【本編完結】妹に婚約者を寝取られましたが、幼馴染の冷徹公爵に溺愛されています

藍沢真啓/庚あき

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氷の公爵の逆鱗に触れ、王都は凍り付く

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 薄暗い酒場の空気は、湿った木材のかびた臭いと安酒の匂いが混ざり合い、私の鼻の奥を不快に侵食する。テーブルを挟んで向かいに座るエドガーの瞳は、この酒場に溶け込むように淀んでいた。たった短い期間で、記憶にある彼の姿は微塵もなかった。

「ねえ、ディアナ。君は幸せだと感じているのかな。あの氷のような男の隣で、恐怖に凍えながら過ごしているんだろう? ああ、嘘は言わなくてもいいよ。君を見ていれば分かるから」

 エドガーが這い寄るような声で紡ぐ言葉一つ一つが、ねっとりと絡みつく視線が、私の肌に汚泥を塗り付けられるような不快感をもたらす。天正魔法は依然、私に警告を鳴らしている。早くここから逃げるべきだと。だけど、私の内側はラファエルを蔑まれて、怒りに胃の腑が燃え滾っていた。

 この人は自分の理想の『ディアナ』を見ていて、目の前の私を見ているわけではない。

「エドガー様。私は今、ようやく自分の居場所で息をすることができました。あなたが言うような、冷たく凍えるような生活はしていません」
「強がらなくてもいい! 君はあの男に、ヒルトマンの罪を許してもらうための道具として買われただけだ。だって、そうだろう? 僕と君には五年の時間が積み重なっている。君の魔法を褒めた日を覚えているはずだ」

 エドガーがガタリと椅子を鳴らして身を乗り出してくる。吐き気を催す息が近くなり、私は拳を強く握ってから口を開いた。

「私の魔法を褒めてくれた初めての人は、あなたではありません、エドガー様。それは私の夫ラファエル・アインハルト公爵閣下ですわ」

 初めてラファエルの前で天正魔法を展開した十年前。漏れ出すラファエルの魔力に反応した天正魔法が、彼を癒すように光の粒を降らせた。凍り付いた月見草が、内側から淡く光り、幻想的な光景となった。

『ディナの魔法はとても美しくて、俺の心までも正してくれる。君と一緒にいる時だけ、俺の魔力が落ち着くんだ』

 心の底から安心した笑みを浮かべるラファエルに、私は初めて人に恋をすることを覚えた。そして、常に両親の愛はリリアにしか向かわなかった私の心が救われた。だから、勝手な記憶操作で私とラファエルの思い出を汚すエドガーが許せない。

「そうじゃない! あの男は、君を利用するからこそ、君と結婚をしたんだ! そうでなきゃ、何の益もない女を公爵が娶るわけないだろう!?」

 否定されて気分を害したのか、エドガーが顔を赤くして叫ぶ。その内容は、ラファエルを貶め、私を蔑んだ内容だった。少しでも改心したかもしれないと思った私が馬鹿だった。彼はどれだけ落ちぶれても変わらなかった。もう諭しても無駄だと、そう思った時。

 ――ドォォォォン!

 雷鳴のような轟音が酒場全体を揺らした。

 分厚い木製の扉が、蝶番だけでなく壁の一部を削り取りながら内側へと吹き飛んできた。爆風と共に流れ込んできたのは、冬の空気よりも痛いほどに冷たい風。

「な、なんだ!? 一体なにが起きた!」

 エドガーが悲鳴をあげ、私は何が起きたのか分からずに硬直していた。

 もうもうと立ち込める埃と、一瞬で店内を白く染め上げた冷気。その向こうから、硬い靴音が重く響く。いくつもの影が形を成し、はっきりと分かるようになると、私は思わず息を呑んだ。現れたのは、銀色の魔装具に身を包んだアインハルト公爵家私設騎士団の精鋭たちだったから。彼らの装備には永久氷晶がふんだんに使用され、鋭い銀色の光を放っている。彼らは抜剣こそしていないもののその全身から放たれる威圧感は、路地裏にいたならず者たちですら、声も出せずにひれ伏せさせるに十分だろう。

「……エル」

 騎士たちの列を割って黒衣を纏うラファエルが現れ、私の唇から微かなため息が漏れた。

 ラファエルは、いつもの洗練された公爵然とした姿ではなかった。漆黒の軍礼装の上に、アインハルト公爵家の紋章が刺繍された外套を羽織り、腰には魔力を帯びた長剣を佩いている。彼は宰相補佐でありながら、膨大な魔力を有しているため、何度か戦場に赴くことがあったのを本人から聞いていた。
 彼の瞳は、深淵の底に沈んだ氷山のように絶対零度に見える。けれど、その深い場所では、嫉妬に似た炎が燃え盛っているようだ。

「ディナ。そこを動くな」

 血を這うような、低く、けれど絶対的な拒絶を許さない声が私に投げかけられる。私は頷くことも言葉にするのも怖くて、ただラファエルを見つめるだけしかできなかった。

 この場を完全に支配したラファエルは、ゆっくりとこちらに歩いてくる。一歩踏み出すごとに床がパキパキと音を立てて凍り付き、テーブルに注がれた麦酒(エール)は瞬時に氷の塊になっていく。場末の酒場が一瞬にして、氷の世界と変わり、客だけでなく店の人も転がるように外へと出ていった。騎士たちも、今回のことに関係ないと理解しているのか、呆れたような目で流し見るだけ。

「ア……アインハルト公爵! なぜ、ここに……!」

 パキンッ

 テーブルの天板から氷の刃が突き出る。恐怖に腰が引けたエドガーは、椅子から転げ落ちるようにして腰を抜かしていた。

「ひっ……ひぃぃっ」

 喉から擦れたようなエドガーの悲鳴を気にすることなく、ラファエルの目はまっすぐに私だけ見つめ、ゆっくりと近づいてきた。

「なぜ、このような掃き溜めに足を運んだ。ディナ、君は自分がどれほどのを背負っているのか、まだ理解していないようだな」
「エル……」

 ラファエルの黒の皮手袋越しに、私の頬を包む。まだ感情が揺さぶられているのか、手袋越しでも彼の手はとても冷たかった。だけど私を見つめる瞳は、青く燃える炎のように熱く、私の心は痛いほど締め付けられていた。

「ごめんなさい……エル」
「……また、その話はあとにしよう」

 頷く私を、そっと立たせてくれた後、ラファエルは自分を盾にするように私の前に立った。

「ランベルト伯爵子息……いや、確か除籍をされて、ただのエドガーだったか。貴様が偽造したランベルト家の紋を使って、俺の妻を呼び出すとは。否定しても無駄だ、貴様が送った無礼な手紙は俺の手元にある」

 冷淡に話すラファエルの声を聞きながら、そういえば手紙を図書室に置いたままだったと思い出す。きっと、私がいなくなったことを心配して、手紙の存在を見つけたのだろう。

「い、いや、ただ僕はディアナに謝罪をしたかっただけで……。彼女も納得して、僕に会いに来てくれたんだ!」
「……謝罪? 納得……だと?」

 手紙には謝罪したい旨が綴られていたけど、彼が私にしたことは、謝罪とは程遠い行為だった。

 ラファエルはエドガーの手紙が本来の意図と違うのを把握しているのか、左手を軽く掲げる。刹那、エドガーの周囲の空間が、目に見えるほどの冷気によって圧縮された。

「貴様が語る謝罪などという戯言を、俺が信じると思うのか? それなら、どうして彼女がこんなに怯えているんだ。貴様は、彼女の情を利用し、ヒルトマンの汚泥から逃げようとしたのではないか。それによって彼女が傷つくのも構わずに。……それは、俺に対する宣戦布告と同義だ」
「ひ……あ、ああぁぁぁっ!」

 エドガーの叫び声が酒場に響き渡る。そっとラファエルの背中から顔を出すと、鋭い氷の刃がいくつも突き出し、エドガーの喉元で止まっているのを認めた。うわぁ、刺さったら痛そう……と、緊迫とは関係ない感想が脳裏をよぎっている内に、待機していた騎士たちが一斉にエドガーを包囲した。

「連れて行け。この男が二度と俺たちに近づくことすら不可能な場所へな。すでにランベルト伯爵家とは縁が切れている。この男はただの犯罪者だ」
「は! 閣下の仰せのままに!」

 騎士たちがラファエルに最敬礼をし、エドガーの両腕を荒っぽく掴み、引きずっていく。エドガーが何かを叫ぼうとしていたけど、ラファエルの魔法で口元を凍らされてしまい、空虚な呻きに終わった。

 逃げるタイミングを失った者たちも、アインハルト公爵の苛烈さに、息をひそめて震えていた。

 嵐が去ったような静寂の中、ラファエルがゆっくりと振り返り、私を見下ろしてくる。ディナ、と唇だけを動かして呼ぶその声に、私の中の天秤が大きく揺れ動いていた。怒り、嫉妬、安堵。それから、気が狂わんばかりの愛執。

「俺に黙って出ていった罰は、この程度の騒ぎでは終わらないぞ」

 そう、私だけに聞こえるように囁いたラファエルは、外套に私を包み込んだ。彼の胸に密着した耳に、ドクドクと早鐘を打つ鼓動が伝わる。ずっと冷静に対応していたラファエルは、私を心底心配していたのだと知り、罪悪感で泣きそうになった。

(泣いちゃダメ。エルを傷つけたのは事実だし、私のせいだもの)

 滲んだ涙を見せないようラファエルの胸に顔を埋めると、何かに気づいたらしい彼の大きな掌が私の背中を撫でてくれた。その温かさに、自分の行動が浅慮だったと、反省が胸を占めた。

 外に出ると、夕闇に染まった王都の街に、アインハルト公爵家の騎士団たちが整然と並んでいた。

「屋敷に帰るぞ、ディナ。今夜は一睡もできると思うな」

 熱を帯びた低い声に、私のお腹の奥がキュンと疼く。それは期待なのか、それとも恐怖なのか。

 馬車へと向かう足元には、漏れ出たラファエルの魔力が、氷の絨毯となっている。月の光に反射して、残酷なまでに輝く。私はラファエルの手を握り、彼の鼓動に耳を傾ける。この直情的で、重すぎる彼の愛を、受け止める覚悟を噛みしめていた。

「……はい。ごめんなさい、エル」

 乗り込んだ馬車は静かに、でも確実に、私たちをアインハルト公爵邸へと走っていった。
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