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1巻
1-2
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思わず呆れたような声を出す。里穂はこちらに気付くことなく、同僚らしき女性と連れ立ってエレベーターに乗り込んでいく。
背後で柴崎が「だからですよ」と一樹の腕を引っ張り、壁の陰に隠そうとする。
その過剰反応が煩わしくて、一樹は大きく肩を回して柴崎の手を振り払った。
「午後も部署で顔を合わせるのに、わざわざ隠れる意味があるのか?」
敢えて挑発するように問うと、学生時代から武道を続けている柴崎は荒い息を吐く。
「あんな小娘相手に、臆するわけありません」
相手が自分なので柔らかな口調を保っているが、その顔にははっきり心外だと書いてある。
年齢ではなく、相手の人間性を見て扱いを判断する柴崎は、後輩な上、再就職の身である一樹に対して当然のように敬意を払った接し方をしてくる。
無骨なまでのその生真面目さには感謝しているが、里穂に対する態度がその存在を認めていないように感じられて気になっていた。
「なら避けたりするな。見ていて気分が悪いぞ」
いいタイミングなので、そう釘を刺してエレベーターへ足を向ける。
里穂が乗り込んだエレベーターはすでに扉が閉まり降下し始めているので、柴崎たちも素直にその後に従う。
「そうは言っても、彼女は専務派の筆頭とも言える建築部第三課の古橋の部下だったんだぞ」
柴崎の振る舞いを正当化するように口を挟むのは、同期だった南野だ。一樹を上司として認めてくれているが、同期の気安さで今も変わらずフランクな口調のまま接してくる。
ここまで黙って話を聞いていた南野も、考えとしては柴崎と同じらしい。ますますくだらないと頭を掻いた一樹は、二人を軽く睨んだ。
「だから彼女が、阿賀津専務のスパイだと?」
一樹の時ノ杜設計復帰のために用意された特別企画部の立ち上げメンバーに、当初、浅葉里穂は含まれていなかった。
社内で勢力を伸ばす阿賀津専務を牽制するため、一樹は祖父である社長に呼び戻された。その布石となる特別企画部のスタッフは、一樹自身も面接に加わって厳選してきた。
ところが始動直前になって、決定したスタッフのうちの三人が退職という形で離脱したのだ。
彼らの退職に専務派が絡んでいることは容易に推測できたが、それを明らかにしても詮無いことだし、一樹自身、理由がなんであれ、離脱した奴に興味はない。
残ったスタッフは皆優秀なので、わざわざ新たなメンバーを迎え入れる必要はなく、そのまま自分を含めた五人のスタッフで始動させる気でいた。だがそこに、阿賀陣営が若手育成という名目のもと、里穂を送り込んできたのだ。
一樹としては、それならそれで構わないのだが、他のスタッフはそうは思わなかったらしい。
里穂のことを専務サイドのスパイではないかと警戒し、ろくに仕事をさせないどころか、過剰なまでに距離を取っている。
「彼女の異動は、阿賀津専務の甥である阿賀津チーフの後押しによるものと聞きますし、用心するに越したことはないです」
「確かに、やたらとこちらの仕事に関わろうとしてくるし、難しい顔でお前の動きを目で追っているのは俺も気になっているが」
「だからスパイだと?」
――そんなわけがあるか。
真顔で忠告してくる柴崎と南野に心の中で毒づく。
阿賀津専務の嫌がらせを過剰なまでに警戒するこいつたちのおかげで、部署立ち上げから半月ほど経った今も、里穂と会話らしい会話をしたのは数えるほどしかない。だが、その会話からでも、彼女がスパイとは到底思えなかった。
里穂は、慣れない環境で懸命に仕事を覚えようと努力し、質問を無視されても気を悪くすることなく、割り振られた雑用をきちんとこなす生真面目さがある。それだけでなく、周囲の言葉の端々から必要になると察した備品や資料をさりげなく準備しておく気遣いもあった。
それだけ聡い子なら、自分が周囲に受け入れられていないことに気付いているだろう。それでも不貞腐れることなく仕事に励む姿には好感が持てた。
そういう気概のある若手を育てるのは、上司の仕事だ。
もし彼女が皆の言うとおりスパイだったなら、それは自分に人を見る目がなかったというだけだ。
「一緒に仕事をしていれば質問くらいするし、指示を与えてくれそうな人を探して視線を巡らせるのも普通のことだろ。本気で彼女を疑っているなら、お前たちの目の方を疑うぞ」
到着したエレベーターに乗り込みつつ、柴崎と南野を睨む。
とはいえ、こいつらが敵と認識した相手にどれだけ厳しいかを承知しているので、本気で里穂を疑っているわけではないのはわかる。だからこそ、彼女の扱いに困っているのだろう。
「本人に悪意がなくとも、その周囲まで無害とは限りません。悪意なく同僚と世間話をして、こちらの情報を漏洩する可能性だってあります。なにより、特別企画部のオフィスに入るにはスタッフのICカードが必要ですからね。子飼いのスタッフを一人紛れ込ませておくだけでも専務派のメリットはあります」
そう返すのは、一緒にエレベーターに乗り込んできた柴崎だ。
全ての部署がそうというわけではないが、特別企画部のように機密性の高い情報を取り扱う部署には、電子ロックがかかる扉が採用されている。
しかし社内のことなので、やろうと思えばスタッフ以外の者が入室する方法はある。そのことを口にする暇を与えず、南野が続けた。
「あの悪意のなさそうな感じが、こちらを油断させるための罠という可能性もある」
その表情を見る限り、南野は生真面目な柴崎の警戒心を煽って面白がっているのだろう。
悪ふざけがすぎる南野を睨むと、彼は詫びるように肩をすくめるが、瞳に悪ガキの光を宿したまま続ける。
「もしくは、お前を籠絡するためのハニートラップとか」
「は……?」
想定外の言葉に、妙な息を漏らしてしまう。
それこそあり得ない話だ。
浅葉里穂は、姿勢がいいためか、それほど華奢な印象は受けないが小柄で細身な体つきをした女性だ。それでいて、強い意思を宿した形のよい二重の目が印象的だった。
全身から生きるエネルギーを溢れさせ、自分にできる仕事はないかと、あれこれ他のスタッフに確認して回る姿は、好奇心旺盛な子猫を思わせる。
パーマをかけた明るい色の髪はバレッタでまとめていることが多く、ほっそりとした首筋が強調されていた。
あと数年もすれば人目を引く美人に成長するかもしれないが、一樹にとっては、まだまだお子様の範疇を超えていない。そんな小娘相手に、南野の言うようなことが起こるわけがない。
その辺の感覚は柴崎も同じなのだろう。奇妙なものを見るような顔で南野に視線を向けている。
「なんなら、俺が確かめてやろうか? 色仕掛けには色仕掛けで返せばいい」
南野は女の扱いに長け、散々浮名を流してきた男だった。
つまりは、里穂を口説く口実が欲しいのだろう。
上司として、見るからに初心そうな部下が悪い男の毒牙にかかることを容認できるわけがない。
「高い慰謝料と引き換えにめでたく独身に戻ったんだから、お前が遊ぶのは大いに結構だが、俺の部署ではやめてくれ」
一樹自身、本気の恋愛とは縁遠い暮らしをしている。
だから南野を叱れるような立場にはないのだが、遊ぶ相手を選ぶ節度くらいは持ちあわせている。
見るからに恋愛に奥手そうな小娘、しかも仕事関係者でもある相手などは問題外だ。
そうこうする間に一階に到着したエレベーターの扉が開き、一樹はそこからフロアに出た。
会社での主導権を握るため、今が大事な時期であることは承知している。専務派の妨害を警戒して、必要以上にスタッフが神経を尖らせていることもわかっていた。
しかしだからといって、疑心暗鬼に駆られた結果、部署内で問題を起こされては相手の思うつぼだ。
後に続く二人を待つ間、フッと心に閃くものがあった。
「ではこうしよう。彼女の真意は俺が探る。ハニートラップだと言うのならそれもよし。もし本当に専務サイドのスパイなら、逆にこちら側に取り込めばいいだけだ」
人差し指を一本立てて、一樹は不敵な笑みを浮かべる。
「しかし……」
驚いた柴崎が反論するのを許さず、そのまま言葉を続ける。
「彼女を懐柔するのに、俺では不足とでも言いたいか?」
そう言われたら、柴崎に返す言葉がないのは承知の上だ。ついでに言えば、南野が変な気を起こさないよう、牽制することもできる。
周囲の里穂への態度が象徴しているように、現在の特別企画部は異物を排除しようとする動きが強すぎる。
確かに危険なものが入り込むリスクはなくなるかもしれないが、いい仕事ができる環境とは言いがたい。
それが我慢ならないのだ。
だから他のスタッフが彼女の扱い方を決めかねているのであれば、自分が介入することで流れを変えたい。
「これは決定事項だ」
そう宣言して、一樹は顎の動きで二人についてくるように促して歩き出した。
◇ ◇ ◇
いずみと昼食を取ったことで気分転換をした里穂は、気持ちを切り替えてオフィスに戻った。
「……あれ?」
昼の休憩が終わるギリギリに戻ってきたのだが、オフィスは空だった。
谷と友辺は午前に出かけたきり戻っていなかったが、里穂が昼食に出かける時はまだオフィスに残っていた一樹たちの姿もない。
会議など、全員で対応すべき業務を見落としていたのではないかと不安になり、里穂はそれぞれの予定を書き込んでいるホワイトボードへ視線を走らせた。でも谷と友辺の名前の欄に外出を告げる言葉がある以外、なんの予定も書かれていない。
そのことに安堵するが、すぐに予定を書き込む暇がないほど急な事態が発生したのではないかと不安になる。もしくは、あまり考えたくはないが、自分だけ大事な情報から遮断されているという可能性もある。
部署で一人浮いた存在となっている里穂としては、なにも書かれていないホワイトボードを眺めていると、胃の底がざわついてしまう。
なにかヒントになるようなものはないかと、他のスタッフのデスクへ視線を走らせる。
几帳面そうな谷と友辺のデスクの上はきちんと整頓されており、参考になりそうなものはなにもない。逆に柴崎のデスクは、会社が推奨するペーパーレス化に逆らうかのように書類が溢れていて、下手に触れれば積み上げた資料が雪崩を起こしそうで近寄りがたい。
南野のデスクは数枚の資料が出しっぱなしになっているが、求めているような情報はなさそうだ。
里穂は部屋全体を見渡せる位置にある、他より一回り大きなデスクへ視線を向けた。
部長である一樹は、同じフロアで働くようになっても遠い存在のままである。そのデスクは、本人がいる時も近寄りがたいものがあり、それは本人不在の時でも変わらない。
「……」
だけど、午後の業務の指示を受けていないこともあり、このままやることもなく一人取り残されているよりはと、里穂は覚悟を決めて一樹のデスクへ近付いた。
よく考えれば、彼のデスクをきちんと見るのは、これが初めてかもしれない。
疾しいことはなにもないのに妙な緊張感を覚えつつ一樹のデスクを観察すれば、物が少ないデスクの上で、一束のファイルとそれを押さえるガラス細工のペーパーウェイトが目を引いた。
仕事中は耳にした記憶のない学校名の後に「跡地再開発プロジェクト」と書かれたファイルの上に置かれたそれは、球体で下半分が透明感のある青色をしており、中に銀色の粒子が渦を巻くように舞っている。その中央には、気泡が一つ浮かんでいた。
なんとなく夜空の瞬きを連想させる繊細なガラス細工には、見ている者の心を捉える引力のようなものがある気がした。
「綺麗……」
まるで球体の中に閉じ込められた手のひらサイズの宇宙のようで、感嘆の息が漏れた。
思わずその表面にそっと指を滑らせると、ガラスの手触りは硬く滑らかで、当然その内側の煌めきに触れることはできない。
――なんだか、部長みたい……
人を惹きつけてやまない強烈な存在感を放っているのに、触れることは叶わない。現実の距離感にもどかしさを覚えて、無意識にため息を吐く。
ペーパーウェイトの表面に指を触れさせているうちに、ふと「みずをきくすればつきてにあり」という言葉が胸に浮かぶ。
まるで呪文のようなその言葉を初めて耳にした時のことをぼんやり思い出していると、オフィスの扉が開く気配がした。
気配に反応して視線を向けると、一樹と柴崎と南野の三人が扉の前に立っている。
「お前、そこでなにをしているっ!」
抑えてはいるが、怒気をはらんだ声を放ったのは柴崎だ。
「えっと……その……」
生真面目そうな柴崎は、おそらく勝手に人のデスクのものに触れていた里穂に腹を立てているのだろう。そんな人を相手に、一樹のペーパーウェイトを撫でつつ彼を思っていたなんて恥ずかしくて言えるはずがない。
里穂がしどろもどろになって言い訳の言葉を探していると、柴崎の苛立ちが増す気配を感じた。
そうなってしまうと、ますます言葉が出てこない。
今にも怒鳴り出しそうな柴崎と立ち位置を入れ替わるように、一歩前に出た南野が優しい口調で問う。
「柴崎さんは、君がさっき一緒に出かけたお友達に、なにか言われたり頼まれたりしなかったか、心配しているのだよ」
「いずみに……ですか?」
何故、いずみと食事に行ったことを知っているのだろうと思いながら、里穂はフルフルと首を横に振る。
咄嗟のことで素の表情で返してしまった。
見れば柴崎は、毒気を抜かれたような顔をしている。それで慌てて説明を付け足した。
「戻ったら誰もいなかったので、なにをしたらいいのかわからず、できることはないか探していたんです」
正しくは、自分だけ仲間外れにされているのではないかと焦っていたのだけど、それをそのまま言葉にするのも恥ずかしいので、その程度の嘘は許していただきたい。
「なにも指示を残さず、休憩時間を過ぎて戻ってきた私たちが悪いな」
柴崎の肩を軽く叩いて一樹が言う。
一樹は南野の肩を引いて後ろに下がらせると、そのまま里穂へ歩み寄る。
そして里穂の前に立つと、蜜を溶かし込んだような甘く魅惑的な微笑みを添えて、「悪かったな」と詫びた。
「――っ!」
本人としては何気ない仕草なのかもしれないが、これまで同じフロアにいても、遠目に盗み見ることしかできなかった相手に突然間近で甘く微笑まれ、心臓が大きく跳ねてしまう。
手を伸ばせば簡単に触れられる距離は、一樹の纏うトワレの香りまで感じることができて、呼吸することさえ失礼ではないかと思えてくる。
あまりの緊張に唇を引き結んで硬直していると、一樹は里穂の手が彼のデスクに伸ばされていることに気付き、微かに眉根を寄せた。
それは隙があれば彼を盗み見てきた里穂だから気付ける一瞬の微妙な変化で、里穂に視線を向ける時には、表情は至って紳士的なものに戻っていた。
「なにか面白いものでもあったかな?」
問いかけながら、一樹は里穂の手に自分の手を重ねる。
彼の手に押され、里穂は手のひら全体でペーパーウエイトを包み込む形となった。
「部長、あの……っ」
手のひらで硬質なガラスの冷たさを、甲では大きく男性的な一樹の手の温もりを感じている。その相反する感覚に混乱してしまう上に、距離が縮まったことで彼の香りを強く意識してしまう。
上品でどこか日本の香を連想させる香りは、彼の色気を引き立てるエッセンスとしての役目を十分に果たしていて、里穂は緊張して息をするのも辛くなる。
顔が熱いし、自分の鼓動がうるさい。
手が触れただけでここまで過剰反応してしまう自分が、彼の目にどう映っているかと考えると居たたまれなくなる。
それなのに手を押さえられているので、彼と距離を取ることもできない。
一樹は、慌てふためく里穂の反応を味わうように目を細めた。その表情にも、大人の男の色気が溢れている。
「私のデスクに、興味をそそるようなものはあったかい?」
悪さをした子供を窘めるような余裕を含んだ声。それでいて、どこかこちらをからかっているようにも聞こえる。
しかも、彼の甘く掠れた声で囁かれると、鼓膜だけでなく、脳を直接くすぐられたみたいに錯覚してしまう。
彼の纏う空気には、人の心を酔わせる毒があるのではないかと疑いたくなる。それほど強烈な存在感を放つ彼と至近距離で向き合っているうちに、頭がくらくらしてきた。
自分が極度の緊張から酸欠に陥っていると気付いたのは、急な眩暈に襲われて彼の胸に頬をぶつけた後だった。
三つ揃えスーツのベストやワイシャツ越しに感じる彼の胸板は、硬いと感じるほど鍛え上げられている。思わず一樹の引き締まった体を想像して赤面してしまった。
「あの……すみませんっ……そのっ」
慌てて傾いた姿勢を立て直すけれど、思考が空回りして言葉が出てこない。
一樹は、里穂の挙動不審な態度に気を悪くする様子もなく、からかうように問いかける。
「口では言えないようなことに、興味でも?」
触れる指先の感触や甘く囁く声、咲き誇る花のように存在感のある香り。その全てが、彼は女性の扱いに慣れているのだと告げてくる。
恋愛経験皆無の自分が不用意に近付けば、痛い目に遭う――理性がそう警鐘を鳴らす反面、女としての本能が、そんな彼に身を委ねてみたいと訴えてくる。
女の本能に感情が傾きかけた時、視界の端に柴崎と南野の姿が見えて、自分が置かれている状況を思い出した里穂はハッと息を呑んだ。
「ま、まさかっ!」
慌てて理性を取り戻した里穂は、重ねられていた手から自分の手を引き抜き、一樹との距離を適切なものにする。
胸が上下するほど深い呼吸を繰り返して気持ちを落ち着け、一樹を見上げた。彼は柴崎たちの方に視線を向け、なにかを問いかけるように軽く首をかたむけている。
そして困ったように肩をすくめると、里穂に視線を戻して口角を持ち上げた。その表情に、なにか悪巧みを楽しむ子供のような、はた迷惑な輝きを感じたのは気のせいだろうか。
「さっきの話だと、浅葉君は午後に任されている業務はないということか?」
「はい」
軽く頷いた一樹は、顎に拳を添えて少し考えてから聞く。
「ドローンのハンドリリースとキャッチをしたことは?」
ドローンを扱う際、平坦な地面がない場合は、人の手で離着陸をサポートすることがある。時ノ杜設計で使用されるドローンは統一機種で、側面に取り付けられているカメラに傷がつかないように保護するためのスキッドを使って行うのが基本だ。
「あります。風速計の見方もわかります」
前の部署で、雑用係として駆り出されたことがある。
「なら私の外回りに付き合え。写真に撮っておきたい場所があるから、その準備も忘れるな」
里穂が頷くと、一樹はオフィスの隅にある戸棚を示した。そこには、仕事用のドローンやデジカメなどの精密機械が収められている。
「部長、それなら私が……」
慌てた様子で柴崎が口を挟む。
「なら、お前が今抱えている業務を、浅葉君に任せるんだな」
一樹の言葉に、戸棚へと体を向けた柴崎の動きが止まる。
その隙に一樹は「ついてこい」と顎の動きで里穂を促すと、そのままオフィスを出て行く。
「はい」
短く返した里穂は戸棚に駆け寄ると、必要な機材をバッグに収め、それを肩から下げて一樹の後を追った。
突然の流れに戸惑ったけれど、今は任された仕事を全力で頑張るだけだ。
里穂がエレベーターホールへ駆けて行くと、そこで自分の到着を待っている一樹の姿があった。
「お待たせして……申し訳ありません」
重い荷物を抱えて走って来た里穂は肩で息をしつつ、荷物を床に下ろした。
腕時計を確認しながら待っていた一樹は、しゃがみ込んで荷物を確認する。
「バッテリーは?」
「充電は昨日帰る時にしておきました。センサー周りの確認とシステムのアップデートも、朝イチでしてあります」
今日、谷と友辺が外出することは、ホワイトボードの予定表から承知していた。もしかしたら必要になるかもしれないと準備しておいたのだが、彼らがそれを持って出ることはなかった。
それをそのまま持ってきたので、準備は万全である。
「計器類やデジカメの他に、事故防止用の革手袋とゴーグルもあるな」
荷物が収められているバッグのファスナーを閉め、腕時計を再度確認した一樹は、「合格」と頷いて立ち上がった。
「咄嗟にこれだけ準備できたら、新米としては合格点だ」
どうやら突然の指示は、里穂の実力テストだったらしい。彼に及第点をもらえたことに安堵しつつ、素朴な疑問が湧く。
「不合格だったら、どうなっていたんでしょうか?」
里穂が運んできたバッグを肩に下げ、エレベーターのボタンを押した一樹は、チラリと里穂を見ると、階数表示に視線を移動させて少し考える。
ちょうどこの階にエレベーターが停まっていて、すぐに扉が開く。
乗り込む瞬間、一樹は誘うような眼差しをこちらに向けた。
「それならそれで、このまま二人でデートするのも悪くないな」
「へ?」
予想外の言葉に、赤面してしまう。里穂のそんな初心な反応に楽しげに目を細めた一樹に「乗らないのか?」と聞かれ、里穂は急いで扉が閉まり始めているエレベーターに飛び込んだ。
「おっ、危ないぞ」
置いて行かれては大変と、勢いよくエレベーターに飛び込んだ里穂の体を一樹が受け止める。
バランスを崩した里穂の腰に腕を回したかと思ったら、そのまま体の位置を入れ替えて里穂の体を壁に抑え込んだ。思わぬ体勢に緊張していると、体を寄せた一樹が里穂の顔の横にあるコントロールパネルを押した。
「……えっ」
壁ドンからのキスといった、少女漫画のような展開を瞬時に思い浮かべてしまった里穂は、自分の勘違いが恥ずかしくなる。
「なにか期待したか?」
背後で柴崎が「だからですよ」と一樹の腕を引っ張り、壁の陰に隠そうとする。
その過剰反応が煩わしくて、一樹は大きく肩を回して柴崎の手を振り払った。
「午後も部署で顔を合わせるのに、わざわざ隠れる意味があるのか?」
敢えて挑発するように問うと、学生時代から武道を続けている柴崎は荒い息を吐く。
「あんな小娘相手に、臆するわけありません」
相手が自分なので柔らかな口調を保っているが、その顔にははっきり心外だと書いてある。
年齢ではなく、相手の人間性を見て扱いを判断する柴崎は、後輩な上、再就職の身である一樹に対して当然のように敬意を払った接し方をしてくる。
無骨なまでのその生真面目さには感謝しているが、里穂に対する態度がその存在を認めていないように感じられて気になっていた。
「なら避けたりするな。見ていて気分が悪いぞ」
いいタイミングなので、そう釘を刺してエレベーターへ足を向ける。
里穂が乗り込んだエレベーターはすでに扉が閉まり降下し始めているので、柴崎たちも素直にその後に従う。
「そうは言っても、彼女は専務派の筆頭とも言える建築部第三課の古橋の部下だったんだぞ」
柴崎の振る舞いを正当化するように口を挟むのは、同期だった南野だ。一樹を上司として認めてくれているが、同期の気安さで今も変わらずフランクな口調のまま接してくる。
ここまで黙って話を聞いていた南野も、考えとしては柴崎と同じらしい。ますますくだらないと頭を掻いた一樹は、二人を軽く睨んだ。
「だから彼女が、阿賀津専務のスパイだと?」
一樹の時ノ杜設計復帰のために用意された特別企画部の立ち上げメンバーに、当初、浅葉里穂は含まれていなかった。
社内で勢力を伸ばす阿賀津専務を牽制するため、一樹は祖父である社長に呼び戻された。その布石となる特別企画部のスタッフは、一樹自身も面接に加わって厳選してきた。
ところが始動直前になって、決定したスタッフのうちの三人が退職という形で離脱したのだ。
彼らの退職に専務派が絡んでいることは容易に推測できたが、それを明らかにしても詮無いことだし、一樹自身、理由がなんであれ、離脱した奴に興味はない。
残ったスタッフは皆優秀なので、わざわざ新たなメンバーを迎え入れる必要はなく、そのまま自分を含めた五人のスタッフで始動させる気でいた。だがそこに、阿賀陣営が若手育成という名目のもと、里穂を送り込んできたのだ。
一樹としては、それならそれで構わないのだが、他のスタッフはそうは思わなかったらしい。
里穂のことを専務サイドのスパイではないかと警戒し、ろくに仕事をさせないどころか、過剰なまでに距離を取っている。
「彼女の異動は、阿賀津専務の甥である阿賀津チーフの後押しによるものと聞きますし、用心するに越したことはないです」
「確かに、やたらとこちらの仕事に関わろうとしてくるし、難しい顔でお前の動きを目で追っているのは俺も気になっているが」
「だからスパイだと?」
――そんなわけがあるか。
真顔で忠告してくる柴崎と南野に心の中で毒づく。
阿賀津専務の嫌がらせを過剰なまでに警戒するこいつたちのおかげで、部署立ち上げから半月ほど経った今も、里穂と会話らしい会話をしたのは数えるほどしかない。だが、その会話からでも、彼女がスパイとは到底思えなかった。
里穂は、慣れない環境で懸命に仕事を覚えようと努力し、質問を無視されても気を悪くすることなく、割り振られた雑用をきちんとこなす生真面目さがある。それだけでなく、周囲の言葉の端々から必要になると察した備品や資料をさりげなく準備しておく気遣いもあった。
それだけ聡い子なら、自分が周囲に受け入れられていないことに気付いているだろう。それでも不貞腐れることなく仕事に励む姿には好感が持てた。
そういう気概のある若手を育てるのは、上司の仕事だ。
もし彼女が皆の言うとおりスパイだったなら、それは自分に人を見る目がなかったというだけだ。
「一緒に仕事をしていれば質問くらいするし、指示を与えてくれそうな人を探して視線を巡らせるのも普通のことだろ。本気で彼女を疑っているなら、お前たちの目の方を疑うぞ」
到着したエレベーターに乗り込みつつ、柴崎と南野を睨む。
とはいえ、こいつらが敵と認識した相手にどれだけ厳しいかを承知しているので、本気で里穂を疑っているわけではないのはわかる。だからこそ、彼女の扱いに困っているのだろう。
「本人に悪意がなくとも、その周囲まで無害とは限りません。悪意なく同僚と世間話をして、こちらの情報を漏洩する可能性だってあります。なにより、特別企画部のオフィスに入るにはスタッフのICカードが必要ですからね。子飼いのスタッフを一人紛れ込ませておくだけでも専務派のメリットはあります」
そう返すのは、一緒にエレベーターに乗り込んできた柴崎だ。
全ての部署がそうというわけではないが、特別企画部のように機密性の高い情報を取り扱う部署には、電子ロックがかかる扉が採用されている。
しかし社内のことなので、やろうと思えばスタッフ以外の者が入室する方法はある。そのことを口にする暇を与えず、南野が続けた。
「あの悪意のなさそうな感じが、こちらを油断させるための罠という可能性もある」
その表情を見る限り、南野は生真面目な柴崎の警戒心を煽って面白がっているのだろう。
悪ふざけがすぎる南野を睨むと、彼は詫びるように肩をすくめるが、瞳に悪ガキの光を宿したまま続ける。
「もしくは、お前を籠絡するためのハニートラップとか」
「は……?」
想定外の言葉に、妙な息を漏らしてしまう。
それこそあり得ない話だ。
浅葉里穂は、姿勢がいいためか、それほど華奢な印象は受けないが小柄で細身な体つきをした女性だ。それでいて、強い意思を宿した形のよい二重の目が印象的だった。
全身から生きるエネルギーを溢れさせ、自分にできる仕事はないかと、あれこれ他のスタッフに確認して回る姿は、好奇心旺盛な子猫を思わせる。
パーマをかけた明るい色の髪はバレッタでまとめていることが多く、ほっそりとした首筋が強調されていた。
あと数年もすれば人目を引く美人に成長するかもしれないが、一樹にとっては、まだまだお子様の範疇を超えていない。そんな小娘相手に、南野の言うようなことが起こるわけがない。
その辺の感覚は柴崎も同じなのだろう。奇妙なものを見るような顔で南野に視線を向けている。
「なんなら、俺が確かめてやろうか? 色仕掛けには色仕掛けで返せばいい」
南野は女の扱いに長け、散々浮名を流してきた男だった。
つまりは、里穂を口説く口実が欲しいのだろう。
上司として、見るからに初心そうな部下が悪い男の毒牙にかかることを容認できるわけがない。
「高い慰謝料と引き換えにめでたく独身に戻ったんだから、お前が遊ぶのは大いに結構だが、俺の部署ではやめてくれ」
一樹自身、本気の恋愛とは縁遠い暮らしをしている。
だから南野を叱れるような立場にはないのだが、遊ぶ相手を選ぶ節度くらいは持ちあわせている。
見るからに恋愛に奥手そうな小娘、しかも仕事関係者でもある相手などは問題外だ。
そうこうする間に一階に到着したエレベーターの扉が開き、一樹はそこからフロアに出た。
会社での主導権を握るため、今が大事な時期であることは承知している。専務派の妨害を警戒して、必要以上にスタッフが神経を尖らせていることもわかっていた。
しかしだからといって、疑心暗鬼に駆られた結果、部署内で問題を起こされては相手の思うつぼだ。
後に続く二人を待つ間、フッと心に閃くものがあった。
「ではこうしよう。彼女の真意は俺が探る。ハニートラップだと言うのならそれもよし。もし本当に専務サイドのスパイなら、逆にこちら側に取り込めばいいだけだ」
人差し指を一本立てて、一樹は不敵な笑みを浮かべる。
「しかし……」
驚いた柴崎が反論するのを許さず、そのまま言葉を続ける。
「彼女を懐柔するのに、俺では不足とでも言いたいか?」
そう言われたら、柴崎に返す言葉がないのは承知の上だ。ついでに言えば、南野が変な気を起こさないよう、牽制することもできる。
周囲の里穂への態度が象徴しているように、現在の特別企画部は異物を排除しようとする動きが強すぎる。
確かに危険なものが入り込むリスクはなくなるかもしれないが、いい仕事ができる環境とは言いがたい。
それが我慢ならないのだ。
だから他のスタッフが彼女の扱い方を決めかねているのであれば、自分が介入することで流れを変えたい。
「これは決定事項だ」
そう宣言して、一樹は顎の動きで二人についてくるように促して歩き出した。
◇ ◇ ◇
いずみと昼食を取ったことで気分転換をした里穂は、気持ちを切り替えてオフィスに戻った。
「……あれ?」
昼の休憩が終わるギリギリに戻ってきたのだが、オフィスは空だった。
谷と友辺は午前に出かけたきり戻っていなかったが、里穂が昼食に出かける時はまだオフィスに残っていた一樹たちの姿もない。
会議など、全員で対応すべき業務を見落としていたのではないかと不安になり、里穂はそれぞれの予定を書き込んでいるホワイトボードへ視線を走らせた。でも谷と友辺の名前の欄に外出を告げる言葉がある以外、なんの予定も書かれていない。
そのことに安堵するが、すぐに予定を書き込む暇がないほど急な事態が発生したのではないかと不安になる。もしくは、あまり考えたくはないが、自分だけ大事な情報から遮断されているという可能性もある。
部署で一人浮いた存在となっている里穂としては、なにも書かれていないホワイトボードを眺めていると、胃の底がざわついてしまう。
なにかヒントになるようなものはないかと、他のスタッフのデスクへ視線を走らせる。
几帳面そうな谷と友辺のデスクの上はきちんと整頓されており、参考になりそうなものはなにもない。逆に柴崎のデスクは、会社が推奨するペーパーレス化に逆らうかのように書類が溢れていて、下手に触れれば積み上げた資料が雪崩を起こしそうで近寄りがたい。
南野のデスクは数枚の資料が出しっぱなしになっているが、求めているような情報はなさそうだ。
里穂は部屋全体を見渡せる位置にある、他より一回り大きなデスクへ視線を向けた。
部長である一樹は、同じフロアで働くようになっても遠い存在のままである。そのデスクは、本人がいる時も近寄りがたいものがあり、それは本人不在の時でも変わらない。
「……」
だけど、午後の業務の指示を受けていないこともあり、このままやることもなく一人取り残されているよりはと、里穂は覚悟を決めて一樹のデスクへ近付いた。
よく考えれば、彼のデスクをきちんと見るのは、これが初めてかもしれない。
疾しいことはなにもないのに妙な緊張感を覚えつつ一樹のデスクを観察すれば、物が少ないデスクの上で、一束のファイルとそれを押さえるガラス細工のペーパーウェイトが目を引いた。
仕事中は耳にした記憶のない学校名の後に「跡地再開発プロジェクト」と書かれたファイルの上に置かれたそれは、球体で下半分が透明感のある青色をしており、中に銀色の粒子が渦を巻くように舞っている。その中央には、気泡が一つ浮かんでいた。
なんとなく夜空の瞬きを連想させる繊細なガラス細工には、見ている者の心を捉える引力のようなものがある気がした。
「綺麗……」
まるで球体の中に閉じ込められた手のひらサイズの宇宙のようで、感嘆の息が漏れた。
思わずその表面にそっと指を滑らせると、ガラスの手触りは硬く滑らかで、当然その内側の煌めきに触れることはできない。
――なんだか、部長みたい……
人を惹きつけてやまない強烈な存在感を放っているのに、触れることは叶わない。現実の距離感にもどかしさを覚えて、無意識にため息を吐く。
ペーパーウェイトの表面に指を触れさせているうちに、ふと「みずをきくすればつきてにあり」という言葉が胸に浮かぶ。
まるで呪文のようなその言葉を初めて耳にした時のことをぼんやり思い出していると、オフィスの扉が開く気配がした。
気配に反応して視線を向けると、一樹と柴崎と南野の三人が扉の前に立っている。
「お前、そこでなにをしているっ!」
抑えてはいるが、怒気をはらんだ声を放ったのは柴崎だ。
「えっと……その……」
生真面目そうな柴崎は、おそらく勝手に人のデスクのものに触れていた里穂に腹を立てているのだろう。そんな人を相手に、一樹のペーパーウェイトを撫でつつ彼を思っていたなんて恥ずかしくて言えるはずがない。
里穂がしどろもどろになって言い訳の言葉を探していると、柴崎の苛立ちが増す気配を感じた。
そうなってしまうと、ますます言葉が出てこない。
今にも怒鳴り出しそうな柴崎と立ち位置を入れ替わるように、一歩前に出た南野が優しい口調で問う。
「柴崎さんは、君がさっき一緒に出かけたお友達に、なにか言われたり頼まれたりしなかったか、心配しているのだよ」
「いずみに……ですか?」
何故、いずみと食事に行ったことを知っているのだろうと思いながら、里穂はフルフルと首を横に振る。
咄嗟のことで素の表情で返してしまった。
見れば柴崎は、毒気を抜かれたような顔をしている。それで慌てて説明を付け足した。
「戻ったら誰もいなかったので、なにをしたらいいのかわからず、できることはないか探していたんです」
正しくは、自分だけ仲間外れにされているのではないかと焦っていたのだけど、それをそのまま言葉にするのも恥ずかしいので、その程度の嘘は許していただきたい。
「なにも指示を残さず、休憩時間を過ぎて戻ってきた私たちが悪いな」
柴崎の肩を軽く叩いて一樹が言う。
一樹は南野の肩を引いて後ろに下がらせると、そのまま里穂へ歩み寄る。
そして里穂の前に立つと、蜜を溶かし込んだような甘く魅惑的な微笑みを添えて、「悪かったな」と詫びた。
「――っ!」
本人としては何気ない仕草なのかもしれないが、これまで同じフロアにいても、遠目に盗み見ることしかできなかった相手に突然間近で甘く微笑まれ、心臓が大きく跳ねてしまう。
手を伸ばせば簡単に触れられる距離は、一樹の纏うトワレの香りまで感じることができて、呼吸することさえ失礼ではないかと思えてくる。
あまりの緊張に唇を引き結んで硬直していると、一樹は里穂の手が彼のデスクに伸ばされていることに気付き、微かに眉根を寄せた。
それは隙があれば彼を盗み見てきた里穂だから気付ける一瞬の微妙な変化で、里穂に視線を向ける時には、表情は至って紳士的なものに戻っていた。
「なにか面白いものでもあったかな?」
問いかけながら、一樹は里穂の手に自分の手を重ねる。
彼の手に押され、里穂は手のひら全体でペーパーウエイトを包み込む形となった。
「部長、あの……っ」
手のひらで硬質なガラスの冷たさを、甲では大きく男性的な一樹の手の温もりを感じている。その相反する感覚に混乱してしまう上に、距離が縮まったことで彼の香りを強く意識してしまう。
上品でどこか日本の香を連想させる香りは、彼の色気を引き立てるエッセンスとしての役目を十分に果たしていて、里穂は緊張して息をするのも辛くなる。
顔が熱いし、自分の鼓動がうるさい。
手が触れただけでここまで過剰反応してしまう自分が、彼の目にどう映っているかと考えると居たたまれなくなる。
それなのに手を押さえられているので、彼と距離を取ることもできない。
一樹は、慌てふためく里穂の反応を味わうように目を細めた。その表情にも、大人の男の色気が溢れている。
「私のデスクに、興味をそそるようなものはあったかい?」
悪さをした子供を窘めるような余裕を含んだ声。それでいて、どこかこちらをからかっているようにも聞こえる。
しかも、彼の甘く掠れた声で囁かれると、鼓膜だけでなく、脳を直接くすぐられたみたいに錯覚してしまう。
彼の纏う空気には、人の心を酔わせる毒があるのではないかと疑いたくなる。それほど強烈な存在感を放つ彼と至近距離で向き合っているうちに、頭がくらくらしてきた。
自分が極度の緊張から酸欠に陥っていると気付いたのは、急な眩暈に襲われて彼の胸に頬をぶつけた後だった。
三つ揃えスーツのベストやワイシャツ越しに感じる彼の胸板は、硬いと感じるほど鍛え上げられている。思わず一樹の引き締まった体を想像して赤面してしまった。
「あの……すみませんっ……そのっ」
慌てて傾いた姿勢を立て直すけれど、思考が空回りして言葉が出てこない。
一樹は、里穂の挙動不審な態度に気を悪くする様子もなく、からかうように問いかける。
「口では言えないようなことに、興味でも?」
触れる指先の感触や甘く囁く声、咲き誇る花のように存在感のある香り。その全てが、彼は女性の扱いに慣れているのだと告げてくる。
恋愛経験皆無の自分が不用意に近付けば、痛い目に遭う――理性がそう警鐘を鳴らす反面、女としての本能が、そんな彼に身を委ねてみたいと訴えてくる。
女の本能に感情が傾きかけた時、視界の端に柴崎と南野の姿が見えて、自分が置かれている状況を思い出した里穂はハッと息を呑んだ。
「ま、まさかっ!」
慌てて理性を取り戻した里穂は、重ねられていた手から自分の手を引き抜き、一樹との距離を適切なものにする。
胸が上下するほど深い呼吸を繰り返して気持ちを落ち着け、一樹を見上げた。彼は柴崎たちの方に視線を向け、なにかを問いかけるように軽く首をかたむけている。
そして困ったように肩をすくめると、里穂に視線を戻して口角を持ち上げた。その表情に、なにか悪巧みを楽しむ子供のような、はた迷惑な輝きを感じたのは気のせいだろうか。
「さっきの話だと、浅葉君は午後に任されている業務はないということか?」
「はい」
軽く頷いた一樹は、顎に拳を添えて少し考えてから聞く。
「ドローンのハンドリリースとキャッチをしたことは?」
ドローンを扱う際、平坦な地面がない場合は、人の手で離着陸をサポートすることがある。時ノ杜設計で使用されるドローンは統一機種で、側面に取り付けられているカメラに傷がつかないように保護するためのスキッドを使って行うのが基本だ。
「あります。風速計の見方もわかります」
前の部署で、雑用係として駆り出されたことがある。
「なら私の外回りに付き合え。写真に撮っておきたい場所があるから、その準備も忘れるな」
里穂が頷くと、一樹はオフィスの隅にある戸棚を示した。そこには、仕事用のドローンやデジカメなどの精密機械が収められている。
「部長、それなら私が……」
慌てた様子で柴崎が口を挟む。
「なら、お前が今抱えている業務を、浅葉君に任せるんだな」
一樹の言葉に、戸棚へと体を向けた柴崎の動きが止まる。
その隙に一樹は「ついてこい」と顎の動きで里穂を促すと、そのままオフィスを出て行く。
「はい」
短く返した里穂は戸棚に駆け寄ると、必要な機材をバッグに収め、それを肩から下げて一樹の後を追った。
突然の流れに戸惑ったけれど、今は任された仕事を全力で頑張るだけだ。
里穂がエレベーターホールへ駆けて行くと、そこで自分の到着を待っている一樹の姿があった。
「お待たせして……申し訳ありません」
重い荷物を抱えて走って来た里穂は肩で息をしつつ、荷物を床に下ろした。
腕時計を確認しながら待っていた一樹は、しゃがみ込んで荷物を確認する。
「バッテリーは?」
「充電は昨日帰る時にしておきました。センサー周りの確認とシステムのアップデートも、朝イチでしてあります」
今日、谷と友辺が外出することは、ホワイトボードの予定表から承知していた。もしかしたら必要になるかもしれないと準備しておいたのだが、彼らがそれを持って出ることはなかった。
それをそのまま持ってきたので、準備は万全である。
「計器類やデジカメの他に、事故防止用の革手袋とゴーグルもあるな」
荷物が収められているバッグのファスナーを閉め、腕時計を再度確認した一樹は、「合格」と頷いて立ち上がった。
「咄嗟にこれだけ準備できたら、新米としては合格点だ」
どうやら突然の指示は、里穂の実力テストだったらしい。彼に及第点をもらえたことに安堵しつつ、素朴な疑問が湧く。
「不合格だったら、どうなっていたんでしょうか?」
里穂が運んできたバッグを肩に下げ、エレベーターのボタンを押した一樹は、チラリと里穂を見ると、階数表示に視線を移動させて少し考える。
ちょうどこの階にエレベーターが停まっていて、すぐに扉が開く。
乗り込む瞬間、一樹は誘うような眼差しをこちらに向けた。
「それならそれで、このまま二人でデートするのも悪くないな」
「へ?」
予想外の言葉に、赤面してしまう。里穂のそんな初心な反応に楽しげに目を細めた一樹に「乗らないのか?」と聞かれ、里穂は急いで扉が閉まり始めているエレベーターに飛び込んだ。
「おっ、危ないぞ」
置いて行かれては大変と、勢いよくエレベーターに飛び込んだ里穂の体を一樹が受け止める。
バランスを崩した里穂の腰に腕を回したかと思ったら、そのまま体の位置を入れ替えて里穂の体を壁に抑え込んだ。思わぬ体勢に緊張していると、体を寄せた一樹が里穂の顔の横にあるコントロールパネルを押した。
「……えっ」
壁ドンからのキスといった、少女漫画のような展開を瞬時に思い浮かべてしまった里穂は、自分の勘違いが恥ずかしくなる。
「なにか期待したか?」
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