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お前の女に会わせて
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神がふたり、地上を歩いていた。初夏のさわやかな風が吹く、首都郊外の街を。山吹色のボブ髪をかき上げると、黄緑色の瞳が現れ、マダラ模様の声が聞いた。
「そう、地球ってこんなとこなのね」
「そうだ」
答えるのは、銀の長い前髪に、鋭利なスミレ色の瞳を片方だけ隠した蓮だった。彼の隣をさっきから歩いているのは焉貴で、初めて行ったフルーツパーラーでした約束のために、地球にわざわざ降臨してきた。
「どれがお前の女?」
「あそこだ」
ふたりの目線の先には、ブラウンの長い髪をひとつにまとめ、ひとり気ままに歩いている、おまけの倫礼の姿があった。
「どこ行くの?」
「近くの公園に散歩だ」
「そう」
自分たちに近づいてきては、素通りすぎてゆく人間たち。気づくものは誰もおらず、ぶつかることもせず。しかしそれ以上に、休日の天気のいい日なのに、寝静まった夜――世界に誰もいないみたいに静かだった。
焉貴の宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳は、無機質にあたりを見渡す。
「それにしても、まわり誰もいないね」
「当たり前だ。魂の入っているやつはこの辺には誰もいない」
不思議な光景だった。動いているのは肉の塊ばかりで、自分たちと同じ心を持っている者がいない。
「守護神もいないじゃん?」
「コンピュータ制御だ。よほどのことがない限りここへ来ない」
「そう」
地球の存在さえ知らない人は大勢いるのだ。魂が入る必要がないと判断された肉体に、神様たちの生活を割いてまで、見ている必要はなかった。そうして開発されたのが、コンピュータ制御という自動操縦だ。
またひとり焉貴の体を、空っぽの肉体が通り過ぎてゆく。
「で、お前の女は俺たちが見える霊感を持ってるから、お前はここにいるってことね?」
「そうだ」
「話相手ってわけね」
公園の入り口から木々が生い茂った道へと入ってゆく、倫礼の後ろ姿を眺めた。守護神が情けや同情で動くことはない。それはわかり切っていることで、蓮がそばにいて、あの人間の女に話しかけていることは、別の意味を持っているのだろう。
焉貴は当初の目的を口にした。
「俺が話しても聞こえんの?」
「知らない」
「そう、じゃあ、話しかけちゃう!」
聞こえれば聞こえた。聞こえなければ、それまでで、孔明という男を理解するための情報は、こうやってまわりに広がっている景色から拾い上げればいいのだ。
地面を懸命に歩いている、おまけの倫礼に、焉貴は浮遊で近づいた。左斜め後ろに立って、声をかけようとする。
その姿を見て、蓮は表情を歪めて、わかっていないと言うように首を横にふった。
(おまけの霊感は右側が発達しているから、反対側では聞こえな――)
さっきまで蓮と話していたような、ケーキのはちみつをかけた甘さダラダラの砕けた口調ではなく、好青年の冷静さを持っている雰囲気で、焉貴は声をかけた。
「初めまして」
聞こえないはずだったが、倫礼は驚いた顔をした。
「え……?」
しかし、まわりを歩いている人には、話しかけてきた神の姿は見えないし、声も聞こえない。
ジョギングなどをしている人がいる公園の道で、急停止するのは危険だ。おまけの倫礼は歩く速度を変えずに、聞き覚えのない声と雰囲気で話しかけてきた男性神に、心の中で頭を丁寧に下げた。
「あ、あぁ、初めまして。だ――!」
そこまで言って、ピンときてしまった。口数が少ないからあまり話さないが、あの銀髪でスミレ色の瞳を持つ夫がすぐさま浮かんだ。
「わかった! 蓮の友達ですよね?」
「えぇ」
焉貴が短くうなずき返すと、倫礼はコウに昔言われたことを思い出した。神様は心を大切にするから、言葉遣いだけ整えても無駄なのだと。反対を言えば、砕けた口調のほうが距離感を縮められるのだと。
「ですよね~?」
家族以外の神様になど会ったこともなかったし、相手が丁寧に話しているから、倫礼はかろうじて丁寧語を使っていただけだった。
コンピュータ制御が主流の神界で、サブの世界である地球に、用のある神様などそうそういない。そうなると、今もそばにいるであろう、蓮の友達ということになる。が、彼女の理論だった。
人間としてではなく、大人として、一応妻として、男性神に改めて頭を下げた。
「いつも蓮がお世話になってます」
「いいえ、こちらこそお世話になっています」
次々に、倫礼に直感が降りてきて、言ってもいないことを当て始めた。
「もしかして、名前は焉貴さんですか?」
「えぇ。なぜわかるのですか?」
「前にこんなことがあったんです」
「えぇ」
霊感とはこういうこともあるのだと、倫礼は常日頃思っていた。
「自分が書いてる小説の登場人物の名前を思いつくと、それが……」
しかし、感覚というものは、他の存在に伝えるのは少々難しく、彼女は口ごもってしまった。
「どうかしたのですか?」
「え~っと、前は違う人がこの肉体には入ってたんです」
「えぇ」
江が入っていた時の話をしようとしたが、焉貴から別の質問がきた。
「その方とはどのような関係だったのですか?」
「え……?」
倫礼ははっきりと見ることのできない焉貴の前で、言ってもいいものなのかどうか判断しかねた。
人間の女が聞こえていない会話が、焉貴と蓮の間で交わされる。
「俺たちにも有名な人ってこと? 人間が神様に隠し事するって、そういうことになるよね?」
無意識の直感は冷静な頭脳で、簡単に答えを導き出してしまった。蓮が超不機嫌顔のまま短くうなずく。
「そうだ」
「そいつ、俺も知ってる?」
「知っているはずだ」
強い霊感を持つ、この人間の女の身に何が起きたのか、焉貴はもう気づいた。それでも憶測だ、守護神から過去の記憶を聞きたがった。
「そう、あとで教えて」
「いい」
焉貴はまた人間の女に聞こえるようにして、丁寧な物腰で話しかけた。
「伏せたままでよいので、私の名前がなぜわかったのか教えてください」
倫礼は緊張感から解放され、「はい」と素直にうなずくと、自作の小説に登場させた人物名の話へ戻した。
「その人の姉妹が別の宇宙であとから見つかって、その名前だったんです」
説明をしたが、心の世界照準で話してしまい、意味がよくわからない内容になっていた。
しかし、今日会ったばかりの焉貴でも、彼女の本当に伝えたい意味はすぐに変換できた。
(言葉だけだと不十分だけど、別の次元の宇宙から降りてきたってことね。そう感じるから、その意味)
陛下が上へ上へと開拓している途中で、一番下の世界へ降りて、心をさらに磨こうとする神々はたくさんいて、その中のひとりだったということだ。
おまけの倫礼の霊感の話はそこだけにとどまらず、
「それだけではなくて、その彼氏の苗字とその姉妹の名前になってたんです」
彼女は知らなかったのだ。もしかしてと思い、コウに聞くと、その姉妹は降りた次元で男と運命の出会いをして、女子高校生として神世で暮らしていたのだ。
焉貴は話を要約した。
「結婚後の名前を、会う前に予測していた、ということですか?」
「はい」
蓮で例えれば、最初に会う前に、明智 蓮という名前を、小説の登場人物にしていたという話だ。
おまけの倫礼はよくわかっていた。人間だけで生み出せるものなど何もないのだと。神が手を加えているのだ。だからこそ、日々の感謝は必要なのだと。
それが一回きりなら偶然と過ごすこともできたのだろうが、彼女のまわりでは多発していた。
「こんなことがよくあって、焉貴さんの名前も、以前書いた小説に出てくる人物だったんです」
「えぇ」
「その時、何かを感じたんですけど、結局該当する人は誰も浮かばなかったんです。しかも、ずっとそんなことは忘れてました。今思い出したので、もしかしたらそうなのではと思ったんです」
心の世界とはいつでも必然だった。思い浮かべた人の話が、グッドタイミングでもたらされる。
話したいと相手が願えば、気になるようにできている。それが心でつながっているということなのだろう。肉体が間に入ると、途端に難しくなるようだったが。
木々の木漏れ日が、焉貴の黄緑色をした瞳に差し込み、変幻自在な乱反射を生み出す。
「そうですか。モデルの方はいたのですか?」
ふたりの脇を、犬を連れて散歩してゆく人がすれ違ってゆく。
「はい、いました。焉貴さんが知ってるかはわからないんですけど、月主命さんっていう人です」
「そうですか」
決めつけるのはよくないが、焉貴の脳裏にカエルを被って、ニコニコと微笑みながら生徒に大人気の教師が浮かんだ。
「その方はどのようなご職業をされていらっしゃいますか?」
「小学校の歴史の先生です」
「そうですか」
焉貴はナルシスト的な笑みでうなずくと、一旦後ろを歩いていた蓮のそばへ寄った。
「勘いいね。俺もすごいけどさ。お前の女もすごいね」
「俺に会う前から、あぁだった」
「そう」
盛り上がっているように見えたが、焉貴と蓮のやりとりはとても冷めたものだった。
林が途切れ、初夏の日差しが倫礼の髪を明るく照らし出して、彼女は目を細め、サングラスをかけた。
焉貴はそれを眺めながら、小さくつぶやく。
「月主命ってあいつじゃないの?」
同姓同名はいる。しかし、月の主などという名前を使っている人間はそうそういない。
池に立ち寄って、鴨が水面を泳ぐ姿を倫礼は眺めながら、綺麗に整備された石畳の上を歩き出した。
「月主命さんはどのような方ですか?」
会ったこともなかったが、コウが力説していたのを思い出した。三代理論派の神として挙げていた話だ。メンバーは光命、江の旦那――緑、そうして、今話している月主命のことだった。
同じ思考回路だが、重きを置いている箇所が違うのだと、コウはふんぞり返りながら説明していた。倫礼はそれを懸命に思い出す。
「え~っと、理論で考える人で、負ける可能性の高いものを選びます」
「あとはありますか?」
おまけの倫礼は、月主命のある話がギャグに思えて、忘れたくても忘れられないほど強烈な印象を残していた。
「あぁ、聞いただけなのでわからないんですけど、陛下の元へ来る女性がみんな月主命さんと結婚したいって言ってたって聞きましたよ」
「そうですか」
うなずいた焉貴は思う。その話は今では伝説となっていて、月主命といえば、女を誰一人もれることなくプロポーズさせる、レディーキラーだと。
どんな魔法を使っているのかという笑い話まであるくらいだった。本人は超現実主義者で魔法使いではないのに。
再び、人間世界には聞こえないように、シャットアウトした。
「やっぱりあいつ、同僚なんだけど……」
焉貴は考える。男を愛する気持ちはよくわかる。孔明に対してそうなのだから。そうして、今隣で不機嫌に歩いている銀髪の男にだって同じだ。
「しかも、さっきの話と足したらさ、俺と月主が結婚するみたいじゃん?」
モデルと名前が一緒になって、ひとつに結ばれる――そんな予測が生まれてもおかしくはなかった。
しかし、どうやってもあのマゼンダ色の長い髪を持ち、邪悪なヴァイオレットの瞳を隠している男は違う。多少話は合いやすいが、性的にどうとかという相手ではない。
女がさっきから使っている勘には決定的な弱点がある。それははずれることがあるということだ。焉貴の名前は当てたが、月主命のことははずしたのか。
銀の長い前髪を不機嫌に揺らしていた蓮は、ふと立ち止まった。
「焉貴と月主……?」
小学校で出会った先生だが、今では呼び捨ての仲となったふたり。
丁寧な物腰が似ていると言えば似ている。しかし、親しくなってみると、ふたりとも言葉遣いが違う。理論的で感情を持っていない。
だが、なぜか吹き出して笑ってしまうほど、おかしなことを言ってきたりしてきたりするのだ。蓮にとってはお気に入りの時間を過ごせるふたり。それが何からくるのものなのかわからないが――
「何お前、考えてんの?」
焉貴の黄緑色の瞳にのぞき込まれていることに気づき、蓮は気まずそうに咳払いをした。
「んんっ! 何でもない。おまけの話はまだだ」
守護神が言った通り、人間の女からは続きが聞こえてきた。
「焉貴さんって、冷静な人で、揺るぎない信念を持っていて、悪に対して非常に厳しい人。感情に左右されないというか、それを持っていない。違いますか?」
焉貴は思わず、神の力を使ってしまった――。不自然に人々は動きを止め、無風無音となった地上。
「何これ、どうなってんの?」
さっき会ったばかりで、視線も合わせてこない人間が神の性格を当てる。ミラクル風雲児もさすがに、待ったをかけた。
「お前、勝手に時間を止めるな」
守護神の仕事とは、同僚との折り合いがとても大切なものだ。地球は人ひとりのために回っていないのだから。守護神でもない男が勝手に止めていいものではない。
それでも、焉貴は動じることなく、倫礼の言っていた通りに人の意見に左右されず、時と止めたまま話を続けた。
「お前話したの? 俺のこと」
「話していない」
蓮は首を横に振った。連れてくる約束だって、忘れかけてたのを催促されて今ここにいるのだ。
それに、おまけの倫礼は自分の生活で手一杯だ。話をする必要もないと思っていて、遠くから眺めるのかと思っていたのに、焉貴が話しかけたのだ。
おまけの倫礼が他人の性格を当てることなど、蓮にとっては大して驚くことでもない。小説のモデルに神を使うということは、その神をプロファイリングできる手段を持っているということなのだ。
それはおまけの過去の記憶にはっきりと残っていた。
「気の流れを読んだんだ」
「武術とかで使うやつね?」
「そうだ」
アーティストである蓮にも要求される話だ。どんなものでも気の流れという見えないエネルギーがあるのだそうだ。それはそのものの性質などを形作ると言う。
肉体では脳の視覚を司る部分を使って、見えないものも見るらしく、霊も神様も気の流れも周波数が違う。それがこの理論だ。
おまけはそれをわけて使っている時もあるが、ほとんどは無意識のうちに切り替えているようだった。
すうっと風の揺れと靴音が戻ってきた。時を止めていた焉貴は力を無効化した。
「えぇ、そうです」
焉貴が自身の性格について返事を返すと、倫礼は何も気づかず、さっきと時間がつながっているものと信じて疑わず、笑顔で微笑んだ。
「そうですか。蓮のことよろしくお願いします」
「こちらこそ」
焉貴が言うと、守護神でない神は人間の女から完全に離れた。蓮は呑気に散歩している倫礼の背中を刺殺しそうなほどにらんだ。
「お前が偉そうに頼むことじゃない」
こんな蓮の態度は初めて見るものだった。焉貴は生徒を指導するように、言葉を重ねる。
「それはいいから、大人になって。神様になっちゃって。魂がないにしては上出来じゃん?」
「…………」
銀の長い前髪も鋭利なスミレ色の瞳も、すらっとした体躯もみじろぎひとつもしなかった。これはよく見る態度で、焉貴はささっと翻訳する。
「リアクションなし。それって、お前も認めてることね」
返事を返してこないのが、肯定している証拠だった。焉貴は思う。今はここにいないもう一人の蓮の妻を。さっき家に来た時に話をした。
「でもさ、本体と違うね、性格がさ」
「置かれている環境が違うから、違いが出るんだ」
「そう?」
全てを記憶していて、無意識の策略までしてくる男に聞き返されて、蓮はおまけの倫礼から視線を外した。
「他にどんな理由がある?」
本体はサバサバとした性格で、暗さなど持ってもいない。ハキハキとよく話して、挑発的なことを時々言ってくる。
それなのに、公園を一人で散歩しているおまけは、地球でいうところの女っぽいところはないが、どちらかというとちょっと暗めだ。それは鬱のせいなのかもしれないが、ハキハキとは話さない。それに、挑発的なことはほとんど言わない。
それとも、病気のせいなのか。自分がいなくなることがわかっているから、何事にも前向きになれないのか。
蓮が思考の迷路から出られなくなりそうだった時、おまけの倫礼の心の声が聞こえてきた。
「見た目はちょっとよくわからなかったけど……。素敵な人――じゃなくて神様だったな。会えたことに感謝だ」
後ろ向きとはやはり思えない。蓮はそう判断したが、焉貴が聞き返してきた意味は出てこなかった。
「視力は弱いのね」
「イメージがないから、わかりづらいんだ」
守護神として、倫礼の見え方を見てみると、実写というよりはアニメ的に見えているようだった。
春の日差しに目を細めて、焉貴は「そう」と短くうなずいて、陛下が座す城を中心とした首都の街へ想いを馳せる。
「霊感占いってやったことないけど、人間でもすごいね」
占い師という職業はもちろん存在していた。神様も人として生きていて、霊感の強いものもいて、それを人の役に立てている人はいた。同様に神職に就いている人も大勢いた。
おまけの倫礼が遠ざかってゆくのを見送って、蓮は分身をして、神界に焉貴と一緒に戻ってきた。
本家のすぐ隣に建てた自宅で、庭を眺めながらデリバリーで取り寄せたティーセットで、男ふたり親友としてくつろいだ。
あの狭い地球とは違い、空は透き通るほど綺麗で、差し込む日差しはどこまでも柔らかく暖かかった。
今日もフルーツジュースを飲んでいた焉貴は一息ついて、甘さだらだらの声をかけた。
「ねぇ?」
「何だ?」
今日も砂糖たっぷりのコーヒーを飲んでいる蓮は、ティーカップをソーサーへ置いた。
「お前の女、神様の名前どれくらい知ってんの?」
「百近くはあったが、今はもうほとんど忘れている」
蓮がおまけの倫礼の記憶をたどると、最初はメモ書きされていたものを、パソコンに打ち込み、プリントアウトしたものだった。しかもまだ、入力は完全ではなかった。
そのうちパソコンが代替わりをし、データの移行がうまくいかず、せめてデータがまだ読み込めるうちにと印刷し、今ではパソコンのパスワードも忘れ去り、あの紙のデータはもう取り出せなくなった。
メモ紙は元配偶者に手渡してしまい、彼女の記憶と印刷されたものだけが頼りだった。
神世にとってはたった十年少々のことだったが、限られた時間を生きている彼女にとっては、長い長い年月で、決して平坦な道のりではなかった。
霊感を失ってしまえばいいと本気で望んでいた時期もあったが、忘れていたからこそ、あのクリアファイルは捨てられず、無事でいたのかもしれなかった。
焉貴は両手でボブ髪をかき上げて、椅子の背にもたれかかりながらため息をついた。
「肉体特有の思い出せないってやつね」
魂の世界では決して起き得ない現象――。
「なぜそんなことを聞く?」
高台にある郊外の住宅街からは、遠くのほうに地球五個分もある城がよく見下ろせた。無意識の直感がある焉貴らしく、本人が知らぬ間にひらめいた。
「何か意味があるんじゃないの? それって、お前の守護にも関係するかもしれないじゃん? 俺の名前知ってたなんてさ。今日会うこと無意識で予測してたんじゃないの?」
自分たちの神様はひとつ上の次元にいる。だが、その神様が自分たちを通り越して、おまけの倫礼に直感を与えないとは限らないではないだろうかと、焉貴はいつの間にか考えが変わっていた。
現に悪をこの世界に広めたのは、百以上も上にいた神様の実験だったのだから。他に何かしようとしていてもおかしくないだろう。
「覚えているやつに意味がある……?」
蓮はつぶやいてみたが、ふたりのように直感があるわけでもなく、単なるおまけの倫礼の忘形見程度で、思考回路が気に入ったから覚えていたのだと思っていたが、言われてみればおかしいと、夫は気づいた。
それならば緑もモデルとして起用するはずだが、それをしないのは、おまけがさっき言いよどんだことと関係するのか――
そうして、焉貴の今までの話が、いつの間にか罠になっていた言葉が出てくるのだった。
「他に誰いんの?」
焉貴は、あの漆黒の髪を持つ男の名が出てくるのを、素知らぬ振りをして待った。正直な性格の蓮は、まず最初にあの綺麗な男を思い浮かべた。
「早秋津 光命だ」
「それって、ピアニストのHikari?」
反応されるとは思っていなかった蓮は、射るように鋭利なスミレ色の瞳で焉貴を見つめ返した。
「なぜ知っている?」
「有名だったらしいじゃん? 才能があってさ。今ほとんど活動してないみたいだけど……」
ポケットから携帯電話を取り出し、音楽再生メディアをプレイにすると、ピアノ曲流れてきた。
叩きつける雨のような三十二分音符の十二連打と雷鳴のように入り込む、高音のフォルティッシモが、あの紺の長い髪を持ち、冷静な水色の瞳を持つ男の面影とピタリと重なった。
「ピアニスト……?」
倫礼の記憶を探ってみたが、光命の楽器について知っている記憶はどこにもなかった。
そうして、蓮は知るのだ。恋人ができてしまった光命のことを追うのが、おまけの倫礼が怖くなって、触れないようにした結果がデータ不足を招いたのだと。
春の日差しの中で、しっかりと青色を描くピアノの旋律に、焉貴のマダラ模様の声がにじんだ。
「で?」
「紀花 夕霧命だ」
「あぁ、俺のクラスの保護者ね。あとは?」
クリアファイルに挟まっているデータよりもかなり少ない人数で、蓮の綺麗な唇から出てきた名前はこの人だった。
「広家 独健だ」
「それも同じ」
「孔雀大明王」
「それも同じ。本名は空美 明引呼ね」
小学校一年生の生徒数は兆を超えている。焉貴が担当しているクラスはひとクラスだ。それなのに、知り合いというのが偶然を通り越して、怪奇現象みたいだった。
何の脈略もないものだと思っていた。単純におまけの倫礼に印象が強く残った人物を、小説の採用しているのだと、蓮は信じて疑わなかったが、先日行った音楽事務所の社長を思い出すと、おかしい限りだった。
「どうなっている?」
「何?」
チョコレートを口の中に入れた、焉貴の無機質な声が春風に乗った。
「事務所の社長の息子が独健だ。なぜ関係している?」
世の中が狭いのか、それとも必然なのか。そうなると、光命に会ったことさえ、意味があるということになってしまう。
三百億年も生きてきた男はこの手の話にはそうそう驚かない。答えは後で必ず出る、世の中そんなものだ。無意味なものなど何もないのだ。
見た目がそっくりな男ふたりは、レースのカーテンが風に揺れるそばで、光命のピアノ曲を共有していた。
「あとは?」
焉貴に先を促され、蓮は古い小説の主人公が光秀だったのを思い浮かべたが、首を横にふった。
「義理の父上だ――いや、違う」
「何?」
「あれを書いたのは、おまけの前の人間だ」
「お前の女になるって知らなかった時だよね? それって」
「そうだ。いつからつながっていた?」
おまけの倫礼が直感していたのは、蓮が生まれる前で、焉貴がこの宇宙へ来る前でもある。
大地の上では小さな花なのに、土を掘り起こすと、根がどこまでも予想もしないところまでつながっているような大きな運命の歯車は昔からゆっくりと回っていたのかもしれない。
世界はいつだって上から変化を遂げる。下から二番目のここへ到達する頃には、何万年もの時を経てることなど珍しくもないのだろう。永遠の世界なら。
フルーツジュースをズズーっと飲んで、焉貴は軽く両手を組み、頭の良さ全開で物を言う。
「でもまぁ、つながるって言えばつながちゃってるよね? お前の女が入る前に入ってた人間からすればさ」
さっきあとで教えると言った答えを、親友はもう解いてしまっていた。口元を神経質に拭いた蓮は不思議そうな顔をする。
「なぜ、わかった?」
「他の宇宙から来た俺も知ってる有名人って、数が少ないじゃん? で、今のお前のパパの話でしょ? それしか答えないじゃん」
それっきり言葉は途切れた。春の穏やかな日差しの中で、今も流れ続けるピアノ曲に身を任せ、蓮はあの綺麗な男――光命を思い返す。
あの男との共通点はあるのかもしれない。だが、それを口にしてよい物なのかどうかは、おまけの倫礼が言いよどんだように、蓮もはっきりと告げていいものかは迷うのだった。
焉貴はしばらく待ってみたが、聡明な瑠璃紺色の瞳を持つ男の名前は出てこなかった。
世界はとても広く、蓮は孔明を知らない。それでも、地球では有名だったという孔明を、人間の女が覚えているのなら、勝算はあったのだがどうもないようだった。
恋愛関係がお互いをつないでいるのかと思ったが、今のところ関連がないと判断するしかなさそうだった。
「ん~! はぁ~」
蓮は大きく伸びをして、ひと段落と言ったように軽く息を吐いた。腕組みをした指先がリズムを取る。曲を気に入ったのはすぐにわかった。
理論で物事を考えるのに、音楽の才能があるからなのか、感性で時おり動いてくる親友。リラックスしている男の前で、焉貴は考える。
複数婚が成立する可能性は限りなくゼロに近い。この男と妻だけなら愛せる可能性はあったが、あの人間の女も配偶者と数えるとなると、お世辞にも綺麗な心だとは言えない。
あの女が自身で当てた通り、妥協や同情をする性格でもない。どちらかというと、ついてこれないなら、迷わず切り捨てるタイプだ。
しかし、目の前にいる男はあの女も愛しているのだ。みんな仲良くという唯一の法律が焉貴の身をきつく縛る。
そんなことはとりあえずデジタルに切り替え、焉貴は携帯電話をつかんで、
「お前、Hikariのデータ持ってないの?」
「いや、今買った」
いつも超不機嫌な蓮が無邪気に微笑むと、得意げに携帯電話に今流れている曲と同じものがダウンロードされているのを見せた。
目を閉じて、ご機嫌で光命の曲に身を任せている男。そんな彼を見て、焉貴の頭脳で可能性の数字が変わった。
(俺、いつかあの女好きになんのかも……。お前がHikariのデータ買ってるって、そうことでしょ?)
複雑化する恋愛模様だったが、焉貴が蓮に会うのはこれが最後となってしまうのだった。
事務所の社長がにらんだ通り、蓮は芸名をディーバ ラスティン サンダルガイアに変えて、有名人の仲間入りをして大忙しとなってしまうのだった。
「そう、地球ってこんなとこなのね」
「そうだ」
答えるのは、銀の長い前髪に、鋭利なスミレ色の瞳を片方だけ隠した蓮だった。彼の隣をさっきから歩いているのは焉貴で、初めて行ったフルーツパーラーでした約束のために、地球にわざわざ降臨してきた。
「どれがお前の女?」
「あそこだ」
ふたりの目線の先には、ブラウンの長い髪をひとつにまとめ、ひとり気ままに歩いている、おまけの倫礼の姿があった。
「どこ行くの?」
「近くの公園に散歩だ」
「そう」
自分たちに近づいてきては、素通りすぎてゆく人間たち。気づくものは誰もおらず、ぶつかることもせず。しかしそれ以上に、休日の天気のいい日なのに、寝静まった夜――世界に誰もいないみたいに静かだった。
焉貴の宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳は、無機質にあたりを見渡す。
「それにしても、まわり誰もいないね」
「当たり前だ。魂の入っているやつはこの辺には誰もいない」
不思議な光景だった。動いているのは肉の塊ばかりで、自分たちと同じ心を持っている者がいない。
「守護神もいないじゃん?」
「コンピュータ制御だ。よほどのことがない限りここへ来ない」
「そう」
地球の存在さえ知らない人は大勢いるのだ。魂が入る必要がないと判断された肉体に、神様たちの生活を割いてまで、見ている必要はなかった。そうして開発されたのが、コンピュータ制御という自動操縦だ。
またひとり焉貴の体を、空っぽの肉体が通り過ぎてゆく。
「で、お前の女は俺たちが見える霊感を持ってるから、お前はここにいるってことね?」
「そうだ」
「話相手ってわけね」
公園の入り口から木々が生い茂った道へと入ってゆく、倫礼の後ろ姿を眺めた。守護神が情けや同情で動くことはない。それはわかり切っていることで、蓮がそばにいて、あの人間の女に話しかけていることは、別の意味を持っているのだろう。
焉貴は当初の目的を口にした。
「俺が話しても聞こえんの?」
「知らない」
「そう、じゃあ、話しかけちゃう!」
聞こえれば聞こえた。聞こえなければ、それまでで、孔明という男を理解するための情報は、こうやってまわりに広がっている景色から拾い上げればいいのだ。
地面を懸命に歩いている、おまけの倫礼に、焉貴は浮遊で近づいた。左斜め後ろに立って、声をかけようとする。
その姿を見て、蓮は表情を歪めて、わかっていないと言うように首を横にふった。
(おまけの霊感は右側が発達しているから、反対側では聞こえな――)
さっきまで蓮と話していたような、ケーキのはちみつをかけた甘さダラダラの砕けた口調ではなく、好青年の冷静さを持っている雰囲気で、焉貴は声をかけた。
「初めまして」
聞こえないはずだったが、倫礼は驚いた顔をした。
「え……?」
しかし、まわりを歩いている人には、話しかけてきた神の姿は見えないし、声も聞こえない。
ジョギングなどをしている人がいる公園の道で、急停止するのは危険だ。おまけの倫礼は歩く速度を変えずに、聞き覚えのない声と雰囲気で話しかけてきた男性神に、心の中で頭を丁寧に下げた。
「あ、あぁ、初めまして。だ――!」
そこまで言って、ピンときてしまった。口数が少ないからあまり話さないが、あの銀髪でスミレ色の瞳を持つ夫がすぐさま浮かんだ。
「わかった! 蓮の友達ですよね?」
「えぇ」
焉貴が短くうなずき返すと、倫礼はコウに昔言われたことを思い出した。神様は心を大切にするから、言葉遣いだけ整えても無駄なのだと。反対を言えば、砕けた口調のほうが距離感を縮められるのだと。
「ですよね~?」
家族以外の神様になど会ったこともなかったし、相手が丁寧に話しているから、倫礼はかろうじて丁寧語を使っていただけだった。
コンピュータ制御が主流の神界で、サブの世界である地球に、用のある神様などそうそういない。そうなると、今もそばにいるであろう、蓮の友達ということになる。が、彼女の理論だった。
人間としてではなく、大人として、一応妻として、男性神に改めて頭を下げた。
「いつも蓮がお世話になってます」
「いいえ、こちらこそお世話になっています」
次々に、倫礼に直感が降りてきて、言ってもいないことを当て始めた。
「もしかして、名前は焉貴さんですか?」
「えぇ。なぜわかるのですか?」
「前にこんなことがあったんです」
「えぇ」
霊感とはこういうこともあるのだと、倫礼は常日頃思っていた。
「自分が書いてる小説の登場人物の名前を思いつくと、それが……」
しかし、感覚というものは、他の存在に伝えるのは少々難しく、彼女は口ごもってしまった。
「どうかしたのですか?」
「え~っと、前は違う人がこの肉体には入ってたんです」
「えぇ」
江が入っていた時の話をしようとしたが、焉貴から別の質問がきた。
「その方とはどのような関係だったのですか?」
「え……?」
倫礼ははっきりと見ることのできない焉貴の前で、言ってもいいものなのかどうか判断しかねた。
人間の女が聞こえていない会話が、焉貴と蓮の間で交わされる。
「俺たちにも有名な人ってこと? 人間が神様に隠し事するって、そういうことになるよね?」
無意識の直感は冷静な頭脳で、簡単に答えを導き出してしまった。蓮が超不機嫌顔のまま短くうなずく。
「そうだ」
「そいつ、俺も知ってる?」
「知っているはずだ」
強い霊感を持つ、この人間の女の身に何が起きたのか、焉貴はもう気づいた。それでも憶測だ、守護神から過去の記憶を聞きたがった。
「そう、あとで教えて」
「いい」
焉貴はまた人間の女に聞こえるようにして、丁寧な物腰で話しかけた。
「伏せたままでよいので、私の名前がなぜわかったのか教えてください」
倫礼は緊張感から解放され、「はい」と素直にうなずくと、自作の小説に登場させた人物名の話へ戻した。
「その人の姉妹が別の宇宙であとから見つかって、その名前だったんです」
説明をしたが、心の世界照準で話してしまい、意味がよくわからない内容になっていた。
しかし、今日会ったばかりの焉貴でも、彼女の本当に伝えたい意味はすぐに変換できた。
(言葉だけだと不十分だけど、別の次元の宇宙から降りてきたってことね。そう感じるから、その意味)
陛下が上へ上へと開拓している途中で、一番下の世界へ降りて、心をさらに磨こうとする神々はたくさんいて、その中のひとりだったということだ。
おまけの倫礼の霊感の話はそこだけにとどまらず、
「それだけではなくて、その彼氏の苗字とその姉妹の名前になってたんです」
彼女は知らなかったのだ。もしかしてと思い、コウに聞くと、その姉妹は降りた次元で男と運命の出会いをして、女子高校生として神世で暮らしていたのだ。
焉貴は話を要約した。
「結婚後の名前を、会う前に予測していた、ということですか?」
「はい」
蓮で例えれば、最初に会う前に、明智 蓮という名前を、小説の登場人物にしていたという話だ。
おまけの倫礼はよくわかっていた。人間だけで生み出せるものなど何もないのだと。神が手を加えているのだ。だからこそ、日々の感謝は必要なのだと。
それが一回きりなら偶然と過ごすこともできたのだろうが、彼女のまわりでは多発していた。
「こんなことがよくあって、焉貴さんの名前も、以前書いた小説に出てくる人物だったんです」
「えぇ」
「その時、何かを感じたんですけど、結局該当する人は誰も浮かばなかったんです。しかも、ずっとそんなことは忘れてました。今思い出したので、もしかしたらそうなのではと思ったんです」
心の世界とはいつでも必然だった。思い浮かべた人の話が、グッドタイミングでもたらされる。
話したいと相手が願えば、気になるようにできている。それが心でつながっているということなのだろう。肉体が間に入ると、途端に難しくなるようだったが。
木々の木漏れ日が、焉貴の黄緑色をした瞳に差し込み、変幻自在な乱反射を生み出す。
「そうですか。モデルの方はいたのですか?」
ふたりの脇を、犬を連れて散歩してゆく人がすれ違ってゆく。
「はい、いました。焉貴さんが知ってるかはわからないんですけど、月主命さんっていう人です」
「そうですか」
決めつけるのはよくないが、焉貴の脳裏にカエルを被って、ニコニコと微笑みながら生徒に大人気の教師が浮かんだ。
「その方はどのようなご職業をされていらっしゃいますか?」
「小学校の歴史の先生です」
「そうですか」
焉貴はナルシスト的な笑みでうなずくと、一旦後ろを歩いていた蓮のそばへ寄った。
「勘いいね。俺もすごいけどさ。お前の女もすごいね」
「俺に会う前から、あぁだった」
「そう」
盛り上がっているように見えたが、焉貴と蓮のやりとりはとても冷めたものだった。
林が途切れ、初夏の日差しが倫礼の髪を明るく照らし出して、彼女は目を細め、サングラスをかけた。
焉貴はそれを眺めながら、小さくつぶやく。
「月主命ってあいつじゃないの?」
同姓同名はいる。しかし、月の主などという名前を使っている人間はそうそういない。
池に立ち寄って、鴨が水面を泳ぐ姿を倫礼は眺めながら、綺麗に整備された石畳の上を歩き出した。
「月主命さんはどのような方ですか?」
会ったこともなかったが、コウが力説していたのを思い出した。三代理論派の神として挙げていた話だ。メンバーは光命、江の旦那――緑、そうして、今話している月主命のことだった。
同じ思考回路だが、重きを置いている箇所が違うのだと、コウはふんぞり返りながら説明していた。倫礼はそれを懸命に思い出す。
「え~っと、理論で考える人で、負ける可能性の高いものを選びます」
「あとはありますか?」
おまけの倫礼は、月主命のある話がギャグに思えて、忘れたくても忘れられないほど強烈な印象を残していた。
「あぁ、聞いただけなのでわからないんですけど、陛下の元へ来る女性がみんな月主命さんと結婚したいって言ってたって聞きましたよ」
「そうですか」
うなずいた焉貴は思う。その話は今では伝説となっていて、月主命といえば、女を誰一人もれることなくプロポーズさせる、レディーキラーだと。
どんな魔法を使っているのかという笑い話まであるくらいだった。本人は超現実主義者で魔法使いではないのに。
再び、人間世界には聞こえないように、シャットアウトした。
「やっぱりあいつ、同僚なんだけど……」
焉貴は考える。男を愛する気持ちはよくわかる。孔明に対してそうなのだから。そうして、今隣で不機嫌に歩いている銀髪の男にだって同じだ。
「しかも、さっきの話と足したらさ、俺と月主が結婚するみたいじゃん?」
モデルと名前が一緒になって、ひとつに結ばれる――そんな予測が生まれてもおかしくはなかった。
しかし、どうやってもあのマゼンダ色の長い髪を持ち、邪悪なヴァイオレットの瞳を隠している男は違う。多少話は合いやすいが、性的にどうとかという相手ではない。
女がさっきから使っている勘には決定的な弱点がある。それははずれることがあるということだ。焉貴の名前は当てたが、月主命のことははずしたのか。
銀の長い前髪を不機嫌に揺らしていた蓮は、ふと立ち止まった。
「焉貴と月主……?」
小学校で出会った先生だが、今では呼び捨ての仲となったふたり。
丁寧な物腰が似ていると言えば似ている。しかし、親しくなってみると、ふたりとも言葉遣いが違う。理論的で感情を持っていない。
だが、なぜか吹き出して笑ってしまうほど、おかしなことを言ってきたりしてきたりするのだ。蓮にとってはお気に入りの時間を過ごせるふたり。それが何からくるのものなのかわからないが――
「何お前、考えてんの?」
焉貴の黄緑色の瞳にのぞき込まれていることに気づき、蓮は気まずそうに咳払いをした。
「んんっ! 何でもない。おまけの話はまだだ」
守護神が言った通り、人間の女からは続きが聞こえてきた。
「焉貴さんって、冷静な人で、揺るぎない信念を持っていて、悪に対して非常に厳しい人。感情に左右されないというか、それを持っていない。違いますか?」
焉貴は思わず、神の力を使ってしまった――。不自然に人々は動きを止め、無風無音となった地上。
「何これ、どうなってんの?」
さっき会ったばかりで、視線も合わせてこない人間が神の性格を当てる。ミラクル風雲児もさすがに、待ったをかけた。
「お前、勝手に時間を止めるな」
守護神の仕事とは、同僚との折り合いがとても大切なものだ。地球は人ひとりのために回っていないのだから。守護神でもない男が勝手に止めていいものではない。
それでも、焉貴は動じることなく、倫礼の言っていた通りに人の意見に左右されず、時と止めたまま話を続けた。
「お前話したの? 俺のこと」
「話していない」
蓮は首を横に振った。連れてくる約束だって、忘れかけてたのを催促されて今ここにいるのだ。
それに、おまけの倫礼は自分の生活で手一杯だ。話をする必要もないと思っていて、遠くから眺めるのかと思っていたのに、焉貴が話しかけたのだ。
おまけの倫礼が他人の性格を当てることなど、蓮にとっては大して驚くことでもない。小説のモデルに神を使うということは、その神をプロファイリングできる手段を持っているということなのだ。
それはおまけの過去の記憶にはっきりと残っていた。
「気の流れを読んだんだ」
「武術とかで使うやつね?」
「そうだ」
アーティストである蓮にも要求される話だ。どんなものでも気の流れという見えないエネルギーがあるのだそうだ。それはそのものの性質などを形作ると言う。
肉体では脳の視覚を司る部分を使って、見えないものも見るらしく、霊も神様も気の流れも周波数が違う。それがこの理論だ。
おまけはそれをわけて使っている時もあるが、ほとんどは無意識のうちに切り替えているようだった。
すうっと風の揺れと靴音が戻ってきた。時を止めていた焉貴は力を無効化した。
「えぇ、そうです」
焉貴が自身の性格について返事を返すと、倫礼は何も気づかず、さっきと時間がつながっているものと信じて疑わず、笑顔で微笑んだ。
「そうですか。蓮のことよろしくお願いします」
「こちらこそ」
焉貴が言うと、守護神でない神は人間の女から完全に離れた。蓮は呑気に散歩している倫礼の背中を刺殺しそうなほどにらんだ。
「お前が偉そうに頼むことじゃない」
こんな蓮の態度は初めて見るものだった。焉貴は生徒を指導するように、言葉を重ねる。
「それはいいから、大人になって。神様になっちゃって。魂がないにしては上出来じゃん?」
「…………」
銀の長い前髪も鋭利なスミレ色の瞳も、すらっとした体躯もみじろぎひとつもしなかった。これはよく見る態度で、焉貴はささっと翻訳する。
「リアクションなし。それって、お前も認めてることね」
返事を返してこないのが、肯定している証拠だった。焉貴は思う。今はここにいないもう一人の蓮の妻を。さっき家に来た時に話をした。
「でもさ、本体と違うね、性格がさ」
「置かれている環境が違うから、違いが出るんだ」
「そう?」
全てを記憶していて、無意識の策略までしてくる男に聞き返されて、蓮はおまけの倫礼から視線を外した。
「他にどんな理由がある?」
本体はサバサバとした性格で、暗さなど持ってもいない。ハキハキとよく話して、挑発的なことを時々言ってくる。
それなのに、公園を一人で散歩しているおまけは、地球でいうところの女っぽいところはないが、どちらかというとちょっと暗めだ。それは鬱のせいなのかもしれないが、ハキハキとは話さない。それに、挑発的なことはほとんど言わない。
それとも、病気のせいなのか。自分がいなくなることがわかっているから、何事にも前向きになれないのか。
蓮が思考の迷路から出られなくなりそうだった時、おまけの倫礼の心の声が聞こえてきた。
「見た目はちょっとよくわからなかったけど……。素敵な人――じゃなくて神様だったな。会えたことに感謝だ」
後ろ向きとはやはり思えない。蓮はそう判断したが、焉貴が聞き返してきた意味は出てこなかった。
「視力は弱いのね」
「イメージがないから、わかりづらいんだ」
守護神として、倫礼の見え方を見てみると、実写というよりはアニメ的に見えているようだった。
春の日差しに目を細めて、焉貴は「そう」と短くうなずいて、陛下が座す城を中心とした首都の街へ想いを馳せる。
「霊感占いってやったことないけど、人間でもすごいね」
占い師という職業はもちろん存在していた。神様も人として生きていて、霊感の強いものもいて、それを人の役に立てている人はいた。同様に神職に就いている人も大勢いた。
おまけの倫礼が遠ざかってゆくのを見送って、蓮は分身をして、神界に焉貴と一緒に戻ってきた。
本家のすぐ隣に建てた自宅で、庭を眺めながらデリバリーで取り寄せたティーセットで、男ふたり親友としてくつろいだ。
あの狭い地球とは違い、空は透き通るほど綺麗で、差し込む日差しはどこまでも柔らかく暖かかった。
今日もフルーツジュースを飲んでいた焉貴は一息ついて、甘さだらだらの声をかけた。
「ねぇ?」
「何だ?」
今日も砂糖たっぷりのコーヒーを飲んでいる蓮は、ティーカップをソーサーへ置いた。
「お前の女、神様の名前どれくらい知ってんの?」
「百近くはあったが、今はもうほとんど忘れている」
蓮がおまけの倫礼の記憶をたどると、最初はメモ書きされていたものを、パソコンに打ち込み、プリントアウトしたものだった。しかもまだ、入力は完全ではなかった。
そのうちパソコンが代替わりをし、データの移行がうまくいかず、せめてデータがまだ読み込めるうちにと印刷し、今ではパソコンのパスワードも忘れ去り、あの紙のデータはもう取り出せなくなった。
メモ紙は元配偶者に手渡してしまい、彼女の記憶と印刷されたものだけが頼りだった。
神世にとってはたった十年少々のことだったが、限られた時間を生きている彼女にとっては、長い長い年月で、決して平坦な道のりではなかった。
霊感を失ってしまえばいいと本気で望んでいた時期もあったが、忘れていたからこそ、あのクリアファイルは捨てられず、無事でいたのかもしれなかった。
焉貴は両手でボブ髪をかき上げて、椅子の背にもたれかかりながらため息をついた。
「肉体特有の思い出せないってやつね」
魂の世界では決して起き得ない現象――。
「なぜそんなことを聞く?」
高台にある郊外の住宅街からは、遠くのほうに地球五個分もある城がよく見下ろせた。無意識の直感がある焉貴らしく、本人が知らぬ間にひらめいた。
「何か意味があるんじゃないの? それって、お前の守護にも関係するかもしれないじゃん? 俺の名前知ってたなんてさ。今日会うこと無意識で予測してたんじゃないの?」
自分たちの神様はひとつ上の次元にいる。だが、その神様が自分たちを通り越して、おまけの倫礼に直感を与えないとは限らないではないだろうかと、焉貴はいつの間にか考えが変わっていた。
現に悪をこの世界に広めたのは、百以上も上にいた神様の実験だったのだから。他に何かしようとしていてもおかしくないだろう。
「覚えているやつに意味がある……?」
蓮はつぶやいてみたが、ふたりのように直感があるわけでもなく、単なるおまけの倫礼の忘形見程度で、思考回路が気に入ったから覚えていたのだと思っていたが、言われてみればおかしいと、夫は気づいた。
それならば緑もモデルとして起用するはずだが、それをしないのは、おまけがさっき言いよどんだことと関係するのか――
そうして、焉貴の今までの話が、いつの間にか罠になっていた言葉が出てくるのだった。
「他に誰いんの?」
焉貴は、あの漆黒の髪を持つ男の名が出てくるのを、素知らぬ振りをして待った。正直な性格の蓮は、まず最初にあの綺麗な男を思い浮かべた。
「早秋津 光命だ」
「それって、ピアニストのHikari?」
反応されるとは思っていなかった蓮は、射るように鋭利なスミレ色の瞳で焉貴を見つめ返した。
「なぜ知っている?」
「有名だったらしいじゃん? 才能があってさ。今ほとんど活動してないみたいだけど……」
ポケットから携帯電話を取り出し、音楽再生メディアをプレイにすると、ピアノ曲流れてきた。
叩きつける雨のような三十二分音符の十二連打と雷鳴のように入り込む、高音のフォルティッシモが、あの紺の長い髪を持ち、冷静な水色の瞳を持つ男の面影とピタリと重なった。
「ピアニスト……?」
倫礼の記憶を探ってみたが、光命の楽器について知っている記憶はどこにもなかった。
そうして、蓮は知るのだ。恋人ができてしまった光命のことを追うのが、おまけの倫礼が怖くなって、触れないようにした結果がデータ不足を招いたのだと。
春の日差しの中で、しっかりと青色を描くピアノの旋律に、焉貴のマダラ模様の声がにじんだ。
「で?」
「紀花 夕霧命だ」
「あぁ、俺のクラスの保護者ね。あとは?」
クリアファイルに挟まっているデータよりもかなり少ない人数で、蓮の綺麗な唇から出てきた名前はこの人だった。
「広家 独健だ」
「それも同じ」
「孔雀大明王」
「それも同じ。本名は空美 明引呼ね」
小学校一年生の生徒数は兆を超えている。焉貴が担当しているクラスはひとクラスだ。それなのに、知り合いというのが偶然を通り越して、怪奇現象みたいだった。
何の脈略もないものだと思っていた。単純におまけの倫礼に印象が強く残った人物を、小説の採用しているのだと、蓮は信じて疑わなかったが、先日行った音楽事務所の社長を思い出すと、おかしい限りだった。
「どうなっている?」
「何?」
チョコレートを口の中に入れた、焉貴の無機質な声が春風に乗った。
「事務所の社長の息子が独健だ。なぜ関係している?」
世の中が狭いのか、それとも必然なのか。そうなると、光命に会ったことさえ、意味があるということになってしまう。
三百億年も生きてきた男はこの手の話にはそうそう驚かない。答えは後で必ず出る、世の中そんなものだ。無意味なものなど何もないのだ。
見た目がそっくりな男ふたりは、レースのカーテンが風に揺れるそばで、光命のピアノ曲を共有していた。
「あとは?」
焉貴に先を促され、蓮は古い小説の主人公が光秀だったのを思い浮かべたが、首を横にふった。
「義理の父上だ――いや、違う」
「何?」
「あれを書いたのは、おまけの前の人間だ」
「お前の女になるって知らなかった時だよね? それって」
「そうだ。いつからつながっていた?」
おまけの倫礼が直感していたのは、蓮が生まれる前で、焉貴がこの宇宙へ来る前でもある。
大地の上では小さな花なのに、土を掘り起こすと、根がどこまでも予想もしないところまでつながっているような大きな運命の歯車は昔からゆっくりと回っていたのかもしれない。
世界はいつだって上から変化を遂げる。下から二番目のここへ到達する頃には、何万年もの時を経てることなど珍しくもないのだろう。永遠の世界なら。
フルーツジュースをズズーっと飲んで、焉貴は軽く両手を組み、頭の良さ全開で物を言う。
「でもまぁ、つながるって言えばつながちゃってるよね? お前の女が入る前に入ってた人間からすればさ」
さっきあとで教えると言った答えを、親友はもう解いてしまっていた。口元を神経質に拭いた蓮は不思議そうな顔をする。
「なぜ、わかった?」
「他の宇宙から来た俺も知ってる有名人って、数が少ないじゃん? で、今のお前のパパの話でしょ? それしか答えないじゃん」
それっきり言葉は途切れた。春の穏やかな日差しの中で、今も流れ続けるピアノ曲に身を任せ、蓮はあの綺麗な男――光命を思い返す。
あの男との共通点はあるのかもしれない。だが、それを口にしてよい物なのかどうかは、おまけの倫礼が言いよどんだように、蓮もはっきりと告げていいものかは迷うのだった。
焉貴はしばらく待ってみたが、聡明な瑠璃紺色の瞳を持つ男の名前は出てこなかった。
世界はとても広く、蓮は孔明を知らない。それでも、地球では有名だったという孔明を、人間の女が覚えているのなら、勝算はあったのだがどうもないようだった。
恋愛関係がお互いをつないでいるのかと思ったが、今のところ関連がないと判断するしかなさそうだった。
「ん~! はぁ~」
蓮は大きく伸びをして、ひと段落と言ったように軽く息を吐いた。腕組みをした指先がリズムを取る。曲を気に入ったのはすぐにわかった。
理論で物事を考えるのに、音楽の才能があるからなのか、感性で時おり動いてくる親友。リラックスしている男の前で、焉貴は考える。
複数婚が成立する可能性は限りなくゼロに近い。この男と妻だけなら愛せる可能性はあったが、あの人間の女も配偶者と数えるとなると、お世辞にも綺麗な心だとは言えない。
あの女が自身で当てた通り、妥協や同情をする性格でもない。どちらかというと、ついてこれないなら、迷わず切り捨てるタイプだ。
しかし、目の前にいる男はあの女も愛しているのだ。みんな仲良くという唯一の法律が焉貴の身をきつく縛る。
そんなことはとりあえずデジタルに切り替え、焉貴は携帯電話をつかんで、
「お前、Hikariのデータ持ってないの?」
「いや、今買った」
いつも超不機嫌な蓮が無邪気に微笑むと、得意げに携帯電話に今流れている曲と同じものがダウンロードされているのを見せた。
目を閉じて、ご機嫌で光命の曲に身を任せている男。そんな彼を見て、焉貴の頭脳で可能性の数字が変わった。
(俺、いつかあの女好きになんのかも……。お前がHikariのデータ買ってるって、そうことでしょ?)
複雑化する恋愛模様だったが、焉貴が蓮に会うのはこれが最後となってしまうのだった。
事務所の社長がにらんだ通り、蓮は芸名をディーバ ラスティン サンダルガイアに変えて、有名人の仲間入りをして大忙しとなってしまうのだった。
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