ直ぐに見据えた。

「ご友人があなたに伝えたかった、デヴォン式とコーンウォール式。その意味について、私から説明をさせていただきたい」
「……いやいや、西園寺さん。今さらどうでもいい話じゃないか……」

 榊原氏がやんわりと遮ろうとしたその瞬間、西園寺氏は声を強めた。

「よくないのです!」

 西園寺氏は勢いよく立ち上がった。

「デヴォン式とコーンウォール式は、単なる順番の違いではありません。そこには土地の風土と、クリームそのものの特性が深く関わっているのです」
「……クリームの特性?」

 榊原氏と俺は、互いに顔を見合わせてから、西園寺氏へと視線を戻した。

「デヴォン州とコーンウォール州は、ともに酪農が盛んな地域です。クロテッドクリームは同じジャージー牛の乳から作られますが、地域ごとに風味が異なるのです。デヴォン産は濃厚で硬め。熱々のスコーンに乗せても崩れず、しっかりと形を保ちます。一方でコーンウォール産は、軽やかで柔らかい。だから先にジャムを塗って熱を遮断し、その上にクリームを乗せるのです」
「……なるほど……」
「順番にも、そういう必然があったのか……」

 榊原氏の瞳に、一瞬だけ光が宿った。

「もちろん、今のは一つの説に過ぎません」

 西園寺氏はようやく腰を下ろし、胸元に指を添えた。

「ですが大切なのは、そこに個性がある、ということです。同じスコーンでも、順番が違えば味わいも変わる。違いは衝突ではなく、多様性を楽しむためにこそあるのです」
「違う背景を……認め合う……」

 榊原氏はうわ言のように呟いた。
 その瞳は、目の前の西園寺氏ではなく、もっと遠い過去にいる家族や友人を見ているようだった。

 俺もまた、西園寺氏の言葉をかみしめた。

 俺と西園寺氏は、今日出会ったばかりだ。互いのことをよく知らない。
 それなのに、ジャムとクリームの順番にこだわって、歩み寄ろうとしなかった。
 せっかく同じテーブルに着けたのに――それは、なんてもったいないことだろう。

 沈黙を破ったのは、ふわりと香る甘い匂いだった。

「ふふ。百聞は一見に如かずですよ」

 カウンターから出てきた翠さんの手には、大きな皿。

「デヴォン式とコーンウォール式の違いは、土地柄だけじゃないの。味わいだって、ちゃんと変わるんですよ」

 皿の上には、ほかほかと湯気を立てるプレーンスコーンが三つ。

「ジャムを後に乗せれば果実の香りが引き立ち、クリームを後に乗せればミルキーさが先に立つ。ぜひ焼き立てで比べてみてくださいな。――イチゴジャムじゃないのが、本当に残念ですけれど」

 翠さんはにっこりと笑った。その笑顔のなんとチャーミングなことか。

「さあ、諸君。イギリスが誇るスコーンの食べ比べをしようではないか!」

 大げさに腕を振り上げる西園寺氏。
 その姿が憎らしいくらい格好よくて、俺は思わず「はい!」と声を張り上げてしまった。

 榊原氏はしばらくスコーンを見つめていた。そして――ふっと視線を逸らした。
 その様子に胸が熱くなり、声が飛び出した。

「榊原さん!俺、榊原さんのこと、きっと好きです!」
「……藤宮くん?」
「だから、一緒にスコーンを食べたいです!」

 この瞬間に。
 ふたりの紳士と同じものを食べられなければ、俺はきっと後悔する。
 チャンスは掴むものだ。

 老紳士の灰色の瞳から、少しずつ躊躇いの色が消えていく。
 やがて大きく頷き、榊原氏はスコーンを手に取った。

「互いを尊重しあう……今が、そのときなのだな」

 そう言った榊原氏の表情に、もう悔恨の影はなかった。

 ***

 食べ比べは、あっけないほどに感動をもたらした。

 焼きたてのスコーンを頬張った榊原氏の瞳が、わずかに揺れる。
 ジャムとクリーム。順番を変えるだけで、確かに味は違っていた。
 その違いを口にすることはなかったが、榊原氏の指先はテーブルの下でかすかに震えていた。

「……トーマス……」

 誰に聞かせるでもなく、榊原氏は小さく名を呼んだ。
 灰色の瞳の端に、きらりと光るものが宿る。

 俺も西園寺氏も、何も言わなかった。
 言葉はいらない。
 今この場に榊原氏がいて、同じものを食べている――それが全てだった。

 やがて榊原氏は、そっとナプキンで目元を拭った。
 翠さんが気を利かせてテーブルの端に置いてくれたサンドウィッチの包みを手に取り、立ち上がる。

「……ありがとう。今日は、良い時間をもらった」

 それだけ言い残し、老紳士はゆっくりと背を向けた。
 その歩みは、思いのほか力強かった。
 去っていく後ろ姿を、俺と西園寺氏は無言で見送った。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

秘密はいつもティーカップの向こう側 ―BONUS TRACK―

天月りん
キャラ文芸
食べることは、生きること。 ティーハウス<ローズメリー>に集う面々の日常を、こっそり覗いてみませんか? 笑って、悩んで、ときにはすれ違いながら――それでも前を向く。 誰かの心がふと動く瞬間を描く短編集。 本編では語られない「その後」や「すき間」の物語をお届けする 『秘密はいつもティーカップの向こう側』BONUST RACKシリーズ。 気まぐれ更新。 あなたのタイミングで、そっと覗きにきてください☕ ◆・◆・◆・◆ 秘密はいつもティーカップの向こう側(本編) ティーカップ越しの湊と亜嵐の物語はこちら。 秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編  ・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」シリーズ本編番外編  ・番外編シリーズ「BONUS TRACK」シリーズSS番外編  ・番外SSシリーズ「SNACK SNAP」シリーズのおやつ小話 よろしければ覗いてみてください♪

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

あやかし帝都の婚姻譚 〜浄癒の花嫁が祓魔の軍人に溺愛されるまで〜

鳴猫ツミキ
キャラ文芸
【完結】【第一章までで一区切り】時は大正。天羽家に生まれた桜子は、特異な体質から、家族に虐げられた生活を送っていた。すると女学院から帰ったある日、見合いをするよう命じられる。相手は冷酷だと評判の帝国陸軍あやかし対策部隊の四峰礼人だった。※和風シンデレラ風のお話です。恋愛要素が多いですが、あやかし要素が主体です。第9回キャラ文芸大賞に応募しているので、応援して頂けましたら嬉しいです。【第一章で一区切りで単体で読めますので、そこまででもご覧頂けると嬉しいです】。

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

双子の姉がなりすまして婚約者の寝てる部屋に忍び込んだ

海林檎
恋愛
昔から人のものを欲しがる癖のある双子姉が私の婚約者が寝泊まりしている部屋に忍びこんだらしい。 あぁ、大丈夫よ。 だって彼私の部屋にいるもん。 部屋からしばらくすると妹の叫び声が聞こえてきた。

処理中です...