隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛

冬野まゆ

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1巻

1-1

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   プロローグ 不埒ふらちな罠は夜に溶け込む


 弄月荘ろうげつそう――美しい日本庭園と、行き届いたサービスで高い支持を受ける老舗しにせホテルだ。外国人観光客の人気も高い。
 古くは月の名所として俳句にまれたこともある日本庭園で、戦前は貴族院の議長を務めた大物政治家の別邸だった。しかし戦後、観光事業やホテルを多角経営する真嶋ましま興業、後のマシマホールディングスの所有となり、併設したホテルの一部となった。現在は庭園に手を加えて宴会場や結婚式場としても利用されている。


「……」

 七月のある夜。
 八方塞がりな状況に煮詰まって必要のない検索をしていた千羽香奈恵せんばかなえは、深いため息と共に目頭を揉んだ。
 人気ひとけのないオフィスは節電のために半分照明が落とされていて、それが香奈恵の気持ちをより一層陰鬱いんうつなものにしている。
 パソコンのモニターに表示されているのは、ホテルめぐりが趣味という個人ブロガーのサイトで、弄月荘の簡単な解説文の後には、ありがたくもホテルをめる文が続く。
 しかもその書き込みの下には、弄月荘で挙式をした人からの賞賛のリプライが付けられていた。
 普段なら仕事のはげみになるそれらの言葉が、今はただただ辛い。

「明日の式、どうしよう……」

 香奈恵は、パソコン上部に表示される時間を確認してうなる。
 というのも、明日、香奈恵がプランニングを担当した挙式で、生演奏する予定のバンドの手配ができていないからである。
 正しくは、香奈恵は新郎新婦の要望に沿ったジャズバンドの手配をとどこおりなく済ませていた。しかし、直前になってそのバンドメンバーの半数が体調を崩し、当日の演奏を断念せざるを得なくなったのである。
 バンド側がその旨を伝えてきたのは式の二日前。その時点で香奈恵に情報が上がってきていれば、代わりのバンドを手配することもできただろう。
 だが連絡を受けた部下の西村晶子にしむらあきこが、そのことをすっかり忘れていたのを今日の帰り際になって思い出し、香奈恵に報告してきたのである。
 しかも本人は、青くなる香奈恵をよそに「私がいてもなんの役にも立ちませんし、約束があるので対応はチーフにお任せします」と、定時でいそいそと帰ってしまった。
 晶子は数日前から、今日は優良物件との合コンがあるとはしゃいでいた。そんな彼女を無理に残らせたところで、恨み言を口にするだけだろうと引き止めなかったけれど、彼女がちゃんと連絡してくれていたらという香奈恵の恨み言はどうしても残る。

「ついでに言うと、これはプチブライダルの仕事じゃないし」

 一人でマウスを操作しているうちに、つい愚痴が口からあふれてしまう。
 香奈恵は今、この弄月荘のブライダル部門で自分が立案からたずさわっているプチブライダルという企画のチーフを任されている。とはいえ、残念ながらプチブライダルの仕事はそれほどないため、普段は香奈恵とその下で働く二人の部下は、他のブライダルスタッフと一緒の業務をになうことが多い。
 ――それにしても、西村さんって堀江ほりえさんを狙っているんじゃなかったの?
 情報を求めてマウスを操作しつつ、そんなどうでもいいことを考える。
 堀江さんこと堀江雅之まさゆきは、晶子同様、香奈恵の部下の一人だ。部下といっても、中途採用で入ってきた雅之の方が、二十七歳の香奈恵より六歳ほど年上である。
 外資系大手金融機関からキャリアチェンジしてきた彼は、長身で均整の取れた体つきをしていながら、野暮ったい眼鏡と長めで無頓着むとんちゃくな髪型のせいで、全体の印象をやや残念なものにしている。イケメンといった印象はないが、ふとした拍子に眼鏡の隙間から見える切れ長の目は綺麗な形をしていた。
 ついでに言うと性格は至って温厚で、仕事でがつがつ前に出てくるようなこともなく、性別や年齢を気にせずに上司の香奈恵を立ててくれる良い部下である。
 カテゴリーで分類するなら、「性格イケメン」といったイメージだろうか。
 そんな雅之に、晶子はことあるごとにアプローチしていた。
 常々、「夢はイケメンセレブとの結婚!」と豪語して、挙式の打ち合わせに来る新郎にまで色目を使うような晶子の行動としては、少々意外である。もしかすると、彼女にとって恋愛と結婚は別なのかもしれない。
 なんにせよ、今日はその雅之が休みだったこともあり、晶子は朝からやる気がなく、頭の中は夜の合コンのことでいっぱいのようだった。
 雅之が出勤していれば、少しくらいはバンドを探す手伝いをしてくれたかもしれないけど……

「いかん、いかん」

 当てのない探し物に疲れた思考は、どうでもいいことばかり考えてしまう。
 香奈恵は軽く首を横に振り、思考を引き戻す。
 このままでは、明日の披露宴ひろうえんの参列者だけでなく、ネットで評価してくれる人たちの思いまで裏切ってしまうことになる。
 自分のせいで弄月荘の評判を落とすわけにはいかないし、それ以上に、あれだけ入念な打ち合わせを重ねてきた新郎新婦をがっかりさせてはならない。
 なにか打開策はないだろうかと、再び思いつくワードを打ち込んではマウスを動かしていると、オフィスの扉が開く音がした。
 もしかして晶子が戻ってきたのだろうかと振り返ると、ドアノブに手を掛け、片足だけ事務所に踏み入れた状態で動きを止めた男性と目が合った。

「なんだ、堀江さんか……」

 野暮ったい眼鏡をかけた背の高い男性の姿に、ついそんな言葉が漏れてしまう。

「なんだとは、失礼ですね。他の誰かを期待していたんですか?」

 冗談めかした口調で抗議してくる雅之は、どこかいつもと雰囲気が違って見える。
 その答えを求めて、香奈恵は雅之の頭の上からつま先へと視線を走らせた。
 今日の彼は、野暮ったい眼鏡はいつもと同じだけど、普段は無頓着むとんちゃくな印象の髪をワックスで整え、服は清潔感のある白地のTシャツに黒のセットアップを着ている。
 髪型と服装だけで、人はここまで印象が変わるのかと驚いていると、雅之がクシャリと、前髪を掻き上げて笑った。

「……? 俺の顔になにかついてる?」
「……いいえ」

 大人の余裕を感じさせるその笑い方に、香奈恵は妙にソワソワした気分になってパソコンへ向き直る。
 ――どうやら彼は、休日をしっかり楽しんできたらしい。
 理解不能な違和感の理由を、そういうことにしておく。なにより、今はそんなことに気を取られている場合ではないのだ。

「チーフはまだ仕事?」

 オフィスに入ってきた雅之が背後に立つ気配がする。

「ええ。少しトラブルがあって。……堀江さんは、休みの日にどうしたんですか?」

 軽く腰をひねって振り向くと、雅之は香奈恵のデスクと背中合わせの位置にある自分のデスクに手をかけていた。

「ちょっと忘れ物をして」

 職場の肩書きは一応香奈恵が上になるが、年齢的にも社会人経験においても雅之の方が上なため、つい敬語で話してしまう。対する雅之は、状況によって香奈恵に対する言葉遣いを分けていた。
 仕事中は敬語で話しかけてくることが多いが、世間話をする時などは砕けた口調になる。休日の今日は、声のトーンからして後者のようだ。
 検索作業を再開する香奈恵の背後で、彼が自身のデスクをあさる気配がする。

「トラブルって? 俺になにか手伝えることは?」

 引き出しの中をあさりながら、雅之が聞いてくる。

「一人で大丈夫です」

 連絡ミスをした晶子が手伝うならともかく、下手へたに事情を話して休みの彼に仕事をさせるわけにはいかない。
 軽い口調で返した香奈恵に、背後の雅之が動きを止めた。

「……」

 背中に感じる視線に居心地の悪さを覚えて振り返ると、案の定、じっとりとした眼差しを向ける雅之と目が合う。

「チーフ、また一人で問題を抱え込んでいませんか?」
「別に……」

 眼鏡越しに向けられる眼差しが痛い。それでも立場的に、休日の彼に頼るわけにはいかないのだ。
 香奈恵が視線を逸らして黙り込むと、雅之は大きなため息を吐いて乱暴に髪を掻き回す。そして香奈恵に困った顔を見せた。

「そうやって自己完結するの、チーフの悪い癖だから。もっと素直に助けを求めてくれないと、こちらも助けようがない」

 確かにそれは香奈恵の悪い癖なのかもしれない。
 自分が頼ることで他の人の負担が増えては申し訳ないと、ついなんでもかんでも一人で背負しょい込んでしまう。そうやってオーバーワーク気味に働くことを、これまでも雅之に指摘されたことがあった。

「本当に困った時は、ちゃんと頼らせてもらいます。でもこれは、私一人で対応できる範囲のトラブルだから」

 駄目だとわかっていても、人間、そう簡単に性格は変えられない。
 気にしなくて大丈夫だと軽い口調で返すと、雅之が眼鏡の縁を押さえて再び深いため息を吐いた。
 そうやって物言いたげな視線を向けられると、気を遣って彼に頼らない自分が、逆に悪いことをしている気になってくる。
 居たたまれなくなって、その視線から逃れるように再びパソコンに向き直った。
 そうやってやんわりと拒絶の態度を示すことで、雅之が諦めて帰ってくれるのを待っているのに、一向にその気配がしない。それどころか、雅之の気配がより近くなった気がした。
 香奈恵が振り返るより早く、彼が背後からおおい被さってくる。

「――っ!」

 突然のことに驚いて、香奈恵は身を硬くする。
 雅之はそんな香奈恵に構うことなく、マウスを持つ香奈恵の手に右手を重ね、左手を肩にのせた。

「大したことないなら、こんな時間まで仕事してないでしょ……」

 仕事の時はセミロングの髪をきっちりとシニヨンに結い上げているため、無防備にさらされた首筋に彼の吐息がかかる。

「ちょ……近いっ」

 香奈恵のことを異性とカウントしていないのか、雅之は抗議を無視して重ねた右手を動かしていく。
 そうなると自分一人が過剰に意識しているようで、反応しにくい。
 どうしたものかと腰を無理やりひねって雅之を見上げると、真剣な彼の表情が目に飛び込んできた。
 喉仏の目立つ首筋、普段ならスーツのえりで見えにくい場所に小さな二つのホクロがある。それに、普段は眼鏡に目がいって気にしていなかったが、唇の右下にあるホクロが妙に色っぽい。
 いつもと違う距離のせいなのか、部下に男の色気を感じてしまう。
 もしくは、恋愛経験が少なすぎる自分の脳が、過剰反応しているのかもしれない。
 ――落ち着け、私っ!
 香奈恵は唇を強く噛んで自分を叱咤しったする。
 しかし、普段はほのかな整髪料の香りしかしない彼から、存在感を誇示するような甘い香りがしていることに気付いてしまい、どうしても鼓動は加速していく。

「ジャズの演奏家を探している?」

 ひとしきりパソコンを操作した雅之が、そう言ってこちらに視線を向けた。
 先ほどからネット検索で目星をつけては関係者に連絡を取るという作業を繰り返していたので、検索履歴から香奈恵がなにをしていたのか推測したようだ。

「それは……」
「今さら隠したって、どうせ明日になればわかることだよ」

 彼の口調がいつもより砕けているのは別に構わないのだけど、距離感がおかしいように思えて落ち着かない。

「……そうですね」

 確かに一緒に仕事をしているのだから、明日、彼が普通に出勤すればどのみちバレることだ。それなら、これ以上隠しても意味はない。
 渋々認めた香奈恵に、雅之は軽くあごを動かしてその先をうながしてくる。
 香奈恵は仕方なく、相談とも愚痴ともつかない口調で、こんな時間まで一人でオフィスに残っていた経緯を説明した。
 全てを話し終え、そろそろ手を離してほしいと、さりげなくマウスを持つ手を動かすけれど、困ったことに雅之が察してくれる気配はない。

「……なるほど。電話をかけるのを手伝おうか?」

 手を重ね、体を密着させたままの姿勢で、雅之が問いかけてくる。
 香奈恵が首を横に振ると、「部長に報告は?」と離れた位置のデスクに視線を向けた。

「報告はしたけど、部長も今日は休みで出先だから、こちらに対応を任せたいって」
「今日は、仏滅だからなぁ」

 香奈恵の返答に、雅之がうなる。
 ブライダル関係の仕事は、土日や祝日が忙しい分、仏滅などゲンが悪いとされる日は比較的仕事が少ない。
 それもあって、仏滅の今日は、部長も雅之も休みを取っていた。

「部長も私に一任したんです。だから堀江さんも、気を遣わないで帰ってください」

 香奈恵の首筋に、再び雅之の不機嫌な吐息が触れる。

「チーフ一人で責任を負うにしても、タイムスケジュールを考えたら、もうアウトじゃないか?」

 肩に置いていた手を離し、雅之は腕時計を確認する。その動きにつられて香奈恵も壁掛け時計に視線を向けると、時刻は午後九時になろうとしていた。
 確かに、今から新郎新婦の要望に合ったクオリティーのバンドを見つけられたとしても、曲の打ち合わせなどの時間を考慮するとかなり厳しい。
 こちらで打てる手としては、生演奏を諦めてCDに頼るか、ホテルで契約しているピアニストに曲をアレンジして演奏してもらうかになるが……
 どちらの代替案になったとしても、弄月荘側はクライアントの希望に沿った挙式を提供できなかったお詫びとして、値引きやその他のサプライズで誠意を示すことになる。
 だが新郎新婦にとって、明日の挙式は人生の特別な一日だ。できることなら、そんな足し算引き算で帳尻を合わせるような提案をしたくない。

「先方へのお詫びの報告、こっちでしようか?」

 時計を見上げていると、雅之にそう聞かれた。
 香奈恵は謝罪が嫌で粘っているわけではない。

「必要なら、自分でちゃんと謝罪するから気にしないでください。これは、そういうことじゃないから」

 香奈恵が悔しさからマウスを持つ手に力を入れると、不意に重ねられていた手が離れる。
 姿勢を戻した雅之は、自分を見上げる香奈恵に向かって、右手でピースサインを作った。
 ――なんのピースサイン?
 いぶかる香奈恵に、雅之は意味深に口角を持ち上げた。

「チーフには、二つの選択肢がある」

 そう言って彼は、右手のピースサインを揺らす。
 どうやらこの二本の指は、選択肢の数を表しているらしい。

「どんな?」

 素早く反応する香奈恵に、雅之の笑みが深まる。
 普段とは異なる彼の表情に警戒しなくもないが、今はこの状況を打開する策があるのなら聞き逃すわけにはいかない。
 椅子を回転させて座ったまま向き合った香奈恵に、雅之は満足げに目を細めた。
 無言で相手の言葉を待っていると、雅之は二本の指のうち一本を折り曲げて言う。

「一つは、新郎新婦に妥協してもらってBGMは生演奏でなくCDを流す。もしくはピアノののみの演奏に切り替える。……こういった不測の事態における演出内容の変更については、契約書に明記してあるのだから、こちらは連絡が遅くなったことへの謝罪をし、料金を割り引くというのが妥当な対応だ。話を聞く限り、今回のことはチーフ一人の責任じゃないし、結果に対して罪悪感を覚える必要はない」

 それは、最終手段として何度も香奈恵の頭を掠めていた。
 だけど……

「新郎新婦は、ジャズ好きが縁で知り合ったそうです。招待客にもジャズ好きな人が多いそうで、式ではどうしてもジャズの生演奏を聴かせたいとおっしゃっていて……」

 これまでの打ち合わせを思い出し、二人の生演奏に対する思い入れを無下むげにしたくないと視線で訴える。
 そんな香奈恵の眼差しを受け止めた雅之は、仕方ないといった様子で優しく微笑む。

「もう一つは……」

 一度折り曲げた指を伸ばして、雅之は言葉を続ける。

「チーフに代わって、自分が最高のジャズバンドを手配します」
「え?」

 そんなことが、できるのだろうか……
 香奈恵だって夕方から今まで、できる限りの手を使って各所に問い合わせていたのだ。それでも急な依頼で時間がないことと、希望する演奏リストの難しさから引き受けてくれるバンドを見つけられずにいた。
 失礼かもしれないが、自分ができなかったことを雅之ができるとは思えない。同じ業界から転職したというならまだしも、彼は、去年まで畑違いの金融系の仕事をしていたのだ。
 思わず疑うような視線を向けてしまうと、雅之が右側の口角を持ち上げて、癖のある笑みを浮かべて言う。

「その代わり、チーフには俺のお願いを一つ叶えてもらいたい」

 いつも以上に砕けた雰囲気の彼に対し、本能的に身構える。

「……なんだか、悪巧みの匂いがするんですけど」

 警戒する香奈恵の眼差しを楽しむように、雅之は笑って返す。

「否定はしないな。だけど、どちらを選択するかは、チーフの自由だよ?」

 そう言って、彼は二本立てた指を自分の唇に添えた。
 そしてタバコの煙を吐くように香奈恵に細い息を吹きかけ、ゆっくりと目を細める。
 不意に、自分の知る堀江雅之とはこんな人だっただろうかという疑問が湧いてくる。
 ――堀江さんの皮を被った、まったくの別人を相手にしているみたい。
 なんだか、悪魔に契約を持ちかけられているような気になってくる。
 古今東西、悪魔と契約を交わしたらろくな結果にならないのは周知の事実だ。
 しかし、どうしても新郎新婦の願いを叶えたいと思っている香奈恵には、初めから選択肢は一つしかない。

「その場合、私はどんな願い事を叶えればいいの?」

 警戒しつつ問い返す香奈恵に、雅之は勝者の笑みを浮かべて願いを口にした。

「……そんなことでいいの?」

 雅之の願いを聞いた香奈恵は、拍子抜けしたような声を上げる。
 もちろん多少の抵抗を感じる要望ではあるが、悪魔との契約をイメージしていただけに、なんだそんなことかと思える内容だった。
 キョトンとしてまばたきをする香奈恵に、雅之は二本の指であごのラインを撫でて同じ言葉を繰り返す。

「そう。家族との食事会で、一日だけ俺の恋人のフリをしてもらいたい」
「どうして?」
「色々と事情がありまして。家族には一度、恋人を紹介しておきたいんだ」

 雅之は面倒くさそうに息を吐く。
 その表情に、香奈恵はなんとなく察するものがあった。
 何故なら彼女自身、似たような悩みを抱えているからだ。両親はともかく、地方で農家を営む祖父母は、香奈恵の年齢なら結婚しているのが普通だと言って譲らない。
 そんな祖父母に、バカ正直に結婚以前の問題として恋人もいないと報告した結果、痛々しい眼差しを向けられると共に、あれこれ見合い話を持ってこられて大変迷惑している。
 もしかしたら雅之も、自分と似たような状況なのかもしれない。

「一日だけでいいんですよね?」

 念を押すと、雅之は「一日だけで十分」と断言する。

「……」

 それならば……と、思う反面、なにか心の片隅に引っかかるものがあって、すぐに頷くことができない。

「どうかした?」

 返事を待つ雅之が、柔らかな微笑みを浮かべて首を傾ける。
 そんな彼を上目遣いに見ながら、おずおずと口を開いた。

「なんか今日の堀江さん、いつもと感じが違うんですけど……」
「気のせいじゃない?」

 軽くあごを上げて、どこか楽しんでいるようなその表情は、妙に色っぽい。
 普段なら「性格イケメン」の彼の提案を素直に受け入れるところだが、今日に限っては、なにか裏がありそうで警戒してしまう。
 返事を躊躇ためらう香奈恵に、眼鏡の向こうの雅之の目が細まった。

「チーフから見て、一日限定の恋人役も引き受けたくないくらい、自分が男としての魅力に欠けているならそう言ってくれていいですよ。傷付いたりしませんから」

 控えめな発言をする雅之だが、表情にはしたたかなものを感じる。
 とはいえ、躊躇ためらったところで、香奈恵には選ぶ道は一つしかないのだ。

「いいえ、お願いします」

 わらをも掴む気持ちで告げると、雅之が嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあ、契約成立ということで」

 そう言って差し出された右手を、香奈恵は握り返した。
 この選択が、悪魔との取引に匹敵するくらいの厄介事に繋がるなんて、その時の香奈恵はまだ知るよしもなかった。



   1 真嶋家の家庭事情


 翌日、弄月荘で執り行われている披露宴ひろうえんを見守りながら、香奈恵はホッと胸を撫で下ろしていた。
 昨夜、香奈恵と契約を交わした雅之は、その場でどこかに電話をかけ、あっという間に今日のバンドの生演奏の依頼を取り付けてしまったのだった。香奈恵一人では、まともな交渉先を見つけることすらできなかったのに、驚くばかりである。
 あまりにスムーズに決まったので、もしかしてアマチュアバンドかと心配したが、雅之は電話交渉の間にバンドの所属する芸能事務所のサイトを見せてくれた。
 それによると、キャリアも長く、海外で演奏実績もあるバンドのようだった。キャリアに裏打ちされた自信があるせいか、唐突な依頼を快諾してくれただけでなく、予定している曲目の打ち合わせをする時間がろくにないことを心配する香奈恵に、過去に自分たちがその曲目を演奏した時の動画まで送ってくれた。
 彼らの技量を確認した上で、式当日、着付けに入る前の最終チェックのタイミングで新郎新婦に事情を説明して演奏者の変更を伝えたところ、興奮した様子で歓声を上げたのだった。
 ジャズにあまり詳しくない香奈恵ではあるが、新郎新婦の興奮ぶりから、雅之のチョイスに間違いがなかったのだと理解する。
 そして今、会場の隅っこで彼らの生演奏を聴き、その腕前が素晴らしいものであると実感していた。

「ご満足いただけたようでなによりです」

 互いに目配せしながら演奏を楽しむ新郎新婦の表情にニンマリしていると、突然背後から声をかけられた。


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