秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第四章 ティーカップの向こう側

<最終話>ティーカップの向こう側

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「はー……美味しかったー……」

 ホースラディッシュのソースが隠し味になったサンドウィッチは、俺がこれまで食べてきたものの中でも、トップクラスの味わいだった。
 さわやかな辛味が牛肉の旨味を引き立て、野菜はしゃきしゃきと歯触りがよい。
 具材はたっぷりなのに、胃にもたれることもない。
 なるほど、これなら先ほどの老紳士だって、ぺろりと平らげるだろう。

 味の余韻に浸っていると、向かいの西園寺氏はすっと席を立ち、ガラスのショーケースの前に歩み寄った。

「翠さん、ケーキは何が残っていますか?」

 翠さんはカウンター越しに西園寺さんを見遣り、にっこりと笑みを浮かべた。

「亜嵐さん、私、彼はぴったりだと思うの」
「…………」
「レモンドリズルなら用意できるわ」
「……では、二階にお願いします」

 ふたりの会話が理解できず首を傾げていると、西園寺が振り返り、「藤宮くん」と名を呼んだ。

「まだ時間は大丈夫だね?」
「え?は、はい。大丈夫、ですけど……」

 俺の返事に、西園寺氏は一瞬だけ逡巡するように視線を落とした。
 だがすぐに顔を上げ、まっすぐ俺を見て手招きをする。

「藤宮くん、荷物を持ってこちらへ」

 そう言ってカウンターの奥へ足を踏み入れる。
 俺は慌ててバッグをつかみ、その背中を追った。

 清潔に整えられた調理台、年季を感じさせる大きなオーブン。
 翠さんの聖域でもあるキッチンを横目に通り抜けると、棚の奥に隠れるように扉があった。

「こっちだ」

 扉を開くと、薄暗い階段が上へと続いていた。
 壁のスイッチを押すと、パッと照明が灯る。

 西園寺氏の背を追い、一歩一歩段差を上がる。心臓はばくばくと鳴り、胸の奥が熱くなる。
 ――まるで子どものころに読んだ冒険小説のようだ。隠し扉の先には秘密基地があって……。

 階段を上がり切った先で、西園寺氏がドアを押し開ける。
 目の前に現れたのは、俺の想像をはるかに超える広さの部屋だった。

 窓際には大きなデスク。
 パソコンとプリンターがきちんと並び、コード類は整然と束ねられている。
 無駄のない配置からは、西園寺氏らしい几帳面さが漂っている。

 その向かいの壁一面には、天井まで届く大きな書棚。
 ぎっしりと詰まった本の背表紙の列は、圧迫感よりもむしろ荘厳な迫力を放っている。

 部屋の中央にはローテーブルと一人掛けのクッションソファー。
 座れば居心地よく本を読むことができそうだ。

 ふと窓の外を見れば、外壁を這うツタが視界をかすめる。
 街のただ中にいるはずなのに、ここだけ別の世界のような空気を帯びていた。

 部屋はL字型に折れ、その奥には小さなシンクとコンロが置かれた質素なキッチン。
 だが調理器具は見当たらず、使われている形跡もない。
 きっとお茶を淹れるためだけの場所なのだろう。

 さらに奥にはシャワースペースとトイレ、そしてその先に寝室らしいドアが控えていた。
 ただの住居というより、小さなスイートルームだ。
 だが生活の匂いは薄く、まるで舞台装置のように整えられている。

「……すごい……」

 思わずため息が漏れた。

「掛けたまえ」

 西園寺氏はそう言って、俺にソファを勧めてくれた。
 自分は書棚の踏み台にクッションを置き、静かに腰を下ろす。

「驚いただろうが……ここが、私の住処だ」

 驚きなんてものじゃない。頭の中は疑問でいっぱいだ。
 どうして?いつから?翠さんとの関係は?
 けれど、目を逸らして気まずげな表情を浮かべる西園寺氏を、問い詰める気にはなれなかった。

(今日出会ったばかりなのに……そこまで踏み込んでいいのか?)

 踏み込み過ぎれば、壊れてしまう距離だってある。
 沈黙に胸を締め付けられかけたそのとき――。
 軽やかなノックが響いた。

「亜嵐さん、藤宮くん。お待たせしました」

 銀の盆を手にした翠さんが現れた。
 ふわりと広がる紅茶の香りに、張りつめていた心が解けていく。

 テーブルに置かれたのは、シンプルなバターケーキと花柄のティーカップ。

「キャンディのブロークン・オレンジペコーよ」

 にこやかに告げる翠さんは、まるで妖精のようだ。
 香りと一緒に、空気までも柔らかくしてしまうのだから。

「どうぞ、ごゆっくり」

 彼女が去ったあとも、甘やかな気配が部屋に残っている。
 紅茶を啜ると、爽やかな香りが広がった。

(……あれ?さっきのミルクティーと全然違う……)

 渋みが少なく、さらりとして飲みやすい。

「この紅茶、飲みやすい……」
「スリランカのキャンディだ。君の好みにあったかな?」
「はい!すごく美味しいです!」

 会話が弾み、空気が和らぐ。
 思わずケーキに手が伸びた。

「これは何ていうケーキなんですか?」

 皿を覗き込むと、レモンのさわやかな香りが鼻をくすぐる。

「あっ、レモン……?」
「レモンドリズルケーキ。バタースポンジにレモンのシロップを染み込ませた、イギリスでは定番の菓子だ」

 ひと口かじれば、レモンの清涼感と甘さが同時に広がり、表面のアイシングがしゅわっと溶ける。

「……美味しい!」
「そうか、よかった」

 安堵するように微笑む西園寺氏。
 その穏やかな横顔に、胸の奥が温かくなる。

 ――けれど。
 皿とカップが空になった途端、西園寺氏の表情が一変した。

「藤宮くん……私は君に、謝らなければならない」
「……え?」

 低い声に、思わず背筋が強張る。

「今日、初めて会って……半ば強引に誘ったのは私だ。それなのに、つまらないことで頭に血が上って……君に酷いことを言ってしまった」

 額を押さえる姿に、俺は思わず立ち上がった。

「違います!悪いのは俺です。西園寺さんを軽んじるような言い方をしたのは、俺なんですから!」

 ぶつかり合う遣り取りに、西園寺氏はふっと自嘲気味に笑った。

「君は……本当に素直だな。私にその素直さがあれば――」
「……西園寺さん?」

 消え入るような声音。不安に駆られる俺を見つめ、西園寺氏は深々と頭を下げた。

「君を見込み違いなどと口走ったこと、本当に申し訳なかった」

 慌てて西園寺氏の肩に手をやり、俺は声を張った。

「止めてください!俺、西園寺さんに出会えて……本当に嬉しいんです!」

 顔を上げた西園寺氏の瞳が、強く光を帯びる。

「……藤宮くん。君は純粋な好奇心で『食』に向き合い、それを楽しめる人だ。私は今日、それを確信した」

 その物言いに、心臓が跳ねる。

「もし君が私に失望していないのなら――次の予約をさせてほしい」
「……次の、予約……?」
「ぜひ君とアフタヌーンティーを楽しみたい。それも一度きりではない。君と分かち合いたい味は、無限にあるのだから」

 そんなことを言われたら――胸に溢れる感情を、抑えられなくなる。

「俺、すごく……すごく嬉しいです!」

 頬が熱くなり、笑みがこぼれる。
 そんな俺の様子に、西園寺氏も立ち上がり、右手をこちらに差し伸べた。

「君となら『食』の奥底にある神髄に、きっと辿り着ける」

 その瞳は迷いなく輝いている。

「さあ、一緒に旅をしようじゃないか、湊。――ティーカップの向こう側へ」

 俺は迷わずその手を取った。

 窓の外で、ツタの葉が夜風に揺れている。
 街のざわめきから切り離されたその影が、まるで未来への道標のように見える。

 紅茶の余韻とレモンの香気に包まれながら――。
 俺は、これから目の前に広がるであろう世界を思い、胸が震えるほどときめいていた。



 秘密はいつもティーカップの向こう側
 追憶の英国式スコーン / 完

 ◆・◆・◆

 秘密はいつもティーカップの向こう側
 本編もアルファポリスで連載中です☕
 ティーカップ越しの湊と亜嵐の物語はこちら。

 秘密はいつもティーカップの向こう側の姉妹編
 ・本編番外編シリーズ「TEACUP TALES」
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