境界線の向こう側 〜主従のはじまり〜

ゆずる先生

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第7章 巡礼の地

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~~ 閉じられた表紙の下に眠る告白 ~~
~~ 青いインクが滲むように混ざり合う現実と欲望 ~~
~~ 誰かの声が静かに導く内なる旅路 ~~

「これを」

公園のベンチから駅に向かう途中、野崎はわたしに小さな包みを手渡した。クリーム色の紙で丁寧に包まれ、細い赤い紐で結ばれていた。夜の街灯の下、その包みは特別な意味を持つ贈り物のように輝いて見えた。わたしは少し驚いて野崎を見上げた。

「開けてみてください」野崎は静かに言った。

わたしの指が細い赤い紐に触れた瞬間、何か大切なものを開く時の緊張が走った。慎重に紐をほどき、包み紙を開いた。サラサラという紙の音が夜の静けさに響く。中には赤い革のノートが入っていた。A5サイズほどの、シンプルながら上質な革で装丁されたノート。表面には何も印字されておらず、ただ深い赤色の革が、街灯の光を柔らかく反射していた。

指先で触れると、革の質感が心地よい。滑らかでいて、どこか温かみがある。新しい革特有の香りがかすかに漂ってきた。革の表面には細かな模様が刻まれており、それが光の角度によって違う表情を見せる。

「わたしに?」

「はい」野崎は微笑んだ。「使い方は自由です。でも、一つだけお願いがあります」

わたしは彼の目を見つめた。先ほどの公園での出来事から、まだ心は高鳴ったままだった。手首を掴まれた感触、目を閉じるよう言われた時の感覚。それらすべてが、まだ身体の記憶に新しい。視線を交わすだけで、身体の奥に小さな震えが走る。彼の黒い瞳には、何か期待のようなものが宿っているように見えた。

「このノートには、あなたの中で起きていることを記録してください。感情、感覚、思考...なんでも構いません。ただ、正直に」

野崎の言葉には、先ほどの公園での体験に続くものがあった。わたしの内側にある何かを引き出そうとする意図。それは怖くもあり、同時に心惹かれるものでもあった。

「正直に...」わたしはノートを胸に抱きながら、その言葉を反芻した。赤い革の温もりが胸に伝わってくる。「でも、なぜ赤なんですか?」

野崎は少し考えるような表情を見せた後、「情熱の色だからです」と答えた。「隠されていた感情が、言葉となって紙に刻まれる。その時、真っ白な紙に赤い思いが染み込んでいく...そんなイメージです」

その説明に、わたしは息を呑んだ。野崎はどこまでわたしの内側を見透かしているのだろう。

駅へ向かう道すがら、わたしたちは並んで歩いた。夜の銀座は土曜日の賑わいを保ちながらも、少しずつ静けさを取り戻しつつあった。

最寄り駅に着くと、野崎はわたしを改札まで見送ってくれた。改札前で立ち止まり、振り返る。

「また連絡します」と彼は言った。「ノートのことも、楽しみにしています」

その約束の言葉に、わたしの心は少し軽くなった。「はい」わたしは小さくうなずいた。「ありがとうございます。大切に使います」

野崎の目が優しく細められた。「それでは、おやすみなさい。今夜はゆっくり休んでください」

「おやすみなさい」

改札を通り、振り返ると、野崎はまだそこに立っていた。手を軽く上げて別れの挨拶をする彼の姿が、次第に人混みに紛れていく。階段を降りながら、わたしは胸に抱いた赤いノートの重みを感じていた。

電車に乗り込むと、週末の夜らしく車内は混雑していた。吊り革につかまりながら、わたしはバッグから赤いノートを取り出した。車内の照明の下で、革の赤色がより深く見える。まだ何も書かれていない真っ白なページ。それはまるで、これから描かれるわたしの新しい物語を待っているかのようだった。

隣に立つ若い女性がノートをちらりと見た。赤い革の装丁は確かに目を引く。けれど、その中に何が書かれることになるか、他人には決して知り得ないだろう。その秘密めいた感覚が、不思議と心地よかった。

指でページをめくりながら、紙の質感を確かめる。少し厚めの上質な紙。表面には微かな凹凸があり、万年筆のインクもよく吸いそうだ。野崎はどんな思いでこのノートを選んだのだろう。きっと一つ一つの要素を吟味して、わたしのために選んでくれたに違いない。

アパートの最寄り駅で降り、夜道を歩く。土曜日の夜更け、街は静かだった。街灯の光が歩道を照らし、わたしの影を長く伸ばしている。バッグの中の赤いノートの存在を意識しながら、わたしは足早に歩いた。

アパートに着き、すぐにお風呂の準備を始めた。湯を張りながら、今日一日の出来事が走馬灯のように頭の中を巡る。

朝、銀座の画廊へ向かったこと。京本との出会い。展示されていた数々の作品。特に最後に見た「服従の悦び」。あの絵の前で感じた、恐れと憧れの入り混じった複雑な感情。立つ者と跪く者を繋ぐ赤い線。それは鎖のようでもあり、血管のようでもあり、光の帯のようでもあった。

そして夕方の公園での野崎との時間。手首を掴まれたときの感触が、まだ皮膚の記憶に残っている。温かく、しかし確かな力強さを持った彼の指。「囚われの身」という言葉を聞いた瞬間の、あの不思議な感覚。恐怖と安堵が混ざり合った、今まで経験したことのない感情。

浴槽に身を沈めると、温かい湯が疲れた体を包み込む。筋肉の緊張がゆっくりとほぐれていく。目を閉じると、野崎の「閉じてください。目を」という声が蘇る。

あの瞬間の記憶は鮮明だった。視覚を失った途端、他の感覚が研ぎ澄まされた。風の音、遠くの車の音、葉のざわめき。そして何より、野崎の存在。彼の息づかい、ほのかな香水の香り、体温。すべてがより鮮明に、より深く感じられた。

湯の中で、わたしは自分の手首を見つめた。野崎が掴んでいた場所。外見上は何の変化もない。けれど、そこには確かに何かが刻まれたような感覚があった。見えない印。それは物理的なものではなく、もっと深い、精神的なものだった。

浴槽から上がり、全身鏡の前に立った。湯気で曇った鏡を手で拭うと、自分の姿が現れる。濡れた髪が肩に張り付き、肌は湯上がりでほんのりと赤みを帯びている。

鏡の中の自分を見つめながら、ふと京本の言葉を思い出した。「自分自身に正直になったことがありますか?」その問いかけが、今になって違う意味を持って迫ってくる。わたしは本当に自分自身と向き合ってきただろうか。

ドライヤーで髪を乾かしながら、わたしは今夜何をするか決めていた。赤いノートに、今日のことを書こう。野崎が言った通り、正直に。隠すことなく、自分の中で起きていることを言葉にする。それは怖いことかもしれない。けれど、同時に必要なことでもある気がした。

パジャマに着替え、ベッドに座った。手元に置いた赤いノートを開く。最初のページは真っ白だ。何を書けばいいのだろう。どこから始めればいいのだろう。

万年筆のキャップを外し、紙の上にペン先を置こうとしたとき、ふと神保町の古書店で見つけた『白夜』の書き込みを思い出した。「昼と夜の境界線を超えておいで、本当の自分を与えてあげる」。あの文字は青いインクで書かれていた。

黒いインクではなく、青いインクで書くべきだ。あのメッセージと同じ色で。それはまるで、見えない誰かとの対話を続けるような行為になるだろう。

わたしは立ち上がり、机の引き出しを開けた。確か、以前使っていた青いインクのカートリッジがあったはずだ。探してみると、奥の方から小さな箱が出てきた。中には未使用の青いインクカートリッジが一つ入っていた。

万年筆のインクを交換し、再びノートの前に座る。青いインクが紙に触れた瞬間、何かが動き出すような感覚があった。境界線の向こう側からの声と同じ色で、わたしの想いを綴っていく。

最初の言葉は自然と浮かんできた。

『この赤いノートに向かうとき、わたしは自分の一番奥深い場所に降りていくような気がする。野崎さんから受け取ったこのノートは、単なる記録帳ではない。それは自分の本当の姿を発見するための聖域のような存在だ。

今日、銀座の画廊で「服従の悦び」という絵を見た。最初は戸惑った。けれど、見続けているうちに、そこに描かれた関係性に強く惹かれる自分がいることに気づいた。立つ者と跪く者。支配する者と服従する者。その間に流れる赤い線は、互いを結ぶ絆のように見えた。

わたしは今まで、そういう関係性について考えたことがなかった。いや、考えることを避けてきたのかもしれない。けれど今夜、公園で野崎さんの手首を掴まれたとき、わたしの中で理性のタガが解放された感じがした。「囚われの身」という言葉を聞いた瞬間の、あの不思議な安らぎ。恐怖と安堵が同時に押し寄せる、今まで経験したことのない感情。

わたしは誰かに導かれることを求めているのかもしれない。自分の意志を預け、信頼できる人の視線の下で、本当の自分を見つけたいと願っているのかもしれない。それは弱さなのだろうか。それとも、強さなのだろうか。今のわたしには、まだわからない。

でも一つだけ確かなことがある。野崎さんと出会ってから、わたしの世界は確実に変わり始めている。今までは見えなかった景色が見え始めている。野崎さんと一緒に見たい景色だ。』

文字を書き終えると、わたしは深く息を吸った。自分の本音を言葉にするということが、これほど身を削るような行為だとは思わなかった。けれど同時に、なんだか浄化されたような清々しさもあった。

ノートを閉じ、ベッドサイドテーブルに置く。明日は日曜日。特に予定はない。ゆっくりと今日のことを消化する時間が持てるだろう。

電気を消し、暗闇の中に横たわった。しかし、眠気はすぐには訪れなかった。身体の奥に、まだ野崎との体験の余韻が残っている。手首を掴まれた感触、「囚われの身」という言葉、そして彼の深い眼差し。

無意識のうちに、わたしの手は自分の手首に触れていた。野崎が掴んでいた場所を、そっと撫でる。その瞬間、身体の深いところから熱が湧き上がってくるのを感じた。

前回とは違っていた。以前のあの夜よりも、もっと直接的で、より切実な欲求が身体を駆け巡っている。野崎の存在が、今までよりもずっと鮮明に頭の中にある。彼の声、彼の手の温もり、彼の香り。すべてが現実味を帯びて、わたしの感覚を支配している。

パジャマの上から、胸の高鳴りを感じた。心臓が早い鼓動を刻んでいる。そして、より深い場所にある秘やかな部分も、同じリズムで脈打っているのがわかった。

「野崎さん...」

小さくその名前を呟くと、まるで呪文のように、身体の感度がさらに高まった。今夜は前回のような遠慮がちな探求ではなく、もっと積極的に自分の欲求と向き合いたかった。野崎に導かれるという体験を、身体で記憶するために。

パジャマのボタンを一つ、また一つと外していく。絹の生地が肌から離れるたび、夜気が優しく触れていく。まるで見えない恋人の指先のように、空気そのものが愛撫となって肌を撫でていく。野崎の視線を想像しながら、わたしは自分の白い肌を月光に晒していった。

指先が鎖骨の窪みを辿り、そこから胸の丘陵へと下っていく。触れるたび、まるで花びらが開くように、感覚が花開いていく。野崎の手だったらどんな風に触れるだろうか。そんな想像が頭を巡り、指の動きはより繊細に、より愛おしくなっていく。

「あぁ...」

前回よりもはっきりとした声が漏れた。恥ずかしさよりも、快楽への欲求の方が勝っていた。野崎の深い眼差しを想像しながら、わたしは自分の身体という楽器を奏でていく。指先が描く旋律は、次第に情熱的なアダージョから、切ない恋歌へと変化していく。

お腹の平らな部分を通り過ぎ、さらに下へ。そこには秘密の花園が広がっている。まるで朝露に濡れた薔薇の花びらのように、繊細で美しく、触れるのも畏れ多いような神聖さを持っている。指先がそっと触れた瞬間、全身に電流のような震えが走った。

野崎の「囚われの身」という言葉が頭の中で反響する。その言葉に包まれながら、わたしは自分だけの秘密の儀式を続けていく。指先が描く円は次第に小さくなり、より集中した愛撫となっていく。それはまるで、心の奥深くに眠る蝶を、そっと目覚めさせるような優しい所作だった。

身体の奥から、温かな蜜のような感覚が湧き上がってくる。それは川の源流のように純粋で、同時に海のように深い。波のように押し寄せては引いていく快感が、わたしの意識を少しずつ溶かしていく。

「野崎さん...見てほしい...静謐を湛えた瞳でわたしを見下して」

無意識に口にした言葉は、祈りのように夜の闇に溶けていった。彼の眼差しの下で、わたしは今まで知らなかった自分の姿を発見していく。それは羞恥心を超えた、神聖な自己開示だった。

指の動きはより複雑になり、複数の楽器が奏でるシンフォニーのように、身体全体がハーモニーを奏で始める。胸の高鳴り、浅くなる呼吸、そして秘所から広がる甘い痺れ。すべてが一つの大きな波となって、わたしを未知の高みへと押し上げていく。

やがて訪れた至高の瞬間は、天使が舞い降りるような神々しさを持っていた。身体の奥から湧き上がる光の奔流は、何度も何度も押し寄せ、わたしの魂を白い光の海に溶かしていった。それは単なる肉体的な解放を超えた、精神的な昇華だった。意識は星屑となって宇宙に散らばり、しばらくの間、わたしという個体の境界線は完全に消失した。

静寂が戻ったとき、わたしは自分の変化に気づいていた。身体的な満足だけでなく、精神的な何かが解放されたような感覚。野崎との関係が、単なる憧れから、もっと具体的で魂を揺さぶるような欲求へと変化している。それは新しい段階に入ったということかもしれない。汗ばんだ肌に夜風が触れると、まるで愛撫の余韻のように心地よく、わたしは深い満足感に包まれながら、ゆっくりと現実の感覚を取り戻していった。

翌朝、目覚めると体は不思議な軽やかさに包まれていた。日曜日の穏やかな光が部屋に差し込んでいる。時計を見ると、まだ午前九時。ゆっくりと起き上がり、窓から外を眺めた。

昨夜の体験が、まだ身体の記憶の奥に温かく残っている。それは恥ずかしい秘密ではなく、大切な発見のように感じられた。洗面台で顔を洗いながら、鏡に映る自分の目が少し違って見えることに気づいた。より深く、より正直になったような印象。

朝食を軽く済ませた後、赤いノートを手に取った。昨夜のことを記録しておきたい。ただ、起きた出来事そのものよりも、自分の中で何が変わったのかを言葉にしたかった。青いインクの万年筆を紙に向けた。

『昨夜、わたしは自分の身体との新しい対話を経験した。それは単なる快楽の追求ではなく、野崎さんとの精神的な繋がりを身体で確かめる儀式のようだった。

驚いたのは、羞恥心よりも神聖さを感じたこと。自分の身体を愛撫するという行為が、これほど純粋で美しいものだとは知らなかった。それは自己嫌悪ではなく、自己受容への道だった。

野崎さんの存在が、物理的な距離を超えてわたしと共にあることを実感した。彼の声、眼差し、すべてがわたしの感覚を研ぎ澄ませ、今まで眠っていた感受性を目覚めさせてくれる。

これは堕落ではない。これは開花だ。わたしという存在の、最も深い部分での開花。そしてそれは、野崎さんという導き手があってこそ可能になったのだと思う。』

万年筆を置き、書いた文字を読み返した。自分の中での変化と共に、野崎との関係の中で見出した「本当の自分」への確信。野崎が最初に話した「境界線の向こう側」という概念が、ようやく実感を伴って理解できるようになった気がした。

始まったばかりの日曜日、今日は何をしようかと考えながら窓の外を眺めていると、ふと野崎と過ごした銀座の公園のベンチが頭に浮かんだ。今日は銀座の公園に行ってみよう。野崎と過ごしたあの場所で、改めて昨夜のことを振り返り、ノートに記録したい。

シャワーを浴び、普段着のジーンズと白いブラウスに着替えた。バッグに赤いノートと万年筆を入れ、アパートを出る。

銀座までの電車の中で、わたしは昨夜ノートに書いた文章のことを考えていた。ああして自分の気持ちを言葉にすることで、混沌としていた感情が少し整理された気がする。野崎への憧れ、主従関係への興味、そして自分自身への新しい発見。それらすべてが、一つの流れとして見え始めている。

銀座の駅に着き、昨日野崎と歩いた道を辿った。画廊があったビル、一緒に食事をしたレストラン、そして公園へと続く道。すべてが昨日の記憶と重なり合いながら、同時に新しい意味を持って迫ってくる。

公園に着くと、昨夜座ったベンチを見つけた。日曜日の午前中ということもあり、公園にはそれほど人がいない。平穏な日常の風景。でも、わたしにとってはこの場所が特別な意味を持っている。昨夜ここで、わたしは自分の中にある新しい扉を開いた。野崎の手によって。

ベンチに座り、バッグから赤いノートを取り出した。ページを開くと自分が書いた文字が目に入る。日光の下で見ると、また違った印象を受ける。より現実的で、より自分の一部として感じられる。

新しいページを開き、万年筆を取り出した。今度は昨夜のこのベンチでの体験について書こう。あの解放的な時間について。

「銀座の公園。あのベンチに再び座っている。24時間も経っていないのに、まるで遠い昔のことのようにも、つい先ほどのことのようにも感じる。時間の感覚が歪んでいる」

周りの風景を見渡しながら、さらに書き続ける。

「昼間の公園は全く違う顔を見せている。家族連れ、カップル、一人で読書をする人。みんなそれぞれの日曜日を過ごしている。でも、このベンチに座るわたしだけが、昨夜ここで起きたことを知っている」

ペンを止め、昨夜のことを思い出す。野崎の手が自分の手首を掴んだ瞬間。その温もりと力強さ。

「『囚われの身』と言われた時の感覚。あの言葉を聞いた瞬間、体の芯が熱くなった。恐怖と同時に、不思議な高揚感。まるで、ずっと探していたものをついに見つけたような」

風が吹いて、髪が顔にかかる。払いのけながら、さらに書く。

「野崎さんは言った。『閉じてください。目を』。命令口調ではなかったのに、逆らえない力があった。なぜだろう。その声に従うことが、自然なことのように感じられた」

子供が目の前を走り抜けていく。母親が慌てて追いかける。微笑ましい光景を見ながら、わたしは思う。あの子は将来、どんな大人になるのだろう。そして、どんな人と出会い、どんな関係を築くのだろう。

「目を閉じた瞬間の感覚。視覚を失うことで、他の感覚が研ぎ澄まされた。野崎さんの存在をより強く感じた。息づかい、体温、香り。それらすべてが、わたしを包み込んでいた」

ベンチに座っている時間が長くなってきた。そろそろ次の場所へ移動しよう。わたしは空を見上げた。青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れている。自分の中での変化と同じように、すべてが動き続けている。

「まるで聖地巡礼ね」

思わず口に出していた。確かにそうだ。わたしは今、自分にとって特別な場所を訪れ、その意味を確かめている。昨夜の体験を神聖なものとして受け入れ、それを自分の一部として統合しようとしている。

ノートを閉じ、立ち上がった。まだ時間は早い。せっかく銀座に来たのだから、もう少し歩いてみよう。そう思いながら公園を出て、六本木の方向に足を向けた。

六本木に着くと、最初に野崎と再会した美術館が見えた。そして、一緒にコーヒーを飲んだカフェ「アルテ」。懐かしさと共に、今度は一人でランチを取ってみようという気持ちが湧いた。

カフェに入ると、わたしたちが座った窓際のテーブルは空いていた。同じ席に座り、メニューを見る。今日はパスタランチにしよう。

注文を済ませると、わたしは窓の外を眺めた。野崎と初めて深い話をしたこの場所。境界線について語り合い、わたしの中に眠る可能性について触れた場所。すべてがここから始まったのかもしれない。

パスタが運ばれてきて、ゆっくりと味わった。一人で食事をしながらも、孤独感はなかった。むしろ、自分との対話を楽しんでいるような感覚。野崎との思い出に包まれながら、新しい自分を発見していく過程を楽しんでいた。

食事を終えた後、もう一度美術館に向かった。野崎と最初にモネの「睡蓮」を見た場所を、もう一度訪れてみたかった。あの時の記憶を辿りながら、今の自分がどう感じるか確かめてみたい。それもまた、意味のある体験になりそうだった。

美術館のエントランスに着くと、展示が変わっていることに気づいた。モネ展は既に終了していた。少し残念な気持ちになったが、代わりに開催されているクリムト展のポスターが目に入った。「愛と死の象徴主義」というサブタイトル。その言葉を見た瞬間、胸が高鳴った。愛について、人間の深層にある欲望について、クリムトがどのように表現しているか。それは今のわたしにとって、とても重要なテーマだった。

展示室に入ると、金色に輝く作品群が目に飛び込んできた。クリムト特有の装飾的な美しさと、その奥に潜む官能性。わたしはゆっくりと一つ一つの作品を見て回った。

そして最後の展示室で、わたしは「接吻」の前に立った。金色の背景に、抱き合う男女。女性は跪き、男性は彼女を包み込むように身を屈めている。二人を覆う衣装は複雑で華麗な模様で装飾され、まるで神話的な存在のようだった。

この絵から感じられるのは、純粋な愛情だけではない。そこには性愛、支配と従属、そして完全な信頼関係が込められている。女性の表情は恍惚としており、男性に完全に身を委ねている様子がうかがえる。それは京本の画廊で見た「服従の悦び」とは異なる表現だが、根底にある感情は似ているように思えた。

「美しい...」

思わず呟いた言葉が、静かな展示室に響いた。この絵に描かれた関係性に、わたしは深い憧れを感じていた。完全に身を委ね合う二人。互いの存在に溶け合っている様子。それは愛の一つの究極的な形なのかもしれない。

「確かに美しいですね」

背後から聞こえた声に、わたしは振り返った。そこには野崎が立っていた。
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