秘密はいつもティーカップの向こう側 ~追憶の英国式スコーン~

天月りん

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第二章 紅茶館ローズメリー

紅茶館ローズメリー おまけSS

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「それで、この前の人とは親しくなれそうなの?」

 気遣う色を含んだ翠の声に、亜嵐はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

(あらあら……またダメだったのね)

 西園寺亜嵐という男は、なかなかに難しい。

 知識不足では相手にならないし、かといって、蘊蓄をひけらかすようでは興が削がれる。
 自分の話をただ聞くだけでなく、相手に相応の反応と応答も求める。
 頭脳明晰で、謙虚で気遣いができて、一歩引いているようでときにはぐいぐい引っ張ってくれる。
 あとは、笑顔がチャーミングだとなお良し。

 亜嵐がそんな理想を言葉にしたことはない。
 けれど彼が苛立つ理由を思えば、自然とそういう形になってしまう。

 ――そんな人間が、この世のどこにいるというのか。

(わがままに見えるけど……本当は、ちょっと不器用なだけ……)

 亜嵐がオーダーした紅茶――ラプサンスーチョンをカップに注ぎ、翠は小さくため息をついた。

「お待たせしました」

 白磁に赤と金の龍をあしらったティーカップは、飲む人の背中を押してくれる気がする。
 そっと差し出すと、亜嵐は視線を伏せてぽつりと言った。

「……ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「あら」

 浅い付き合いではない常連客は、カップに込めた気遣いを察したようだ。

(心の機微にも敏い……思い遣りがないわけじゃないのに……)

 ちょっと寂しげに男を見遣り、翠はそそくさとカウンターの奥へ戻った。

 ***
 
 ブランチの客も落ち着いた頃。
 食い入るようにタブレットを見つめる亜嵐に、翠は軽く声をかけた。

「亜嵐さん、今日はチキンのサンドウィッチもありますよ」
「いえ。この後、丘の上の大学でカレーライスを食べる予定です」
「あら……そうなの」

 近場の大学だが、学生がこの店を訪れることはまずない。
 駅とは逆方向だし、ここへ来るには新興住宅地を大きく迂回しなければならないからだ。
 
 亜嵐はいつも、メタセコイアの脇にある階段を、抜け道代わりに使っている。
 だが本来は地域住民の避難用の裏道にすぎず、人影はほとんどない。
 一人背筋を伸ばして階段を上がる姿を思うたびに、翠の心は少し痛む。

「学生さんが来てくれるようになったら、この店ももう少し賑やかになるかしら?」
「これ以上忙しくしてどうするんですか。今だって一人で大変でしょう」
「――ふふ、確かに。あなたの言う通りね」

 軽口を叩きながらも、翠は密かに願い続けている。

(もし――あの裏道を誰かと歩いて、この店に来ることがあれば……)

 夢物語かもしれない。だが、希望は捨てなくてもいいはずだ。 
 カップから立ち上がる湯気の向こうに、翠はいつかの未来を夢見た。
 
 ***

「実に興味深いカレーライスでした!」

 午後一時をとうに回って戻ってきた亜嵐は、ここ最近見たこともないほど上機嫌だった。

「美味しかったのね、よかったわ」

 どんな小さなことであれ、亜嵐が楽しそうにしていれば、翠も嬉しくなる。
 亜嵐が注文した紅茶――今度は軽やかなニルギリを淹れながら、翠はふふっと微笑んだ。

 ランチ時を過ぎ、店内は静かだ。客は亜嵐一人。
 そんなとき――翠は亜嵐のためだけに、こっそりデザートを提案する。
 他の客に知られては不公平になる。けれどこの瞬間なら、咎める者もない。
 
「トライフルならお出しできますよ」
 
 スポンジ、カスタード、生クリーム。そして季節のフルーツを重ねたものだ。
 イギリス伝統の甘やかなスイーツは、目の前に座る男の好物でもある。

 しかし、亜嵐は首を横に振った。

「今日はたとえパン一切れといえど、間食は許されないのです」
「あら、そうなの」

 なぜ?と問うことはしない。
 互いに踏み込みすぎない。その距離感があるからこそ、長く続いてきた関係でもあるのだ。

「それに実を言うと、デザートは大学でいただいてきたのです。冷やしパインという裏メニューがあってですね……」

 そう語る亜嵐の表情は、驚くほど楽しげだ。
 カウンター越しにその横顔を眺めながら、翠は胸の奥に希望が芽吹くのを感じた。

(嬉しそうにしちゃって……まあ、まあ……ふふふ)

 言葉にはしない。
 思うだけで、心の中に春の陽だまりのような温かさが広がっていく。

 紅茶が薫る、午後のひととき――。
 ゆっくりと時間は流れていった。
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