完璧御曹司の年の差包囲網で甘く縛られました

冬野まゆ

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1巻

1-3

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 押し殺すように息を詰めて黙り込む里穂に、体を寄せたままの姿勢で一樹が尋ねてきた。
 迫られているわけではないのだが、男の色気があふれる彼にこの距離感で見つめられると、こちらの不埒ふらちな妄想を見透かされてしまったのではないかと不安になる。

「部長、近いです」

 これ以上の密着は耐えられないと、里穂は一樹の胸を押して訴える。
 すると一樹は「失礼」と、軽い口調で謝り離れていく。だが表情に、こちらを誘うような色気をただよわせている。
 それにはあらがい難い魅力を感じるのだけど……

「……もしかして、罰ゲームかなにかで、私を口説くように言われたんですか?」

 これまでろくに口をきいたことのない相手が、今日に限ってやたらと大人の色気を振り撒いて距離を詰めてくるのだ。しかも、そこに男女の熱情のようなものは微塵みじんも感じられない。
 それに自分と一樹のやり取りを黙って見ていた、柴崎と南野の微妙な表情。
 冷静にこの状況を分析した里穂は、どんな理由があれば彼がこんな行動を取るかと考え、その発想に思い至った。
 彼を見上げると、一樹の表情から、香り立つような男の色気が抜け落ちていく。
 その変化の速さに、やはり今までの言動は全て計算づくのものだったのだと納得する。
 そんな里穂の様子を見て、一樹は楽しそうに目尻にしわを刻んだ。

「俺に口説かれているとは思わないのか?」

 そう問いかける一樹の自称が、「私」ではなく「俺」になっている。おそらくこれが、彼の素なのだろう。

「残念ながら、己の身の程は承知しています。大人の部長が、私を口説くわけがないです」

 事実なのだが、口にするとなんだか悲しくなる。
 だが一樹は、自分とは反対に嬉しそうだ。

「聡明でなにより。正直俺も、このゲームには飽きていたから助かったよ」

 なんでそんなゲームを……と尋ねる前に、エレベーターが一階に到着し、控えめなベルの音に続いて扉が開く。

「浅葉君を口説くつもりはないが、少しだけ距離を縮めたいとは思ってる」

 エレベーターを降りた一樹は、振り返り、里穂に手を伸ばして言う。

「からかって悪かった。お詫びに仕事の後に美味うまいものを食わせてやるから許してほしい。……詳しい話はその時にするから、とりあえず俺の仕事に付き合ってくれ」

 悔しいが、屈託のない口調でそう話す一樹の表情は、先ほどまでの計算づくの色気あるものより、ずっと里穂の心をとらえた。
 それこそ、里穂が一樹の容姿にだけ魅了されて恋がれていたのであれば、たわむれと承知で誘惑されていたかもしれない。
 だけど自分は、一樹の容姿ではなく、仕事に惚れたのだ。
 彼の軌跡きせきをたどり、少しでも彼の仕事を学びたいと願っている里穂は、「承知しました」と返して、一樹の背中を追った。


 奇妙な流れで一樹の外回りに同行することとなった里穂は、その日の夕方、とある店のカウンターでぐったりしていた。
 見るからに高級感がただよう白木の一枚板のカウンターに、頬を預けて脱力する勇気はない。仕方なく椅子に深く座って、背もたれに体重を預けることで込み上げてくる疲労感をやり過ごす。

「そろそろ料理が始まるけど、飲み物はどうする?」

 隣に座る一樹が、ドリンクのメニュー表を差し出してきた。
 きしむ体に力を入れて姿勢を整えた里穂は、メニューを受け取りながら隣を見上げる。

「部長は?」

 そう尋ねた里穂に、一樹は「ここでその呼び方は無粋だ」と返す。里穂は思わず店内を見回した。
 茶室の躙口にじりぐちほどではないが、腰をかがめる必要があるほど小さな戸口から入った店内は、京の町家を思わせる。カウンター席だけの店だがそれほど狭くはなく、壁際には大きな壺に絢爛けんらんな生花が生けられている。
 カウンターの内側にも余裕があり、ワインセラーやビールサーバーの他、壁際の棚に旬の食材がディスプレイされていた。
 敢えて客席の数を絞り、贅沢ぜいたくな空間の使い方をしているのには、店側のこだわりがあるらしい。
 一樹の話によれば、この店は完全予約制の天ぷら屋で、一日六人までしか客を受け入れないそうだ。しかも、食事の開始時間からコースのメニューまで、すべて店で決められているのだという。

「えっと……」

 そう言われても、呼び方に悩む。
 困り顔で見上げていると、彼が「一樹と、名前を呼び捨てにしても構わないぞ」と言う。
 ニンマリ笑う彼の顔を見れば、こちらをからかっているのだとわかる。

「では、時枝さんで」

 無駄に色気を振り撒くのをやめた途端、こちらを子供扱いしてくるのはいただけない。
 年齢差や立場の違いを考えれば当然なのだろうけど、里穂は彼の部下なのだ。対等な関係とまではいかなくとも、もう少し大人の扱いをしてほしい。
 里穂のそっけない反応に、一樹はつまらなそうに肩をすくめる。

「で、なにを飲む? 俺は車だが、酒が飲めるならここの梅酒は女性の好みだと思うぞ」
「では、それをいただきます」

 ここでソフトドリンクを注文すると余計に子供扱いされそうなので、勧められたお酒を選ぶ。
 軽く頷いた一樹は、カウンターの向こうのスタッフに、梅酒のソーダ割りとノンアルコールのカクテルを注文した。
 飲み物と共に先付が出される。
 クエとハーブの梅肉えは、薄くスライスされたミョウガの食感がいいアクセントになっている。それに梅酒のソーダ割りも、砂糖の甘さに頼ることなく、上品な梅の味がして飲みやすい。

「お気に召していただけたようで、なにより」

 カウンターに頬杖をついた一樹が、先付と梅酒を味わう里穂の横顔を眺めて言う。

「走り回って、喉が渇いていたので」

 美味おいしいものを美味おいしいと喜ぶのは、子供っぽい反応だったかもしれない。
 そう恥じる里穂の隣で、一樹が自分のグラスに口をつける。

「確かに、動き回った後に飲むと、格段に美味うまいな」

 軽く喉を上下させた一樹が、表情を輝かせて言う。

「時枝さんは、大して動いてませんよね」

 素直な感情をそのまま口にした様子の一樹に、つい気持ちが解れて軽口を返してしまう。
 今日の撮影で操作を担当した一樹は、基本動くことはなく、ハンドキャッチを任された里穂だけがあちこち動き回った。しかも撮影におもむいたのは、全面リニューアルに向けて休館しているショッピングモールで、そこの駐車場を発着場所にして行うドローン撮影にハンドキャッチの必要は感じなかった。
 なのに「しっかり捕まえろよ」と指示をされ、空中をあちらこちらに彷徨さまようドローンに翻弄ほんろうされた。

「フリスビーで犬とたわむれる人の気持ちがわかったよ」

 さわやかに笑うその一言で、今日の午後の業務に彼の悪ふざけが過分に含まれていたのだとわかる。

「なにを考えているんですか」

 どれだけ操縦が下手へたなのだと思っていたが、あの不安定な動きは里穂をからかってのものらしい。
 捕まえようとするとフワリと上昇し、右に左にふらふら彷徨さまようドローンを追いかけて走り回ったことを思い出して里穂が眉を寄せると、一樹は楽しそうに喉を鳴らす。
 仕事のできる大人の男といった感じの彼が見せる悪戯いたずらっ子のような表情は、ビターな焼き菓子に交ぜられた隠し味のフルーツのように、その魅力を引き立てる。
 今日一日散々振り回された身としては悔しい限りだが、やっぱりいい男だ。
 自分の中に自然と湧き上る感情を認めるのはしゃくとばかりに、里穂は不機嫌な表情で梅酒の入った薄いグラスに口をつける。
 美味おいしい梅酒にホッと気持ちをなごませていると、そのタイミングを見計らったように一樹が口を開いた。

「適度に体を動かすレクリエーションに、美味おいしい食事、新しいスタッフと親睦を深めるにはちょうどいいだろう?」

 確かに、彼とコンタクトを取りながら走り回ったことで、これまでのような緊張感はなくなり、随分リラックスした気持ちで彼の隣にいる。
 ただの悪ふざけのように思えたあの撮影にも、彼なりの思惑があったようだ。

「でも、ここは親睦会に使うには、敷居が高すぎると思いますけど」

 提供されるのがコース料理一種類のためか、店内にお品書きのようなものはなく、手渡されたドリンクメニューにさえ金額の表示はなかった。おそらく、請求金額を気にするような人は、この店を利用しないのだろう。
 それだけでもいかに格式の高い店であるか、想像できて怖い。
 里穂が難しい顔をしている間に、一品目の天ぷらが提供される。
 二つの鍋を行ったり来たりしていた板前さんが、揚げたての天ぷらを皿に載せる際、「はもです」と教えてくれた。
 出されたものを断るのは勿体ないし、お店の人にも失礼である。そしてなにより、寒い中走り回った体はエネルギーを求めていた。
 里穂は「いただきます」と小さく手を合わせると、肉厚なはもはしでほぐして口に運ぶ。

「今日の食事は、チームを代表してお詫びの意味を込めているんだよ」

 口の中でほぐれていく白身魚を笑顔で咀嚼そしゃくしていた里穂の横で、一樹が流麗な仕草ではしを手にする。

「……?」

 お詫びとは、さっきの柴崎が怒鳴ったことだろうか? そんなことを考えていると、一樹が言う。

「これまでの仕事環境についてだ。異動してからずっと、仕事がしにくかっただろう?」
「ああ……」
「大人げない連中で悪かったな」

 疎外感を覚える日々を思い出し、里穂が苦い顔をする。嘘のない里穂の表情を見て、一樹は緩く笑って天ぷらを食べた。
 隣で一樹がサクリと衣を噛む音を聞きながら、里穂は首を横に振る。

「私が力不足だから、柴崎さんたちも仕事を任せにくいんだと思います」

 柴崎たちの態度になにも感じないわけではないが、一方的に被害者づらするのは好きではない。
 異動初日、一樹の決意表明を聞く彼らの顔は、闘志にあふれていた。
 きっと、自分に対する態度は、一樹を思ってのことなのだろう。
 悪意や意地悪など理不尽な理由で里穂を排除しているのではなく、役に立たないと判断してのことなら、それはそう思われる自分に問題があるのだ。
 だったら、今は雑用でもなんでもして、自分の評価を高めていけばいい。

「たくましいな」
「時ノ杜設計は大きな会社です。社員一人一人がを通していたら、組織が回らなくなってしまいます。そんなの誰のためにもなりませんし、望んで組織に属する身として、上の判断には従います。でもそれと、声を上げないことは別のことだと思っているので」

 雑用をこなしていく中で仕事を覚え、できることを増やしていけば、いずれ周囲の自分を見る目も変わっていくはずだ。
 就職した時だって、自分の望む部署へ配属されなかったけれど、そこで真摯しんしに仕事に取り組んで経験を重ねたことで、希望していた建築部第三課への異動が認められた。今回も、焦ることなく力を蓄えて、前に進んでいけばいい。
 里穂の意見に、一樹が目を細める。

「君の思考に救われる。柴崎たちも悪気はないんだが、俺を社長の椅子に座らせようと躍起になって冷静さを欠いている。俺としては、多少の波乱を経験した方が面白いと思うんだがな」
「――っ!」

 さらっと漏らされた一樹の言葉に、里穂は目を見開く。

「なんのために、俺が時ノ社設計に戻って来たか、その意味を考えればわかるだろ」

 一樹は片方の口角を持ち上げて笑い、涼しい表情ではもの残りをヒョイと口に入れた。
 里穂だって、専務派を牽制けんせいするために一樹が戻って来たということは理解している。だが、社長になることを大前提に話をされると反応に困ってしまう。

「社長の椅子以外に、俺に似合う席があるか?」

 戸惑う里穂に、ノンアルコールカクテルではもを流し込んだ一樹がうそぶく。
 ごもっともですと素直に認めた里穂に、一樹は不敵な笑みを浮かべた。

「俺が一度時ノ杜設計を辞めて独立したのは、社会勉強のためじゃない。時ノ杜設計で、創業家の者として周囲が敷いたレールを素直に歩むのは面白くないと思ったからだ。俺がどれだけ時ノ杜設計で頑張っても、周囲は実力ではなくただの七光と思うしな」

 新たに揚がったオクラを受け取るために言葉を切った一樹は、それを一口味わってから続ける。

「時ノ杜設計でのし上がるのも、自分で起業して成功するのも、同じくらいの労力を必要とするなら、曾祖父の残したもの以上の会社を作る方が面白いと思ったんだ」

 時ノ杜設計を辞めた後、一樹が立ち上げた設計事務所は、海外の美術館の建築を任されるほど高い評価を受けていた。
 それを思うと、一樹にとって、それは実現可能な未来だったのだろう。
 里穂は大学生時代、ワークショップで生き生きと講師を務めていた彼の姿を思い出した。
 とっておきの秘密を披露ひろうするように表情を輝かせ、建築の奥深さについて語る彼の姿は、それだけで見ている者の心をワクワクさせた。そして建築科を専攻したはいいが、己の力不足を思い知り、心が折れかけていた当時の里穂に努力する勇気を与えてくれた。
 彼の姿に背中を押されて、里穂は諦めることなく夢を追いかけることができたのだ。
 そのことをなつかしく思っていると、一樹が言う。

「俺の気性はたぶん、曾祖父に近いんだろうな。出来上がった組織を守るより、新たな世界を自分で開拓していく方が性に合っている」

 遠くへ視線を向ける横顔に、かつて社内報で目にしたことがある創業者の凛々りりしい顔が重なる。昭和初期に単身ヨーロッパに渡り、日本の近代建築のいしずえを作った一人と言われている人だ。
 そういう意味では、どちらも確かに開拓者という言葉がよく似合う。

「では、どうして戻って来たんですか?」
「時ノ杜設計は大きな組織だ。俺一人くらいいなくても、なんとでもなると思ったから離れた。だけど会社に愛着がないわけじゃない。外にいる俺の耳にまで悪い噂が入るほど、専務の独裁が広がっているのなら放ってはおけない」

 里穂の問いに、一樹がそう言って深い息を吐く。
 若い頃は穏やかな人柄だったという阿賀津専務は、社内闘争を勝ち抜き、自分の地位を揺るぎないものにした頃から、徐々に独裁色を強めていったそうだ。
 些細ささいな初期不良を見逃したことで壊れてしまう機械のように、気が付けば今の時ノ杜設計の体制はいびつなものへと変わりつつある。
 その変化はすでに、下請けや取引先の間でささやかれ、海外で仕事をしていた一樹の耳にまで届くほどになっていた。
 一樹は里穂をチラリと見て少し思案してから、「俺はかなり傲慢ごうまんな性格をしているからな」と苦いものを噛み締めるような顔で続ける。

「納得のいかない形で愛着のあるものを奪われるくらいなら、全て自分の手中に収めたいと思ってしまうんだよ」

 どうやらさっきの短い間は、部下である里穂に、感情そのままの言葉を口にしていいのかと悩んでのことらしい。
 一樹は里穂の反応をチラリと横目で窺ってから、続ける。

「もちろん、一度自分から会社を離れた奴が、戻って来るなり後継者争いに名乗りを挙げることに、渋い顔をする者もいる」

 だが……と、続いた一樹の言葉の先を待たずに、里穂は「いいと思います」と断言していた。

「時枝さんは、を通すための代償として、自分の建築事務所を手放したんです。この先のことに対しても、ちゃんと覚悟をされている。それなら、なんの代償も払わずただ文句を言うだけの人の言葉なんて気にする必要はありません。……微力ながら、私もその後押しをさせていただきたいと思います」

 ずっと憧れていたからこそ、彼の手放したものの大きさがわかる。
 胸が苦しくて、つい感情のまま言葉を口にしてしまったが、彼は自分の上司だ。
 我ながら偉そうな発言をしてしまったと、青くなって小さくなる里穂を、一樹がまぶしいものを見るように目を細めて笑う。

「ありがとう。若い世代の君にそう言ってもらえると嬉しいよ。浅葉君は、俺たちの次をになう大事な存在なんだから」

 里穂の感情に任せた発言を好意的に受け止めてくれる一樹に、年上の包容力を感じる。と同時に、彼と同年代である阿賀津チーフの器の小ささを感じてしまった。
 もし今の時ノ杜設計のように、専務派の顔色を窺うことが常態化していなければ、今回の里穂の理不尽な異動はなかっただろう。それ以前に、阿賀津チーフがセクハラまがいに新入社員に迫るなんてことが見過ごされることもなかったはずだ。
 結果、一樹の部下として働けることになったのだから、それはそれでラッキーなのかもしれないが、そこにたどり着くまでの経緯については今も納得していない。
 美味おいしい天ぷらと美味おいしいお酒で、つい口が緩んだ里穂は、今の部署に異動することになった経緯を語っていた。

「……そういうことだったのか」

 眉間にしわを寄せて話を聞いていた一樹は、正義感に基づく里穂の行為が異動の原因になったと知って、やけに大きな反応を示した。

「……?」
「なんでもない。気にするな」

 なにかがに落ちたといった様子で頷く一樹は、怪訝けげんな顔をする里穂に、口元を押さえて返す。長い指の隙間から覗く彼の口元は、確実に笑っている。
 詳しい理由はわからないが、なんとなく子供扱いされた気がして面白くない。
 そんな思いが顔に出ていたのだろう。
 里穂の視線に気付いた一樹は、申し訳ないと肩をすくめる。

「それはなかなか気の毒な話だ。その上、仕事を任せてもらえないのでは、さぞや気分が悪かっただろう」

 今度は里穂が肩をすくめてみせると、一樹が親しみを込めた微笑みを返す。
 そんなやり取りで互いの間に流れる空気がなごんだのを感じて、里穂がずっと抱いていた疑問を口にする。

「正直に言うと、私は今の部がなんのために立ち上げられた部署なのか、未だに把握できていません」
「ああ、特別企画部は、俺を出世させるために作られた部署だ」

 里穂の問いに、一樹はあっけらかんとした口調で答えた。

「……?」

 一樹は、驚く里穂の表情をさかなに、ドリンクを一口飲んで続ける。

「社長としては、これ以上専務派が勢いづく前に、後継者としての俺の地位を揺るぎないものにしたいと考えている。そのために、戻って来た俺が華々しい功績を上げるための部署を作り、他の部署から優秀なスタッフと共に、幾つかのプロジェクトを引き抜いた。すでに叩き台ができていて、成功が約束されている案件ばかりをな。それでも専務の陣営がどんな横槍を入れてくるかわからないから、柴崎たちは必要以上に警戒して、プロジェクトの進行に目を光らせているというわけだ」
「ああ……」

 だから柴崎たちは、里穂が手伝うのを嫌がったのだ。
 納得すると共に、ふとひらめいたものがある。

「もしかして私、スパイじゃないかと思われていたんですか?」

 もともと里穂は専務派の古橋の部下だったのだから、そう思われてもおかしくない。
 今さらながらに焦る里穂に、一樹は面白そうに頷く。

「そう。しかもハニートラップを疑う意見もあった。あり得ないだろう?」

 その軽い口調からして、彼自身は里穂のことを疑ってはいないらしい。
 彼の信頼を喜べばいいのか、悲しめばいいのか……

「あり得ないですね。もしハニートラップを狙うのであれば、もっと魅力的な女性に任せると思います」

 嘆いてもしょうがないと、素直な感想を述べる。だけど一樹に、「まったくだ」と悪びれる様子もなく同意されると、それはそれで面白くない。
 そんな里穂の内心に気付くことなく、彼は話を続ける。

「もちろん、他の奴も本気で疑ったりはしていない。ただ、突然入り込んできた異分子を警戒しているだけだ」
「……私は、おとなしく雑用をこなしている方が、時枝さんの邪魔にならないということでしょうか?」

 一樹は、それは違うと首を横に振った。

「そんなの、面白くないだろう」

 そう語る彼の目を見れば、それが里穂を思っての言葉ではなく、自身のことを言っているのだとわかる。

「企業っていうのは、人間の心に似ている。安泰だと思って努力を止めた途端、慢心して緩やかな腐敗が始まる。それは阿賀津専務を見ていればわかるだろう? 俺は時ノ杜をそんなふうにはしたくない」

 そう語る彼の目には、専務の座を手に入れた途端、変貌した阿賀津専務の顔が見えているのかもしれない。

「阿賀津さんも、そうなる前に止めてくれる誰かがいればよかったんだがな」

 苦い顔をする彼は、変貌する前の阿賀津専務を知っているのかもしれない。
 一樹は大きな決断をしてこの場所にいる。それには、社会経験の浅い里穂では想像も及ばない覚悟が必要だったに違いない。

「……」

 なんとも言えないもどかしい思いで彼の横顔を見ているうちに、ふと、昼間彼のデスクで見たペーパーウエイトを思い出す。
 魅力的な輝きを内包しているのに、見ている者に触れることを許さない、綺麗で孤独な宇宙。
 見えない引力に引き寄せられるように彼の方へ指を伸ばしかけた時、一樹が表情を柔らかなものにして、里穂を見た。

「俺は、君にもプロジェクトに参加してもらうつもりだ。差し当たっては、小学校跡地の再開発に力を貸してもらいたい」
「小学校跡地の再開発……ですか?」
「そうだ。半年後、とある小学校跡地の再開発に向けて、自治体に提案するプランを決定するための社内コンペが開催される。どうやらその結果が、両陣営の勢力を示す物差しにされるらしい」

 どういうことかと里穂は首をかたむける。
 彼の話によると、特別企画部が今進めている仕事は、一樹に実績を作るための、すでに成功が約束されたものばかりになっている。
 だがそれとは別に、小学校跡地の再開発に向けた社内コンペに勝ち抜く必要があるのだという。
 そのコンペには他の部署からの参加も予定されているが、実質、一樹率いる特別企画部と阿賀津チーフ率いる企画部第一課の一騎討ちとなるそうだ。

「コンペまで五ヶ月も時間があるのに、他の部署は企画を出さないんですか? もう辞退を決めたんですか?」

 どこか含みのある説明に、素朴な疑問を口にする。その問いに、一樹は軽く口角を下げて返す。

「ああ、それは、このコンペが出来レースだから、他の部の企画はどれだけ優れていても採用されないって意味だよ」
「……?」


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