バッカスの馬鹿

飴ちゃん君。

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10話 その赤は、まだ恋だと知らない

ぽつりと零れた声は、ひどく頼りなかった。
視線は石の上に落ちたまま、周囲の誰にも向けられない。
さらに深い思考へと迷い込みそうだったクリストフェルのすぐ隣から、ユリセラの穏やかな否定が返った。

「変ではございませんよ」

やわらかな、けれど間を置かない明確な断言。
それでも、胸の奥に宿った違和感は消えない。
クリストフェルは眉を寄せ、指先で箱の縁をなぞった。

「でも、こういうのって……」

こぼれかけた声がそこで途切れる。
うまく言葉にできないまま、思考が先に揺れていく。

「こういうの、とは?」

促されて、クリストフェルは俯いた。
箱の中の赤い光が、やけに強く目に映る。
この色を選んだ理由も、ずっと持っていてほしいと思った気持ちも、誰よりも似合うと信じていることも。
どれも、言葉にするのは簡単だったのに、こうして形になった途端、思いのほか強い輪郭を持ってしまった。
その輪郭が、相手の負担になるのではと、遅れて気づいてしまったのだ。
クリストフェルは息を詰める。

「重かったりしない? ぼくの、……王族からの贈り物って……」

かすれるような声だった。
問いかけたはずなのに、その響きは確かめることを恐れているようでもあった。
箱を持つ手が、気づかないほど小さく震える。
答えを待つしかできない自分に、ようやく気づいたように。
ユリセラは沈黙した。
視界の端で、控えている侍女たちも視線を交わし合っている。

——重いですね。
——ええ、かなり。
——相手によっては致命傷です。でも、それが良いんです!

声に出せるはずもない無言のやりとりには、微かな熱が灯っていた。
からかいではない、呆れでもない、ただただ、微笑ましいものを見守るような。
形になりきっていない感情が、こうして少しずつ明確に育っていく過程を、知っている者たちの静かな共感。
ユリセラはそんな空気を一息で整えるように、穏やかに微笑んだ。

「殿下のお気持ちを嬉しく思わない御方ではないでしょう」
「……そうかな」
「はい」

再びの、やわらかな断言だった。
ユリセラの肯定に、クリストフェルの表情がようやくゆるむ。

——きっと、大丈夫です。

主人の変化を見て、側に控えていた侍女の一人は、誰にともなく心の中で呟いた。
あの騎士が、この方の想いを受け取らないはずがないと、ここにいる誰もが知っていた。
当の本人だけが知らないまま、それでいいのだと誰もが思っている。
気づくのはきっと、これからだから。
クリストフェルは小さく頷いて、箱を胸元に抱えた。

その日の夕刻、たまたま王子宮へ顔を出したティリウスは、弟がやけにそわそわと落ち着かない様子でいることに気がついた。

「どうしたの、クリス?」

長窓から赤みを帯びた斜陽が差し込み、磨き上げられた床に反射して、ゆるやかに室内を満たしている。
光の中心で、クリストフェルは小さな箱を両手で包むように持っていた。
その指先は、小箱の縁を何度も何度も、確かめるようになぞっている。
ティリウスは、わざと何気ない顔を装って尋ねた。
何気なく、だが目の前の弟の一挙一動を見逃さぬよう、密かに観察しながら、である。
箱をこちらへ差し出してみせるときの躊躇い。
指先に乗った力の入り方。
そして兄へと渡してしまったあとの、落ち着きのなさ。
どれもこれも、今までのクリストフェルとは、何かが明らかに違って見えた。

——これは…、無自覚か? それとも…。

ティリウスは箱の蓋に指をかけながら、少し間を置いた。
あえて間を取ることで、相手の反応を引き出す癖のようなものだ。
開いた中の石を見つめながらも、意識の大半は弟へと向けられている。

「……クリス」

呼びかける声はいつも通り穏やかだけれど、その奥には試すような響きが潜んでいた。

「これを選んだ意味、どこまでわかってる?」

しかしクリストフェルは、きょとんと目を瞬かせ、少しも迷わずに答えた。

「え? 意味は、お帰りとお疲れさまだよ?」

——やはり。

聞いた意味すら分かっていないクリストフェルの表情に、内心溜息を吐く。
弟の顔にも声にも含みはない。
頬の赤みもただの照れだ。
少なくとも意図して贈る意味にはまだ辿り着いていない、が。

——問題は、そこではない。

ティリウスは一度静かに目を閉じた。
無意識のまま、ここまで選び抜いてしまったこと。
そして、それを当然のようにバッカスへ渡そうとしていること。
それはつまり、自覚よりも先に心が動いている証拠だった。
目を開けると、クリストフェルは不安げにこちらを覗き込んでいた。

「兄上?」

ティリウスは考える。
ここで教えるべきか、それともまだ知らないままでいさせるか。
そして、選んだ。

「……いや、何でもないよ」

あえて何も告げず、代わりに閉じた箱を必要以上に丁寧な手つきで返してやった。
それはまるで、他人が触れてはいけないものを扱うときのようだった。
クリストフェルは首を傾げ、理解できていないながらも、どこか引っかかるような顔をしている。
無垢なままだが確実に変わり始めている、その境界に立っている顔だった。

「渡すのかい」
「うん」

迷いのない返事だけれど、箱を受け取る仕草は先ほどよりもずっと慎重で、胸元に引き寄せる腕は、まるでそれを守るように強い。

——大事なものだと、もう分かっている。ああ、本当に厄介だな……どちらにとっても。

「……せいぜい頑張れ」

それは突き放したようでいて、柔らかい声音だった。
クリストフェルがすぐに不満そうな顔をする。

「なにそれ」
「応援だ」

軽く返しながらも、ティリウスの瞳が優しくなる。

——気づくのは時間の問題だな。

その時泣くのか戸惑うのか、それとも笑って手を伸ばすのか。
そこまで来たらもう誰も止められない。

「雑っ!」

頬を膨らませる弟を見て、ティリウスはくすりと笑った。
今はまだ、この距離でいい。けれど次の一歩は確実に、もう踏み出されているのだから。
口ぶりは軽いまま、しかし背後に転がっている意味は決して軽くはないことを、ティリウスは知っていた。

——そして、騎士団は凱旋した。





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