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死と結婚と
⑨
しおりを挟むここ数日、ザウシュビーク王国の空には灰色の雨雲が流れてきている。いつ降りはじめてもおかしくないほどのくすんだ空が、エアルの目の前に広がっている。
ぐんぐんと空の奥へ奥へと進んでいくと、空気が薄く、冷たくなってくる。翼も痺れてきた。自分は、それ以上は進むことができないのだ。エアルの翼にかけられた呪いは、数百年経った今も空の果てを無情に教えてくる。
悔しさとも、怒りとも違う。そこにあった感情は、ただただ虚しさだけ……。
雨粒が頬にぽつっと当たったのを機に、エアルは翼を動かすことを止めた。重力に従い、エアルの体がゆっくりと地上へと降りていく。
足先で降り立った場所――そこはこれまで王族たちに空の飛び方を教えてきたバルコニーだった。
今は城に幼い王族はいないため、練習場所としては使われていない。白を基調としたガーデンテーブルや椅子が置いてあるだけだ。
ここではローシュにも飛行訓練をした。他の事は器用にこなせるくせに、空を飛ぶことだけは最後まで下手くそだった。
そう、最期まで。
「……っ」
エアルがぎゅっとドレスのひだを握り締めたと同時に、すぐ近くの空で雷が鳴った。ぽつぽつと雨粒がバルコニーの床を濡らし、あっという間にどしゃ降りになる。
エアルは婚礼衣装のまま、その場に立ち尽くした。これが本当に『諦める』ということなのかもしれない。自分の心を巣食う虚しさに、涙も出なかった。
そんな虚無感を払うよう、ふと目に入ったテーブルや椅子をなぎ倒してみる。自暴自棄に髪飾りや首飾りも乱暴に剥いでみたが、少し前まであれほど騒いでいた感情は、息を吹きかけられた柱のように動かなかった。
そこでエアルはようやく、自分の目の前にあるものの名前を思い出した。
はるか昔、自分からすべてを奪ったもの。立ち向かう気力も、生きる気力も、すべて奪うそれの正体に――。
その時だった。空に轟く雷と大雨の向こうから、無数に連なった鳥の大群がこちらに向かってくるのが見えた。空の不機嫌を避けるはずの鳥たちが、迷いのない羽ばたきでローデンブルク城を目指している。
「どういうことだ……?」
鳥の大群に目を奪われていると、あっという間にそれらは城の上までやってきた。鳥の羽ばたく音と甲高い鳴き声が頭上で交叉し、耳が割れそうなほどだ。
大群はちょうどバルコニーの上で留まると、その場で群れを割り、その場で何かを落とした。空から降ってきたものが人だと気づいたのは、無心に手を伸ばしたエアルの腕に、その重みが乗ったとき。
腕の中にいる相手を見て、エアルは息を止めた。
そこにいたのは、顔じゅう酷い傷と血にまみれた泥だらけのローシュだったからだ。
「……ロ、シュ、さま……」
何が起きたのかわからない。現実味のないまま、エアルは目に見えたまま男の名前を漏らした。
これは本当にローシュなのか?
信じられなくて、ふと男の体に目をやる。右腕と左脚から先は無い。血で真っ赤に染まった包帯が、雨に打たれてより血の色が濃く見えた。
ローシュの右腕と左脚が無言の帰還を果たしたのは、少し前のこと。ローシュの葬儀が終わったあとから、ミレーとバルデアは停戦協定を結んだという。
欠損した四肢を見ているうちに、喉の奥が徐々に熱くなっていく。苦しくなっていき、目の前が霞んでいく。
エアルはもう一度男の顔を見た。今度はしっかりと、男の面影を探した。
酷い有り様だし、自分の知っているローシュよりかなりやつれている。
だけど……間違いない。
「ローシュ、さま……」
嗚咽混じりで呼ぶと、男は落ちくぼんだ瞼を重たそうに上げた。乾ききって割れた唇を薄っすらと開ける。
表情ひとつ動かすのも覚束ないけれど、少なくとも生きている。意識もあるようでホッとした。
光のない虚ろな黒目がエアルを捉えた瞬間、男の口元がわずかに綻んだ。安心したような、嬉しそうな顔。見ているこちらまで頬が緩んでしまう。
けれどうまく笑えない。喉の奥で生まれた熱が爆ぜ、エアルはいつの間にか子どものようにわんわん泣いていた。
泣き声を雨が隠してくれているが、ローシュの耳には聞こえていたらしい。ローシュは傷だらけの左手を伸ばし、震える手でエアルの頬をゆっくりと擦った。
「……約束、した、だ、ろ……必ず、帰って、くる……と」
頬に添えられた手を取り、エアルは握り締めた。雨風にさらされていたとはいえ、おそろしく冷たい手だった。この手が自分の知らないところで戦っていたのだ。考えると胸が痛い。言葉が出てこなかった。
泣き続けるエアルを、ローシュはじっと見つめたまま微笑む。そして気づいたようだ。エアルが纏う婚礼衣装のドレスに。
「……綺麗、だな……。結婚式、の準備、をして……待っていて、くれたのか……」
そう言われた瞬間、胸の奥がズキリと痛んだ。このドレスがローシュとの結婚式のものであれば、どれほどよかったか。
けれど今、正直それどころじゃなかった。エアルはただひたすら安堵することに夢中だった。
ローシュが生きていた。腕や脚は失っても、命があった。帰ってきてくれた。神に感謝してもし足りない。ローシュをここまで連れてきてくれた鳥たちにも。
ローシュは微笑みながら、涙と雨に濡れたエアルの頬を指で優しくなぞってくる。穏やかなローシュとは反対に、エアルはローシュを抱きしめたまま止まらない涙を流し続ける。
バルコニーには、雷と雨音でかき消されたエアルの叫びが長い間響き渡った。
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