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6慣れた頃が
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鼓を家に迎えて数日経った。彼は苦労しながら家電の使い方を学び、よく働いた。彼にとっては新鮮で驚愕なことも多かっただろうが、よくやっている方だとひなかは思った。
『拙以外の忍ですか?』
以前、小澤の一味から助けてくれた忍者について鼓に聞いたが、彼も知らない様子であった。
『一応いるにはいますが……まきびしをその様な使い方はしません。追走を妨げるのならばともかく……』
『やっぱり?』
自称忍者の彼からしてもあの忍者のまきびしはおかしいらしい。やはりあれは逃げる途中に撒くものだ。というか、彼以外にも忍者がいるという点は事実というのが驚きだ。
「あー、よく寝た……」
鼓が家にいるという状況に慣れてきて、ひなかも熟睡できるようになってきた。目を覚まして一階に降りると、違和感と懐かしさが込み上げる。
「あれ?」
そういえばいつもは鼓が朝食を作っているはずだ。だが、何も物音がしない。炊飯器の予約機能でご飯は炊いているが、それ以外の料理をする様子がない。最初は冷蔵庫の食材を食材と認知出来ずに米を焚くしかなかった彼も、味噌汁からおひたしまで和食なら味が薄いことを除けばある程度出来ることが判明した。
「鼓?」
ひなかがキッチンを覗くと、鼓が倒れていた。倒れる、というよりは座り込んで動けなくなったという方が正確だろう。
「鼓! どうしたの?」
「あ……るじ……ど……」
顔が真っ赤で息苦しそうな様子を見せる鼓。まともに返事をすることさえできない。測らなくても分かる程度の高熱を出しており、風邪を酷く拗らせた様だ。
「風邪? 無理しないで」
「いえ、……せつは……」
うわ言の様に呟く鼓に肩を貸し、両親の寝室まで連れていく。この状態でソファに寝かせるのは万全とは言えないだろう。彼の身体はかなり軽く、平均的な女子であるひなかでも容易に二階の寝室まで連れていけた。
両親の寝室はダブルベッドになっていて、長らく使われていないが綺麗に整ってはいた。
「あるじどの……拙のことは……」
「いいから、ここで寝てて」
こんな状態でも忍者としての使命を全うしようとする鼓にひなかは優しく声を掛ける。もう彼がただの本格派忍者ごっことは思っていないが、こうなっても無理をしようとするなどやはり尋常ではないと感じていた。
幸い、一人暮らしなので風邪に備えて様々なものが常備してあった。一人暮らしで風邪を引くと買い物にも行けないので、こうした準備は大事なのだ。氷枕と冷えピタで熱を冷まし、薬を飲ませる。
「もうしわけ……ござ……」
「いいからいいから。しっかり休んで元気になりなさい。今はそれが命令」
錠剤を初めて見るのか、水で飲まずに噛んで呑み込んでいた。治るには栄養も必要なので、パウチのお粥を温めてスポーツドリンクも用意する。
「食べな食べな」
お粥を流し込み、回復の準備を整えてやる。鼓も力が無いのか、特に抵抗する様子もなくされるがままだ。ほぼ水みたいなものであったが、それでも彼は満腹を覚えたのか瞼を閉じて寝息を立て始めた。
「これでよし……」
薬を飲んで寝ればよくなるだろうと思い、この状態で学校に向かおうとする。お粥の器を片付け、登校の準備をして出掛ける前に一応様子を見ておく。
「じゃあ、私学校行くから休んでて」
眠ってしまって聞こえているかは分からないが、伝えることは伝える。
「……さ……い……」
「ん?」
鼓が何かを呟くので、ひなかは寄って聞きにいく。眠ってはいたが、悪い夢でも見ているのだろう。うなされていて誰かに謝罪を続けていた。
「ごめん……なさい……つぎは、ちゃんと……」
こんなものを聞かされては、心配で学校など行けなかった。ひなかは休むことにして、一日鼓の様子を見てあげることにした。
「ちゃんと治るよね……?」
マメに冷えピタと氷枕を変えてやり、薬やスポーツドリンクを飲ませる。しかし一向に体調がよくなる気配がない。山の生活はかなり厳しかったのか、小柄でやせっぽちな体型といい見た目以上に衰弱していたのだろう。ただの風邪だとしても油断出来ず、学校を休む判断が正しかったとひなかは思った。
この調子では、学校から帰る頃には冷たくなっていた恐れさえある。
鼓を心配して付きっ切りの看病をしていると、いつしか夕方になっていた。彼の体調は改善の兆しが見られず、殆ど起きる様子さえない。
「鼓……」
果たしてこのままでいいのだろうか、救急車を呼ぶべきか真剣に悩み始めるひなか。いやまさか風邪でここまで悪化するはずはないとも思っているが、どうにも一晩持つのか不安であった。
「ん?」
彼女の思考を打ち切る様に、家のチャイムが鳴る。こんな時に誰だろう。そんなことを思い、ひなかは来客に対応する。
「はーい、ってなんだあんたらか……」
来たのはクラスメイト達であった。
「ほら、今日の授業のプリントとか届けに来たよって……全然大丈夫そうじゃない」
ひなかの様子を見たクラスメイトはそう言うが、風邪を引いているのは彼女ではないので当たり前だ。
「いや、鼓が……」
「あの忍者ちゃんが? そんなに悪いの?」
「風邪だと思うんだけど全然よくならなくて……」
一日見ていたが、薬もマメに飲ませたのに全く効き目がない。この切羽詰まった状況で他の人の視点を得られるのは非常にありがたい。
「そんなに?」
「うん……病院に連れて行くべきか……」
「あー、悩む! 救急車ってほどじゃないかもしれないけど……」
こういう時、家に車を出せる大人がいないと困る。自宅療養以上救急車未満という絶妙なラインにいると、判断に悩んでしまう。加えて、鼓はどこの病院でも初診だ。掛かり付けがいないので、どの病院に連れていくのが正解なのか分からない。
「ん?」
そんな困った状態の中、一台の黒塗りの高級車が家の前に停まった。中から出て来たのはカリンである。手には相当な大病でもない限り見ないフルーツの籠盛り。一体何をしに来たのか。
「あなた達、不審者も出て危ないというのに何しているんです」
「そりゃこっちのセリフ。一体私何病だと思われてんのよ」
ただの風邪には大袈裟なお見舞いにひなかは呆れる。
「格の違いとやらをお見せいたしましてよ」
「あっー!」
と、そこで急にクラスメイトの一人が声を上げる。カリンとひなかは突然のことに心底びっくりする。
「何ですかいきなり!」
「車! ちょうどよかった!」
そう、カリンは車に乗って来ている。もう渡りに船とはこのことでしかない。ひなかも察して頼む。
「そうだ、ちょっと頼めるかな。病院まで鼓を連れて行きたいんだけど」
「その程度でしたらお安い御用でしてよ」
「ありがとう!」
カリンは掌コロコロするまでもなく案外頼めば常識的なお願いは聞いてくれる方だ。
「ところでどの病院ですの?」
「いや……それが鼓って掛かり付けとかないからどこ行ったらいいか分からなくて」
が、まだ問題は残っていた。内科に行けばいいのだろうが、どこに連れていけばいいのか分からない。そもそも保険証も無い初診の身分不定な人間を診てもらえるのだろうか。
「でしたらワタクシの一族が代々お世話になっている名医をご紹介しましょう」
「ほんと助かる!」
カリンからしたら単なる地位やコネのひけらかしなのだろうが、今は助かる以外の何物でもない。
「早速例の部外者……鼓さんをお連れしましょう。紺野!」
「はい、お嬢様」
カリンは運転手に命じて、鼓を車に運ばせる。
「さすが私の付き人は力持ちですわね」
「いえ、この子結構軽いですよ」
「意識の無い人間はいつもより重くなります」
ちょくちょく自慢を挟みつつ、車はひなかと鼓を乗せて出発。さすがにこの道が狭い日本でリムジンとはいかないので、クラスメイトとはここで分かれる。
「紺野の運転に加え、アウディR8クーペのフルオプション……救急車以上の快適さをお約束いたします」
「二人乗りなんて思い切った車ね……」
元々大人数で乗ることを想定していない為ぎゅうぎゅう詰めだが、今はそんなこと言っていられない。警察に捕まらないことを祈るだけだ。
「うちには父が乗るもの、母が買い物に使うもの、そして家族で乗るものとこれで四台の高級車があります」
「車あると便利ねー。まぁあっても運転手いないんじゃどうしようもないけど」
車は迷うことなく病院へ到着。鼓は運転手が背負い、受付の人がカリンの顔を見ただけですぐに診察室へ通ることが出来た。
「とりあえず処置しますね」
「お願いします」
設備の整った大きな病院であったおかげで、点滴を打って色々と検査をしてもらえることになった。医者の手に届けば少なくとも命の心配はないはずだ。呼吸が弱まっていたので、人口呼吸器も付けられている。判断が遅ければ、あの時カリンが来なければ大変なことになっていたかもしれない。
「でも凄いわね……顔だけでここまでしてもらえるなんて」
「当然ですわ!」
素直に感心するひなかにとても嬉しそうなカリン。顔パスで本人ではなく連れて来た人間がこんな手厚い処置を受けられるなど、やはりハメフラ悪役令嬢は伊達ではない。
「これで明日から学校に来れますわね」
「いや、私は鼓を見ているよ」
一安心、と行きたいところだがまだ安心は出来ない。
「ワタクシの掛かり付けが信用できないのですか?」
「いや、鼓は他に身よりがないからさ……」
別にこの病院を信頼していないわけではないが、鼓はひなか以外に見守ってくれる人がいない。体調が悪くなると心細くなる気持ちは分かるので、容態が安定するまでは近くにいてあげたいとは思う。学校は休むことになるが、皆勤賞を狙っているわけではない上に出席日数も危なくはないので問題はない。
「では、ワタクシもお付き合いいたしますわ」
「え?」
カリンはひなかに付き添うと言う。鼓との関係が全くない彼女がそこまでするとは一体何が目的なのか。
「勝負のこと、忘れてませんわよね?」
「ああ、そんなことあったね」
「勝負に平等を期すため、ワタクシだけ授業を受けるわけにはいきませんもの」
カリンは勝負の公平性を保つことを目指していた。妙に律儀なところがある。こうして、鼓は何とか一命を取り留めることが出来た。
その後、鼓は入院して療養することになった。検査の結果も次第に明らかになっていくが、そこでひなかは信じられないことを聞かされることとなった。
「鼓さんはインフルエンザでした」
「重症化したってことです?」
診察室でレントゲンなどを見せられつつ、鼓の状態を説明される。
「そうなんですが……血液を検査したところ全くインフルエンザの抗体が無いんです」
「抗体が?」
抗体が無いとは、どういうことなのだろうか。文字通りのことなんだろうが、少し奇妙に感じる。それはつまり、彼の十三年に満たない人生でインフルエンザになったことがないということなのか。
「はい」
「それってインフルエンザになったこと無かったんじゃない? うちの学校にもインフルエンザなったことないって子いますけど」
「いえ、そういう人は感染してはいますが発症していないのです。それに抗体というのはある程度遺伝するものでもあるので……全くないというのはおかしいのです」
今まで世間から離れていると鼓のことを感じてはいたが、まさか血液の中まで浮世離れとは。
「もっと正確なことを言いますと、インフルエンザの中でも最近のタイプ……それも古くてスペイン風邪辺りのタイプへの免疫がないのです。インフルエンザというのは変異していきますから……それに、ジフテリア、百日咳、破傷風への抗体もなく、乳児期の四種混合ワクチンを接種していない可能性もあります」
「そうなんですか……」
後ろの話は何となく納得が出来た。彼の状況から察するに余りある。
「抗体の無さと慢性的な栄養失調、過労が原因で重症化してしまった様です。あなたの自宅で静養したおかげで一命を取り留めた様なものですが……」
「うちに来てよかった……」
ひなかが命令で食事や睡眠をさせたおかげで死を免れた。まさに運命というべきか。
「それに左腕の義手なのですが、外そうにも糸で皮膚に縫い付けられていまして……その傷口から見るに切断した痕を焼いて止血したと思われるんです」
そして義手についても明かされる。かなり力技で接合しており、何かの怪我で置き換えたにしてもちゃんとした医療が受けられない環境にいたことは間違いない。
「しかしあの義手は五指に関節が通っていますが、かなり保持が緩いんです。木製ですし……どこのメーカーが作ったのでしょう?」
「私にもそれがさっぱり……本当に生身みたいに動かしてたから……」
その一方で、義手は精巧という奇妙なバランス。鼓はマフラーを硬化させていたのでその技術を応用したのだろうと思われるが、あれ一個しかないとなると分解して確かめることも出来ない。あの義手が無ければ片腕を失うも同然なので、生活に不便が出る。
「まぁとにかく、うちでしっかり治療しますのでご安心ください」
「よろしくお願いします」
診察室を出て、ひなかは真っすぐ鼓の病室へ向かう。なんと個室まで用意してくれるという好待遇。カリンの見栄っ張りが今はありがたい。
「鼓、調子はどう?」
「あ……主殿……ご迷惑を……」
彼はかなり今回の件を気にしていたが、もうそんなことは今更だ。こんなところで死なれる方が大変である。
「気にしないで。困った時はお互い様ってやつ。最初に会った時助けてくれたじゃん」
よく考えれば不良グループも場合によっては命に関わっていたと思うと、借りを返せてよかった。
「ですが……」
「はい命令。ゆっくり休んで」
起き上がろうと無理をするので、ベッドに倒して寝かしつける。これならもう学校に行っても大丈夫そうだ。
「そうだ。私明日から学校行くから、お医者さんや看護師さんの言うことしっかり聞いて元気になってね。お見舞いには来るから」
「拙の為にご足労を……」
「いいのいいの、どうせ暇だし」
これで一旦は落ち着いた。快気祝いもしてあげたいが、それは試験が終わって鼓の落ち着く先が決まってからだ。病院を出ると、ひなかはカリンに電話する。律儀に休んでくれただけでなく、毎日お見舞いにも来ていたと鼓が語る。
「もしもし、おれおれ」
『なんで特殊詐欺みたいな出だしなんですか! 受信画面でバレバレですわよ!』
いつものやり取りを済ませ、必要なことを伝えるだけ伝える。
「明日から私学校いくね」
『そうですか。鼓さんは元気になりましたでしょう。さすがはうちの掛かり付けですわ』
公平を期すという理由で学校を休んだので、ちゃんとそれは伝えないと不誠実になる。車を出してくれた上に病院まで紹介してくれたので恩さえ出来た。
「うん、ありがとう。ほんと助かったよ」
『そうでしょうそうでしょう! では勝負を楽しみにしてますわよ!』
高笑いして電話を切るカリン。少しウザいとこもあるが、悪い奴ではないのでひなかも友達付き合いを続けている。今回はそれがいい方向に繋がった。カリンが辿り着いた鼓の正体は知りたいが、それは勝負に勝った上で聞きだせばいい。
『拙以外の忍ですか?』
以前、小澤の一味から助けてくれた忍者について鼓に聞いたが、彼も知らない様子であった。
『一応いるにはいますが……まきびしをその様な使い方はしません。追走を妨げるのならばともかく……』
『やっぱり?』
自称忍者の彼からしてもあの忍者のまきびしはおかしいらしい。やはりあれは逃げる途中に撒くものだ。というか、彼以外にも忍者がいるという点は事実というのが驚きだ。
「あー、よく寝た……」
鼓が家にいるという状況に慣れてきて、ひなかも熟睡できるようになってきた。目を覚まして一階に降りると、違和感と懐かしさが込み上げる。
「あれ?」
そういえばいつもは鼓が朝食を作っているはずだ。だが、何も物音がしない。炊飯器の予約機能でご飯は炊いているが、それ以外の料理をする様子がない。最初は冷蔵庫の食材を食材と認知出来ずに米を焚くしかなかった彼も、味噌汁からおひたしまで和食なら味が薄いことを除けばある程度出来ることが判明した。
「鼓?」
ひなかがキッチンを覗くと、鼓が倒れていた。倒れる、というよりは座り込んで動けなくなったという方が正確だろう。
「鼓! どうしたの?」
「あ……るじ……ど……」
顔が真っ赤で息苦しそうな様子を見せる鼓。まともに返事をすることさえできない。測らなくても分かる程度の高熱を出しており、風邪を酷く拗らせた様だ。
「風邪? 無理しないで」
「いえ、……せつは……」
うわ言の様に呟く鼓に肩を貸し、両親の寝室まで連れていく。この状態でソファに寝かせるのは万全とは言えないだろう。彼の身体はかなり軽く、平均的な女子であるひなかでも容易に二階の寝室まで連れていけた。
両親の寝室はダブルベッドになっていて、長らく使われていないが綺麗に整ってはいた。
「あるじどの……拙のことは……」
「いいから、ここで寝てて」
こんな状態でも忍者としての使命を全うしようとする鼓にひなかは優しく声を掛ける。もう彼がただの本格派忍者ごっことは思っていないが、こうなっても無理をしようとするなどやはり尋常ではないと感じていた。
幸い、一人暮らしなので風邪に備えて様々なものが常備してあった。一人暮らしで風邪を引くと買い物にも行けないので、こうした準備は大事なのだ。氷枕と冷えピタで熱を冷まし、薬を飲ませる。
「もうしわけ……ござ……」
「いいからいいから。しっかり休んで元気になりなさい。今はそれが命令」
錠剤を初めて見るのか、水で飲まずに噛んで呑み込んでいた。治るには栄養も必要なので、パウチのお粥を温めてスポーツドリンクも用意する。
「食べな食べな」
お粥を流し込み、回復の準備を整えてやる。鼓も力が無いのか、特に抵抗する様子もなくされるがままだ。ほぼ水みたいなものであったが、それでも彼は満腹を覚えたのか瞼を閉じて寝息を立て始めた。
「これでよし……」
薬を飲んで寝ればよくなるだろうと思い、この状態で学校に向かおうとする。お粥の器を片付け、登校の準備をして出掛ける前に一応様子を見ておく。
「じゃあ、私学校行くから休んでて」
眠ってしまって聞こえているかは分からないが、伝えることは伝える。
「……さ……い……」
「ん?」
鼓が何かを呟くので、ひなかは寄って聞きにいく。眠ってはいたが、悪い夢でも見ているのだろう。うなされていて誰かに謝罪を続けていた。
「ごめん……なさい……つぎは、ちゃんと……」
こんなものを聞かされては、心配で学校など行けなかった。ひなかは休むことにして、一日鼓の様子を見てあげることにした。
「ちゃんと治るよね……?」
マメに冷えピタと氷枕を変えてやり、薬やスポーツドリンクを飲ませる。しかし一向に体調がよくなる気配がない。山の生活はかなり厳しかったのか、小柄でやせっぽちな体型といい見た目以上に衰弱していたのだろう。ただの風邪だとしても油断出来ず、学校を休む判断が正しかったとひなかは思った。
この調子では、学校から帰る頃には冷たくなっていた恐れさえある。
鼓を心配して付きっ切りの看病をしていると、いつしか夕方になっていた。彼の体調は改善の兆しが見られず、殆ど起きる様子さえない。
「鼓……」
果たしてこのままでいいのだろうか、救急車を呼ぶべきか真剣に悩み始めるひなか。いやまさか風邪でここまで悪化するはずはないとも思っているが、どうにも一晩持つのか不安であった。
「ん?」
彼女の思考を打ち切る様に、家のチャイムが鳴る。こんな時に誰だろう。そんなことを思い、ひなかは来客に対応する。
「はーい、ってなんだあんたらか……」
来たのはクラスメイト達であった。
「ほら、今日の授業のプリントとか届けに来たよって……全然大丈夫そうじゃない」
ひなかの様子を見たクラスメイトはそう言うが、風邪を引いているのは彼女ではないので当たり前だ。
「いや、鼓が……」
「あの忍者ちゃんが? そんなに悪いの?」
「風邪だと思うんだけど全然よくならなくて……」
一日見ていたが、薬もマメに飲ませたのに全く効き目がない。この切羽詰まった状況で他の人の視点を得られるのは非常にありがたい。
「そんなに?」
「うん……病院に連れて行くべきか……」
「あー、悩む! 救急車ってほどじゃないかもしれないけど……」
こういう時、家に車を出せる大人がいないと困る。自宅療養以上救急車未満という絶妙なラインにいると、判断に悩んでしまう。加えて、鼓はどこの病院でも初診だ。掛かり付けがいないので、どの病院に連れていくのが正解なのか分からない。
「ん?」
そんな困った状態の中、一台の黒塗りの高級車が家の前に停まった。中から出て来たのはカリンである。手には相当な大病でもない限り見ないフルーツの籠盛り。一体何をしに来たのか。
「あなた達、不審者も出て危ないというのに何しているんです」
「そりゃこっちのセリフ。一体私何病だと思われてんのよ」
ただの風邪には大袈裟なお見舞いにひなかは呆れる。
「格の違いとやらをお見せいたしましてよ」
「あっー!」
と、そこで急にクラスメイトの一人が声を上げる。カリンとひなかは突然のことに心底びっくりする。
「何ですかいきなり!」
「車! ちょうどよかった!」
そう、カリンは車に乗って来ている。もう渡りに船とはこのことでしかない。ひなかも察して頼む。
「そうだ、ちょっと頼めるかな。病院まで鼓を連れて行きたいんだけど」
「その程度でしたらお安い御用でしてよ」
「ありがとう!」
カリンは掌コロコロするまでもなく案外頼めば常識的なお願いは聞いてくれる方だ。
「ところでどの病院ですの?」
「いや……それが鼓って掛かり付けとかないからどこ行ったらいいか分からなくて」
が、まだ問題は残っていた。内科に行けばいいのだろうが、どこに連れていけばいいのか分からない。そもそも保険証も無い初診の身分不定な人間を診てもらえるのだろうか。
「でしたらワタクシの一族が代々お世話になっている名医をご紹介しましょう」
「ほんと助かる!」
カリンからしたら単なる地位やコネのひけらかしなのだろうが、今は助かる以外の何物でもない。
「早速例の部外者……鼓さんをお連れしましょう。紺野!」
「はい、お嬢様」
カリンは運転手に命じて、鼓を車に運ばせる。
「さすが私の付き人は力持ちですわね」
「いえ、この子結構軽いですよ」
「意識の無い人間はいつもより重くなります」
ちょくちょく自慢を挟みつつ、車はひなかと鼓を乗せて出発。さすがにこの道が狭い日本でリムジンとはいかないので、クラスメイトとはここで分かれる。
「紺野の運転に加え、アウディR8クーペのフルオプション……救急車以上の快適さをお約束いたします」
「二人乗りなんて思い切った車ね……」
元々大人数で乗ることを想定していない為ぎゅうぎゅう詰めだが、今はそんなこと言っていられない。警察に捕まらないことを祈るだけだ。
「うちには父が乗るもの、母が買い物に使うもの、そして家族で乗るものとこれで四台の高級車があります」
「車あると便利ねー。まぁあっても運転手いないんじゃどうしようもないけど」
車は迷うことなく病院へ到着。鼓は運転手が背負い、受付の人がカリンの顔を見ただけですぐに診察室へ通ることが出来た。
「とりあえず処置しますね」
「お願いします」
設備の整った大きな病院であったおかげで、点滴を打って色々と検査をしてもらえることになった。医者の手に届けば少なくとも命の心配はないはずだ。呼吸が弱まっていたので、人口呼吸器も付けられている。判断が遅ければ、あの時カリンが来なければ大変なことになっていたかもしれない。
「でも凄いわね……顔だけでここまでしてもらえるなんて」
「当然ですわ!」
素直に感心するひなかにとても嬉しそうなカリン。顔パスで本人ではなく連れて来た人間がこんな手厚い処置を受けられるなど、やはりハメフラ悪役令嬢は伊達ではない。
「これで明日から学校に来れますわね」
「いや、私は鼓を見ているよ」
一安心、と行きたいところだがまだ安心は出来ない。
「ワタクシの掛かり付けが信用できないのですか?」
「いや、鼓は他に身よりがないからさ……」
別にこの病院を信頼していないわけではないが、鼓はひなか以外に見守ってくれる人がいない。体調が悪くなると心細くなる気持ちは分かるので、容態が安定するまでは近くにいてあげたいとは思う。学校は休むことになるが、皆勤賞を狙っているわけではない上に出席日数も危なくはないので問題はない。
「では、ワタクシもお付き合いいたしますわ」
「え?」
カリンはひなかに付き添うと言う。鼓との関係が全くない彼女がそこまでするとは一体何が目的なのか。
「勝負のこと、忘れてませんわよね?」
「ああ、そんなことあったね」
「勝負に平等を期すため、ワタクシだけ授業を受けるわけにはいきませんもの」
カリンは勝負の公平性を保つことを目指していた。妙に律儀なところがある。こうして、鼓は何とか一命を取り留めることが出来た。
その後、鼓は入院して療養することになった。検査の結果も次第に明らかになっていくが、そこでひなかは信じられないことを聞かされることとなった。
「鼓さんはインフルエンザでした」
「重症化したってことです?」
診察室でレントゲンなどを見せられつつ、鼓の状態を説明される。
「そうなんですが……血液を検査したところ全くインフルエンザの抗体が無いんです」
「抗体が?」
抗体が無いとは、どういうことなのだろうか。文字通りのことなんだろうが、少し奇妙に感じる。それはつまり、彼の十三年に満たない人生でインフルエンザになったことがないということなのか。
「はい」
「それってインフルエンザになったこと無かったんじゃない? うちの学校にもインフルエンザなったことないって子いますけど」
「いえ、そういう人は感染してはいますが発症していないのです。それに抗体というのはある程度遺伝するものでもあるので……全くないというのはおかしいのです」
今まで世間から離れていると鼓のことを感じてはいたが、まさか血液の中まで浮世離れとは。
「もっと正確なことを言いますと、インフルエンザの中でも最近のタイプ……それも古くてスペイン風邪辺りのタイプへの免疫がないのです。インフルエンザというのは変異していきますから……それに、ジフテリア、百日咳、破傷風への抗体もなく、乳児期の四種混合ワクチンを接種していない可能性もあります」
「そうなんですか……」
後ろの話は何となく納得が出来た。彼の状況から察するに余りある。
「抗体の無さと慢性的な栄養失調、過労が原因で重症化してしまった様です。あなたの自宅で静養したおかげで一命を取り留めた様なものですが……」
「うちに来てよかった……」
ひなかが命令で食事や睡眠をさせたおかげで死を免れた。まさに運命というべきか。
「それに左腕の義手なのですが、外そうにも糸で皮膚に縫い付けられていまして……その傷口から見るに切断した痕を焼いて止血したと思われるんです」
そして義手についても明かされる。かなり力技で接合しており、何かの怪我で置き換えたにしてもちゃんとした医療が受けられない環境にいたことは間違いない。
「しかしあの義手は五指に関節が通っていますが、かなり保持が緩いんです。木製ですし……どこのメーカーが作ったのでしょう?」
「私にもそれがさっぱり……本当に生身みたいに動かしてたから……」
その一方で、義手は精巧という奇妙なバランス。鼓はマフラーを硬化させていたのでその技術を応用したのだろうと思われるが、あれ一個しかないとなると分解して確かめることも出来ない。あの義手が無ければ片腕を失うも同然なので、生活に不便が出る。
「まぁとにかく、うちでしっかり治療しますのでご安心ください」
「よろしくお願いします」
診察室を出て、ひなかは真っすぐ鼓の病室へ向かう。なんと個室まで用意してくれるという好待遇。カリンの見栄っ張りが今はありがたい。
「鼓、調子はどう?」
「あ……主殿……ご迷惑を……」
彼はかなり今回の件を気にしていたが、もうそんなことは今更だ。こんなところで死なれる方が大変である。
「気にしないで。困った時はお互い様ってやつ。最初に会った時助けてくれたじゃん」
よく考えれば不良グループも場合によっては命に関わっていたと思うと、借りを返せてよかった。
「ですが……」
「はい命令。ゆっくり休んで」
起き上がろうと無理をするので、ベッドに倒して寝かしつける。これならもう学校に行っても大丈夫そうだ。
「そうだ。私明日から学校行くから、お医者さんや看護師さんの言うことしっかり聞いて元気になってね。お見舞いには来るから」
「拙の為にご足労を……」
「いいのいいの、どうせ暇だし」
これで一旦は落ち着いた。快気祝いもしてあげたいが、それは試験が終わって鼓の落ち着く先が決まってからだ。病院を出ると、ひなかはカリンに電話する。律儀に休んでくれただけでなく、毎日お見舞いにも来ていたと鼓が語る。
「もしもし、おれおれ」
『なんで特殊詐欺みたいな出だしなんですか! 受信画面でバレバレですわよ!』
いつものやり取りを済ませ、必要なことを伝えるだけ伝える。
「明日から私学校いくね」
『そうですか。鼓さんは元気になりましたでしょう。さすがはうちの掛かり付けですわ』
公平を期すという理由で学校を休んだので、ちゃんとそれは伝えないと不誠実になる。車を出してくれた上に病院まで紹介してくれたので恩さえ出来た。
「うん、ありがとう。ほんと助かったよ」
『そうでしょうそうでしょう! では勝負を楽しみにしてますわよ!』
高笑いして電話を切るカリン。少しウザいとこもあるが、悪い奴ではないのでひなかも友達付き合いを続けている。今回はそれがいい方向に繋がった。カリンが辿り着いた鼓の正体は知りたいが、それは勝負に勝った上で聞きだせばいい。
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瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
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