翡翠の姫

明智 颯茄

文字の大きさ
2 / 28

月の魔法/2

しおりを挟む
 構内の自由な出入りを金で買いつけた男は、親指だけをポケットにつっかけて、長い足で廊下を足早に歩いてゆく。

「またどっか行っちまうかもしんねえだろ。もたもたしてっとよ」

 大学の建物内に入り込んでいる、背の高い男。女子大生たちが群れをなして追いかけてくるが始まった。だが、それはいつものことだ。何度ここへきても、何年経っても変わらない。

 囲まれて動けなくなる前に、目的地にたどり着かなくてはいけない。足の長さを駆使して、女子大生たちを引き離し、廊下の角からひとつ目のドアへ近づいてゆく。

「~~♪ ~~♪」

 そして、とうとうやってきた。歩みを止めると同時に、立派なドアをドンドンと強めにノックした。しかし、返事はなし。 

「いんのに出やがらねえで」

 相手の断りなしで、ドアノブを回して何度も引こうとするが、ガタガタ音がするだけで、動く気配がない。

「開いてもいねえ」

 どうしても会いたいのだ、この部屋の主に。今日を逃したら、またいつになるのかわからない。無駄だと知っていても、携帯電話をポケットから取り出した。 

「かけてみっか?」

 この番号にかけると必ず聞こえてくる、女の電子音声が流れてきた。切るのボタンを強めにタップする。

「充電切れてんだろ」

 もう一度かけてみようとしたが、問題はそこではないことに気づいて、あきらめたため息をついた。

「っつうか、電話は外国に置いてけぼりってか?」

 電源が入っていないのではなく、存在そのものがその人の脳から抹消されている携帯電話。人生の基本的なところがめちゃくちゃな、中にいるであろう人に、しゃがれた声でぼやいた。

「携帯電話っつうのは携帯してっから、そう言うんだろ」

 右手で山なりにポイっと携帯電話を投げて、左手でナイスキャッチすると、慣れた感じでポケットにしまった。

「しょうがねえな」

 口の端でニヤリと笑うと、男はドアから二、三歩後ろへ下がり、右足を自分の胸へ引き上げ、

「ふっ!」

 ドアへ向かってまっすぐ勢いよく押し出した――――


 ――――少し時間は戻る。
 
 小さな砂埃を細心の注意を配り、ハケで丁寧に払う。優しさでいつも満ちあふれている茶色の瞳は、今や真剣そのものだった。粒子のひとつさえも見逃さないというように凝視していた。

「…………」

 そしてまた、砂埃を慎重に払う、白い手袋をした手に持ったハケで。今度はループに持ち替え、対象物を拡大して、目を皿のようにする。

「…………」

 布を敷いたテーブルの上から、小さなカケラを拾い上げた。細い線が作り出す模様と模様がピッタリ合うかを見極める。ひとつ目は違う。

「…………」

 チャイムの音が不意に響いても、その人の耳にはまったく入ってこなかった。聞こえないのではなく、意識が向かないと言った方が正しい。

「…………」

 別のカケラを拾い上げて、また近づける。ふたつ目も違う。背を向けているレースのカーテンの向こうで、ガラス窓が強めにノックされたが、それもこの男には聞こえなかった。

「…………」

 背が高くガタイのいい人影はあきらめて、窓から去っていった。

 少し離れた場所にある書斎机の椅子。その背もたれには、茶色のスーツの上着と緑のネクタイがよれた姿でかけてあった。

「…………」

 部屋の外の廊下がどよめいてきたが、ルーペをのぞいている男には蚊帳の外だった。しかし、次の瞬間、

 ドガーン!

 と、爆音が響き渡り、持っていたカケラが手からつるっと落ちて、テーブルの上にコトンという鈍い音を作り出した。

「っ……」

 細かい作業中に起きた事故。この静かな大学校内で、こんなことをする人間は一人しかいない。

「おう!」

 がさつな男の大声がとどろいた。予測した通りの人物で、カーキ色のくせ毛はかがんでいたのをやめて、ルーペを脇へと置く。

「…………」

 静かに待っていると、床を歩く靴の音がカツカツと響いてきて、

「ったく、返事もしやがらねえで」

 そして、いつも通りの歩数で止まり、

「っ!」

 勢いをつけるような息が聞こえると、ドサっと何か大きなものが落ちたような音がした。

 もう一人増えた部屋。相手がどんな姿勢でいるのか容易に想像できて、優しさの満ちあふれた茶色の瞳は軽く閉じられて、表情を少しだけ怒りで歪めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

処理中です...