バッカスの馬鹿

飴ちゃん君。

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7話 視線ひとつは、距離さえ越えていく

「だってミアチェスカ、絶対バッカスのこと狙ってる!」

抑えていた感情が滲む言葉に、ティリウスは小さく息をついたが何も言わなかった。
その間に、クリストフェルの中では、別の気持ちも膨らんでしまう。

——僕は、ちゃんと我慢してるのに。

式典ではやってしまったけれど、今度は勝手に行かないようにしている。
約束も、立場も、全部守ってる。
会いたくても、触れたくても、近づかないでいるのに。
なのに彼女は、どうしてあんなふうに、当たり前みたいに隣に立つの。
どうしてあんなふうに、笑いかけられるの。
胸の奥がじくじくと熱を持つ。
悔しいのか腹が立つのか、それとも、ただ羨ましいのか。
燃えているのに凍えるような、自分でも明確に名付けられない感情が、ゆっくりと広がっていく。
気づけば握りしめた手に、さらに力がこもっていた。
どうしようもない距離が、今夜はひどくもどかしかった。
クリストフェルの想いはいつしか、あふれて言葉になっていた。
抑えた小声で早口にまくしたてる弟を見て、ティリウスは苦笑したが、否定はしない。
実際その通りだからだ。
バッカスほどの男を王女が婿候補として見ないはずがない。
特にミアチェスカのように、自分の価値を、誰を手に入れられるかで測る少女ならば、なおさらだ。
クリストフェルは今にも席を立ちそうな顔でじっと二人を見つめる。
ミアチェスカが何か話しかけ、バッカスが短く返すとミアチェスカが笑った。
反射的に立ち上がりかけたクリストフェルの手首を、ティリウスが掴んで止めた。
バッカスは笑ってはいないけれど、会話の拒絶もしない。
それが余計にクリストフェルの胸をざわつかせた。

——なんで! あんなふうに自分を見ていたくせにっ、あんなふうに笑ったくせにっ。
 
今は遠い王子席と騎士席、王族と臣下。
礼儀礼節をきちんと守れば、彼と自分の間には、簡単には触れられない距離があく。
その現実が今夜はやけに寂しくて、クリストフェルはとうとう俯いてしまった。

「クリス」

不意に、ティリウスが低く囁いた。

「見てごらん」
「……?」

どうしてか、笑いを堪えるような声音の兄に促されるまま、クリストフェルは再び騎士席へ目をやった。
改めて意識して二人を見た瞬間、ミアチェスカの言葉を受けているはずの金の瞳が、クリストフェルへと向けられた。
数ある人影の中から、迷いなくまっすぐに。
たった一人を選び取るみたいに。

「……っ」

クリストフェルの心臓が、どくん、と跳ねた。
距離は変わらない、席も立場も、隔てるものは何もかもそのままなのに。
視線が合った、それだけで、距離がなくなる。
眼差し以外、バッカスは何も変えていなかった。表情も姿勢も、王女への応対も。
完璧に礼を守ったまま、意識だけが、クリストフェルへと留まっている。

——そんな顔で、何を睨んでいるんです?

そう問いかけてくるような、静かな圧。
クリストフェルは思わず拗ねたように唇を尖らせた。
けれど目は逸らせない。
すると、バッカスの瞳が細められた。
それは笑みではないけれど、確かに柔らかな情を帯びて。

——早くお側に行きたい。

言葉にはならないけれど、そう伝わってしまうほどに真っ直ぐな視線。
クリストフェルの頬がじわりと熱を帯び、周囲のざわめきが遠のいていく。
楽師の音楽も、貴族たちの声も、王女の存在すらも。
この一瞬、他のすべてが意識の外へ押しやられ、視線の熱だけが残る。
触れられない距離のまま、近づくこともできないまま。
それでも確かに、繋がっている感覚があった。

「なんかずるい、やきもきしてるの、僕だけみたいじゃないかっ」

ようやく零れた声は小さくて、甘えるような響きだった。
ティリウスはその横で、くすりと笑う。

「そうでも無いと思うけど?」

言葉は軽いが視線の意味は理解している。あれは決して一方通行ではない。

「早く終わってほしい……」

ぽつりと落ちた願いは、子どものように素直だった。

「それは同意する」

短く返しながら、ティリウスはもう一度、遠くの騎士席へ目を向ける。
王女の隣に立ち、微動だにせず礼を尽くす騎士。
そのくせ少しもクリストフェルから視線を外さない男。

——ああ、なるほど。

ティリウスは思わず内心で苦笑する。
距離など有って無いようなものだな、この二人にとっては。
その時、玉座の方からグラスを打つ音が響いた。
国王が立ち上がり、晩餐会の開宴を宣言する。
ミアチェスカも王族席に戻っていった。
楽師の奏でる音が再び高まり、給仕たちが次々と料理を運び始める。
そうして祝宴が本格的に始まったが、クリストフェルの心は豪華な料理にも、貴族たちの賛辞にも、女性たちの笑い声にも向かなかった。

ひとつ遠くの席にいるバッカスのことばかりを考えていた。
今夜、ちゃんと来るだろうか。
来たら何を話そう、何から聞こう。
怪我のこと? 古竜のこと? 寂しかったこと? 会いたかったこと? 
それとも抱きついてしまおうか。
渡したいものもあるんだ。
とめどなく考えていると、自然と胸が熱くなる。
それと同時に不安もあった。
今夜のバッカスは、ひどく遠く見えたからだ。
昔みたいに、守ると約束してくれた騎士のままでいてくれるのか、それとも今のバッカスは、自分の知らない場所まで行ってしまったのか。
そんな胸のざわつきを誤魔化すように、クリストフェルはそっとグラスを手に取った。
そのとき、向こうのバッカスが、またクリストフェルを見たのに気づく。
今度はほんの一瞬だけ、互いの視線が交わった。
クリストフェルは見惚れて息を止めたけれど。
遠いのだ、触れられないほど遠いのだ。
誰より近くにいてほしい人なのに。
交わす眼差しは甘いけれど。
そのことがたまらなく苦しくて、苦しくて、どうしようもないのだ。




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