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洞窟
④
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頬にじりじりとした熱を感じる。意識が覚醒するに従って、火がパチパチと弾ける音が聞こえてくる。頬を焼くものの正体は、炎の揺らぎだろうか。
目を開けて、もしもまだ視力が回復していなかったらと思うとちょっと怖い。エアルは小刻みに痙攣する瞼を、ゆっくりと開ける。ぐらぐらと揺れる視界はまだ少し霞んでいたが、光に馴染んでくると徐々に目に映るものの解像度が上がっていった。
薄目を開けたまま、心配そうにこちらを窺う男の方に頭を傾ける。炎を映した赤い瞳には涙が溜まり、半開きの唇は閉じることも忘れていたのだろうか。唇の縦皺が見えるほどに乾き、頬が引き攣っていた。
「…………ローシュ、様……?」
エアルの声を聞いた瞬間、男が安堵でガクッと首を落とす。「はあ~、よかった」と膝を叩き、大息をついた。
ローシュが洞窟の奥から外まで運んでくれたようだ。雲に覆われた夜空が、エアルたちを見下ろしていた。休憩場所として選ばれたのは、洞窟の入り口にある大木の真下。ローシュの愛馬・ゼリオスが待機していた場所で、ローシュは火を起こして自分が目覚めるのを待っていてくれたのだと察した。
焚き火を囲むように寝かされていたらしく、エアルの下にはローシュが着てきたフロックコートが敷かれている。腕の傷を処置してくれたのもローシュだろう。腕には包帯が巻きつけられている。
エアルの纏っていたローブが脱がされているのも、怪我の処置をするためか。だが、意識を失った者に一人で服を着させるのは難しかったのか、ローブは毛布のように上半身に掛けられている。せめて冷えないようにとの配慮が感じられた。
ローシュは付きっきりで意識を失った自分の傍にいてくれたようだ。深紅色のズボンの膝は、泥で汚れていた。
意識がはっきりするとともに、自身の魔力が半分ほど戻ってきているのを実感する。だけどその間、自分は意識を手放した状態で寝ていたのだ。自身に回復魔法をかけられるはずもないのに、毒の作用が薄れていることが不思議だった。まさか本当に吸い出しただけで体内から毒が消えたのだろうか。
見るからに不思議そうにしていたのか、エアルの疑問に気が付いたらしい。ローシュは顔の前で透明のガラス瓶を揺らしながら、エアルが意識を失ったあとのことを説明した。
「傷口から毒を吸い出したあと、エアルに滝壺で汲んだこの水を試しに飲ませてみたんだ。そしたら、みるみるうちにエアルの顔色が良くなっていった」
ローシュの手にあるのは、聖水が入っていたガラス瓶だ。聖水は魔物が嫌がる匂いを放つとされる。この洞窟に足を踏み入れる直前に、魔除けとして互いの体に瓶の中身をかけ合ったことをエアルは思い出した。その後に受けたいくつもの魔物の襲来を考えると、効果の持続力は短く、結局は意味がなかったに等しいが。
「あの滝は聖水の源水だったのですね」
エアルはローシュの手元を見つめながら納得する。
聖水は軽い呪いを解く効果もある。ローシュが毒を吸い出してくれたこと、そして聖水のおかげで自分は助かることができたらしい。
ローシュは「そういうことだな」と頷く。
「俺もおまえも、運が良かったよ」
安堵するローシュから、エアルは目線を夜空に移動させる。横たわったまま、自身の手を掲げて見つめた。真っ白な手は指が細く華奢で、まるで十代から二十代前半のうら若き人間の女性のそれのようだ。
結局助けてもらったのは自分の方だった。頼りない手を見上げていると、この手でローシュを守ろうとしたことが恥ずかしく思えてきた。
まだかすかに指先に残る痺れを無視して、エアルは後ろ手で支えながら体を起き上がらせた。「うっ」と思わず声が漏れる。
「無理するな。まだ横になっていた方がいい」
重心の定まらない肩を、ローシュの手が支えてくれる。エアルはその手をやんわりと拒絶し、「申し訳ございませんでした」と謝罪の言葉を口にした。
「エアルが謝る必要はない。旅の仲間とは、互いに助け合うためにいるものだろう」
「私はあなたの仲間になったつもりはありません。あなたをお守りするために、ここへ来たというのに……っ」
魔物に裂かれた傷痕がジクッと痛む。エアルは該当の場所を反対の手で押さえた。なんて不甲斐ないんだろう。自分が情けない。悔しくて、ローシュの顔がまともに見ることができなかった。
顔を背けて俯いていると、ローシュの手が顎に触れた。クイッと半ば強制的にローシュの方を向かされる。そこにはにやにやと笑う男の顔があった。
「エアルはいろんなことを知っているけど、記憶力はないんだな」
「はっ?」
「最後俺が魔物に襲われたとき、身を挺して守ってくれたじゃないか。もう忘れたのか?」
「あんなもの……守ったことにはなりませんよ。結局私はこうやって、あなたのお手を煩わせているのですから――」
顎に触れる男の手から、くすぐられているような気恥ずかしさが流れてくる。エアルは再び男の手を退けようと手を払ったが、今度は手首ごと掴まれた。
「『旅の仲間』というのが気に障るならこうしよう。俺がおまえを助けたのは、エアルを愛しているからだ」
耳がぼっと熱くなる。
「……離してください」
掴まれた手を動かすが、ローシュの力が強くてびくともしない。ローシュは穏やかな表情を貼り付けたまま続けた。
「愛している相手から守られたら、この命、死んでも無駄にはしない」
「結局死んでしまうんですか」
揚げ足を取ると、ローシュはこちらの台詞に「死なないさ」と柔らかく被せてきた。
「でもその覚悟が俺にはある。エアルを守るためならな」
まっすぐな言葉が目の奥を熱くさせる。そんなエアルをよそに、ローシュは続けた。
「愛している者を俺は守りたい。だから助けた」
「……っ」
ああもう。エアルは掴まれた手から力を抜いた。いや、力が抜けたというべきか。
ローシュの言葉は魔法だ。愛の言葉を告げられると、心がぐしゃぐしゃになる。エアルの胸に嵐や熱を生んで掻き乱す。それはどんな防御魔法で防ごうとしても効かない。だから厄介なのだ。
認めたくなかった。自分の中に生まれた感情に名前をつけたくなかった。その感情を認め、そして受け入れてしまったら、きっと自分の境遇を呪うことになるだろう。今の立場や暮らしを不遇に感じ、安穏とした鳥籠の中から飛び出したくなってしまうかもしれない。
そんな勇気は、自分にはない。王族に魔法や夜伽を教え、たまに性欲処理の相手をこなしながら、型落ちした野菜や果物をもらって自然と動物に囲まれて暮らす。それが自分にとって一番いい。それ以外の道を生きるなんて自分には無理だ。到底できない。
自分の心にありのままになるには、自分は長く生きすぎた。エアルは意を決し、顔を上げた。
だがローシュの顔を見た次の瞬間、エアルは張っていた肩の力が自分の意思に反して抜けた。
つい今まで余裕の表情を浮かべていた男の顔が、紅でも差したかのように赤く火照っていたのだ。気まずそうに首の後ろを掻く姿は落ち着かない様子だ。
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