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1巻
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プロローグ
建築部第三課 浅葉 里穂
株式会社時ノ杜設計
代表取締役 時枝 雅近
本日付にて建築部第三課の任を解き、明日より特別企画部の勤務を命じる。
出勤するなり、壁に掲示されている辞令に自分の名前を見つけ、里穂は目を丸くする。
「やってもうたな」
自分の隣で落胆のため息を漏らすのは、同期で友人の加納いずみだ。
「これって、私への嫌がらせだと思う?」
辞令を指差し、里穂が聞く。
念願叶って今の部署に異動したのは、去年の秋の人事でのこと。
今の部署でミスらしいミスをした記憶もないし、時ノ杜設計に入社して三年目の二月という微妙なタイミング。しかも内々の打診もなく、奇襲攻撃の如く貼り出された辞令に、先週の嫌な記憶が蘇る。
「やで、阿賀津専務にケンカ売ったらあかん言うたのに」
「ケンカ……は、売ってないよ」
それに里穂が刃向かった相手は専務ではない。
社内で社長派と勢力を二分する専務派の筆頭で、専務の甥でもある阿賀津輝雄チーフが、新入社員にセクハラまがいの発言をしているのを目にして、見て見ぬ振りができずに止めに入っただけだ。
そんな里穂の意見に、いずみはそれで十分だと首を横に振る。
「アンタ、もとから阿賀津チーフの誘いを断って恨みを買ってたし、先週の一件が決定打になったんちゃう?」
「誘いを断ったって……」
女好きで知られる阿賀津チーフに、仕事上では関係ないのに、ある日突然食事に誘われた。しかもそれがかなり上からな感じだったので、今の時代そういった食事の誘い方は、パワハラ兼セクハラだと懇切丁寧に説明しただけだ。
「アンタ、黙っとったら可愛いのに」
残念だと、いずみは項垂れて眉間を指で押さえた。
「私は正しいことを言っただけだよ」
だから自分は間違っていないと胸を張る里穂の隣で、しばし眉間を指で押さえていたいずみは、「あれ?」といった感じで、顔を上げて掲示板の辞令を見る。
「なあ、里穂。そもそも、ウチに特別企画部なんて部署あったっけ?」
気を許している人の前では未だに関西訛りで話すいずみの言葉に、里穂も改めて張り出された辞令を見た。
時ノ杜設計には企画、建築、土木といった部署があり、その中でさらに幾つかの課が設けられている。企画部には第三課まであるが、「特別企画部」なんて聞いたことはない。
それに気付いて、フッと体から力が抜ける。
「なんだ。悪戯か」
こんなところに貼り出すなんて、冗談だとしてもタチが悪い。本気で戦慄が走っただけに、冗談だとわかった途端、怒りよりも笑いが込み上げてくる。
里穂の隣で、いずみも安堵した様子で息を漏らした。
そして二人で視線を合わせて肩をすくめた時、背後から意地の悪い声が聞こえてくる。
「特別企画部ってのは、すぐになくなることを前提に急拵えで作った部署だよ」
その声に振り向くと、整ってはいるが意地の悪い顔をした男が立っていた。身長がかなりある上に、傲慢な雰囲気を漂わせているため、近くにいるだけでかなりの威圧感がある。
彼こそが、専務の甥にあたる阿賀津輝雄だ。
虎の威を借る狐の如く、次期社長と目される専務の身内であることを傘に着て、傲慢な振る舞いを繰り返し、一度目を付けた相手を徹底的にいじめ抜く悪癖の持ち主だ。
「阿賀津……チーフ」
呼び捨てにしてやりたいところを、渋々語尾に役職をつけて名前を呼ぶ。そんな里穂の反応に、阿賀津チーフは片方の口角を意地悪く持ち上げて歪に笑う。
「新規プロジェクトに向けて、短期契約で雇用した社員のために用意した部署だ」
「短期契約の社員さんのために、わざわざ新しい部署を用意したんですか? アドバイザーとかやなくて?」
思わずといった感じで、疑問をそのまま声に出したのはいずみだ。
その言葉に、阿賀津チーフは顎を軽く上げる。そうすることで、彼の傲慢さがいっそう際立つ。
「お前らなんかに詳しく話す気はないが、オレはすぐにいなくなると睨んでる」
つまり、短期というのは、阿賀津チーフの一方的な見立てということだ。
だとすれば、この話にどこまで信憑性があるかわかったものではない。
しらけた視線を向ける里穂に、阿賀津チーフが苛立った声で言う。
「異動が気に入らないなら、さっさと会社を辞めることだな」
阿賀津チーフに睨まれ、いずみは視線を落として首をすくめる。だけど里穂は、その程度の威嚇で黙る気はない。
「会社を辞める気はありません」
「好きにしろ。泥舟の上で、俺に楯突いたことを後悔するんだな」
そう吐き捨て、阿賀津チーフはその場を離れていく。
こんな会社を私物化するような人事、許されるはずがない。
「……」
組織人として出された辞令には従うしかない状況に、悔しさが込み上げてくる。
貼り出された辞令へと視線を向ければ、自然と眉尻が下がってしまう。
「受験資格が取れるって、喜んどったのに」
同情するいずみの言葉に、ますます里穂の眉尻が下がりそうになる。
いつか自分で大きな設計を手掛けることを夢見る里穂は、一級建築士の資格取得を目指している。だが、受験資格を習得するためには一年の実務経験が必要なのだ。
そのため入社以来ずっと異動願いを出し続け、ようやく実務のできる建築部への異動が叶った。それからまだ半年も経っていない。
このままでは受験資格習得のタイミングが遠のく一方だろうけど……
「でも、自分が間違ったことをしたとは思ってないからいい」
軽く首を振った里穂は、感情を立て直して言う。
自分が正しいと思う道を選択していけば、正しい場所にたどり着ける。それは、里穂の信念とも言える価値観だった。
里穂の言葉に、笑みを浮かべたいずみだけれど、すぐにまた表情を曇らせる。
「会社、辞めたりせえへんよな?」
一級建築士の受験資格のことだけを考えれば、その方が近道になるかもしれない。だけど、不安そうないずみの言葉に、里穂は大きく首を横に振った。
「あんなバカのために、辞めるわけないじゃん」
そんなことをすれば、阿賀津チーフの傲慢さを助長させることになるではないか。
「そうやな。憧れの王子様に再会するために、頑張ってるんやもんな」
心が折れていない様子の里穂を見て安心したのか、いずみがからかってくる。
「そういうわけじゃないけど……」
つい、そう否定してしまうが、里穂が建築業界で仕事をしたいと思うきっかけをくれたのは、かつてこの会社で働いていたある人の影響だった。
その人は、里穂が就職するずっと前に時ノ杜設計を去っているので、この会社で仕事をしているからといって再会できるわけではない。
それでも、建築業界で仕事を頑張り続けることで、いつか彼と一緒に仕事をすることができたらいいという願いもある。
叶えたい夢があるのに、あんな人間に屈するような形で、せっかく入った時ノ杜設計を辞めたりしない。
「悔しいけど、仕事だから頑張るよ」
背筋を伸ばし、貼り出された辞令を挑むような思いで睨んでいた里穂は、ふと自分の辞令の上に貼り出されている紙に気付いた。
自分の辞令に気を取られ、まったく目に入っていなかったが、社長の名の下、素っ気ない文章で新設部署立ち上げの報告と共に、その部署を任される部長の名前が書かれている。
その名前に、里穂は息を呑み、大きく目を見開いた。
――特別企画部部長 時枝一樹。
その人物こそ、里穂が長年憧れてきた人であった。
1 ハニートラップ
株式会社時ノ杜設計――その歴史は昭和初期、ヨーロッパで建築を学んだ創業者時枝正次郎が立ち上げたことに始まり、創業時よりデザイン性と快適な住環境の共存を理念に展開して、今では日本を代表する大手設計会社にまで成長した。
現在は創業者の息子である時枝雅近が社長を務めているが、高齢のため、次期社長の座を巡った覇権争いが上層部で繰り広げられており、どちらの派閥につくかでその後の人生が変わると社員の間で囁かれている。
里穂にそんな社内事情を教えてくれたのは、友人のいずみだ。
自称情報通、正しくは噂好きの彼女曰く、有力な社長候補は、専務の阿賀津博武と、現在子会社に出向している社長の息子で執行役員の時枝司の二者に絞られているが、社内に留まっている専務が優勢とのことだ。
社長派の勢いに精彩が欠ける理由の一つに、社長の孫であり、司執行役員の息子である時枝一樹が会社を離れていることがあるようだ。
大学の建築学科に在籍中に若手建築家の登竜門とも言われる賞を受賞し、時ノ杜設計に就職後も建築業界のサラブレッドと評されてきた。そんな彼は、就職から五年後、突然独立して自分の事務所を立ち上げ、現在では日本を離れてイタリアで仕事をしているという。
それを、時ノ杜設計を見限ったと受け取った社員も多かったため、社内では阿賀津専務やその甥の阿賀津チーフの顔色を窺う風潮が漂っている。
これまで里穂も、いずみと共に専務の派閥に属していた。
それは別に将来を見据えた選択ではなく、辞令を出された先が、たまたま専務の取り巻きである古橋が部長を務める建築部第三課だったからにすぎない。
権力者の顔色に合わせてすぐに発言を変える日和見な古橋が、阿賀津チーフの怒りを買った里穂を庇ってくれるはずもなく、自分にまで被害が及ぶのを恐れて、早々にこの異動を承認したらしい。
自分の置かれた状況に、最初は悔しさを感じていた里穂だが、異動先の特別企画部で自分たちスタッフを出迎えた新しい上司を前に、妙なことになっているのではないかと訝る。
「特別企画部の部長を務めさせていただく、時枝一樹です。よろしくお願いします」
里穂をはじめとした五人のスタッフを前に、彼、一樹はそう挨拶の言葉を口にした。
長身の彼は、着る人を選びそうな細身の三つ揃いのスーツを粋に着こなし、スタイルの良さを存分に表している。
スーツの着こなしだけでなく、頬から顎にかけてすっきりとしたラインを描く面長の端整な顔は、形のいい切れ長の目や綺麗に通った鼻筋で少しの隙もない。
整いすぎて冷たい印象を与えそうなものだけど、薄い唇に浮かんだ親しみのある微笑みが見る者の心を捉えて離さない。
「再就職と同時に部署を任される自分に、不満を持つ者もいるかもしれないが……」
柔らかなトーンの声が、里穂の耳に心地よく馴染んでいく。
――間違いない、時枝さんだ。
憧れの人が目の前にいることが信じられない気持ちで、里穂は記憶の中の彼を思い出す。
昔、無造作に伸ばしていた髪はサイドを短く整えて、少し癖のある髪を右寄りで分けている。
自分に自信が持てず進路に迷っていた学生時代、里穂はワークショップで講師を務めていた一樹の話に勇気をもらい、そんな彼が最初に勤めた時ノ杜設計で働きたいと思って就職したのだ。
年齢は確か里穂より一回り上だから、今は三十七歳のはずだ。ワークショップで見かけた頃に比べると、大人の色気が増した気がする。
建築家を目指すと決めた時、もし叶うのであれば、いつか彼と一緒に仕事がしたいと願っていたけれど、叶わない夢だとも思っていた。
なにせ相手は、世界を股にかける有名建築家なのだ。
それなのに、嫌がらせとしか思えない辞令の先に、こんなサプライズが待っていたとは……
「以前、この会社に勤めていたこともあるので、ご存じの方もいると思いますが、社長の時枝雅近は私の祖父です。その祖父の意向で十年ぶりに時ノ杜設計に戻ってきたのは、それなりの覚悟があってのことです」
どこかふわふわした思いで彼を見つめていた里穂は、その言葉に一気に気持ちが引き締まる。
何故ならそれは、一樹が現在繰り広げられている時ノ杜設計の覇権争いに参戦するという決意表明だったからだ。
これから、社内の勢力図が大きく塗り替えられることになるだろう。
この場にいる他のスタッフも、里穂同様、彼の言葉に気を引き締めたのが伝わってくる。
一樹はそんなスタッフ一人一人の表情を確認していく。
「――ッ!」
彼と視線が重なっただけで緊張する里穂に、一樹は柔和な笑みを添えて「よろしく」と挨拶し、すぐに他のスタッフへ視線を巡らせる。その後、スタッフ一人一人の簡単な紹介を始めた。
特別企画部に配属されたスタッフは、一樹と里穂の他に、男性が四人。
眼鏡をかけ、左に偏って生えている部分白髪が特徴的な五十代か四十代後半といった感じの男性は谷。肩幅が広く、いかにも学生時代スポーツをしていましたといった感じの厚みのある体つきをした男性は柴崎。一樹ほどではないが整った顔立ちをして、存在感のある長身の男性は南野。眼鏡をかけ柴崎と対極のような細くてなで肩の男性が友辺。
見た感じの印象では、谷だけかなり年齢が離れているが、一樹と柴崎と南野は同い年くらいで、友辺がその少し下といった感じだ。といっても全員、里穂より年上で、熟達した貫禄を醸し出している。
淀みなくスタッフの紹介をしていた一樹が、里穂に視線を留めて、考えるように拳を唇に添えた。
「えっと……」
「浅葉里穂さん、建築部第三課の古橋さんのところからの異動です」
言葉を探すようにデスクの書類に視線を落とす一樹に代わり、谷が里穂を紹介する。その言葉を聞いた瞬間、室内に妙な緊張感が走ったのは気のせいだろうか。
それに、前の所属部署を告げられたのも里穂一人だ。
どことなく居心地の悪いものを感じつつ、里穂は頭を下げて挨拶をする。
「若輩者ですが、皆様の足を引っ張らないよう努力いたしますので、よろしくお願いいたします」
きっとこの場にいる全員が、かなり仕事のできる人たちなのだろう。
そんな中で働けることは、いい経験になるに違いない。ここで得た知識は、この先の仕事にきっと役立つはずだ。
その上、遠い憧れの存在と思っていた一樹と一緒に仕事ができるなんて。
やる気いっぱいで顔を上げた里穂だが、周囲の眼差しはどこか冷ややかだ。
扱い方がわからない異物を観察するような眼差しを向けてくるスタッフの中で、一樹一人だけが歓迎の意を示しくれる。
「期待しているよ」
「はい。頑張ります」
差し出された一樹の手を、里穂はしっかりと握り返した。
◇ ◇ ◇
「異動先、どう?」
突然の辞令から半月、ランチに誘ってくれたいずみに問いかけられ、里穂は微妙な顔でエレベーターの階数表示を見上げた。
「う~ん」
自分たちのいるフロアへ昇ってくる階数表示を見つめながら唸り、エレベーターの扉が開いたタイミングで「微妙」と返した。
「やっぱ、他の人も左遷なん? それ、空気悪そうやもんな」
混雑するエレベーターに乗り込みつつ、いずみが言う。
「そういうのとも、ちょっと違うんだけどね……」
同情的な顔をするいずみへ視線を向け、里穂は特別企画部へ移動してからの日々を思い返した。
半月間働いてみてわかったことだが、一樹を含めた里穂以外のスタッフは、今回の異動の前から面識があったらしい。
きちんと言葉で確認したわけではないが、漏れ聞こえてくる会話を繋ぎ合わせると、一樹と南野は元は気心の知れた同期で、柴崎は二人の先輩にあたるらしい。
一人年の離れた谷は、時ノ社で一樹が働いていた頃、一緒に大きなプロジェクトを成功させたことがあるようだ。そして里穂に比較的年齢の近い友辺も、事前に何度か一樹と顔合わせをしていたらしい。
つまりあの日の顔合わせで、スタッフと初対面だったのは里穂一人だった。それがわかれば、里穂の紹介で言葉を詰まらせた一樹にも、里穂だけ異動前に所属した部署を紹介された理由にも納得がいく。
そしてそのせいなのか、里穂は他のスタッフとの間に、妙な距離を感じていた。
別に邪険に扱われているとか、不当な扱いを受けているとかではない。ただなんとなく、警戒されているようで居心地が悪い。
たとえば、資料を広げて意見を出し合っている柴崎と南野を見かけて近付いたら、慌てて資料を片付けられたり、部材の単価計算をしている友辺を手伝おうと声をかけても無視されたりするのだ。
そんな柴崎たちの態度をフォローするように、谷が里穂に仕事を割り振ってくれるのだけど、別に急ぐ必要もない雑用ばかり。
「なんか、私に仕事内容を知られないように警戒しているみたいで、居心地が悪いんだよね」
職場近くのお店で昼食を取りつつ、部内の様子を口にした里穂はため息をつく。
「それ普通に考えたら、ちゃんと仕事を覚えられへんやろうと思って、教えるのを面倒がっとるだけやない?」
「う……ッ」
そう言われると、返す言葉がない。
確かに、最初に感じたとおり、谷をはじめとした自分以外のスタッフは、実力もキャリアも確かな人ばかりで、まだまだ新米の域を出ない里穂を警戒する理由なんてない。
教えるのが面倒だから関わりたくないという、いずみの意見には納得がいく。
だけど言葉で表現することのできない空気が、警戒されていると感じるのだ。
それをどう説明しようかと思案していると、いずみがテーブル越しに身を乗り出してきた。
「そんなことより、憧れの王子様とは、どんな感じなん? 優しく指導してもらって、キュンキュンするようなことあったんちゃう?」
目を輝かせているいずみに、今日のランチのお誘いの目的はそれだったのかと理解する。
自称情報通で噂好きのいずみは、噂話の中でも特に恋バナが大好きだ。
情報通を名乗るのであれば、創業家の人間である一樹に対して、もっと優先的に話題にすべき話があると思うのだけど、彼女が一番に気になっているのはそこらしい。
興味津々のいずみの表情に、新人研修で意気投合したからといって、バカ正直に憧れの王子様の名前を教えるんじゃなかったと過去の自分を叱りたくなる。
でもその頃の自分は、すでに時ノ杜設計を去った一樹がまさか復職するなんて思ってもいなかったのだから仕方ない。
ましてや自分が、その部下になるなんて夢にも思わなかった。
「部長との関係は……微妙」
しばし記憶を巡らせ、里穂はそう返す。
自分にとっての一樹は、これまでは雑誌やネットの向こう側、別世界ともいえる場所にいる遠い存在だったのだ。そんな彼を間近で眺めることができるだけでも奇跡である。
嫌がらせの人事異動から一転した夢のような状況に、つい彼の動きを目で追ってはニンマリしそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えるのに大変苦慮している。
せっかくなら、彼に教えてほしいことがたくさんあるのだけど、他のスタッフが里穂が一樹に近付くのを妨ぐように間に入ってくるので、接点が持てないまま今日まで過ごしている。
「大事な御曹司に、アホが移ると困ると思われとるんちゃう?」
「失礼な」
不満げに目を細める里穂だが、内心では否定しきれないものもある。
一緒に働くスタッフの中でも特に谷と柴崎は、一樹をすでに次期社長と見定めているような節があり、それに近いことは思っているかもしれない。
異動初日、決意表明をする一樹の姿に心がざわめき、彼のために仕事を頑張ろうと思ったのは、柴崎たちと変わらない。だけどいざ仕事が始まると、里穂だけ圧倒的に実力が不足していると思い知らされた。
「仕事、辞めたくなった?」
悔しさで奥歯を噛み締める里穂に、いずみが聞く。その口調は心配しているというより、こちらの覚悟のほどを確かめているといった感じだ。
だから里穂も、挑むように眉を上げて強気に笑う。
「まさか、せっかくのチャンスだもの。私が力不足で仕事を任せられないって言うなら、任せてもらえるように努力するだけだよ。そのために、まずはできることから頑張っていく」
そう宣言して、里穂はランチプレートのから揚げにかぶりつく。
「里穂らしい意見だね。頑張って、憧れの王子様との距離を縮めなね。応援しとく」
安心したと頷いて、いずみも食事を始めた。
◇ ◇ ◇
「どうした?」
打ち合わせを兼ねた昼食を取ろうと部下二人とエレベーターホールに向かっていた一樹は、前を歩く柴崎が廊下の角を曲がりかけて身を引いたので立ち止まった。
「いえ別に……」
言葉を濁しつつも、大柄な体を無理やり隠そうとしているのだから、「別に」のわけがない。
いい年をした大の男がなにをしているのだという思いから、柴崎を追い越して角の向こうを見る。そこには、エレベーターの到着を待つ部下の姿があった。
「浅葉君じゃないか」
建築部第三課 浅葉 里穂
株式会社時ノ杜設計
代表取締役 時枝 雅近
本日付にて建築部第三課の任を解き、明日より特別企画部の勤務を命じる。
出勤するなり、壁に掲示されている辞令に自分の名前を見つけ、里穂は目を丸くする。
「やってもうたな」
自分の隣で落胆のため息を漏らすのは、同期で友人の加納いずみだ。
「これって、私への嫌がらせだと思う?」
辞令を指差し、里穂が聞く。
念願叶って今の部署に異動したのは、去年の秋の人事でのこと。
今の部署でミスらしいミスをした記憶もないし、時ノ杜設計に入社して三年目の二月という微妙なタイミング。しかも内々の打診もなく、奇襲攻撃の如く貼り出された辞令に、先週の嫌な記憶が蘇る。
「やで、阿賀津専務にケンカ売ったらあかん言うたのに」
「ケンカ……は、売ってないよ」
それに里穂が刃向かった相手は専務ではない。
社内で社長派と勢力を二分する専務派の筆頭で、専務の甥でもある阿賀津輝雄チーフが、新入社員にセクハラまがいの発言をしているのを目にして、見て見ぬ振りができずに止めに入っただけだ。
そんな里穂の意見に、いずみはそれで十分だと首を横に振る。
「アンタ、もとから阿賀津チーフの誘いを断って恨みを買ってたし、先週の一件が決定打になったんちゃう?」
「誘いを断ったって……」
女好きで知られる阿賀津チーフに、仕事上では関係ないのに、ある日突然食事に誘われた。しかもそれがかなり上からな感じだったので、今の時代そういった食事の誘い方は、パワハラ兼セクハラだと懇切丁寧に説明しただけだ。
「アンタ、黙っとったら可愛いのに」
残念だと、いずみは項垂れて眉間を指で押さえた。
「私は正しいことを言っただけだよ」
だから自分は間違っていないと胸を張る里穂の隣で、しばし眉間を指で押さえていたいずみは、「あれ?」といった感じで、顔を上げて掲示板の辞令を見る。
「なあ、里穂。そもそも、ウチに特別企画部なんて部署あったっけ?」
気を許している人の前では未だに関西訛りで話すいずみの言葉に、里穂も改めて張り出された辞令を見た。
時ノ杜設計には企画、建築、土木といった部署があり、その中でさらに幾つかの課が設けられている。企画部には第三課まであるが、「特別企画部」なんて聞いたことはない。
それに気付いて、フッと体から力が抜ける。
「なんだ。悪戯か」
こんなところに貼り出すなんて、冗談だとしてもタチが悪い。本気で戦慄が走っただけに、冗談だとわかった途端、怒りよりも笑いが込み上げてくる。
里穂の隣で、いずみも安堵した様子で息を漏らした。
そして二人で視線を合わせて肩をすくめた時、背後から意地の悪い声が聞こえてくる。
「特別企画部ってのは、すぐになくなることを前提に急拵えで作った部署だよ」
その声に振り向くと、整ってはいるが意地の悪い顔をした男が立っていた。身長がかなりある上に、傲慢な雰囲気を漂わせているため、近くにいるだけでかなりの威圧感がある。
彼こそが、専務の甥にあたる阿賀津輝雄だ。
虎の威を借る狐の如く、次期社長と目される専務の身内であることを傘に着て、傲慢な振る舞いを繰り返し、一度目を付けた相手を徹底的にいじめ抜く悪癖の持ち主だ。
「阿賀津……チーフ」
呼び捨てにしてやりたいところを、渋々語尾に役職をつけて名前を呼ぶ。そんな里穂の反応に、阿賀津チーフは片方の口角を意地悪く持ち上げて歪に笑う。
「新規プロジェクトに向けて、短期契約で雇用した社員のために用意した部署だ」
「短期契約の社員さんのために、わざわざ新しい部署を用意したんですか? アドバイザーとかやなくて?」
思わずといった感じで、疑問をそのまま声に出したのはいずみだ。
その言葉に、阿賀津チーフは顎を軽く上げる。そうすることで、彼の傲慢さがいっそう際立つ。
「お前らなんかに詳しく話す気はないが、オレはすぐにいなくなると睨んでる」
つまり、短期というのは、阿賀津チーフの一方的な見立てということだ。
だとすれば、この話にどこまで信憑性があるかわかったものではない。
しらけた視線を向ける里穂に、阿賀津チーフが苛立った声で言う。
「異動が気に入らないなら、さっさと会社を辞めることだな」
阿賀津チーフに睨まれ、いずみは視線を落として首をすくめる。だけど里穂は、その程度の威嚇で黙る気はない。
「会社を辞める気はありません」
「好きにしろ。泥舟の上で、俺に楯突いたことを後悔するんだな」
そう吐き捨て、阿賀津チーフはその場を離れていく。
こんな会社を私物化するような人事、許されるはずがない。
「……」
組織人として出された辞令には従うしかない状況に、悔しさが込み上げてくる。
貼り出された辞令へと視線を向ければ、自然と眉尻が下がってしまう。
「受験資格が取れるって、喜んどったのに」
同情するいずみの言葉に、ますます里穂の眉尻が下がりそうになる。
いつか自分で大きな設計を手掛けることを夢見る里穂は、一級建築士の資格取得を目指している。だが、受験資格を習得するためには一年の実務経験が必要なのだ。
そのため入社以来ずっと異動願いを出し続け、ようやく実務のできる建築部への異動が叶った。それからまだ半年も経っていない。
このままでは受験資格習得のタイミングが遠のく一方だろうけど……
「でも、自分が間違ったことをしたとは思ってないからいい」
軽く首を振った里穂は、感情を立て直して言う。
自分が正しいと思う道を選択していけば、正しい場所にたどり着ける。それは、里穂の信念とも言える価値観だった。
里穂の言葉に、笑みを浮かべたいずみだけれど、すぐにまた表情を曇らせる。
「会社、辞めたりせえへんよな?」
一級建築士の受験資格のことだけを考えれば、その方が近道になるかもしれない。だけど、不安そうないずみの言葉に、里穂は大きく首を横に振った。
「あんなバカのために、辞めるわけないじゃん」
そんなことをすれば、阿賀津チーフの傲慢さを助長させることになるではないか。
「そうやな。憧れの王子様に再会するために、頑張ってるんやもんな」
心が折れていない様子の里穂を見て安心したのか、いずみがからかってくる。
「そういうわけじゃないけど……」
つい、そう否定してしまうが、里穂が建築業界で仕事をしたいと思うきっかけをくれたのは、かつてこの会社で働いていたある人の影響だった。
その人は、里穂が就職するずっと前に時ノ杜設計を去っているので、この会社で仕事をしているからといって再会できるわけではない。
それでも、建築業界で仕事を頑張り続けることで、いつか彼と一緒に仕事をすることができたらいいという願いもある。
叶えたい夢があるのに、あんな人間に屈するような形で、せっかく入った時ノ杜設計を辞めたりしない。
「悔しいけど、仕事だから頑張るよ」
背筋を伸ばし、貼り出された辞令を挑むような思いで睨んでいた里穂は、ふと自分の辞令の上に貼り出されている紙に気付いた。
自分の辞令に気を取られ、まったく目に入っていなかったが、社長の名の下、素っ気ない文章で新設部署立ち上げの報告と共に、その部署を任される部長の名前が書かれている。
その名前に、里穂は息を呑み、大きく目を見開いた。
――特別企画部部長 時枝一樹。
その人物こそ、里穂が長年憧れてきた人であった。
1 ハニートラップ
株式会社時ノ杜設計――その歴史は昭和初期、ヨーロッパで建築を学んだ創業者時枝正次郎が立ち上げたことに始まり、創業時よりデザイン性と快適な住環境の共存を理念に展開して、今では日本を代表する大手設計会社にまで成長した。
現在は創業者の息子である時枝雅近が社長を務めているが、高齢のため、次期社長の座を巡った覇権争いが上層部で繰り広げられており、どちらの派閥につくかでその後の人生が変わると社員の間で囁かれている。
里穂にそんな社内事情を教えてくれたのは、友人のいずみだ。
自称情報通、正しくは噂好きの彼女曰く、有力な社長候補は、専務の阿賀津博武と、現在子会社に出向している社長の息子で執行役員の時枝司の二者に絞られているが、社内に留まっている専務が優勢とのことだ。
社長派の勢いに精彩が欠ける理由の一つに、社長の孫であり、司執行役員の息子である時枝一樹が会社を離れていることがあるようだ。
大学の建築学科に在籍中に若手建築家の登竜門とも言われる賞を受賞し、時ノ杜設計に就職後も建築業界のサラブレッドと評されてきた。そんな彼は、就職から五年後、突然独立して自分の事務所を立ち上げ、現在では日本を離れてイタリアで仕事をしているという。
それを、時ノ杜設計を見限ったと受け取った社員も多かったため、社内では阿賀津専務やその甥の阿賀津チーフの顔色を窺う風潮が漂っている。
これまで里穂も、いずみと共に専務の派閥に属していた。
それは別に将来を見据えた選択ではなく、辞令を出された先が、たまたま専務の取り巻きである古橋が部長を務める建築部第三課だったからにすぎない。
権力者の顔色に合わせてすぐに発言を変える日和見な古橋が、阿賀津チーフの怒りを買った里穂を庇ってくれるはずもなく、自分にまで被害が及ぶのを恐れて、早々にこの異動を承認したらしい。
自分の置かれた状況に、最初は悔しさを感じていた里穂だが、異動先の特別企画部で自分たちスタッフを出迎えた新しい上司を前に、妙なことになっているのではないかと訝る。
「特別企画部の部長を務めさせていただく、時枝一樹です。よろしくお願いします」
里穂をはじめとした五人のスタッフを前に、彼、一樹はそう挨拶の言葉を口にした。
長身の彼は、着る人を選びそうな細身の三つ揃いのスーツを粋に着こなし、スタイルの良さを存分に表している。
スーツの着こなしだけでなく、頬から顎にかけてすっきりとしたラインを描く面長の端整な顔は、形のいい切れ長の目や綺麗に通った鼻筋で少しの隙もない。
整いすぎて冷たい印象を与えそうなものだけど、薄い唇に浮かんだ親しみのある微笑みが見る者の心を捉えて離さない。
「再就職と同時に部署を任される自分に、不満を持つ者もいるかもしれないが……」
柔らかなトーンの声が、里穂の耳に心地よく馴染んでいく。
――間違いない、時枝さんだ。
憧れの人が目の前にいることが信じられない気持ちで、里穂は記憶の中の彼を思い出す。
昔、無造作に伸ばしていた髪はサイドを短く整えて、少し癖のある髪を右寄りで分けている。
自分に自信が持てず進路に迷っていた学生時代、里穂はワークショップで講師を務めていた一樹の話に勇気をもらい、そんな彼が最初に勤めた時ノ杜設計で働きたいと思って就職したのだ。
年齢は確か里穂より一回り上だから、今は三十七歳のはずだ。ワークショップで見かけた頃に比べると、大人の色気が増した気がする。
建築家を目指すと決めた時、もし叶うのであれば、いつか彼と一緒に仕事がしたいと願っていたけれど、叶わない夢だとも思っていた。
なにせ相手は、世界を股にかける有名建築家なのだ。
それなのに、嫌がらせとしか思えない辞令の先に、こんなサプライズが待っていたとは……
「以前、この会社に勤めていたこともあるので、ご存じの方もいると思いますが、社長の時枝雅近は私の祖父です。その祖父の意向で十年ぶりに時ノ杜設計に戻ってきたのは、それなりの覚悟があってのことです」
どこかふわふわした思いで彼を見つめていた里穂は、その言葉に一気に気持ちが引き締まる。
何故ならそれは、一樹が現在繰り広げられている時ノ杜設計の覇権争いに参戦するという決意表明だったからだ。
これから、社内の勢力図が大きく塗り替えられることになるだろう。
この場にいる他のスタッフも、里穂同様、彼の言葉に気を引き締めたのが伝わってくる。
一樹はそんなスタッフ一人一人の表情を確認していく。
「――ッ!」
彼と視線が重なっただけで緊張する里穂に、一樹は柔和な笑みを添えて「よろしく」と挨拶し、すぐに他のスタッフへ視線を巡らせる。その後、スタッフ一人一人の簡単な紹介を始めた。
特別企画部に配属されたスタッフは、一樹と里穂の他に、男性が四人。
眼鏡をかけ、左に偏って生えている部分白髪が特徴的な五十代か四十代後半といった感じの男性は谷。肩幅が広く、いかにも学生時代スポーツをしていましたといった感じの厚みのある体つきをした男性は柴崎。一樹ほどではないが整った顔立ちをして、存在感のある長身の男性は南野。眼鏡をかけ柴崎と対極のような細くてなで肩の男性が友辺。
見た感じの印象では、谷だけかなり年齢が離れているが、一樹と柴崎と南野は同い年くらいで、友辺がその少し下といった感じだ。といっても全員、里穂より年上で、熟達した貫禄を醸し出している。
淀みなくスタッフの紹介をしていた一樹が、里穂に視線を留めて、考えるように拳を唇に添えた。
「えっと……」
「浅葉里穂さん、建築部第三課の古橋さんのところからの異動です」
言葉を探すようにデスクの書類に視線を落とす一樹に代わり、谷が里穂を紹介する。その言葉を聞いた瞬間、室内に妙な緊張感が走ったのは気のせいだろうか。
それに、前の所属部署を告げられたのも里穂一人だ。
どことなく居心地の悪いものを感じつつ、里穂は頭を下げて挨拶をする。
「若輩者ですが、皆様の足を引っ張らないよう努力いたしますので、よろしくお願いいたします」
きっとこの場にいる全員が、かなり仕事のできる人たちなのだろう。
そんな中で働けることは、いい経験になるに違いない。ここで得た知識は、この先の仕事にきっと役立つはずだ。
その上、遠い憧れの存在と思っていた一樹と一緒に仕事ができるなんて。
やる気いっぱいで顔を上げた里穂だが、周囲の眼差しはどこか冷ややかだ。
扱い方がわからない異物を観察するような眼差しを向けてくるスタッフの中で、一樹一人だけが歓迎の意を示しくれる。
「期待しているよ」
「はい。頑張ります」
差し出された一樹の手を、里穂はしっかりと握り返した。
◇ ◇ ◇
「異動先、どう?」
突然の辞令から半月、ランチに誘ってくれたいずみに問いかけられ、里穂は微妙な顔でエレベーターの階数表示を見上げた。
「う~ん」
自分たちのいるフロアへ昇ってくる階数表示を見つめながら唸り、エレベーターの扉が開いたタイミングで「微妙」と返した。
「やっぱ、他の人も左遷なん? それ、空気悪そうやもんな」
混雑するエレベーターに乗り込みつつ、いずみが言う。
「そういうのとも、ちょっと違うんだけどね……」
同情的な顔をするいずみへ視線を向け、里穂は特別企画部へ移動してからの日々を思い返した。
半月間働いてみてわかったことだが、一樹を含めた里穂以外のスタッフは、今回の異動の前から面識があったらしい。
きちんと言葉で確認したわけではないが、漏れ聞こえてくる会話を繋ぎ合わせると、一樹と南野は元は気心の知れた同期で、柴崎は二人の先輩にあたるらしい。
一人年の離れた谷は、時ノ社で一樹が働いていた頃、一緒に大きなプロジェクトを成功させたことがあるようだ。そして里穂に比較的年齢の近い友辺も、事前に何度か一樹と顔合わせをしていたらしい。
つまりあの日の顔合わせで、スタッフと初対面だったのは里穂一人だった。それがわかれば、里穂の紹介で言葉を詰まらせた一樹にも、里穂だけ異動前に所属した部署を紹介された理由にも納得がいく。
そしてそのせいなのか、里穂は他のスタッフとの間に、妙な距離を感じていた。
別に邪険に扱われているとか、不当な扱いを受けているとかではない。ただなんとなく、警戒されているようで居心地が悪い。
たとえば、資料を広げて意見を出し合っている柴崎と南野を見かけて近付いたら、慌てて資料を片付けられたり、部材の単価計算をしている友辺を手伝おうと声をかけても無視されたりするのだ。
そんな柴崎たちの態度をフォローするように、谷が里穂に仕事を割り振ってくれるのだけど、別に急ぐ必要もない雑用ばかり。
「なんか、私に仕事内容を知られないように警戒しているみたいで、居心地が悪いんだよね」
職場近くのお店で昼食を取りつつ、部内の様子を口にした里穂はため息をつく。
「それ普通に考えたら、ちゃんと仕事を覚えられへんやろうと思って、教えるのを面倒がっとるだけやない?」
「う……ッ」
そう言われると、返す言葉がない。
確かに、最初に感じたとおり、谷をはじめとした自分以外のスタッフは、実力もキャリアも確かな人ばかりで、まだまだ新米の域を出ない里穂を警戒する理由なんてない。
教えるのが面倒だから関わりたくないという、いずみの意見には納得がいく。
だけど言葉で表現することのできない空気が、警戒されていると感じるのだ。
それをどう説明しようかと思案していると、いずみがテーブル越しに身を乗り出してきた。
「そんなことより、憧れの王子様とは、どんな感じなん? 優しく指導してもらって、キュンキュンするようなことあったんちゃう?」
目を輝かせているいずみに、今日のランチのお誘いの目的はそれだったのかと理解する。
自称情報通で噂好きのいずみは、噂話の中でも特に恋バナが大好きだ。
情報通を名乗るのであれば、創業家の人間である一樹に対して、もっと優先的に話題にすべき話があると思うのだけど、彼女が一番に気になっているのはそこらしい。
興味津々のいずみの表情に、新人研修で意気投合したからといって、バカ正直に憧れの王子様の名前を教えるんじゃなかったと過去の自分を叱りたくなる。
でもその頃の自分は、すでに時ノ杜設計を去った一樹がまさか復職するなんて思ってもいなかったのだから仕方ない。
ましてや自分が、その部下になるなんて夢にも思わなかった。
「部長との関係は……微妙」
しばし記憶を巡らせ、里穂はそう返す。
自分にとっての一樹は、これまでは雑誌やネットの向こう側、別世界ともいえる場所にいる遠い存在だったのだ。そんな彼を間近で眺めることができるだけでも奇跡である。
嫌がらせの人事異動から一転した夢のような状況に、つい彼の動きを目で追ってはニンマリしそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えるのに大変苦慮している。
せっかくなら、彼に教えてほしいことがたくさんあるのだけど、他のスタッフが里穂が一樹に近付くのを妨ぐように間に入ってくるので、接点が持てないまま今日まで過ごしている。
「大事な御曹司に、アホが移ると困ると思われとるんちゃう?」
「失礼な」
不満げに目を細める里穂だが、内心では否定しきれないものもある。
一緒に働くスタッフの中でも特に谷と柴崎は、一樹をすでに次期社長と見定めているような節があり、それに近いことは思っているかもしれない。
異動初日、決意表明をする一樹の姿に心がざわめき、彼のために仕事を頑張ろうと思ったのは、柴崎たちと変わらない。だけどいざ仕事が始まると、里穂だけ圧倒的に実力が不足していると思い知らされた。
「仕事、辞めたくなった?」
悔しさで奥歯を噛み締める里穂に、いずみが聞く。その口調は心配しているというより、こちらの覚悟のほどを確かめているといった感じだ。
だから里穂も、挑むように眉を上げて強気に笑う。
「まさか、せっかくのチャンスだもの。私が力不足で仕事を任せられないって言うなら、任せてもらえるように努力するだけだよ。そのために、まずはできることから頑張っていく」
そう宣言して、里穂はランチプレートのから揚げにかぶりつく。
「里穂らしい意見だね。頑張って、憧れの王子様との距離を縮めなね。応援しとく」
安心したと頷いて、いずみも食事を始めた。
◇ ◇ ◇
「どうした?」
打ち合わせを兼ねた昼食を取ろうと部下二人とエレベーターホールに向かっていた一樹は、前を歩く柴崎が廊下の角を曲がりかけて身を引いたので立ち止まった。
「いえ別に……」
言葉を濁しつつも、大柄な体を無理やり隠そうとしているのだから、「別に」のわけがない。
いい年をした大の男がなにをしているのだという思いから、柴崎を追い越して角の向こうを見る。そこには、エレベーターの到着を待つ部下の姿があった。
「浅葉君じゃないか」
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