【本編完結】妹に婚約者を寝取られましたが、幼馴染の冷徹公爵に溺愛されています

藍沢真啓/庚あき

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歪められた偽りの執着

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 窓の外には、冬の名残のような鈍色の曇天の空が広がっていた。

 弐の月の終わりごろ。王都の街角には数日前に降った雪の名残が黒ずんで残り、時折吹きつける風は春の訪れを拒むように身を切る寒さで私の頬を叩く。小さくため息をつき、窓を閉じるといつもの椅子へと腰を掛ける。
 祖父母の屋敷へラファエルと出かけてから、私の日常は相変わらず図書館の一角に積まれた帳簿と格闘していた。

「やっぱり、ここの計算も合わないわ」

 アインハルト公爵領の治水計画に伴う予算書。そこには前任者が意図的に見逃したのか、または怠惰なのか、数字の歪みが見て取れた。

「これは天正魔法に頼るしかないわね。……展開」

 なんでもかんでも魔法に頼るべきではないと、自力で計算し続けたけど、どうにも解決できそうになく行使することにした。指先から溢れる光の粒が天秤の形を作り、悩む数字を皿に乗せれば、出た結果は『悪意によるもの』と明確に示されてしまった。

 間違っていなかった安堵と、やはりという落胆から、持っていた羽ペンを置いて目元を軽く指で押さえた。

(いくら元公爵夫妻が隠居していたとしても、ここまで好き勝手に横行していたなんて……)

 ラファエルが寝る間を惜しんで領地の改革を頑張っているのに、と胸の中が不満で掻き回される。かつてヒルトマン子爵家(実家)で、両親にも顧みられず、ただ利用されるためだけに使っていたこの天正魔法。だけど今はラファエルが私の魔法を認めて労ってくれる。自分だって忙しいのに、私を見守ってくれる優しい人。そんなラファエルの苦労を足で踏むようなずるい者たちは許せない。

 怒りで渇いた喉を潤そうと机に手を伸ばした。しかし、いつもあるはずのカップはなく、空振ってしまう。そういえば、今日はいつも側にいるエミリがお休みだと思いだす。

(エミリ、大丈夫かしら)

 昨日から風邪をこじらせて寝込んでいるエミリを心配する。

 彼女はアインハルト公爵家に来てからというもの、格上の公爵邸での仕事に心身ともに疲れが出たのかもしれない。ラファエルに相談して、彼女には十分な休息と、王宮医師が処方した薬を与えるように言われた。彼の優しさが本当に嬉しい。

 いつもなら、さりげなく適温のお茶を淹れてくれるエミリのいない図書室は少しだけ広く感じて、寂しさが胸に募っていく。まるで今の天気と同じように陰鬱な気持ちでいると、「奥様、失礼いたします」との声と共に、図書室の扉を叩く音が耳に届いた。入室の許可を出すと、銀色のトレイを持った若い侍従が、緊張した面持ちで入ってくる。

「どうかしたの?」

 予算書に落としていた視線を上げ、用件の理由を問いかけると、侍従は私にトレイを差し出してくる。磨かれた銀色の盤面の上に、貴族の紋章が捺された手紙が載せられていた。

「屋敷の警備を経由して使者から渡されたそうです」
「それはどのような方だったのかしら」
「はい。身なりは質素だったようですが、持参された方はおそらく貴族の方だったと。使者の話では『ランベルト伯爵家からの緊急かつ、私的な親書のため、至急確認いただきたい』と申していたようです」
「……ランベルト伯爵家から?」

 その名を聞いた瞬間、私の心臓が不自然な鼓動を刻んだ。私は緊張して震える手でその手紙を取り上げた。封蝋には見覚えのあるランベルト家の紋章が刻印されていた。

「ありがとう。使者の方はもう帰られたのかしら」
「……はい。警備の騎士の話では、手紙を託してすぐに去られたようです。どこか慌てている様子だったと」

 やり遂げたような侍従が退出するのを見送り、私は手紙を持って暖炉の前に置かれたソファへと腰を下ろす。時折薪が弾ける音がし、火が揺らめく。今更ランベルト伯爵家が、何の用で手紙を送ってきたのだろう。私は不審に思いながらも、手紙の封を切った。


 ――親愛なるディアナへ

 この手紙が君の元へ届くころ、私はすでにランベルト伯爵家の人間ではなくなっていることだろう。父は、僕の不始末……リリアを妊娠させただけでなく、勝手に君との婚約を解消した上に賠償金まで請求された僕を切り捨てたんだ。そう、廃嫡されたんだ。それだけでなく、父はアインハルト公爵の逆鱗に触れたことで、制裁を恐れた。どうやら家を縮小して領地に逃げるそうだ。

 思えば僕と君との婚約も、君の魔法の才能とヒルトマンの商会の利権を手に入れるための、単なる投資目的に過ぎなかった。それを分かっていながら、君の優しさに甘え続けていた自分を、死ぬほど恥じている。
 僕は明日、自らの罪を償うために、辺境の地に赴くことになった。二度と王都には戻れないだろう。

 だからこそ君に最後のお願いをしたい。君に直接、一度だけでいい、これまでの裏切りを謝罪させてもらえないだろうか。勝手な願いだと分かっている。それでも、二度と会えないからこそ、憂いなく辺境の地に旅立ちたいのだ。

 王都商業区外れにある『錆びた天秤亭』で待っている。誰にも言わず、一人で来て欲しい。僕の我がままを聞き入れてくれることを願っている。


「……廃嫡……辺境……」

 手紙を持つ私の手は震えていた。まるで心臓に直接冷水をかけられたように、暖炉の前にいるはずなのに血の気が引く。そもそもの原因はエドガーとリリアにあったけど、ランベルト伯爵家がここまで思い切った決断をするとは思っていなかった。

 エドガーが私ではなくリリアを選んだ時――正確には妹の誘惑に負けて子供を作ってしまった時。息子の利用価値がなくなったと、ランベルト家の中で見切りをつけたのだろう。その上、私がエルと婚姻を結び、アインハルト公爵家という後ろ盾に慄いた末に、エドガーを辺境に行かせることで切り捨てた。

(行ってもいいのかしら……だって、私はアインハルト公爵夫人。かつての婚約者といえども、他の男性と会うことなんて……。でも……)

 脳裏にエドガーと婚約していた五年の歳月が流れる。

 婚約した当初は、彼も私に優しかった。家同士の婚約だったけど、少しずつ思いを重ねて行ければと思っていた。エドガーがリリアに奪われなければ、私はエルとは結ばれず、エドガーと穏やかに過ごしていたはず。だけど、そんな未来はリリアによって壊されてしまった。

(エドガー様が辺境に行く。おそらく、リリアも一緒に行くのかしら。あの王都の華やかな生活を好むあの子が、質素な辺境で生きていけるのか……)

 私は唇を噛みしめ、しばらく逡巡したあと、ソファから立ち上がる。

(少しだけ。最後のお別れを言うだけ。……エルには言えないわ。これ以上、私の過去のことで、余計な心配をかけたくないもの)

 サイドテーブルに手紙を裏返して置き、図書室を管理している侍女に「庭の温室の様子を見て来るわ」と言い残し、外套を羽織った。庭に出ると、もうじき春が来るというのに、空は灰色の雲が厚く横たわっている。人目を避けるように庭から裏門へと歩き、騎士の姿がないのを確認すると、外套のフードを深く被って辻馬車に乗り込んだ。


 ◇ ◇ ◇


 王都の商業区はいくつかに分かれている。エドガーが指定してきた『錆びた天秤亭』は、平民街の外れにある、古びた酒場のようだ。あまり手入れがされていないのか、石畳はあちこちひび割れ、饐えた匂いが冷たい風に乗って漂ってくる。時折投げかけられる視線はどこか濁っていて、治安の悪さを漂わせていた。

「……ここが『錆びた天秤亭』……」

 急ぎ足でいくつかの看板を流し見ていると、その中の一つに天秤が刻まれた看板を見つけることができた。どうやらここが『錆びた天秤亭』らしい。そっと重い扉を開くと、人いきれと安酒の匂いが顔を撫でてきて、不快感に眉をしかめながら足を踏み入れた。昼間だというのに店内は薄暗く、数人の粗野な印象のある男たちが、油汚れの染みついたテーブルで無言のまま杯を傾けている。私は彼らに視線を合わせないようにしながら店内をザッと見渡していると、奥のテーブルに一人の男性が気配を消すように座っているのが見えた。

「……エドガー様?」
「……ああ、来てくれたんだね、ディアナ」

 外套のフードを下ろしたエドガーの姿に、私は息を飲んだ。かつての伯爵令息然とした面影は、見る影もなくなっていたから。まだ一節も経っていないのに、エドガーの頬はこけ、そり残された髭が不潔な印象を与えていた。それ以上に驚いたのは、彼の瞳は形容しがたい暗く濁ったものが渦巻いていた。

「お久しぶりです、エドガー様。手紙を読みました。書かれていたことは本当なんですか?」

 がたつく椅子に座り、私はそう切り出した。

「ああ、本当だよ。婚約を勝手に解消しただけでなく、婚約者の妹を妊娠させた僕を、家族は早々に不要だと断じた。家に見限られた僕は、君に賠償金を支払おうと、リリアたちに散財を控えるように進言したんだけど……聞き入れてくれなかったよ。それどころか、毎日罵倒される日々だ」

 歪んだ笑みを浮かべるエドガーが私の手を握ろうとしてきた。反射的に彼の手を避けたものの、じっとりと私を見つめるエドガーの瞳に、私の中で激しく警鐘が鳴り響いた。

(天正……展開)


  警告 今すぐの撤退を推奨します。再度警告します。危険です、この場からの撤退をしてください。


(どういうこと? 天秤が私に撤退をこんなにも訴えて来るなんて……)

 私は間違った選択をしてしまったのだろうか。そう、自覚するには、遅すぎたようだった――


 ◇ ◇ ◇


【ラファエル視点】

 ヘルフリートの尻を叩き、予定より早く仕事を終えたラファエルは、一刻でも早く最愛の妻に会いたいと屋敷に戻ってきた。

「ディアナはどこにいる?」

 玄関ホールに入ってすぐにディアナの場所を問うラファエルに、家令は「いつもの図書室にいらっしゃいます」と返答した。ラファエルは着ていた外套を家令に渡し、図書室に続く廊下を早足で進む。今日は侍女のエミリが病で不在のため、色々苦労していることだろう。少しでも労おうと考えながら、図書室の扉を開いた。

「ディナ?」

 その声に反応したのは、暖炉の火が爆ぜる音だけ。広い図書室のどこにもディアナの姿はなかった。いつも帳簿や書類と格闘している机も、調べものをするための書架にも、彼女の可憐な姿はない。

 ラファエルの胸にざわざわと嫌な予感が広がっていく。

(俺が嫌になって逃げた……? いや、そんなことはない。少なくとも彼女は俺に対して好意を持ってくれていた。じゃあ、彼女はどこに……)

 図書室内の隅々を探していると、パチリと弾ける音に引き寄せられる。誰も座っていないソファの傍に、何かの紙片が乗ったサイドテーブルがあった。それは、封蝋が開けられた封筒と手紙だった。ラファエルは素早く紙片を手に取り、目を通す。そこに書かれていた名前――エドガー・ランベルトの文字を見た途端、頭の中がカッと熱くなった。

「ディナは……ディアナは、何か言っていなかったか?」
「え、あの……奥様は、温室の様子を見て来ると……」

 図書室を管理している侍女へ唸るように問いかけると、侍女は怯えた声でそう答える。ラファエルは爆発しそうになる魔力を必死に堪え、庭に飛び出すと裏門へ駆けた。普段は閉じられている門扉が開かれ、軋んだ音色を奏でていた。まるでエドガーに嘲笑されているようで、抑えていた魔力が爆発するように溢れていた。

 パキパキ、ピキピキと周囲のものが凍る音が響き渡る。整えられた植栽も、珍しい冬の薔薇も、握った門扉も氷の世界に染められていく。そして、傍にあった温室のガラスも、白い霜を纏ってひび割れる音が聞こえた。

「……エドガー・ランベルト。どこまでディナを利用するつもりだ……」

 低く、地を這うようなその声は、人ならざるものだと自覚していた。

 絶対零度の怒りと、狂おしいほどの愛執。最愛の人が再び傷つけられるのでは、という憤怒に、ラファエルは家令を大声で呼びつけた。

「騎士を武装させろ。ディアを助けに王都商業区へと向かう!」
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