君と番になる日まで

藍沢真啓/庚あき

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春の宵闇

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 一度荷物を置いて着替えてから『La maison』に行くと約束し、彼らとは店の前で別れた。

「紅音、先にお風呂に入って、それから桔梗さんの所行こうか。いっぱい遊んで汗かいたでしょ?」
「うんっ、そうせんせいのだんなさんが『みだしなみはおとこのひっすようこうだ』っていってたよ」

 息子がキリッとして言う言葉の内容に、慧斗は「あの白糸教授の奴隷が」と胸の中で毒づいていた。
 慧斗が秘書を勤める白糸教授は、現在結婚をして苗字が違う。本当の名前は「紅竹くれたけ総」だ。番の方は紅竹龍羅くれたけたつらといい、こちらも慧斗が育児に仕事にと追われてる間に番となり、翌年可愛らしい男の子を出産した。
 白糸教授というのは、色々手続きが面倒だという彼の通称のようなものだ。
 恩師の番は名家出身で、現在は国と共同開発したアルファとオメガのマッチングアプリや、結婚相談所などを運営している。にもかかわらず、彼は一子の父親だというのにやることは子供のようで、しょっちゅう白糸に叱られている光景を目にする。
 それでもなんだかんだで白糸も彼を愛してるのか、番を大切にしている姿はクールな普段とは違って可愛らしいのだ。言うと柳眉を逆立てるので、口にしたことはないが。

 たまに仲の良い彼らを見ると、胸が痛むことがある。
 もし、紅龍の秘書から婚約者の話を聞かされなかったら、自分は紅龍と結婚をして彼らのように温かい家庭を作れたのかなと。ありえない予想を何度も想像しては無理矢理打ち消して、布団の中で紅龍を思って密かに泣いた。
 自分は彼の名前も活動も知っているけど、一般人の慧斗のことは名前も教えてなければ素性も話していない。余程の奇跡がない限り二度と出会うことはない。
 それに……

「おかーさん?」
「え?」

 くん、と袖を引っ張られ遠く馳せていた意識が紅音に向ける。

「どうした?」
「おかーさん、いたい?」
「ん? どこも痛くないよ」
「でも、なきそうなおかおしてる……」
「っ」

 ああ、本当にこの子は心の傷を敏感に嗅ぎ取る。

「大丈夫、ちょっとお仕事で疲れただけだから。それに今日はいっぱい歩いたからね」

 ごまかすように言い訳を口に乗せれば、多分違うと理解してるだろう紅音は、それ以上の追求はせず「そっかあ」と小さく呟いた。

「さ、早くおうちに入ってお風呂に行こう? あんまり遅くなると桔梗さんに会えなくなるよ」
「あ、そうだっ」

 靴を脱ぎ捨て廊下を奥へと走っていく小さな背中を見送り、慧斗はひっくり返った小さな靴を揃えて置きながら困り顔で微笑んだ。
 あんなに小さな子を不安にさせてはいけない。紅龍とは決して交われない運命だったのだ。
 あの日の出来事は運命の神様が気まぐれを起こしただけ。不憫な慧斗を思って見せてくれた束の間の夢。
 超有名俳優のアルファと、なんの取り柄もない一般のオメガが再会して結ばれるなんて、それこそ物語のよう。
 もう慧斗には紅音がいる。いつまでも夢ばかりを見る年齢でもない。

 んしょ、と立ち上がり、紅音の靴の横に量販店で買った革靴を並べ、慧斗も上がり框をのぼって奥へと続いた。


 玲司たちには紅音をお風呂に入れてから伺うとメールし、一緒に浴室へと向かった。しっかりしてるとはいえども紅音は四歳。ひとりで入浴なんて怖くて無理。家での子供の不慮の事故の三位は溺死なのだ。一緒に入ってても安心なんてできやしない。

 祖母が住んでいた家は純和風な平屋で、洗面所と浴室が続いてる昔さながらの内装になっている。タイル張りの浴槽はギリギリ紅音の頭が出るほど深く、一瞬でも気が抜けない。
 神経質を言われようが、紅音を失ったら生きていけない。

「はい、紅音ばんざーい」
「ばんじゃーい」
「お母さんがいいって言うまで中に入っちゃダメだからね」
「わかってるー」

 いつものやり取りをし、紅音は慧斗の足元に裸のまましがみつく中、伊達眼鏡を外して指を目の中に当てる。
 薄い膜を指でつまみあげると、黒だった瞳は琥珀に戻る。鏡に映るのは長めの黒髪と琥珀の瞳を持つ、貧相なオメガの姿が写っていた。

 これが紅龍が自分を探し出せないだろうと確信する理由だ。
 当時は色を抜きすぎて白金の髪に琥珀の瞳だったが、就職を機に髪を黒に戻し、目は黒のコンタクトと伊達眼鏡を装着するようになった。吊るしのスーツに量販店の安物革靴をまとえば、当時の面影は完全に封じられる。

「おかーさんいたい?」

 慧斗がコンタクトを外すたびに紅音はこうして尋ねてくる。目に指を入れるのを痛いと思っているようだ。

「大丈夫だよ。紅音は本当に優しい子だね」
「だって、ぼく、おかーさんすきだもん。ほいくえんのあらせくんもおかーさんだいすきなんだって!」
「そう。俺も紅音が大好きだよ」

 「あらせくん」というのは、市の中心部のカフェで働く慧斗と同じシングルオメガだ。所作も美しく、噂だとどこか良い所のお家の出身ではないかと言われている。
 同じ年齢の子供を持つシングルとして、もうひとりのシングルオメガである男性と三人で交流しているが、どこも母親が好きなんだなと微笑ましくなる。

「さ、お風呂入ろっか。いつまでも裸だと風邪ひいちゃうよ」
「はーい」

 このまま平穏な時間が続けばいい。紅音がいればもうなにもいらない。


 体を清め『La maison』へ向かう。徒歩五分にも満たない距離にあるおしゃれなカフェバーは、元々鄙びたアパート跡地に建てられたお店だ。といっても、慧斗が祖母と暮らす頃にはアパートは取り壊されて更地だったが、数年後に三階建の住居兼店舗ができた。

「こんばんはー」

 豪奢な鉄門を入り、爽やかなハーブや花の香りが漂うアプローチを抜け、スリットガラスの入った扉を開くとカウベルの軽やかな音色が出迎えてくれる。
 元気よく店に入った紅音に、カウンターにいた桔梗が楽しげに笑みを浮かべている。

「紅音君、いらっしゃい。あ、慧斗君、テーブル席でもいいかな」
「こんばんは、桔梗さん。それでも大丈夫です」
「ごめんね、今日はソファ席埋まっちゃって……」

 謝罪してくる桔梗はもうじき二十八歳になるというのに、出会った頃からあまり印象が変わらない。
 同じオメガであるが、慧斗にとっても素敵な先輩という感じだ。

 北欧調のインテリアで整えられたテーブル席に腰を下ろす。紅音は慧斗の隣の椅子にクッションを重ねた上に座り、桔梗が差し出したメニュー表をにこにこと眺めている。一応日本語表記もあるが、全くフランス語読めない筈なのに。

「そういえば、新作でしたっけ? それと、紅音はグラタンでいい?」
「うんっ、れいじさんのグラタンおいしーよ」
「じゃあそれと、ホタテのクリームグラタンに林檎ジュースをお願いします」

 桔梗の話では新作は赤ワインで煮たひき肉をマッシュポテトを被せてオーブンで焼いた料理らしい。ガーリックトーストかバゲットのどちらかと言われたので、バゲットのトーストをお願いした。
 ついでに量は少なめと添えておく。まだ紅音には大人一人前を食べきれない。どうせデザートも頼むだろうし、残すのも耐えられない。
 注文を聴き終えた桔梗が去り、慧斗はふと奥のソファ席に視線を移す。黒服のアルファらしい男性ふたりと、華奢な見覚えのあるオメガの青年が食事を楽しんでいる。
 奥の席に座っていたオメガの青年も不意に顔を上げ、慧斗の顔を認めると「あ」と口を開くのが見えた。

「御崎さん」
憂璃ゆうり君」

 ふたりの声が重なる。ということは、慧斗に背中を向けている黒服のふたりのうちひとりは。

「お、大学の事務の子じゃないか」

 気軽に手を上げて応えたのは、紅龍と出会う直前のトラブルを救ってくれた、極道の玉之浦椿だった。
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