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十二年の孤独な両片思い――解けない愛の無理関数 全章記録(本編)
第1章:根源公説(ポスチュレート)12 + 2 < 0 は正解(前編)不完全な関係,完璧な裏切り
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第1章:12 + 2 < 0 = 正解(前編)
不完全な関係,完璧な裏切り
早春の冷たい風も、居酒屋に満ちる熱狂を打ち消すことはできない。今日は新入社員の歓迎会だ。
その喧騒の中心で、無自覚に視線を掻き集めているのは係長・星野煌人(きらと)だ。容姿・能力ともに絶倫と謳われる彼の、眩いばかりのルックスは誰もが追う標的。そんな華やかな熱狂から離れたテーブルの端で、石小路真翠(ますい)は、入社一年の新人・橋本小春(こはる)の世話を焼いていた。
真翠は煌人の高校時代の同級生だ。周囲からは「なぜあんなスターのような男が、こんな地味な女と親しいのか」と不思議がられている。真翠には異性の興味を一切惹きつけない、個性の欠落した白紙のように平凡な顔しかないからだ。
宴もたけなわという頃、店内の空気が一変した。
「――お疲れ様。少し遅くなったかな」
現れたのは、このスタートアップを率いる部長・九条遥(はるか)。巨大企業『九条グループ』の跡取りという地位を背負いながら、ただそこに在るだけで言葉を奪うほどの圧倒的な気品と美貌。その完璧な存在感に、男女を問わず全社員が息を呑み、視線を奪われた。
九条はごく自然に煌人の隣へと腰を下ろした。
「……やはり、噂は本当なのかしら?」
九条がこの会社を選んだのは、大学時代の大学の後輩である煌人を追うためだという――。眩い太陽のような煌人と、冷徹な月の如き九条。その完璧な二人の並び立ちは、見る者をただ圧倒した。
その神聖なまでの調和を破るように、不協和音が響く。
「佐藤先輩、小春ちゃんはもう酔っています。無理に飲ませるのはやめてください」
「いいじゃん、めでたい日なんだからさ!」
絡む先輩を横目に、余裕の微笑を浮かべていた煌人が、抗議を続ける真翠の間へしなやかに割り込んだ。
「はいはい、ストップ。真翠、お前は本当に空気が読めないな。佐藤さんだって親睦を深めたいだけだろ?」
「……あなたっ」
反論を封じるように、煌人の掌が真翠の肩を強引に押さえつけた。彼は真翠を自分の方へと乱暴に引き寄せる。
「小春ちゃんはあっちで休ませろ。――お前は、俺の隣だ」
煌人は周囲に聞こえるような冷ややかな声で言い放った。
「お前みたいな不愛想な女はどこへ行っても疎まれる。大人しくここにいろ」
「係長、真翠さんに甘すぎじゃないですか?」
「はあ? これが甘い? じゃあ俺、全員女の子にプロポーズしなきゃいけなくなるな」
「受ける! 絶対受けるから!」
女子社員たちの黄色い悲鳴が上がる。冗談めかして笑う煌人に、会場はドッと沸く。そんな喧騒を余所に、真翠は無表情に手元のレモンサワーを煽った。
こういう扱いには、もう慣れている。喉を刺す炭酸で心を無にして、この場をやり過ごそうとした――が、半分ほど喉に流し込んだ瞬間、真翠の全身は凍り付いた。
賑やかなテーブルの下。煌人の手が、迷いなく真翠のスカートの中へと滑り込んできたのだ。
グラスを傾けたまま、真翠の動きが止まる。
隣の男を激しく睨みつけたが、太腿の内側を執拗に弄るその手の主は、平然と周囲との談笑を続けている。
指先がさらに深く、境界へと踏み込んだその時。煌人はふいにかたわらを振り返ると、苛立ちに震える真翠と視線を合わせ、満足げに口角を上げた。
宴もさらにたけなわとなった頃、煌人が声を張り上げた。
「二次会はサウナだ。九条部長に紹介してもらった、とっておきの場所がある」
会場が沸き立つ中、煌人は挙手していない真翠に視線を投げた。
「あと二人追加だ」
煌人は真翠の手を強引に掴み、無理やり掲げさせた。
「ちょっと、私は行かない!」
抗議する真翠の耳元へ、煌人が顔を寄せる。周囲には聞こえない低い声で、短く囁いた。
「……いいから、小春ちゃんの酔い覚ましに付き合え」
「……っ」
正論を突きつけられ、真翠は言葉を失う。こうして一行は、煌人に引き連れられるように夜の街へと消えていった。
サウナ上がり。真翠が小春と女子高生のように腕を組み、自分を徹底的に避けるように歩く姿を見て、煌人は怒りを通り越した乾いた笑いを噛み殺した。
今すぐその腕を掴み、自分のすぐ隣――助手席へ放り込みたかった。だが、そこには九条が当然のような顔で立っている。
結局、真翠は小春を連れて、逃げるように後部座席の隅へと身を潜めた。
車内にはサウナ帰りの湿った熱気が居座り、胸が焼けるように息苦しい。
ハンドルを握る煌人の指節は白く浮き出し、その苛立ちを無言で物語っていた。バックミラーに映る真翠の顔は、湯気に当てられて桃のように火照っているが、その瞳の奥には怒りで青白い炎が揺れている。 まるで霜に打たれた桃のような、その誘惑的なまでの危うさが、煌人の嗜虐心をこれでもかと煽り立てた。
助手席に座る九条遥が、鈴を転がすような、それでいて猛毒を含んだ甘い声で言った。 「煌人、真翠さんは中央区だったわね? ついでに先に彼女を送り届けてもいいわよ。私は急がないから」
煌人は野良犬のような卑俗な笑みを浮かべた。 「あいつの顔は、それ自体が完璧な『安全』ですよ。女としての艶もなければ、隙もない。真夜中の路上に放り出しておいても、誰もわざわざそんな『石ころ』を拾い上げようとは思いませんから……。九条部長、あんたみたいに『美味しそう』な人を放っておくのは、会社にとって重大な損失ですよ。万一、色ボケした狼にでも出くわしたら、俺には責任が持てない」
遥はどこか浮世離れした、曖昧な微笑を返す。 「星野ったら、何を馬鹿なことを。真翠さんだって、あんなに可愛いのに」
煌人の指が、ハンドルを軋ませるほどに強ばった。 「可愛い? ……ええ、そうですね。可愛さなんて性別も、なんなら『種族』も問いませんからね」
ドォン! 後部座席から鈍い衝撃が走る。真翠が運転席の背もたれを力いっぱい蹴り上げたのだ。車体が揺れるほどの衝撃だった。 「星野、車を止めなさい!……今夜、あんたを地獄に引きずり落とさない限り、私は死んでも死にきれない。さあ、どっちの命が先に尽きるか、今ここで決着をつけましょう!」 「死にたきゃ勝手に行けよ。俺を巻き込むんじゃねえ。……あんたみたいな不細工と地獄まで心中なんて、冗談じゃねえよ」 煌人はハンドルを抑え込み、刺すような冷笑を浴びせる。 「九条部長の身に何かあったら、俺たちの命じゃ贖えないんだよ。……ほら見ろ、小春ちゃんを怖がらせて」
真翠の隣で身を縮めていた小春が、消え入るような声で呟く。 「いえ……星野係長、真翠お姉ちゃんをあまり虐めないでください……」
煌人は低俗な口笛を吹いた。軽挑で耳障りな音だ。 「聞けよ、小春ちゃんのこの可愛い声を。真翠、お前の声はどっちの性別か判別もつかないな。……ああ、そういえば顔を見ても同じか」 「星野煌人! さっきのサウナの蒸気で窒息して死ねばよかったのに!」 「死ね、か。残念だったな。あの蒸気は俺の肌を潤すためのエッセンスに過ぎない。……嫉妬か? 真翠。お前のような不細工には、あの極上のケアは刺激が強すぎたかな」 「この……っ自惚れ屋……!」
九条は口角をわずかに釣り上げると、甘い毒を含んだような声で窘めた。 「星野、そのくらいにしておきなさい。石小路さんも一応は女の子なんだから。……もう少し、優しく扱ってあげたらどう?」 「九条部長、買い被りですよ。石小路真翠という女の遺伝子に、『優しい』なんて言葉は一文字も刻まれていない」 星野は冷淡に鼻で笑うと、わずかな温もりさえも、その鉄壁の拒絶の向こう側へ突き放した。
「……ふん、まるで自分には、そんなものが欠片でもあるみたいな言い方ね」 真翠は、今にも途切れそうな、掠れた声で言い返した。隣では小春が、震える彼女の手を祈るように握りしめ、必死に体温を分け与えようとしていた。
車は小春のマンションに着いた。 「真翠お姉ちゃん、怒らないでください。星野係長は、その……口が悪いだけですから」 小春が不安そうに声をかけると、真翠はそっと彼女の頭を撫でた。バックミラー越しに小春を射抜く煌人の視線を、真翠が真っ向から睨み返した。 「大丈夫、怒ってないわ。……小春ちゃん、マンションに着いたら鍵をかけて。……ちゃんと、LINEして」 「はい。ありがとうございます。真翠お姉ちゃん、九条部長、星野係長……失礼します」
再び走り出した車内で、遥が粘りつくような優しさで囁いた。 「煌人、本当に真翠さんを先に送らなくていいの? 私の家の方が遠いのに」 「いいんですよ、九条部長。真翠は女としての価値が底をついた石ころですから。街灯の下に放り出しておいても、誰もそんな物好きはいませんよ」
九条遥の邸宅に着き、九条が降りる間際、煌人に意味深な視線を投げた。 「煌人。……次は、また二人きりで。真翠さんをちゃんと送ってあげてね。……紳士的に」 「はい、お任せください」
九条の背中が夜の闇に消えた瞬間、煌人の顔から偽りの笑みが剥がれ落ちた。 彼は後部座席のドアを乱暴に開き、薄荷の香りと狂おしい熱気を蒔き散らしながら、真翠の隣に捻じり込んだ。一瞬にして、車内の酸素が彼という存在に奪い去られ、支配される。
「降りろ。……助手席に戻れ」 低く、鼓膜を這うような湿った命令。 「嫌!」 真翠はフードの下で声を殺して拒絶した。 「そうか。……なら、ここでいいんだな?」
煌人は冷たく笑い、その高い体躯で真翠を圧し塞いだ。指先がフードを跳ね除け、熱い吐息が耳を焼く。彼は真翠の耳たぶを執拗に舐め上げ、呪詛のように低く囁いた。 「九条部長に『紳士的に』と言われたが……ここでヤるのも十分『紳士的』だろう? ああ?」 「……っ、やめて!」
真翠は弾かれたように彼を突き飛ばした。煌人はドアまで放り出されたが、気分を害した風でもない。独占欲に燃える暗い火を瞳に宿しながら、彼はドアを開けた。 「いい子だ。……助手席へ行け」
真翠は屈辱に震えながら、再びフードで顔を隠し、助手席へと移動した。 車が走り出すと、煌人はハンドルを握りながら、何食わぬ顔で問うた。 「俺のマンションか、それともホテルか」 「家に帰して」 「今日はダメだ」
拒絶は明白だった。彼は突然、真翠の華奢な手首を掴むと、それを自分の股間へと無理やり引き寄せた。スラックス越しでも、そこが異様なほど硬く脈打っているのが分かる。 「……感じたか? こいつが、お前を放してくれないんだ」 「死ね、変態」 「お前が気持ち良くなれれば、それでいいだろ」
煌人はアクセルを力一杯踏み込んだ。 「……ホテルでいいわよ」 「ははっ、いい返事だ、奥(おく)さん」 「その呼び方、やめてって言ってるでしょ!」 「前はベッドの上で、あんなに嬉しそうに泣いてただろ?」 「黙って、運転して!」
不完全な関係,完璧な裏切り
早春の冷たい風も、居酒屋に満ちる熱狂を打ち消すことはできない。今日は新入社員の歓迎会だ。
その喧騒の中心で、無自覚に視線を掻き集めているのは係長・星野煌人(きらと)だ。容姿・能力ともに絶倫と謳われる彼の、眩いばかりのルックスは誰もが追う標的。そんな華やかな熱狂から離れたテーブルの端で、石小路真翠(ますい)は、入社一年の新人・橋本小春(こはる)の世話を焼いていた。
真翠は煌人の高校時代の同級生だ。周囲からは「なぜあんなスターのような男が、こんな地味な女と親しいのか」と不思議がられている。真翠には異性の興味を一切惹きつけない、個性の欠落した白紙のように平凡な顔しかないからだ。
宴もたけなわという頃、店内の空気が一変した。
「――お疲れ様。少し遅くなったかな」
現れたのは、このスタートアップを率いる部長・九条遥(はるか)。巨大企業『九条グループ』の跡取りという地位を背負いながら、ただそこに在るだけで言葉を奪うほどの圧倒的な気品と美貌。その完璧な存在感に、男女を問わず全社員が息を呑み、視線を奪われた。
九条はごく自然に煌人の隣へと腰を下ろした。
「……やはり、噂は本当なのかしら?」
九条がこの会社を選んだのは、大学時代の大学の後輩である煌人を追うためだという――。眩い太陽のような煌人と、冷徹な月の如き九条。その完璧な二人の並び立ちは、見る者をただ圧倒した。
その神聖なまでの調和を破るように、不協和音が響く。
「佐藤先輩、小春ちゃんはもう酔っています。無理に飲ませるのはやめてください」
「いいじゃん、めでたい日なんだからさ!」
絡む先輩を横目に、余裕の微笑を浮かべていた煌人が、抗議を続ける真翠の間へしなやかに割り込んだ。
「はいはい、ストップ。真翠、お前は本当に空気が読めないな。佐藤さんだって親睦を深めたいだけだろ?」
「……あなたっ」
反論を封じるように、煌人の掌が真翠の肩を強引に押さえつけた。彼は真翠を自分の方へと乱暴に引き寄せる。
「小春ちゃんはあっちで休ませろ。――お前は、俺の隣だ」
煌人は周囲に聞こえるような冷ややかな声で言い放った。
「お前みたいな不愛想な女はどこへ行っても疎まれる。大人しくここにいろ」
「係長、真翠さんに甘すぎじゃないですか?」
「はあ? これが甘い? じゃあ俺、全員女の子にプロポーズしなきゃいけなくなるな」
「受ける! 絶対受けるから!」
女子社員たちの黄色い悲鳴が上がる。冗談めかして笑う煌人に、会場はドッと沸く。そんな喧騒を余所に、真翠は無表情に手元のレモンサワーを煽った。
こういう扱いには、もう慣れている。喉を刺す炭酸で心を無にして、この場をやり過ごそうとした――が、半分ほど喉に流し込んだ瞬間、真翠の全身は凍り付いた。
賑やかなテーブルの下。煌人の手が、迷いなく真翠のスカートの中へと滑り込んできたのだ。
グラスを傾けたまま、真翠の動きが止まる。
隣の男を激しく睨みつけたが、太腿の内側を執拗に弄るその手の主は、平然と周囲との談笑を続けている。
指先がさらに深く、境界へと踏み込んだその時。煌人はふいにかたわらを振り返ると、苛立ちに震える真翠と視線を合わせ、満足げに口角を上げた。
宴もさらにたけなわとなった頃、煌人が声を張り上げた。
「二次会はサウナだ。九条部長に紹介してもらった、とっておきの場所がある」
会場が沸き立つ中、煌人は挙手していない真翠に視線を投げた。
「あと二人追加だ」
煌人は真翠の手を強引に掴み、無理やり掲げさせた。
「ちょっと、私は行かない!」
抗議する真翠の耳元へ、煌人が顔を寄せる。周囲には聞こえない低い声で、短く囁いた。
「……いいから、小春ちゃんの酔い覚ましに付き合え」
「……っ」
正論を突きつけられ、真翠は言葉を失う。こうして一行は、煌人に引き連れられるように夜の街へと消えていった。
サウナ上がり。真翠が小春と女子高生のように腕を組み、自分を徹底的に避けるように歩く姿を見て、煌人は怒りを通り越した乾いた笑いを噛み殺した。
今すぐその腕を掴み、自分のすぐ隣――助手席へ放り込みたかった。だが、そこには九条が当然のような顔で立っている。
結局、真翠は小春を連れて、逃げるように後部座席の隅へと身を潜めた。
車内にはサウナ帰りの湿った熱気が居座り、胸が焼けるように息苦しい。
ハンドルを握る煌人の指節は白く浮き出し、その苛立ちを無言で物語っていた。バックミラーに映る真翠の顔は、湯気に当てられて桃のように火照っているが、その瞳の奥には怒りで青白い炎が揺れている。 まるで霜に打たれた桃のような、その誘惑的なまでの危うさが、煌人の嗜虐心をこれでもかと煽り立てた。
助手席に座る九条遥が、鈴を転がすような、それでいて猛毒を含んだ甘い声で言った。 「煌人、真翠さんは中央区だったわね? ついでに先に彼女を送り届けてもいいわよ。私は急がないから」
煌人は野良犬のような卑俗な笑みを浮かべた。 「あいつの顔は、それ自体が完璧な『安全』ですよ。女としての艶もなければ、隙もない。真夜中の路上に放り出しておいても、誰もわざわざそんな『石ころ』を拾い上げようとは思いませんから……。九条部長、あんたみたいに『美味しそう』な人を放っておくのは、会社にとって重大な損失ですよ。万一、色ボケした狼にでも出くわしたら、俺には責任が持てない」
遥はどこか浮世離れした、曖昧な微笑を返す。 「星野ったら、何を馬鹿なことを。真翠さんだって、あんなに可愛いのに」
煌人の指が、ハンドルを軋ませるほどに強ばった。 「可愛い? ……ええ、そうですね。可愛さなんて性別も、なんなら『種族』も問いませんからね」
ドォン! 後部座席から鈍い衝撃が走る。真翠が運転席の背もたれを力いっぱい蹴り上げたのだ。車体が揺れるほどの衝撃だった。 「星野、車を止めなさい!……今夜、あんたを地獄に引きずり落とさない限り、私は死んでも死にきれない。さあ、どっちの命が先に尽きるか、今ここで決着をつけましょう!」 「死にたきゃ勝手に行けよ。俺を巻き込むんじゃねえ。……あんたみたいな不細工と地獄まで心中なんて、冗談じゃねえよ」 煌人はハンドルを抑え込み、刺すような冷笑を浴びせる。 「九条部長の身に何かあったら、俺たちの命じゃ贖えないんだよ。……ほら見ろ、小春ちゃんを怖がらせて」
真翠の隣で身を縮めていた小春が、消え入るような声で呟く。 「いえ……星野係長、真翠お姉ちゃんをあまり虐めないでください……」
煌人は低俗な口笛を吹いた。軽挑で耳障りな音だ。 「聞けよ、小春ちゃんのこの可愛い声を。真翠、お前の声はどっちの性別か判別もつかないな。……ああ、そういえば顔を見ても同じか」 「星野煌人! さっきのサウナの蒸気で窒息して死ねばよかったのに!」 「死ね、か。残念だったな。あの蒸気は俺の肌を潤すためのエッセンスに過ぎない。……嫉妬か? 真翠。お前のような不細工には、あの極上のケアは刺激が強すぎたかな」 「この……っ自惚れ屋……!」
九条は口角をわずかに釣り上げると、甘い毒を含んだような声で窘めた。 「星野、そのくらいにしておきなさい。石小路さんも一応は女の子なんだから。……もう少し、優しく扱ってあげたらどう?」 「九条部長、買い被りですよ。石小路真翠という女の遺伝子に、『優しい』なんて言葉は一文字も刻まれていない」 星野は冷淡に鼻で笑うと、わずかな温もりさえも、その鉄壁の拒絶の向こう側へ突き放した。
「……ふん、まるで自分には、そんなものが欠片でもあるみたいな言い方ね」 真翠は、今にも途切れそうな、掠れた声で言い返した。隣では小春が、震える彼女の手を祈るように握りしめ、必死に体温を分け与えようとしていた。
車は小春のマンションに着いた。 「真翠お姉ちゃん、怒らないでください。星野係長は、その……口が悪いだけですから」 小春が不安そうに声をかけると、真翠はそっと彼女の頭を撫でた。バックミラー越しに小春を射抜く煌人の視線を、真翠が真っ向から睨み返した。 「大丈夫、怒ってないわ。……小春ちゃん、マンションに着いたら鍵をかけて。……ちゃんと、LINEして」 「はい。ありがとうございます。真翠お姉ちゃん、九条部長、星野係長……失礼します」
再び走り出した車内で、遥が粘りつくような優しさで囁いた。 「煌人、本当に真翠さんを先に送らなくていいの? 私の家の方が遠いのに」 「いいんですよ、九条部長。真翠は女としての価値が底をついた石ころですから。街灯の下に放り出しておいても、誰もそんな物好きはいませんよ」
九条遥の邸宅に着き、九条が降りる間際、煌人に意味深な視線を投げた。 「煌人。……次は、また二人きりで。真翠さんをちゃんと送ってあげてね。……紳士的に」 「はい、お任せください」
九条の背中が夜の闇に消えた瞬間、煌人の顔から偽りの笑みが剥がれ落ちた。 彼は後部座席のドアを乱暴に開き、薄荷の香りと狂おしい熱気を蒔き散らしながら、真翠の隣に捻じり込んだ。一瞬にして、車内の酸素が彼という存在に奪い去られ、支配される。
「降りろ。……助手席に戻れ」 低く、鼓膜を這うような湿った命令。 「嫌!」 真翠はフードの下で声を殺して拒絶した。 「そうか。……なら、ここでいいんだな?」
煌人は冷たく笑い、その高い体躯で真翠を圧し塞いだ。指先がフードを跳ね除け、熱い吐息が耳を焼く。彼は真翠の耳たぶを執拗に舐め上げ、呪詛のように低く囁いた。 「九条部長に『紳士的に』と言われたが……ここでヤるのも十分『紳士的』だろう? ああ?」 「……っ、やめて!」
真翠は弾かれたように彼を突き飛ばした。煌人はドアまで放り出されたが、気分を害した風でもない。独占欲に燃える暗い火を瞳に宿しながら、彼はドアを開けた。 「いい子だ。……助手席へ行け」
真翠は屈辱に震えながら、再びフードで顔を隠し、助手席へと移動した。 車が走り出すと、煌人はハンドルを握りながら、何食わぬ顔で問うた。 「俺のマンションか、それともホテルか」 「家に帰して」 「今日はダメだ」
拒絶は明白だった。彼は突然、真翠の華奢な手首を掴むと、それを自分の股間へと無理やり引き寄せた。スラックス越しでも、そこが異様なほど硬く脈打っているのが分かる。 「……感じたか? こいつが、お前を放してくれないんだ」 「死ね、変態」 「お前が気持ち良くなれれば、それでいいだろ」
煌人はアクセルを力一杯踏み込んだ。 「……ホテルでいいわよ」 「ははっ、いい返事だ、奥(おく)さん」 「その呼び方、やめてって言ってるでしょ!」 「前はベッドの上で、あんなに嬉しそうに泣いてただろ?」 「黙って、運転して!」
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