【R18】「いのちだいじに」隠遁生活ー私は家に帰りたいー

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第四章:地味に平和が一番です

幕間ー王子様の回想録

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「王子……お母上が…ビアンカ妃が、お亡くなりになったそうです。死因は不明ですが、外傷も毒も魔法の痕跡も見当たらず、誰ともお会いになった形跡もないため、自然死として取り扱われると、先ほど警備に当たっていた兵士より報せがありました」

 それは姫が父を救ってくれてから、2日経った日のことだった。
 俺は意識を消失して倒れてしまった姫の容態が気にかかり、「仕事なんかやってられるか」と、マーリン殿やタロウ殿たちと一緒にその横で付いていたのだが、それが許されたのは翌日の1日だけだった。というのも、親父が復活したのと相まってやたらと忙しくなったので、とてもずっと一緒にいられるような余裕はなくなってしまったからだ。その上、俺に憑いている精霊が

<だいじょうぶ。ねむってるだけ>
<こころがつかれてねむってるだけ>
<おひめさまはすぐにおきる>

 と、やけにハッキリというので、俺は後ろ髪を引かれる様な思いをしながらも、2匹に見守られつつズルズルと副官のロドリーゴに引きずられるように職場へ連れていかれたのだった。
 そして、いつもの長官用デスクで書類仕事に追われていると、控えめなノックの後から入って来た副官に、母親の訃報を聞かされた。
 本来ならば妃の一人として丁重に葬られるはずなのだが、死罪を免れたとは言え内乱を誘発しかけた大罪人であることから、葬儀は俺以外の身内――地方に住んでいるという、母が側妃になった時に地方領主に成り上がった叔父一家位しかいないのだが――にも知らされずに密やかに行われ、罪人専用の集合墓地に葬られるのだろう。

 それを聞いた瞬間、「そうか」と、だけ呟くと、ロドリーゴは何も言わずに苦しそうに目を細め、俯いた。
 幽閉されることが決まった時から、俺の中で母親の存在は、ほとんど死人のようなものに成り下がっていたということもある。
 その後、若干ペースを落としながらもそのまま仕事を再開して、定時の仕事あがりの時間まで他に何も考えることなく仕事に没頭していった。



 そして、その夜。
 俺はフラフラと姫が眠る寝室へ足を運び、寝台の傍らに置いてある椅子に座ると、スヤスヤと微かに寝息を立てる姫の寝顔を眺めていた。

 同じ寝台の上で寄り添って寝ているタロウ殿やマーリン殿が一瞬ムクリと起きて俺の姿を確認し、何も言わずに再び寝る姿が目に入ったが、お互い何も言う事はなかった。

 こうして近くで良く見てみると、小さな口と薄く色づいたピンクの唇や彫りの浅い鼻筋、ふっくらとしていて触り心地の良さそうな頬など、本当に成人を迎えたばかりの…若いというよりも幼い顔だちだと思ったが、その艶やかで手触りの良い真っ直ぐな黒髪に触れて微かに残る洗髪剤の香りを鼻腔に入れると、胸が締め付けられる様に切なく、満たされる様に幸せな、不思議な気持ちになる。

 早く、起きてくれないだろうか。
 そのオニキスのように黒くてきれいな瞳で自分を映してほしい。
 少女のような外見でありながら、声は大人の様に落ち着いており、聞いていると何故かホッとするその声を、早く聞かせてくれないだろうか。

 そうして、その滑らかな肌の感触を確かめるように頬を撫でると、スリッとその手に頬を押し付けて、幸せそうに微笑んでくれたのだが、その閉じた目から溢れる様に涙が伝っていった。頬を伝っていく涙をその指で拭うと、自分もうつされた様に笑いながら泣きたくなった。

 何の夢を見ているのだろうか。
 幸せな夢だといいのだが、微笑みながらも涙を流す位だ、きっとどこか悲しい夢をみているのだろう。
 ひょっとしたら、誰かとの別れを思って泣いているのだろうか。
 俺は、母親が死んだと聞かされても、涙どころか悔やみの一つも出てこなかったのに。

 そうやって、ただ眠っている女に勝手な妄想を押し付け、心で話しかける自分の身勝手さに、思わず苦い笑いがこみ上げてきたのだった。





 テルミ村で再会して、彼女の存在をその手で捉え、五感で実在していることを確認した時、そのまま連れ去りたいと思っていたと知ったら、隷属獣の2匹は俺を八つ裂きにしようとするだろうか。いや、ひょっとしたらあのロビンとかいう少年なら、笑顔の表情も変えずにそうするかもしれない。
 ジェロームは、ただ純粋に彼女を慕っているだけだが、俺の想いはもっと重くて生臭い。
 あんな誰が通るとも知れない建物の影で彼女の温もりに触れながら、…最初は本当に確認だけのつもりだったのに、思った以上に煽られて……理性が情欲に凌駕された瞬間、思うさまその柔らかで感じやすい体を蹂躙し、ガンガン突き上げて自分を刻みつけてやろうかと思いかけたのだから。
 あそこでジェロームたちに水を注され、いろんな意味で助かったと、宿の風呂場で頭を冷やしながら緩く欲望を萌した自分を慰め、落ち着きを取り戻した後にしみじみ思った。

 そんな邪念を見透かされたのだろう。
 再会の翌日に彼女の家に連れ去られ、自分が思い描いた理想の隠れ家の様な自宅に、思わず童心に帰ったようになってしまったものの、話している最中に彼女が「ちょっと考えたいことがある」と言って席を外した時、フッと人間の姿になったマーリン殿やタロウ殿が威嚇するように話しかけて来たのだから。
 一瞬にして、二人そろって少年の姿に変わったことには、本来はそんな年頃だったのかと少々驚かされたが、幼いジェロームの兄ならそんなものかと納得した。

『お前は、主に何を求めて探していたのだ』と。
 二人の睥睨するかのような眼差しに、咄嗟に答えることを躊躇ったが、それにかぶせるように

『父親を治すため…とか、おためごかしは不要ニャ。こんなところまで、責任ある王族が、それだけを目的として来ているとは思えないニャ』

「責任ある王族が」のあたり、仕事を押し付けられた副官のやつれた表情や、宰相にクドクドと嫌味を言われたことを思い出し、少々後ろ暗い気持ちにされたものの、俺は圧倒的に生物として強者である彼らの鋭い眼差しに睨まれても怯む気になれず、ニヤリと不敵に笑いながら

「もちろん。彼女をわが手に入れたいと思っている。数ある夫の中の一人でもいい。彼女と共に在れるのであれば」

 と、二人を見据えて答えたのだった。
 そして彼らが人化した姿を目にして、二人は上位魔獣でありながら自分と同種の想いを抱えているかもしれないが、そのオスとしての自信をほのめかす態度に、既に夫としての地位を得ているのかもしれないことに気づいた。

「二人は…既に、夫である…と、いうことでいいのか…?」

 なんとなく閃いた考えではあったが、『ふふん』と笑う2匹の表情を見ると、それが間違っていないことを悟ったのだが…

『我々は、とっくにそのつもりなのだが、生憎ご主人は何故か気づいていないのニャ』

『あんなに奉仕しているのに……何故だ…』

 と、二人そろって項垂れる姿に、思わず目を逸らしてしまった。…案外苦労しているようだが、明日の我が身かもしれないと思うと、同情を禁じ得ない。 薄々、そうではないかと思っていたので、思ったより衝撃は少なかったのだが。
 しかし、タロウ殿はジェロームが口を半開きにして痛ましそうに見つめている視線にハッとすると、ゴホンと咳払いをして、

『まあ、そんなことはどうでもいい。 王子よ、もしもお前が主を娶りたいというのであれば、特に反対はしない。お前は精霊に選ばれた者の一人であり、主も拒否を示していない故に。だが、一人で独占するために、主に害を及ぼす不埒な行いをしたり、よからぬ思惑に巻き込もうとするのであれば…お前に関わる全てを滅ぼしてやるので、心するようにと言いたかったのだ』

 と、俺の瞳を見据えて言う。対してマーリン殿は、

『まあ、そういうことニャ。 精霊は、ご主人をこの地に留めておくための楔をたくさん用意したいらしいニャ。それは複数の夫であったり、ご主人を慕う民であったり…形は様々ニャ。 お人よしなご主人は、数が多ければ多いほどこの地を去ることができなくなる…。まあ、肉体を持たない精霊らしい単純さだとは思うが、あながち間違いとも言えないので、吾輩たちもそれに乗っかるつもりでいるニャ』

 そう言いながら、『ニャハハ』と軽い感じで笑ってはいるが、何を思っているのかその目は全く笑っておらず、どろりと鈍く光る瞳に殺気さえ感じて背筋が凍る。
 しかし、地の果てまでも追いかけてきそうに見える二人がこれだけ恐れるとは……彼女は、元々はこの辺りの住民ではなく、どこか遠くから現れた存在だとでもいうのだろうか…?

『ああ、取り合えずお前が夫になることに反対はしニャいが、夫同士の間でも縄張りがあることは忘れないようにしてほしいニャ。子供と違って、そこそこ育った王子なら言ってることも分かってもらえると思うがニャ』

 俺はその、捕食者の様な視線を向けられてゴクリと唾液を飲み込み、

「この家には、無闇に立ち入るな…ということか」

 と、答えると、二人は急ににっこりと年齢的にあどけないとも言える微笑みで頷いた。

『そういう事ニャ。…まあ、我々の邪魔をするなとか、そういう意味がない訳でもないが。…ご主人は、他人がその領域を侵すのを忌避される質なので、ご主人の平穏を乱されたくはないのニャ』

『主は…お人好しでやや浮世離れした価値観の持ち主ではあるが、基本的に人間というものを信じてはいない。かつて何があったのかまでは知らないが、夫とは言え人間であるお前たちが、我々の様に受け入れられるには時間がかかるかもしれぬ。もちろん、主がお前たちを招くというのであれば、我々もそれ程抵抗したりはしないが』

 …確かに、おかしいとは思っていたのだ。
 あれだけ村人たちに慕われているのに、出会ったことがあるのがロビンという村長の孫だけであることが。

 俺は、神妙な様子で語る二人の言葉に耳を傾けつつ視線を落として考え込んだ。

『ご主人は…あれだけ慕うテルミ村の連中にも、自ら姿を現して関わろうとされない。請われれば断らないし、慕ってくるものには慈悲を与える寛大な方ではあるが、常に深く立ち入らないようにしておりバランスを重んじるきらいがあるニャ。…そのため、あの者たちが何をしていようとも、積極的関わることはないし、あいつらもその辺は教育が行き届いているので、ご主人に具体的な何かをお願いしてくることもないニャ』

 …『教育』という言葉に何も思わないわけではないが、この二人も彼女を守るために必死なのだろう。
 あのウサギの少女だと思って話していた、ゆるフワッとした様子を思い出すと、主人と言いながらも自分が何とか守ってやりたいと思う気持ちもわかるような気がしたが…

 しかし、想いを寄せる人間という存在に対して見守る程度の愛情がない訳ではないが必要以上に近寄ることには抵抗がある……そのような付かず離れつの距離にあることが、彼女の意向に依るものというのであるならば、あまり性急に彼女を求めて追いかけては、忌避され逃げられてしまう恐れがあるのかもしれない。ただ、彼女が故意にか無意識かはわからないが、精霊や隷属獣たちの執着を回避するために、深く関わらないようにしている恐れも考えられるのだが……。

 彼らの言葉を考えながら、俺は今後の方策を練り直す必要があるのかもしれないと考えたのだが…一つ、気になっていたことがあり

「…了解した。 彼女の許しがあるまでは、この家の場所を探すような真似はしないし、招かれもしないのに押し掛けることはしないと誓おう……正直、この家は宝の山なので、出入りできないのはものすごく惜しいが…招いてもらえる日を待つとする。
 …そもそも、同居すると言う絶対的に優位な立場でありながら、そこまで牽制するのだ、そちらも、俺の領域を侵したりはしないだろう。それに、そういう形の婚姻がない訳ではないし……彼女はあの転移の術式を以てこちらに移動してくれるならば、通い婚の形式も容易いのだろう。
 そのためにも、できれば彼女とやり取りできる魔道具などを頂ければ、今の所それ以上を望みはしない」

 と、彼女自身の存在程ではないものの、この楽園の様に魅力的な家に立ち入れないことについては涙を飲みながら一先ず諦める誓いを立てたが、お互い不可侵であることについては言質をとり、一方的に不公平ではない様、交渉するので良しとする。

「しかし、これだけは教えてもらいたいのだが、いいだろうか?」

 質問を続けると、二人は『ふん』と尊大な態度で鼻息を吐き、頷くことで続きを促す。

「二人が隷属獣のままでいることは、どうしてなのか? 彼女がそれを強いているようにも見えないし、その権力を活用している様子も見られないので、疑問に思ってね。あなたたちも、心から彼女を敬愛している。それなのに、対等な番の地位を得ようとは思わないのか」

 そう言うと、二人は『はっ、そんなこと』と揃って鼻で笑うと、口々に

『我らが人でなく獣の本性を有し、主の意志に逆らうことができない哀れな存在であることの方が、「対等」などという人間独自の価値観よりも重要だからである。それによって主は自分の傘に入った我らを捨ておくことができない。…我らは好んで縛られておるのだ。むしろ、主が我々を縛らないというのであれば、主が解放した瞬間我々が…ククッ…』

『ご主人は、我らを愛玩動物の様に愛でており、自分が主であるが故に可哀そうな吾輩たちを置いて去ることなどできないニャ。そして、従属されているからこそ、ご主人は安心して我らを側に侍らすことができ、始終共に暮らすことができるのニャ。タロウの言葉ではないが、今更ご主人が我らを手放そうと言うのであれば……ヒャッヒャッヒャッ…』

 と、暗く輝く瞳で笑いながら誇らしげに語り、口を揃えて

『愛する者に望まれ、思考の根底から縛られる幸福は、数ある夫の一人となり得たところで、そうそう得られる快楽ではない』

 と、可愛いと思える程あどけない笑顔で自慢された時には、様々な柵の多い人間では到底得られない束縛愛の行きつく先を垣間見、思わず獣人よりも近視眼的になりやすい魔獣の執着の深さを思い知った気がして背中に悪寒が走る。傍らで黙って聞いていたジェロームが「うわぁ…」という反応を見せていたのは、こいつが子供だからという理由だけじゃないと思いたい。

 …ともかく、彼女には、ゆめゆめ彼らを解放しないよう、しっかり言い含めておこうと思ったのだった。



 その後、姫が精霊たちとの相談を終えて戻ってきたときには、何事もなかったかのように再び獣身に戻って寛いでおり、その変わり身の早さに普段の様子が想像できて、思わず若干引きつりつつもコッソリ苦笑したものだったが…。

 数日後に親父の様子を見に来るためという目的ではあったが、姫と再会できる約束を取り付けることができ、俺は柄にもなくワクワクしながらその時を待っていた。
 …その待っている間、彼女の体の感触を思い出しつつ王室御用達の仕立て屋を呼びつけて何着かのドレスや普段着、寝間着や下着などの衣類を用意させながら、幼い頃から世話になっている女官長のジョアンナには姫が滞在する部屋の準備を整えさせた――その指示をしたとき、ジョアンナが大層嬉しそうに目を輝かせながら「まぁまぁ…」とほくそ笑んだのは、質問攻めにあうのも面倒臭くなりそうだと思い、見なかったふりをしたのだが――。そして、彼女に関わる全てのものについて考える時間が、忙しくも心躍るひと時になるなんて、出会う前の自分では考えつきもしなかっただろう。

 そうして、再会した姫は、やっぱり目立たないように以前見た白いウサギのような姿だったので、少し落胆してしまったが、不用意に彼女の美しい様子を他の男どもに晒す方が耐えがたいと気づき、やはりその姿は限られた者だけが知っていれば良いと思ってしまった。…半獣人は獣性が低いため愛情表現が淡泊だと揶揄されることもあるが、案外自分にも伴侶に執着をみせる獣人らしいところがあったのだと気づき、嬉しくなった。



 その後、姫はその身に纏い、守っている精霊たちと相談した後、親父の病が『呪術』という、かつて北方で栄えたという一族が得意としていた特殊魔術であることを看破した。力の宿る異国の文字…であったそうだが、その一族は争いに敗北した後、時の権力者たちに迫害され、伝承者の消失と共に、その類まれな技術をも失わせていったという事は、後から知ったのだが。

 しかし、その治療法については、心臓に姫が持つナイフを刺して行うという過激なものであったため、突然そのようなことを言われて、俺も驚いたが、上級ポーションを量産する知識と技能を持ち、慎重な性質である彼女が改善策もなくそんなことを言うはずがないとの確信があったので、俺は何も言わずにそのまま受け入れていた。
 とはいえ、初見のオーラと媚びない対応でその女神と崇められる存在を見直しはしていたものの、まだ姫の力に対して懐疑的な部分のあった兄貴が柄にもなく激高したため、隷属獣の二人と争いかけたのだが、緊張しているのか血の気の引いた蒼白い顔で震えながらも決意した姫の剛い眼差しに思わず見とれてしまい、両者を引き離すタイミングが少し遅れてしまったのだった。
 この濃ゆい両者の間では、俺も若干存在が薄くなっているような気はしたが、姫が行おうとすることをスムーズに進めるためにも、ここは中間の立場でとりなす必要があると思いながら、ふわふわしているだけじゃない、姫の凛々しい姿にコッソリ情感の籠ったため息を零す。

 そんな姫を守り、傍らに立つ存在になりたい

 既に40歳も近いいい大人のくせして、思春期の少年の片思いのような願望が脳裏を過り、思わず気恥ずかしくなるではないか。
 しかし、そんな甘酸っぱい感情も、姫が何気なく無動作で指輪の?ストレージからエリクサーを取り出した―――これも、人間が容易く持てるような魔道具でもないのだが―――時には霧散してしまい、衝撃のあまりそれを渡されたその手が震えてしまった。

 確認と称してその伝説のお宝とも言える物を受け取った時に姫が作ったという事実に狼狽え、低位とはいえ俺のもつスキルで簡易的にその水色の小瓶を鑑定すると、

『エリクサー:伝説の万能薬と謳われる薬。死後24時間以内であればどんな状態であっても蘇生を可能とする。現在市場にないため価格は時価』

 と、疑っていたわけではないが間違いなく本物であるとの結果がでたため、こんな緊迫した時なのに、色々な種類のときめきが止まらなくなって困ってしまったのだが、瀕死の状態である親父の傍らに立つ姫に苛立たれながら蔑むような眼差しで見られて、心臓が跳ねた。その時若干感情の回路が混乱してしまったのか、思わずゾクゾクと興奮しつつ少し股間を固くしながら、小瓶を返したのだった。

 ……すまない、親父。こんな時だったのに。
 …足元にいたジェロームがチラッとこちらを見上げたのがいたたまれず、知らないふりをしてごまかしたのを許してくれ。


 姫はそんな俺の様子を視界に入れることもなく、寝間着をはだけた親父の胸に手を置いて、色っぽいとも思える動作で自身の薄い唇を舐めて湿らすと、簡素でありながらも美しく力に溢れたナイフを躊躇なく親父の胸にゆっくりと突き立てていった。
 そのような、血生臭いことなど経験したことがないのだろう。
 決意の宿った眼差しで、ブレることなく心臓の位置に狙いを定めてはいたものの、その肉を切る感触に泣きそうな顔をしていたのが痛ましいと思ったが、かなり繊細な処置を行っているだろうことを察し、ここで声をかけて集中を切らしてはいけないという分別がこの場の全員にあったので、我々は、彼女の行為を最後まで固唾を飲んで見守っていたのだった。

 そして、何かの魔道具で親父の様子を確認すると、すこし表情が緩んだようだったので、呪いの解除が成功したのだとわかったが、緩んだのも一瞬で、再び張り詰めた表情で少しずつナイフを抜いていく姿をみて、騎士の創傷治療を行う治療師の姿を思い出した。もっとも、あれはたくさんの止血用の布きれなどを傍らに用意し、抜きながら縫合を行ったりもするのだが。
 そして、ナイフを抜き去った瞬間、当然ではあるが親父は傷口から大出血をしたのだが、彼女は取り乱すことはなく、親父の血を頭から浴びながらもエリクサーを振りかけ……親父は完治することができた。

 真っ赤な鮮血を浴びながらも、怯まず真摯な表情で向き合う姫の横顔が、淡い光を反射する黒い瞳が戦女神の様に苛烈で美しく、エリクサーの反応光で仄かにハレーションを起こしながら輝く姿が神話の様に幻想的な情景に見え、彼女が意識を失って親父の傍らに倒れていく姿まで、ただただ見とれてしまっていたのだった。


 その後、親父の病は完治したことが確認され、晴れて健康体となったのだが、少々想定外の事態が起こってしまったので、王妃や宰相他、限られた者たち以外にはまだ、王が病から復活したという情報を知らせてはいない。
 呪いが消失し、親父が意識を取り戻した時は、俺も兄貴も目に涙を浮かべながら抱き合って喜んだのだが、その後の様子を確認していくにつれて、お互いに眉を顰めて沈黙してしまった。宰相や幾人かの臣下も俺たちと同様の反応を示したのだが、何故か王妃だけは以前と変わらぬ微笑みを湛えて親父の姿を見つめていた。
 その眼差しは慈愛に満ちており、まるで聖母のように神々しいと思ったのだった。




「早く、起きてきてくれないだろうか。あなたに知らせたいことや、伝えたい言葉があるから」

 あなたに出会ってから、この少しの間の出来事で、色々なことが変わってしまった。俺はいつも、あなたを求める様に追っているような気がしてしまうが、追うことがこんなに楽しいことだとは思わなかった。
 きっとこれからも一緒に過ごす時間が増えれば、そんな慌ただしくも心躍り、あなたのことを考えるだけで満たされる日々を送ることができるのだろうか。

 そう思いながら、その瞼にそっと口づけを落とすと、むず痒いと思ったのか彼女は迷惑そうに顔をしかめたので、そんな反応でも返って来たのが嬉しく、思わず笑ってしまったのだったが…


 出会った頃からいつも予想の斜め上をいく、ツれない彼女が愛しいと思った。
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