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戦火の中へ
⑤
しおりを挟む突然の愛の告白に、胸がキュッとなる。この男はすぐに自分の心を掴んでくる。ローシュはそういう男だ。
「今はそのような話はしていませんが……」
ローシュはのんきな声で、「そうか?」などと笑う。
「最初はエアルの存在を無視し続けてきた祖先や国民に宣戦布告したかった。でも人間っていうのは面倒だな。一つ目標をクリアすると、欲が出るんだ。次は俺の気持ちを皆に認めてもらいたくなった」
「皆……というのは国民ですか? それともレイモンド王でしょうか」
「父上をどうにかしようなんて、とっくの昔に諦めてるよ」
ローシュは諦めたような笑いをこぼしながら、小雨の降る夜空を見上げた。
「父上が無理な分、せめて国民の不満を鎮めたいんだ。俺の気持ちを認めてほしい、応援してもらいたい」
「……承認欲求、ですか」
エアルが低く言うと、ローシュは「そうだ」と唇を動かした。横顔は固い決意を目に宿していた。
「だから俺は戦争に行く」
どうしてそうなるんだ。理解に苦しむ。眉頭を指で揉みながら、エアルは「意味がわかりません」とため息を地面に落とした。
「ちなみに戦果を上げて父上に認めてもらうためでも、ミレーとバルデアに血を流させるためでもないからな」
「では何のために戦争へ?」
「平和が嫌いな人間なんていないはずだ。俺はこの戦争を止めて、混乱している国民の声を俺に集めたい。この王子が選んだ相手なら、応援せざるを得ないと皆に思わせたい」
男の言葉に、エアルは思わず息を呑んだ。ローシュの理想が、あまりにも非現実的で自己中心的なものだったからだ。同時にゾクッと鳥肌が立つ。同時に、もしもそうなったら……と柄にもなく淡い期待を抱いてしまう。そんな自分を腹の底に隠しながら、エアルは否定と疑念を口にした。
「め、滅茶苦茶です。それはつまり、戦争を利用するということですよね? ご自分の気持ちのために」
「ああ。そうだ」
「戦争を止めるなんて無理な話です。あなたは戦争に行ったことがないから、そんな簡単に言えるんですよ」
「エアルは戦争に行ったことがあるのか?」
「前線に立ったことはありませんが、幼い頃に当事者として巻き込まれたことはあります」
強い口調で返すと、ローシュは黙った。
ローシュは戦争を舐めている。いくらローシュに自他共に認めるカリスマ性が備わっているとはいえ、歴史的に見ても何度も繰り返されてきた戦争を、そんな軽い気持ちで終わらせるなんて無理に決まっている。
やはりこの男はまだまだ子どもなのだ。現実が見えていない。砂糖菓子に蜂蜜をかけるより甘くて胃がもたれそうだ。
これでは『フリューゲルに現を抜かす色恋王子』と言われても否定できない。現実がまったく見えていない。
怒りとどうしようもない悲しみが押し寄せてくる。ようやく会えた日に、小言を言いたくなかった。涙なんて見せたくなかった。そう思っていたはずなのに、エアルの目から流れるのは大粒の涙だった。
ポタポタと落ちる涙が、頬を伝うまでもなく足元の地面に吸い込まれていく。ローシュの前で涙を見せるのは、これが初めてだと気づく。
ローシュは動揺を見せることなく、エアルの戦争体験に対して「初めて聞いた」とこちらの泣き顔をじっと見つめて言った。
氾濫した川のように、なみなみと溢れてくる涙が止まらない。反対に、泣けば泣くほど少しずつ気持ちが凪いでいった。
ぐちゃぐちゃになった名前のないたくさんの気持ちを、涙が一枚一枚そぎ落としていったのだろうか。最後の一枚を剥がされた先に見えた、たった一つの気持ち。それが目の前にあらわになったとき、エアルは無意識のうちに告げていた。
「私はあなたをお慕いしております」
自分のものとは思えないほど、抑揚のない声だった。
だってしょうがないだろう。四百年以上も生きてきて、初めて抱いた気持ちを口にしたのだから。
ローシュはすぐには反応しなかった。少し間を置いてから、
「きゅ、急だな」
と驚いている様子を見せた。
「まさか今夜聞けるとは思ってなかった」
頭の後ろを掻きながら、ローシュは目を泳がせる。動揺が勝っているのか、まだエアルの告白を受け止めるのに時間がかかっているらしい。
だが、エアルの言葉は少しずつでも間違いなく男の胸に届いたようだ。しばらくすると、「やば、なんだこれ……」と顔を真っ赤にして口を手で覆うように押さえ始めた。
「俺は夢を見ているのか? 本当に?」
エアルから一歩後退り、ローシュがチラチラとこちらの様子を窺ってくる。まだ現実だとは思えないのだろうか。エアルは男との距離を詰め、「夢ではありません」と相手の目を見て訴えた。
「だから絶対に生きて帰ってきてください。戦争を止めて、国民の感情と支持をあなたのものにしてください」
非現実的な理想を語るのがローシュだ。そしてそれを現実に変えることができるんじゃないかと思わせてくれるのも、ローシュなのだ。
だったら自分は、それを信じるしかない。信じて待つしかない。
エアルは近くに生え下がっていたブドウから、立て続けに二粒もぎ取った。一粒は自身の手に、もう一粒をローシュの手に乗せる。
ローシュは手渡された実とエアルを交互に見ながら、こちらの意図を窺っていた。
「王宮で行われる儀式や催しの際に、あなた方王族が口づける祝盃の中身をご存知ですか?」
葡萄酒、と正解を当てた男に、エアルは補足する。
「この品種のブドウから造られた葡萄酒です。あなたは先ほどバクバク召し上がっていましたが、庶民の手には到底届かない高貴なブドウなんですよ」
こちらの言いたいことが少しでも伝わってほしい。その思いで、エアルは手中の実を瞑れないように握り締めた。
「あなたもご親戚の結婚式でご覧になったことがあるでしょう。婚姻関係を結ぶ者同士が、この実から造られた酒を酌み交わす場面を」
そこでようやく、ローシュはエアルの言いたいことにピンときたようだった。
「エアル、俺は――」
「本来なら、私はその酒を飲める立場にありません。でもあなたと……ローシュ様となら、いつか飲めるときがくるのではと期待してしまう自分がいます」
次の瞬間、ローシュの眉が泣きそうなほどに歪んだ。エアルは手を開き、手のひらの中心に乗った実をもう片方の手で指に摘まんだ。ゆっくりと腕を伸ばし、指先の実を男の口元へと導いていく。
ローシュの唇にそっと押し当てると、ローシュの固く閉ざされていた唇が開き、形のいい歯が見えた。上下の歯列の合間に納まるよう、指の腹で実を押し込む。
ローシュの歯に咥えられた実を見届けてから、手を下ろす。
「今はこちらで我慢します。ですから……いつか本物を飲ませてください」
なるべく笑顔で送り出してあげたかった。だが、完全な笑顔とはいかなかったらしい。口の端を震わせながら笑って見せると、ローシュが正面から抱きしめてきた。
胸板にすっぽりと収まった体が、驚くほど心地よかった。ローシュの背中に腕を回し、男の匂いを鼻いっぱいに吸い込む。オーデコロンの匂いに混じり、汗と厩舎の匂いがする。覚えていようと思った。ローシュが無事に帰ってくるまで、この匂いを。
「……必ず飲もう。二人で。皆の前で」
耳のすぐ近くで告げられ、張っていた涙腺が再び緩む。グッと堪えながら相手の肩に顔を埋めて「はい」と返事した。
しばらく抱き合ったあと、ローシュの体がふと離れる。名残惜しく感じたのも束の間だった。
ローシュの指によって、唇にブドウの実が優しく押し当てられたのだ。それを唇と歯で受け取り、エアルは青々とした実を頬に含んだ。歯で押し潰す。みずみずしい実がプチッと弾けて、甘酸っぱい果汁が口内を満たしていった。
所詮真似事だ。王族の婚儀を真似した、子どものままごとにすぎない。だが、今エアルの口にあるブドウの実は、今までに食べたどんな果物よりも甘かった。
「……美味しい、です」
心の底からそう思う。エアルの言葉に、ローシュも「ああ」と微笑んだ。
口の中にブドウの甘味と酸っぱさが残る中、先に実を食べ終えたローシュが顔を近づけてくる。唇に押し当てられたのは、ローシュの唇だ。目を閉じ、相手の唇についた果汁とともにキスを受け入れる。
角度を変えると、するっと男の舌が滑りこんでくる。こちらも負けじと相手の舌を味わえば、口内に広がる甘みがどちらのものかわからなくなる。
互いに互いの頭を両手で挟みながら、そうやって口付けに浸る時間が幸せだった。ただ唇と唇が触れ合うだけで、こんなにも満たされた気持ちになるなんて知らなかった。
永遠にこうしていたい。
もっと、もっと、奥まで……自分の深い所まで、ローシュでいっぱいにしてほしい。
どんどんとわがままになっていく自分を受け入れながら、エアルはローシュとの口付けに没頭する。
その夜から二日後、ローシュはカリオや城の者たちに見送られながら戦地へと出立した。ミレーとバルデアが開戦したという報せがエアルの耳に届いたのは、ローシュが出立した十日後。
ザウシュビーク王国の空は、ローシュが生まれた日と同じく、雲ひとつない。残酷なまでに晴れ渡った空が、南方の地平線まで見渡すことのできる日だった。
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