一晩だけの禁断の恋のはずが憧れの御曹司に溺愛されてます

冬野まゆ

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1巻

1-3

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 または、弘樹の祖父である加賀設計の現社長が、この結婚をこころよく思っていないため、入籍できないのだとか噂は色々あるらしい。
 ――だから、私が奥さんについて質問した時、加賀さんの反応が微妙だったのかな?

「まあ、どれも噂の域を出ない話だから、真相は加賀君に聞かないとわからないけど」

 自分が耳にしたことのある噂話を教えてくれた神田は、最後にそう言って話を締めくくる。
 賀詞がし交換会の日、見目うるわしい女性が「加賀さんを食事に誘ったのに、さりげなく指輪を見せられて、断られた」と嘆いていた。
 嘆いているのはなにもその女性一人に限ったことではなく、多くの女性が、妻がいることを理由に誘いを断られているようだった。
 神田によると同業者の間でも、彼の愛妻家ぶりは有名らしく、浮いた噂を聞かないのだとか。
 ということは本人に確認するまでもなく、弘樹にパートナーがいるのは確かだ。
 そんな彼が二度も自分を誘ってきた理由は、やっぱり仕事の話がしたかったからなのだと、ようやく莉子は納得する。
 やっぱり彼にオスの顔を感じたのは莉子の勘違いだったのだ。……そもそも、愛妻家の彼に、そんな印象を持つこと自体おこがましい。

「どんなことでも、チャンスに恵まれた時は、とりあえずチャレンジしてみることだよ」

 神田が言っているのは、もちろん講演会のことだ。
 でも先日のことを思い出していた莉子は、変に身構えたことで、損をしたねと言われた気分になる。

「これからはそうします」

 もしも、もう一度そんな機会があったなら、今度こそそのチャンスを掴んで、是非とも彼から色々学ばせてもらおうと決意する。
 莉子は一礼して立ち上がると、所長室を後にした。



   2 誘惑は蜜の味


 週末、弘樹は親会社である加賀設計を通して依頼された講演会のため、都内の大学を訪れていた。

「加賀さん、どうかされましたか?」

 講演の対談相手であるファイナンシャルプランナーの女性が、怪訝けげんな表情で声をかけてきた。
 大学のカフェコーナーで進行の最終確認をしている途中で、ふと頭を上げた弘樹がそのまま動きを止めたのが気になったらしい。
 弘樹は、小さな丸テーブルを挟んで向かい合う女性に視線を戻して笑みを零す。

「あ、いや……」

 今日の講演会は学生が対象なので、ここに彼女がいるはずない。
 それなのに会場に向かう人の流れの中に、神田デザインの小日向莉子の姿を見た気がしたのはどうしたことか。
 ――飲みに誘って断られたことが、意外にショックだったのか?
 思春期の少年でもあるまいし、いい年をした男がそれくらいのことで傷付くわけがない。なのに、そんなふうに思ってしまう自分につい笑ってしまう。

「なんだか、楽しそうですね」

 そう言って微笑む女性は、綺麗なネイルでいろどられた指で、頬にかかる髪を耳にかける。そのまま上目遣いでこちらへ視線を向けてきた。
 自分を誘う眼差しには気付かないフリをして、左手であごのラインを撫でる。
 さりげなく左手の指輪を見せても、相手の表情に動じる様子はない。それどころか、姿なき存在に対抗心を燃やしているのが伝わってくる。

「面白い話なら、是非私にも聞かせていただきたいわ。今日の講演会が終わったら、二人だけで打ち上げでもどうかしら?」

 女性の視線には、自分の誘いが断られるはずがないという自信が見え隠れしている。
 ――面倒くさい……
 弘樹は内心嘆息しつつ、素知らぬ顔で返す。

「すみませんが、今日はこの後、大事な約束があるので」

 もちろん、まったくの嘘である。
 だが、そう言って愛おしげに指輪に視線を落とせば、相手は弘樹の言う約束の相手が妻だと思うだろう。

「そう……」
「またの機会に誘ってください」

 つまらなそうな顔をする女性に、社交辞令としてそう返しておく。
 いつも女性からの誘いをこうして断っているので、周囲は弘樹を愛妻家だと思っているが、それは大きな誤りである。
 なにせ弘樹は、内縁の妻どころか恋人もいない、正真正銘の独り身なのだから。
 その証拠に、鈍い光沢を放つ左手の指輪の内側にはなんの刻印もされていない。

「そろそろ会場に移動しましょうか」

 そう言って席を立った弘樹は、椅子の背に添えた自分の左手に視線を落とし、これをつけるに至った記憶を探る。
 自惚うぬぼれではなく、容姿端麗で加賀設計の御曹司として生まれた自分は、昔からかなり女性にモテた。
 それをいいことにそれなりに遊んでいた時期もあるが、加賀設計の後継者として、KSデザインを任されるようになった今、無駄に華やかすぎる自分の容姿は正直わずらわしい。
 特に仕事関係の女性から、仕事に絡めた誘い方をされると、心底対応に困る。
 今から数年前、大学時代の先輩に飲みの席でそんなことを零したところ、「独身だから、そんな面倒なことになるんだ。さっさと結婚しろ」と軽く説教されたことがあった。
 既婚者であり愛妻家で知られる先輩に言わせると、そうした男と女の駆け引きのわずらわしさなど、結婚すれば「妻に悪いので」の一言で片付けられるのだという。
 正直に言えば、これまでの男女関係における弘樹の認識は、深入りすることなくその場限りのたわむれを楽しむもので、恋愛や結婚など真剣に考えたことはなかった。なにより加賀設計の後継者として、学ぶべきことがたくさんある中、恋愛などに時間を費やしている余裕はない。
 とはいえ先輩の言葉に思うところもあり、友人の結婚式に出席する際、試しに結婚指輪に見える指輪を左手の薬指にめて出席してみたところ効果は覿面てきめんだった。
 誘ってくる女性が格段に減った上に、声をかけてくる女性も、特別な相手がいるように振る舞うと、それ以上しつこくしてくることはなかった。
 それに気をよくして指輪をつけ続けた結果、いつの間にか自分は、既婚者で愛妻家ということになっていた。
 放っておいたら噂はどこまでも一人歩きをして、最近では、仕事第一主義の弘樹がそこまで惚れ込む女性はきっと同業者に違いないとか、出会いはイギリス留学中だとか、妙にリアルなディテールが付け加えられているらしい。
 そのたくましい想像力には笑うしかないが、自分にとってはメリットの方が大きかったので、噂を否定はしなかった。
 そしてそのまま、愛妻家の既婚者として振る舞っている。自分の結婚話など寝耳に水だった家族たち、とりわけ祖父の加賀秀幸ひでゆきにはかなり渋い顔をされているが知ったことではない。
 講堂へ向かいながら過去を振り返っていた弘樹は、ふと一人の女性の顔を思い出す。
 ――小日向莉子。
 若い頃から尊敬していた神田の下で働く彼女の存在は、神田デザインの手掛けるデザインに変化が生まれたことでなんとなく意識するようになった。
 柔らかい色使いと、曲線をうまく活かしたデザインを得意とする才能ある若手がどんな人なのかと興味を持った。
 関心があれば突き詰める性分の弘樹は、神田にあれこれ質問して、彼女の人柄を知ったことで、より一層小日向莉子という存在を知りたくなった。
 コンペ会場でその姿を探すだけでなく、適当な理由をつけて神田デザインが担当している現場を覗きに行ったこともある。
 遠目に見る彼女はいつも動きやすいパンツスーツで、キビキビと動き回っていた。アクセサリーはつけず、メイクにびたところのない彼女を、可愛げがないと言っている人もいるようだが、弘樹の目には、周囲を警戒して毛を逆立てる猫のように映った。常に神経を尖らせているその姿に、いつか壊れてしまうのではないかと心配になった。
 神田の下にいれば、彼がうまくフォローしてくれるだろう。それでもつい気になって、偶然、現地視察で遭遇した彼女を飲みに誘ったのだが、指輪が邪魔をして逃げられてしまった。
 それでも未練がましく、彼女を駅まで送る道すがら言葉を交わしたことで、彼女への興味が一気に増した。
 月灯りの下、軽やかな足取りで身をひるがえした彼女は、自分のことを普通の人だと言ってくれた。
 加賀設計の御曹司として常に特別扱いされ、周囲から距離を取られるか、びへつらわれることに慣れていた弘樹にとって、それは新鮮な驚きだった。
 しかも彼女は、自分に向かって「それなら、努力すれば私も、いつか加賀さんに追いつけるってことですよね」と、微笑みかけてくれた。
 これまで、なんらかの恩恵を求めて近付いてくる女性は多く見てきたが、彼女のように見返りを求めることなく、努力して自分を追いかけると言ってくれた女性は初めてだった。
 だから性懲しょうこりもなく、再度誘ってみたのだが、あえなく玉砕した。

「……」

 あっさり断られたのは残念だが、あたふたした表情で自分の誘いを断る莉子の姿を思い出し、弘樹はクスリと笑う。
 指輪をつけているのをわずらわしく思ったのは、これが初めてだ。
 面倒を避けるために同業者の前では既婚者のフリを続けてきたのに、気付けば彼女に「妻の存在は、気にしなくていい」とまで言ってしまっていた。自分でも不思議ではあるが、気になるのだから仕方ない。
 興味を持ったことに自分はかなりしつこい性格をしているので、またタイミングを見て彼女との距離を詰めるとしよう。
 加賀設計の後継者として、同業者との面倒は極力避けるつもりでいるが、それは自分の欲求を抑えてまで守るものではない。
 次はどうやって彼女を誘おうかと考えながら、弘樹は思考を仕事モードに切り替えていくのだった。


     ◇ ◇ ◇


 弘樹の講演会に参加した日の夜、莉子はおっかなびっくりといった感じで、老舗しにせホテルのラウンジの前に立っていた。
 弘樹の講演会は大変勉強になった。
 感動したといってもいいくらいの刺激を貰った莉子は、講演会終了後、そのまま帰ってしまう気にならなくて、講演会で彼が話題に挙げていた建築物を数軒回ってみたのだ。
 その中には、以前から知っていた建物も含まれていたけど、彼の所見を踏まえて観察すると、違う発見があった。
 そうやってあちこち見て回っていると、講演を聴いた直後の興奮は、冷めるどころか増していくばかりだ。
 湧き上がる高揚感に背中を押されて、以前彼に誘われたホテルのバーの前まで来てしまったわけだが、いざ店の前に立つと、その格式の高さに腰が引けてしまう。
 しかも今日の自分は、学生対象の講演会に紛れ込むため、たけの短い白のセーターにくすみブルーのプリーツスカートを合わせて、明るい色のメイクをしていた。
 仕事中は低い位置で一まとめにしている髪も、今日は下ろして毛先をカールさせている。
 若作りとまではいかないけど、見るからに大人の社交場といったおもむきのバーに適したよそおいとは思えない。

「……やっぱり、今度にしよう」

 着ているセーターのすそを引っぱって、自分の姿を確認した莉子は、ドアを開ける勇気が持てずきびすを返す。
 その瞬間、人とぶつかりそうになった。
 いつの間にか、莉子の背後に人が立っていたらしい。
 振り向くと視界いっぱいに、洒落たネクタイを締めた男性の胸元が飛び込んできて、相手の背の高さに驚く。

「すみませ……ッ!」

 目の前で突然振り返ってしまったことを詫びて、相手を見上げた莉子は、そこで息を呑んだ。
 どうして彼がここに……そんな思いで目をパチクリさせる。そんな莉子を見下ろす弘樹も、驚いた顔をしていた。

「か……加賀さ……」

 莉子は戸惑うあまり、うまく言葉を発することができない。弘樹は一度視線をめぐらせてから、かすかに首をかしげて聞いてきた。

「もしかして、俺の講演会に来てた?」
「――っ!」

 言い当てられて、グッと息を呑む。
 後ろの方で隠れるようにして聞いていたのに、どうして気付かれたのかわからない。
 ――学生に紛れてなにをしているのだと呆れられたかも……
 莉子は恥ずかしさから視線を落として小さく頷く。

「……はい。ごめんなさい」

 気まずさから謝罪の言葉を口にする莉子の髪に、弘樹の優しい吐息が触れる。

「ここで君に会えるとは思わなかったよ」

 頭上から降ってくる柔らかな声に顔を上げると、彼が困ったように髪を掻く。

「どうした? 入らないのか?」

 弘樹は軽く腰をかがめて、あれこれ考えせわしなく表情を変える莉子の顔を覗き込んでくる。
 どちらかがあと一歩踏み出せば唇が触れそうな距離に、莉子は慌てて背中をらした。

「あ、あの……ちょっとやっぱり私には敷居が高いので、帰ろうかなと……」

 そんなことを話す間も、弘樹は莉子が距離を開けた分、距離を詰めてくる。
 ――ち、近い……
 神田が、弘樹はイギリス留学をしていたと言っていた。彼のこの距離の近さは、海外経験からくるものなのだろうか。
 彼にとっては普通かもしれないけど、莉子としては対応に困る。
 近付かれた分さらに距離を取るため背中をらしたことで、重心が後ろに傾きすぎてグラリと体が揺れる。

「あ……ッ」
「危ない」

 莉子が小さな悲鳴を上げるのと同時に、弘樹が素早く動いた。

「――きゃっ!」

 弘樹は後ろ向きにバランスを崩した莉子の腰に右腕を回し、左手でくうを切る莉子の手を掴んで引き寄せる。
 勢いよく引き寄せられた反動で、莉子は彼の胸に顔をうずめる形になってしまった。

「……っ」

 そのおかげで後ろにひっくり返る惨劇は避けられたけれど、これはこれで辛い。

「なにか急用でも?」

 息を止めて硬直していると、弘樹はそのままの姿勢で語りかけてくる。
 莉子は無言のままブンブンと首を横に振った。
 息を止めて唇を引き結んでいる莉子に気付いた弘樹は、そっと表情をほころばせて腰を支えていた腕を離してくれる。
 でも手首を掴んでいた手はそのままにして歩き出すので、自然と莉子も歩く形になる。

「え……あの……」

 戸惑う声を上げる莉子を振り返り、弘樹が言う。

「用がないなら、一杯くらい付き合ってくれ」

 おごるよ、と軽い口調で誘う弘樹は、莉子の返事を待つことなく再び手を引いた。

「でも私、こんな格好だし」

 大学生を意識した今日のような服装だと、もとが童顔な顔立ちということもあって学生に交ざっても違和感がない分、こういったシックな場所では逆に浮いてしまう気がする。
 悲鳴交じりの莉子の声に、弘樹はやっと足を止めて振り返った。
 そして莉子の全身にさっと視線を走らせると、屈託くったくのない笑みを浮かべて言う。

「可愛いよ。講演会場に向かう人混みの中でも、すぐに目がいった」
「――っ!」

 まさか本当に、彼が自分の存在に気付いているとは思わなかった。
 普段の自分を知られているだけに、今の自分の姿が彼の目にどう映っているか気になってしまう。

「す、すみません」
「すみませんって、さっきから君は、なにを謝っているんだ?」

 恥ずかしさで目をうるませる莉子に、弘樹は首をかしげる。

「いい年して、学生に紛れ込んだりして……」
「別に今日の講演会は、学生だけを対象にしていたわけじゃないだろ」

 砕けた口調で返す弘樹は、「それに小日向さんは、違和感なく馴染んでたよ」と付け足す。
 彼は莉子の緊張を解くつもりだったのだろうけど、そんなふうに言われると、ますます普段の自分とはかけ離れた今の格好が恥ずかしくなる。

「普段は女を捨てたような格好をしてるくせに、私服はこんな感じなのも、なんていうかすみません……」

 なにをどう言葉にすればいいかわからず、そう口走ると、彼はいよいよ理解できないといった顔をする。

「それこそ、謝ることじゃないだろう。性別は捨てたりするものじゃないし、人は多面的な生き物なんだから、色々な顔があって当たり前だ。それが人の魅力に繋がっている。仕事を頑張っている普段のスーツ姿も、今日の可愛いファッションも、どちらも君の本当の姿だろう?」

 軽やかな口調でそう言って、弘樹は莉子に微笑んだ。

「……」

 その何気ない一言を聞いた莉子の心に、さわやかな風が吹いた気がした。
 一人の人間としての彼と、もっと話してみたいという衝動が大きくなっていく。
 チラリと視線を向ければ、今日も彼の左手の薬指には鈍い輝きの指輪が見えるけど、先日もう一度こんな機会があったら、今度こそそのチャンスを掴もうと決意したのも事実。
 ――ごめんなさい。ただお話をするだけです。
 心の中で弘樹の妻にそう詫びて、莉子は手を引かれるままバーに入った。


 バーの中は、完璧の一言に尽きた。
 アールデコのフロアランプに照らされた内装は、現代に古き良き時代をい止めているようなおもむきがあった。
 歴史を感じさせるクラシカルなバーのカウンターに腰掛け、上質な酒を味わう弘樹の姿は、写真に撮って永久保存できたらいいのにと思うほど完璧で美しい。

「講演会にはどうして?」

 一杯目のカクテルを半分ほど飲んだタイミングで、弘樹が思い出したように聞いてくる。

「加賀さんがどんな話をされるのか、興味があったからです」

 講演会のことは所長に教えてもらい、学生対象と知りつつも紛れ込んだことを、彼の話がとても勉強になったという感想を交えて話す莉子に、弘樹が屈託くったくなく笑う。

「なんだ、俺の話に興味があるなら、普通に声をかけてくれればよかったのに」

 この前だって飲みに誘ったじゃないかと弘樹は言うが、莉子としてはそういうわけにはいかない。

「加賀さんの話を聞きたいと思っている学生さんがたくさんいるのに、そんなズルはできないですよ」

 真面目に返す莉子の言葉に、弘樹が「君はもう学生じゃないだろう」と笑う。

「少しもズルくないさ。君は俺に聞きたいことを直接聞けるだけの努力を、これまでちゃんとしてきたんだから」
「そんな、まだまだ勉強中です」

 そんなのおこがましいと、慌てる莉子に弘樹が言う。

「正しい努力は、正しく評価されるべきだ」

 優しくそうさとす彼に、気恥ずかしさと嬉しさが交差する。
 それをどう言葉にすればいいかわからず、莉子が黙ってグラスに口をつけると、弘樹も自分の酒を飲む。
 そうやってゆっくりアルコールを味わいながら、ぽつりぽつりと他愛ない世間話をする。莉子がカクテルを飲み終わるタイミングで、弘樹が思い出したように口を開いた。

「そういえば、チョコは今度こそ小日向さんの口に届いた?」

 言われるまですっかり忘れていた莉子は、慌ててお礼を口にする。

「お礼を言うのが遅くなってすみませんっ! チョコ、ありがとうございました。すごく美味おいしかったです」
「気に入ってもらえてよかった」

 弘樹は軽く指を動かしてバーテンダーに合図を送る。そして自分のためにブランデーと、莉子のためにチョコレートボンボンと新しいカクテルを注文した。
 皿に品良く盛られたチョコレートボンボンと、グラスの底に緑のドレンチェリーが沈んだ桜色のカクテルが莉子の前に並べて置かれる。
 ブランデーグラスを口に運びながら、弘樹が視線でどうぞ召し上がれと莉子をうながす。

「チョコを一口かじってから、カクテルを飲んでごらん」

 彼にペコリと頭を下げた莉子は、言われたとおりチョコを一つかじって、カクテルに口をつける。
 するとビターなチョコと、ライムや桃のリキュールを使用したカクテルの上品な甘さが舌の上で絡み合う。
 確かにこの絶妙なハーモニーは、この店でしか体験できないものだ。

「――っ!」
「気に入ったようでよかったよ」

 莉子の表情で感想を読み取り、弘樹が嬉しそうにグラスを口に運ぶ。
 彼の洗練された所作に、ついチョコとカクテルの美味おいしさにはしゃいでしまった自分を恥ずかしく思う。
 しかも今いる場所が、格調高い老舗しにせホテルのバーラウンジならなおのことだ。

「大人げなくはしゃいで、すみません」

 莉子は、小さく咳払いして背筋を伸ばした。
 カウンターに右肘を預けて頬杖をついた弘樹は、左手でグラスを揺らして言う。

「澄ました顔でいられるより、素直に喜んでもらえた方が嬉しいよ。どうして君は、自分の感性を窮屈きゅうくつな箱に閉じ込めたがる? そんなの勿体もったいないだろ?」
勿体もったいない……ですか?」

 小さく頷いた弘樹は、琥珀こはく色の液体を口に入れ、味わうようにそっと目を細めた。
 美味おいしいものを美味おいしいと、素直に表情に出しているのは同じなのに、そこに莉子にはない色気がただようのは、年齢の違いだけではない気がする。


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