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1巻
1-2
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――罰が当たったのかもしれない。
一体いつのまに、ティーポットが入れ替わってしまっていたのだろうか。
気分が悪いせいでまともな思考が働いておらず、そんなことをぼんやりと思った。
ナターシャから生まれるかもしれない未来の命たちを、この手で絶とうとするような真似をしてしまったから……神は私の方に罰を与えたのだろうか。
これで私は、一生子を望めぬ体となってしまった。
だがどうせエドガー様が私と閨を共にすることなどないのだから、これでよかったのかもしれない……
「っ……」
すると今度は、突然ドクン! と激しい動悸がして、胸を貫くような痛みが走る。
思わず胸に手を当てた私は、立ち上がって部屋を出ようとした。
この無様な姿を夫の愛人に見られるのは、公爵夫人としてのプライドが許さなかったから。
しかし手足に力が入らず、足元がおぼつかないため思うように歩くことができない。
よろめきながら体重を支えようとテーブルに手をつこうとするが、バランスを崩して倒れこんでしまった。
その衝撃で花瓶が床に落下し、ガシャンと大きな音を立てて砕け散る。
だが今の私には、それを気にかける気力はもはや残っていなかった。
――おかしいわ。あの術でこのようなことにはならないはずなのに……
単に子ができなくなるだけのはずが、ここまで肉体的、精神的に苦痛を与えるものであったのか。
あの魔術師も、ずいぶんと意地の悪い術を使ったものだ……
「フローラ様……あまりに浅はかな行い、あなた様らしくありませんね」
ぼうっとそんなことを考えていた私の頭上から、嘲笑うかのような高い声が聞こえてきた。
そちらの方を見上げたいのだが、力が入らないためそれができない。
――ナターシャ……?
声の持ち主であるナターシャは、そんな私を憐れむかのように屈んで目線を合わせてくる。
「私は知っておりました。あなた様の企みも、私のことを憎んでおられるということも」
そう言って微笑む彼女の姿は、美しい悪魔のようであった。
「な、なぜ……そ、の、よう、な……」
聞きたいことはたくさんあるというのに、思うように声が出てくれない。
口をついて出るのはしゃがれて掠れた、まるで女性のものとは思えないような情けない声だけ。
「私がエドガー様の子を産むことが、そんなに許せませんか?」
「っ……」
彼女は、私が毒を盛ろうと企んでいたことを知っていたのだ。
知っていて、あえてお茶の時間を共に過ごそうと声をかけてきたのである。
そうとも知らずにのこのこと誘いに応じ、自分の部屋に招くことで優位な立場にいると勘違いしていた自分のなんと愚かなことか……
「それほど許せないとおっしゃるのならば、見なければよろしいのです」
突然ナターシャの声が、それまでの甘いものから恐ろしく低いものへと変わったような気がした。
「これから先私たちの間に子が生まれたとしても、あなた様がここにいらっしゃらなければその姿を見ることもないでしょう?」
「何を、言って……」
なんとなくナターシャが言わんとしていることの意味がわかった私は、その予想が外れていることを願いつつも、恐怖と毒のせいで体の震えが止まらない。
――まさか、彼女は……
「そこまで苦しまずに逝けると聞いておりましたが、少し話が違ったようですわ。申し訳ございません」
「っ……」
私はここへきてようやくはっきりと悟った。
ナターシャは、私が飲んだ紅茶の中に毒を混ぜていたのだ。それも命に関わるほどの強いものを。
一体何がどうしていつのまに、私の紅茶の中に毒が入れられてしまったのだろうか……
しかしもうそんなことを考えていても仕方のないこと。
まさか毒が仕込まれているとは思わず、むしろナターシャに安心してもらうために、何口もその毒入り紅茶を飲んでしまったのだ。
既にその毒は、私の体中に回り始めていることだろう。
その証拠に動悸や息苦しさ、手足の痺れと震えはどんどん悪化していた。
もう会話することなど難しいほどになってしまった私の様子を、憐れむように扇子を口に当てたナターシャがじっと見つめている。
――ああ、苦しい……早く楽になりたい。
私はあまりの苦しさから早く解放されたくなり、命を手放しても構わないとさえ思い始めるようになった。
命を失えば、意識もなくなる。エドガー様とナターシャの様子に一喜一憂し、心が抉られてしまうことももうなくなる。幸せな思い出だけを胸に抱いて旅立つことができるのだ。
――心残りは一つだけ。
最期旅立つ前に、エドガー様に会うことができなかったということだろうか。
たとえこちらを見つめる瞳に愛が残っていなくとも、最期にその姿を目に焼きつけておきたかった……
きっとナターシャは、私が彼女の紅茶の中に毒を仕込もうとして失敗したのだと、エドガー様に嘘をつくだろう。
あながちそれは間違った話ではないのだが、彼の中で最後に残る私の記憶がこれになってしまうというのは、なんだか虚しい話だ。
――でもそれももう、死んだ後の私にはわからないこと。
それならば、ある意味ここで命を奪われてしまった方が楽になれるのかもしれない。
いつのまにか毒は全身に回ったようで、もうこれ以上命を繋いでおくことは限界だとわかり、瞼を閉じてしまいたい衝動に駆られる。
きっとここで目を閉じたなら、そのまま二度と目覚めることはないだろう。
「フローラ様……来世ではあなた様だけを愛してくださる方が、見つかりますように」
どの口が言っているのだろうか、という台詞が聞こえたような気がするが、もうどうでもいい。
もはや彼女に対して、怒りも憎しみも感じなかった。
――さようなら、エドガー様……もしも人生をやり直せたなら……
私はゆっくりと抵抗を止めて瞼を下ろす。
途端にこれまでぼやけていた視界が真っ暗になり、意識が遠のき始めた。
――もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません。
薄れゆく意識の中でそんなことを思いながら、私の命の灯火はかき消されてしまったのであった。
◇ ◇ ◇
「んん……」
目が覚めると、見覚えのある花柄の天井が目に入る。
しかしそれはコルドー公爵家の自室のものではなかった。
そしていつも左手にはめていたはずの結婚指輪の姿はなく、結婚前の年若い令嬢が身に着けるようなネグリジェを身に纏っている。
「私は……死んだはずでは……」
確かあの時、私はナターシャに毒を飲まされたはず。そしてもがき苦しんだところまでは覚えているのだが、そこから先はあまりの苦しさで意識を失ってしまったせいで覚えていない。
ゆっくりと寝台から体を起こしてみるが、体調も良好で毒の後遺症のようなものは感じられなかった。
あれはまさか全て夢だったのか? いや、そんなはずはない。
私の記憶の中には、幸せだった結婚生活が苦しみへと変化していくまでの過程にくわえ、魔術師とのやり取りに至るまでがしっかりと残されていた。
確かに私はエドガー様と結婚していて、ナターシャに陥れられたのだ。
周りを見渡せば、よく見慣れた調度品の数々。やはり私が生まれ育った部屋に間違いない。
――ここは、ウィルソン侯爵家……? でもそれはありえないわ。
実家であるウィルソン侯爵家には、もうしばらく帰っていなかった。
あれほど祝福されたエドガー様との結婚が、うまくいかなくなってしまったことが惨めで申し訳なくて……
そして私が実家へと戻ってしまったら、ますます公爵家でのナターシャの存在が大きくなってしまうのではないか、ということが怖かったのだ。
すると突然扉が軽く叩かれ、次の瞬間にはゆっくりと開かれる。
開いた扉から一人の女性が部屋の中へと入ってきたのだが、その女性に目を向けた私は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。
「ああ、フローラ様。お目覚めでございますか? 声をお掛けしたのですがあまりに起きていらっしゃらないので、侯爵様から『起こしてくるように』と申しつけられた次第でございます」
女性は「勝手に扉を開けてしまい申し訳ございません」と、頭を下げながら寝台まで歩みを進めた。
「あなたは……キャロル?」
キャロルは、幼い頃から私の世話をしてくれたウィルソン侯爵家の侍女だ。
だが彼女はここにいるはずがない……エドガー様との結婚により、離れ離れとなってしまったはずであった。
その懐かしい顔に嬉しくなり、つい涙ぐんでしまう。
オレンジ色の髪を後ろで編み込む形に纏めた彼女は、突然涙を浮かべながらそんなことを尋ねてきた私に対し、怪訝そうな顔で首を傾げた。
「まだ完全にお目覚めではないのですか? ……私は確かにキャロルでございますよ、あなた様付きの侍女の」
「……ということはここは、ウィルソン侯爵家なのね?」
キャロルは今度こそ呆れたような、むしろ心配そうな表情をこちらに向けてきた。
「昨夜何か変なものをお召し上がりになりましたか? それかご気分でも……」
「い、いえ! 少し変な夢を見たようで……夢と現実が混ざっているみたいね。キャロル、今私は何歳なのか教えてほしいわ」
「……先日十八歳になられたお祝いをしたばかりではございませんか。お嬢様、本当に大丈夫でございますか?」
……ということは、私が毒を飲まされて命を落としたあの日から四年ほど遡ったことになるだろう。
今の私は十八歳になったばかりのウィルソン侯爵令嬢なのだ。
私とエドガー様は出会ってから約一年後に結婚して、その二年後にナターシャと彼が出会いを果たすことになる。
キャロルの服装が涼しげな半袖であることを考えると、今の季節は恐らく夏頃だろう。
私がエドガー様と出会ったのは、すっかり朝晩が冷え込むようになった頃の舞踏会だったことを覚えている。
……つまり私たちはまだ出会っておらず、互いの存在を知らないということになるだろう。
「……フローラ様? いかがなさいましたか? やはりお加減が……」
明らかに様子のおかしい主人に対し、キャロルはいささか不気味なものを見ているような目つきだ。それもそのはずだろう。いつものように就寝して目覚めた主人が、突然場所も年齢もわからなくなっているのだから。
「いいえ大丈夫。だんだんと意識がはっきりしてきたわ。きっと目が覚めてきたのね」
そんなことを言って誤魔化すと、キャロルはほっとしたようにため息をついた。
ようやく寝台から降りてきた私に対し、彼女はドレッサーの前に置かれた椅子へと座るように促す。椅子に腰掛けて正面の鏡を見れば、そこには記憶の中に残る姿よりも少し幼い自分の姿が映っていた。
――眉間の皺も、目元の隈も見当たらない……
目元に手をやりながら、ふとそんなことを考える。
表情も最後に残る記憶よりは、いくらか明るく見えるのは気のせいだろうか。
思い返してみれば、ナターシャが公爵家にやってきてからというもの苦悩の連続であった。
常に二人の関係を気に病み、気づけば険しい顔をしていたことを思い出す。
彼女に毒を盛る計画を企てていた時の私の顔といったら……さぞ醜いものであったに違いない。
まだエドガー様と出会う前の私は、これほど別人のように生き生きとした表情を見せていたのかと、自分がまるで他人のように感じられた。
「お着替えを手伝ってもよろしいですか?」
「あ……え、ええ。お願いするわ」
今度は鏡を見たまま動かなくなった私を見かねたのか、キャロルが手助けすることを提案してくれる。
窓の外を見ればとっくに日も昇っており、時刻は昼に差し掛かっているのだろう。
にもかかわらず寝癖のついたボサボサの髪に、未だにネグリジェを身に着けたままの私を、キャロルはどう思っているのだろうか。
そんなことを考えながら、彼女の手で長い黒髪を梳いてもらう。
――懐かしいわ。結婚する前は、こうして毎日キャロルに髪の毛を梳かしてもらっていたのよね。
鏡越しに見えるキャロルは、私が嫁いだ時の彼女のままだ。
彼女がその後もずっとウィルソン侯爵家で侍女をしていたことは知っていたが、結局嫁いでからというもの一度も顔を合わせたことはなかった。
昔と変わらぬ彼女が目の前にいるだけで胸がいっぱいになってしまい、その動揺を悟られぬように思わず俯いてしまう。
「今日は後ろで編み込んでしまいますね。随分と寝癖が頑固ですので……こうすればわかりにくくなりますでしょう?」
「本当? 嫌だわ……」
「ふふふ。お嬢様の寝癖をお直しするのは時間がかかりますからね」
そんな軽口でさえも、嬉しくてたまらない。
いかにこれまでの結婚生活が苦しみに満ちたものであったか、その全てから解放された今よくわかる。
思い返せばコルドー公爵家の侍女たちも、嫁ぎ先に慣れない私によくしてくれていた。
……ナターシャがあの屋敷に連れてこられるまでは。
しかしどうしても公爵家特有の息苦しさというものがあり、嫁いでしばらくは慣れずに息が詰まるような思いをしたことは今でも記憶に新しい。
「そういえば、舞踏会のことは侯爵様からお聞きしていますか?」
やがてひと通り梳かし終えた黒髪を編み込みながら、キャロルがふと思い出したように尋ねてきた。
「いいえ。聞いていないわ」
聞いているも何も、私は先ほどこの寝台の上で目覚めるまでの記憶は持ち合わせていないのだ。
残っているのは嫌な辛い記憶だけ。だがそんなことはおくびにも出さず言葉を返す。
「では朝食の後にきっとお話がございますね。急いでお支度を済ませてしまいましょう」
確かに父からまだ話は聞いていない。
しかしそれが何の舞踏会を意味しているのかが、今の私にはわかってしまう。
数か月後にルーズベルク公爵家で開催される予定の、盛大な舞踏会についての話だろう。
なぜこれほど詳細に過去の舞踏会のことを覚えているのか……
それはこのルーズベルク公爵家での舞踏会が、私とエドガー様が出会うきっかけとなった場でもあるからだ。
忘れたくても忘れることのできない、あの日のこと……
私たちの出会いは、私が間違えて強い酒を飲んでしまいそうになったところを、エドガー様が助けてくれたことから始まる。
その日の私は、慣れない盛大な舞踏会で緊張していた。出席者たちと挨拶を交わし、その場にふさわしい振る舞いをするだけで精一杯であったことを覚えている。
得意のはずのダンスも次から次へと申し込みが入り、よく顔もわからぬ男性たちと踊り続けたことで、足はもう疲れ切っていたのだ。
ようやく挨拶回りと終わりの見えないダンスから抜け出すことのできた私は、大勢が集まる大広間の中央を抜けて隅の方へと移動する。
――喉が渇いたわね……確かあの辺りで飲み物を配っていたはず。
大広間を見渡せば、トレーの上にグラスをいくつも載せたものを持った男性がいる。
慣れない場であるため、何かをする時は必ず声をかけるようにと父には言われていたのだが……
父は他の貴族たちへの挨拶で忙しいらしく、こちらに戻ってくる気配は全くない。
飲み物のためにわざわざ父をこちらへ呼ぶのも気が引けてしまうし、それくらいなら大丈夫だろう。今思えばそんな安易な考えが、これから始まる全ての悲劇を引き起こすきっかけとなったのかもしれない。
だが当時の私はそんなことなどつゆ知らず……例の男性の元へ向かうと声をかけた。
『一ついただけるかしら』
『はい。どれにいたしましょうか?』
彼はトレーの上がよく見えるようにと、少し屈んでグラスの中身を見せてくれた。
二種類の色の飲み物がそれぞれ注がれており、そのうちの一つはワインであるとすぐにわかる。
私は十八歳を過ぎているため、一応酒を嗜むことは可能だ。
しかし一度実家の侯爵家でワインを試しに一口飲んだところ、すぐに酔いが回って気分が悪くなってしまったのである。
それ以降父から酒の類は飲むなと言われており、そのことは私自身も重々承知していた。
――これがワイン……ということは、もう片方のグラスが果実を絞ったものね。
『ワインではない方をいただきたいわ』
『かしこまりました』
私はトレーの上から、ワインではない方のグラスを取った。
人混みで飲み物をこぼしてしまわないように、再び隅の方へと移動する。
そして壁にもたれかかりながらそのグラスに口をつけようとした、まさにその時であった。
『待って。それは酒だ』
そんな声と共に、突然グイっとグラスを持った方の手首を掴まれる。
あまりに急な出来事で、私には何が起きたのかわからない。
『え……あなたは……?』
ハッとして声の方を見上げると、そこには銀髪に透き通るような碧眼を持った見目麗しい男性が立っていたのだ。
――こんなにも素敵なお方がいるのね……
ぼうっと彼の姿に見惚れているうちに、その男性によってグラスが奪われてしまう。
『これは果実水でも果実の搾り汁でもない。果実の風味で甘くした酒だ』
『え……』
『君は酒が苦手なのでは?』
『な、なぜそれを……』
この男性と顔を合わせるのはこれが初めてだ。
彼はなぜそのようなことを知っているのだろうか?
私の訝しげな視線に、男性は少し困ったような微笑みを浮かべながら話を続ける。
『ずっと君を見ていたから。ワインではない方がいいと言っていただろう?』
『あ……』
『もう片方の酒は甘さがあって飲みやすい分、かなり酔いが回りやすい。君のような年若い令嬢が、あのような強い酒を好むはずがないというのはわかる』
淡々とそんなことを述べる目の前の男性から目が離せない。
『あそこは酒を飲んで羽目を外したい者たちのための場所だ。君のような女性が行くところではない』
『私、知りませんでした……』
思えばこれまでの舞踏会は全て父や母について回っており、そのようなことを知る機会はなかった。両親たちもその件に関して触れることはなく、まったくの無知であったのだ。
『きっとご両親は、年頃の君にはあまり教えたくないと思ったのかもしれないな。飲み物をもらうなら、向こう側に立っている女性から受け取るといい。私が今取ってきてあげよう』
『いえっ……見ず知らずの方にそこまでしていただくのは』
『君は私のことを知らないのか?』
『へ?』
よく意味のわからない返しをされ、気が抜けた声が出てしまう。
『……まあいい。君の名を教えてくれないか』
本来ならば、相手が名乗ったことを確認してから自らの名を明かすように、と父に言われていた。
だが彼は恩人だ。
――どう見ても、悪いお方のようには思えないし……
『フローラ……フローラ・ウィルソンと申します』
気づけば、自らの名を口にしていた。
彼はその名を聞くと、顎に手を当てて少し考えるような仕草を見せる。
『ふむ……ウィルソン侯爵家の令嬢か……』
『あの、あなた様のお名前は?』
『私はエドガーだ。では、飲み物を取ってくるとしよう。いいか? 必ず動かずにそこにいるんだぞ』
彼は家名を名乗らなかった。しかしこの舞踏会に参加しているということと、その煌びやかな身なりや風貌から、どこかの貴族であるということは間違いないだろう。
結局果実水を取ってきてもらい、それを受け取ったところで彼はその場を立ち去っていった。
『またすぐに会えるだろうから、今日のところはこれで』
そんなよくわからない台詞を残して。
これが、私と最愛の夫であるエドガー様の出会いであった。
後日ウィルソン侯爵家に届けられた手紙により、彼がコルドー公爵令息であったのだということを知る。
――ということは、そもそも舞踏会に参加しなければエドガー様と出会うこともないのね?
彼と出会ったきっかけをなくしてしまえば、きっとこれから先私たちの人生が交わることもなくなるはずだ。
私たちは、もう絶対に出会ってはならない。互いに結ばれるべき相手は違ったのだから……
◇ ◇ ◇
「だめだ。あの舞踏会は国の主要な貴族たちが皆招待されているもの。我が家から欠席者を出すなど、言語道断」
「ですがお父様、私一人が欠席したところで誰もお気づきになりませんわ」
「そういう問題ではない。お前は自分がウィルソン侯爵家の一員であるという意識が低いのではないか?」
あれから両親であるウィルソン侯爵夫妻の元に呼ばれた私は、舞踏会を欠席したいと申し出た。
しかしその結果がこれだ。普段は娘に甘い父にしては珍しく、その意志は頑なであった。
一体いつのまに、ティーポットが入れ替わってしまっていたのだろうか。
気分が悪いせいでまともな思考が働いておらず、そんなことをぼんやりと思った。
ナターシャから生まれるかもしれない未来の命たちを、この手で絶とうとするような真似をしてしまったから……神は私の方に罰を与えたのだろうか。
これで私は、一生子を望めぬ体となってしまった。
だがどうせエドガー様が私と閨を共にすることなどないのだから、これでよかったのかもしれない……
「っ……」
すると今度は、突然ドクン! と激しい動悸がして、胸を貫くような痛みが走る。
思わず胸に手を当てた私は、立ち上がって部屋を出ようとした。
この無様な姿を夫の愛人に見られるのは、公爵夫人としてのプライドが許さなかったから。
しかし手足に力が入らず、足元がおぼつかないため思うように歩くことができない。
よろめきながら体重を支えようとテーブルに手をつこうとするが、バランスを崩して倒れこんでしまった。
その衝撃で花瓶が床に落下し、ガシャンと大きな音を立てて砕け散る。
だが今の私には、それを気にかける気力はもはや残っていなかった。
――おかしいわ。あの術でこのようなことにはならないはずなのに……
単に子ができなくなるだけのはずが、ここまで肉体的、精神的に苦痛を与えるものであったのか。
あの魔術師も、ずいぶんと意地の悪い術を使ったものだ……
「フローラ様……あまりに浅はかな行い、あなた様らしくありませんね」
ぼうっとそんなことを考えていた私の頭上から、嘲笑うかのような高い声が聞こえてきた。
そちらの方を見上げたいのだが、力が入らないためそれができない。
――ナターシャ……?
声の持ち主であるナターシャは、そんな私を憐れむかのように屈んで目線を合わせてくる。
「私は知っておりました。あなた様の企みも、私のことを憎んでおられるということも」
そう言って微笑む彼女の姿は、美しい悪魔のようであった。
「な、なぜ……そ、の、よう、な……」
聞きたいことはたくさんあるというのに、思うように声が出てくれない。
口をついて出るのはしゃがれて掠れた、まるで女性のものとは思えないような情けない声だけ。
「私がエドガー様の子を産むことが、そんなに許せませんか?」
「っ……」
彼女は、私が毒を盛ろうと企んでいたことを知っていたのだ。
知っていて、あえてお茶の時間を共に過ごそうと声をかけてきたのである。
そうとも知らずにのこのこと誘いに応じ、自分の部屋に招くことで優位な立場にいると勘違いしていた自分のなんと愚かなことか……
「それほど許せないとおっしゃるのならば、見なければよろしいのです」
突然ナターシャの声が、それまでの甘いものから恐ろしく低いものへと変わったような気がした。
「これから先私たちの間に子が生まれたとしても、あなた様がここにいらっしゃらなければその姿を見ることもないでしょう?」
「何を、言って……」
なんとなくナターシャが言わんとしていることの意味がわかった私は、その予想が外れていることを願いつつも、恐怖と毒のせいで体の震えが止まらない。
――まさか、彼女は……
「そこまで苦しまずに逝けると聞いておりましたが、少し話が違ったようですわ。申し訳ございません」
「っ……」
私はここへきてようやくはっきりと悟った。
ナターシャは、私が飲んだ紅茶の中に毒を混ぜていたのだ。それも命に関わるほどの強いものを。
一体何がどうしていつのまに、私の紅茶の中に毒が入れられてしまったのだろうか……
しかしもうそんなことを考えていても仕方のないこと。
まさか毒が仕込まれているとは思わず、むしろナターシャに安心してもらうために、何口もその毒入り紅茶を飲んでしまったのだ。
既にその毒は、私の体中に回り始めていることだろう。
その証拠に動悸や息苦しさ、手足の痺れと震えはどんどん悪化していた。
もう会話することなど難しいほどになってしまった私の様子を、憐れむように扇子を口に当てたナターシャがじっと見つめている。
――ああ、苦しい……早く楽になりたい。
私はあまりの苦しさから早く解放されたくなり、命を手放しても構わないとさえ思い始めるようになった。
命を失えば、意識もなくなる。エドガー様とナターシャの様子に一喜一憂し、心が抉られてしまうことももうなくなる。幸せな思い出だけを胸に抱いて旅立つことができるのだ。
――心残りは一つだけ。
最期旅立つ前に、エドガー様に会うことができなかったということだろうか。
たとえこちらを見つめる瞳に愛が残っていなくとも、最期にその姿を目に焼きつけておきたかった……
きっとナターシャは、私が彼女の紅茶の中に毒を仕込もうとして失敗したのだと、エドガー様に嘘をつくだろう。
あながちそれは間違った話ではないのだが、彼の中で最後に残る私の記憶がこれになってしまうというのは、なんだか虚しい話だ。
――でもそれももう、死んだ後の私にはわからないこと。
それならば、ある意味ここで命を奪われてしまった方が楽になれるのかもしれない。
いつのまにか毒は全身に回ったようで、もうこれ以上命を繋いでおくことは限界だとわかり、瞼を閉じてしまいたい衝動に駆られる。
きっとここで目を閉じたなら、そのまま二度と目覚めることはないだろう。
「フローラ様……来世ではあなた様だけを愛してくださる方が、見つかりますように」
どの口が言っているのだろうか、という台詞が聞こえたような気がするが、もうどうでもいい。
もはや彼女に対して、怒りも憎しみも感じなかった。
――さようなら、エドガー様……もしも人生をやり直せたなら……
私はゆっくりと抵抗を止めて瞼を下ろす。
途端にこれまでぼやけていた視界が真っ暗になり、意識が遠のき始めた。
――もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません。
薄れゆく意識の中でそんなことを思いながら、私の命の灯火はかき消されてしまったのであった。
◇ ◇ ◇
「んん……」
目が覚めると、見覚えのある花柄の天井が目に入る。
しかしそれはコルドー公爵家の自室のものではなかった。
そしていつも左手にはめていたはずの結婚指輪の姿はなく、結婚前の年若い令嬢が身に着けるようなネグリジェを身に纏っている。
「私は……死んだはずでは……」
確かあの時、私はナターシャに毒を飲まされたはず。そしてもがき苦しんだところまでは覚えているのだが、そこから先はあまりの苦しさで意識を失ってしまったせいで覚えていない。
ゆっくりと寝台から体を起こしてみるが、体調も良好で毒の後遺症のようなものは感じられなかった。
あれはまさか全て夢だったのか? いや、そんなはずはない。
私の記憶の中には、幸せだった結婚生活が苦しみへと変化していくまでの過程にくわえ、魔術師とのやり取りに至るまでがしっかりと残されていた。
確かに私はエドガー様と結婚していて、ナターシャに陥れられたのだ。
周りを見渡せば、よく見慣れた調度品の数々。やはり私が生まれ育った部屋に間違いない。
――ここは、ウィルソン侯爵家……? でもそれはありえないわ。
実家であるウィルソン侯爵家には、もうしばらく帰っていなかった。
あれほど祝福されたエドガー様との結婚が、うまくいかなくなってしまったことが惨めで申し訳なくて……
そして私が実家へと戻ってしまったら、ますます公爵家でのナターシャの存在が大きくなってしまうのではないか、ということが怖かったのだ。
すると突然扉が軽く叩かれ、次の瞬間にはゆっくりと開かれる。
開いた扉から一人の女性が部屋の中へと入ってきたのだが、その女性に目を向けた私は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。
「ああ、フローラ様。お目覚めでございますか? 声をお掛けしたのですがあまりに起きていらっしゃらないので、侯爵様から『起こしてくるように』と申しつけられた次第でございます」
女性は「勝手に扉を開けてしまい申し訳ございません」と、頭を下げながら寝台まで歩みを進めた。
「あなたは……キャロル?」
キャロルは、幼い頃から私の世話をしてくれたウィルソン侯爵家の侍女だ。
だが彼女はここにいるはずがない……エドガー様との結婚により、離れ離れとなってしまったはずであった。
その懐かしい顔に嬉しくなり、つい涙ぐんでしまう。
オレンジ色の髪を後ろで編み込む形に纏めた彼女は、突然涙を浮かべながらそんなことを尋ねてきた私に対し、怪訝そうな顔で首を傾げた。
「まだ完全にお目覚めではないのですか? ……私は確かにキャロルでございますよ、あなた様付きの侍女の」
「……ということはここは、ウィルソン侯爵家なのね?」
キャロルは今度こそ呆れたような、むしろ心配そうな表情をこちらに向けてきた。
「昨夜何か変なものをお召し上がりになりましたか? それかご気分でも……」
「い、いえ! 少し変な夢を見たようで……夢と現実が混ざっているみたいね。キャロル、今私は何歳なのか教えてほしいわ」
「……先日十八歳になられたお祝いをしたばかりではございませんか。お嬢様、本当に大丈夫でございますか?」
……ということは、私が毒を飲まされて命を落としたあの日から四年ほど遡ったことになるだろう。
今の私は十八歳になったばかりのウィルソン侯爵令嬢なのだ。
私とエドガー様は出会ってから約一年後に結婚して、その二年後にナターシャと彼が出会いを果たすことになる。
キャロルの服装が涼しげな半袖であることを考えると、今の季節は恐らく夏頃だろう。
私がエドガー様と出会ったのは、すっかり朝晩が冷え込むようになった頃の舞踏会だったことを覚えている。
……つまり私たちはまだ出会っておらず、互いの存在を知らないということになるだろう。
「……フローラ様? いかがなさいましたか? やはりお加減が……」
明らかに様子のおかしい主人に対し、キャロルはいささか不気味なものを見ているような目つきだ。それもそのはずだろう。いつものように就寝して目覚めた主人が、突然場所も年齢もわからなくなっているのだから。
「いいえ大丈夫。だんだんと意識がはっきりしてきたわ。きっと目が覚めてきたのね」
そんなことを言って誤魔化すと、キャロルはほっとしたようにため息をついた。
ようやく寝台から降りてきた私に対し、彼女はドレッサーの前に置かれた椅子へと座るように促す。椅子に腰掛けて正面の鏡を見れば、そこには記憶の中に残る姿よりも少し幼い自分の姿が映っていた。
――眉間の皺も、目元の隈も見当たらない……
目元に手をやりながら、ふとそんなことを考える。
表情も最後に残る記憶よりは、いくらか明るく見えるのは気のせいだろうか。
思い返してみれば、ナターシャが公爵家にやってきてからというもの苦悩の連続であった。
常に二人の関係を気に病み、気づけば険しい顔をしていたことを思い出す。
彼女に毒を盛る計画を企てていた時の私の顔といったら……さぞ醜いものであったに違いない。
まだエドガー様と出会う前の私は、これほど別人のように生き生きとした表情を見せていたのかと、自分がまるで他人のように感じられた。
「お着替えを手伝ってもよろしいですか?」
「あ……え、ええ。お願いするわ」
今度は鏡を見たまま動かなくなった私を見かねたのか、キャロルが手助けすることを提案してくれる。
窓の外を見ればとっくに日も昇っており、時刻は昼に差し掛かっているのだろう。
にもかかわらず寝癖のついたボサボサの髪に、未だにネグリジェを身に着けたままの私を、キャロルはどう思っているのだろうか。
そんなことを考えながら、彼女の手で長い黒髪を梳いてもらう。
――懐かしいわ。結婚する前は、こうして毎日キャロルに髪の毛を梳かしてもらっていたのよね。
鏡越しに見えるキャロルは、私が嫁いだ時の彼女のままだ。
彼女がその後もずっとウィルソン侯爵家で侍女をしていたことは知っていたが、結局嫁いでからというもの一度も顔を合わせたことはなかった。
昔と変わらぬ彼女が目の前にいるだけで胸がいっぱいになってしまい、その動揺を悟られぬように思わず俯いてしまう。
「今日は後ろで編み込んでしまいますね。随分と寝癖が頑固ですので……こうすればわかりにくくなりますでしょう?」
「本当? 嫌だわ……」
「ふふふ。お嬢様の寝癖をお直しするのは時間がかかりますからね」
そんな軽口でさえも、嬉しくてたまらない。
いかにこれまでの結婚生活が苦しみに満ちたものであったか、その全てから解放された今よくわかる。
思い返せばコルドー公爵家の侍女たちも、嫁ぎ先に慣れない私によくしてくれていた。
……ナターシャがあの屋敷に連れてこられるまでは。
しかしどうしても公爵家特有の息苦しさというものがあり、嫁いでしばらくは慣れずに息が詰まるような思いをしたことは今でも記憶に新しい。
「そういえば、舞踏会のことは侯爵様からお聞きしていますか?」
やがてひと通り梳かし終えた黒髪を編み込みながら、キャロルがふと思い出したように尋ねてきた。
「いいえ。聞いていないわ」
聞いているも何も、私は先ほどこの寝台の上で目覚めるまでの記憶は持ち合わせていないのだ。
残っているのは嫌な辛い記憶だけ。だがそんなことはおくびにも出さず言葉を返す。
「では朝食の後にきっとお話がございますね。急いでお支度を済ませてしまいましょう」
確かに父からまだ話は聞いていない。
しかしそれが何の舞踏会を意味しているのかが、今の私にはわかってしまう。
数か月後にルーズベルク公爵家で開催される予定の、盛大な舞踏会についての話だろう。
なぜこれほど詳細に過去の舞踏会のことを覚えているのか……
それはこのルーズベルク公爵家での舞踏会が、私とエドガー様が出会うきっかけとなった場でもあるからだ。
忘れたくても忘れることのできない、あの日のこと……
私たちの出会いは、私が間違えて強い酒を飲んでしまいそうになったところを、エドガー様が助けてくれたことから始まる。
その日の私は、慣れない盛大な舞踏会で緊張していた。出席者たちと挨拶を交わし、その場にふさわしい振る舞いをするだけで精一杯であったことを覚えている。
得意のはずのダンスも次から次へと申し込みが入り、よく顔もわからぬ男性たちと踊り続けたことで、足はもう疲れ切っていたのだ。
ようやく挨拶回りと終わりの見えないダンスから抜け出すことのできた私は、大勢が集まる大広間の中央を抜けて隅の方へと移動する。
――喉が渇いたわね……確かあの辺りで飲み物を配っていたはず。
大広間を見渡せば、トレーの上にグラスをいくつも載せたものを持った男性がいる。
慣れない場であるため、何かをする時は必ず声をかけるようにと父には言われていたのだが……
父は他の貴族たちへの挨拶で忙しいらしく、こちらに戻ってくる気配は全くない。
飲み物のためにわざわざ父をこちらへ呼ぶのも気が引けてしまうし、それくらいなら大丈夫だろう。今思えばそんな安易な考えが、これから始まる全ての悲劇を引き起こすきっかけとなったのかもしれない。
だが当時の私はそんなことなどつゆ知らず……例の男性の元へ向かうと声をかけた。
『一ついただけるかしら』
『はい。どれにいたしましょうか?』
彼はトレーの上がよく見えるようにと、少し屈んでグラスの中身を見せてくれた。
二種類の色の飲み物がそれぞれ注がれており、そのうちの一つはワインであるとすぐにわかる。
私は十八歳を過ぎているため、一応酒を嗜むことは可能だ。
しかし一度実家の侯爵家でワインを試しに一口飲んだところ、すぐに酔いが回って気分が悪くなってしまったのである。
それ以降父から酒の類は飲むなと言われており、そのことは私自身も重々承知していた。
――これがワイン……ということは、もう片方のグラスが果実を絞ったものね。
『ワインではない方をいただきたいわ』
『かしこまりました』
私はトレーの上から、ワインではない方のグラスを取った。
人混みで飲み物をこぼしてしまわないように、再び隅の方へと移動する。
そして壁にもたれかかりながらそのグラスに口をつけようとした、まさにその時であった。
『待って。それは酒だ』
そんな声と共に、突然グイっとグラスを持った方の手首を掴まれる。
あまりに急な出来事で、私には何が起きたのかわからない。
『え……あなたは……?』
ハッとして声の方を見上げると、そこには銀髪に透き通るような碧眼を持った見目麗しい男性が立っていたのだ。
――こんなにも素敵なお方がいるのね……
ぼうっと彼の姿に見惚れているうちに、その男性によってグラスが奪われてしまう。
『これは果実水でも果実の搾り汁でもない。果実の風味で甘くした酒だ』
『え……』
『君は酒が苦手なのでは?』
『な、なぜそれを……』
この男性と顔を合わせるのはこれが初めてだ。
彼はなぜそのようなことを知っているのだろうか?
私の訝しげな視線に、男性は少し困ったような微笑みを浮かべながら話を続ける。
『ずっと君を見ていたから。ワインではない方がいいと言っていただろう?』
『あ……』
『もう片方の酒は甘さがあって飲みやすい分、かなり酔いが回りやすい。君のような年若い令嬢が、あのような強い酒を好むはずがないというのはわかる』
淡々とそんなことを述べる目の前の男性から目が離せない。
『あそこは酒を飲んで羽目を外したい者たちのための場所だ。君のような女性が行くところではない』
『私、知りませんでした……』
思えばこれまでの舞踏会は全て父や母について回っており、そのようなことを知る機会はなかった。両親たちもその件に関して触れることはなく、まったくの無知であったのだ。
『きっとご両親は、年頃の君にはあまり教えたくないと思ったのかもしれないな。飲み物をもらうなら、向こう側に立っている女性から受け取るといい。私が今取ってきてあげよう』
『いえっ……見ず知らずの方にそこまでしていただくのは』
『君は私のことを知らないのか?』
『へ?』
よく意味のわからない返しをされ、気が抜けた声が出てしまう。
『……まあいい。君の名を教えてくれないか』
本来ならば、相手が名乗ったことを確認してから自らの名を明かすように、と父に言われていた。
だが彼は恩人だ。
――どう見ても、悪いお方のようには思えないし……
『フローラ……フローラ・ウィルソンと申します』
気づけば、自らの名を口にしていた。
彼はその名を聞くと、顎に手を当てて少し考えるような仕草を見せる。
『ふむ……ウィルソン侯爵家の令嬢か……』
『あの、あなた様のお名前は?』
『私はエドガーだ。では、飲み物を取ってくるとしよう。いいか? 必ず動かずにそこにいるんだぞ』
彼は家名を名乗らなかった。しかしこの舞踏会に参加しているということと、その煌びやかな身なりや風貌から、どこかの貴族であるということは間違いないだろう。
結局果実水を取ってきてもらい、それを受け取ったところで彼はその場を立ち去っていった。
『またすぐに会えるだろうから、今日のところはこれで』
そんなよくわからない台詞を残して。
これが、私と最愛の夫であるエドガー様の出会いであった。
後日ウィルソン侯爵家に届けられた手紙により、彼がコルドー公爵令息であったのだということを知る。
――ということは、そもそも舞踏会に参加しなければエドガー様と出会うこともないのね?
彼と出会ったきっかけをなくしてしまえば、きっとこれから先私たちの人生が交わることもなくなるはずだ。
私たちは、もう絶対に出会ってはならない。互いに結ばれるべき相手は違ったのだから……
◇ ◇ ◇
「だめだ。あの舞踏会は国の主要な貴族たちが皆招待されているもの。我が家から欠席者を出すなど、言語道断」
「ですがお父様、私一人が欠席したところで誰もお気づきになりませんわ」
「そういう問題ではない。お前は自分がウィルソン侯爵家の一員であるという意識が低いのではないか?」
あれから両親であるウィルソン侯爵夫妻の元に呼ばれた私は、舞踏会を欠席したいと申し出た。
しかしその結果がこれだ。普段は娘に甘い父にしては珍しく、その意志は頑なであった。
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