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二章
04
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国王との謁見が叶ったのは、アルベルトが王都に着いてから五日経ってからだった。
その間、ティペリッシュとの戦の状況などを伝えるため公的な謁見はあったが、アルベルトが求めていたのは私的なものだったため時間がかかったのだ。
戦のあとの事務処理などもあり、多忙な国王の予定とすり合わせたらそういうことになった。
訪問したのは執務室だったがすでに人払いはされており、国王はアルベルトの姿を見ると直前まで書付をしていた手を止めて破顔した。
「目的を果たしたのに、浮かない顔をしているな」
国王に――伯父にそう笑い含みに言われてアルベルトは微かに眉をしかめた。
この表情は自分をからかおうとしているのだと、幼いころから度々顔を合わせているからよくわかるのだ。
アルベルトはあえてそれには答えず、黙って胸元から二枚の書類を差し出した。
伯父の目の前にある執務机にそれを並べ、一歩下がる。
「約束通り、署名をいただきました。受理していただけますか、陛下」
「そうだな……」
伯父はあごに手をやり紙面を視線でなぞると、流れるようにまたその視線をアルベルトに向けた。
「戦いが長引くことはないだろうと思ったから、即日に終わったのは想定内だ。だが、彼女を攫って公爵邸に着いたのは数日前だろう。すんなり署名してもらえたようだが――脅してはおるまいな?」
アルベルトの眉間のしわが深くなる。
署名の文字が震えていることを指しているのだろう。アルベルトに脅すような意図はなかったが、彼女が胸中で考えていそうなことはわかる。
『自分に逆らう権利などない』と、大方そんなことを考えて署名したに違いない。
どんなに下手に出たところで、まだ二人の関係は“支配者”と“被支配者”でしかないのだ。
それはどう取り繕ったところで『脅している』と同義ではないのか。
アルベルトが答えずにいると伯父が苦笑をこぼした。
「すまん、お前のことだから脅していないというのはわかっている。ただ――」
「『ただ』……なんでしょう?」
「気が急いてはいただろうな、と思ってな。すぐに彼女を公爵邸に連れて行ったのもそうだ」
「?」
「使用人が反発しただろう。公爵邸で働くような者は矜持が高い。『ティペリッシュの女など』と言って冷遇してもおかしくはないと思うがな」
「許されるかどうかは置いておいて」と伯父は付け加え、公爵邸に連れて行く前に縁のある子爵家か伯爵家で様子を見ても良かったのではと話す。
考えてもいなかったことを指摘されて、アルベルトは若干血の気が引く。慌ててマリアーナの部屋を訪問したときの様子を思い出す。
床に荷物が放置されていた記憶はない。きれいに片付いていたと思う。着替えてはいなかったが、あてがった侍女が部屋の隅に控えていて、テーブルの上にカップがあったから世話をされていないことはないはずだ。
(だが、彼女はすべて自分でできるんだったか……)
ティフマ城に潜入させたソフィアからの報告では、幼いころは国境の町に放置され使用人にあまり世話をしてもらえず、そこで日常の雑務は自分でできるようになった、と聞いている。
(そんなことを我が邸に来てまで――)
それはまだアルベルトの推測でしかなかったが、それを想像して握った拳に力がこもる。
「アルベルト、おい、戻って来い」
伯父が視界に入るよう手を振っているのを見て我に返り、小さく頭を下げて謝罪する。
「失礼しました……」
「うん、まぁ、お前らしくないな。私はその娘に会ったことがないから、『ティペリッシュの者』としか思えないが……精霊姫の血を継いでいるのなら公爵夫人として我が国に迎え入れるのは、やぶさかではない」
「血を継いでいるのは確実です。道中、森のなかの湖周辺で不思議な光を見たと」
馬車の中に居た彼女が気づいたかはわからないが、あの時周囲ではちょっとした騒ぎになったらしい。
アルベルト自身その光を見てはいないが、それを疑おうとは端から考えていない。
その光は彼女が居たから現れたのだ、と。
「ああ、報告書にあったな。それが精霊だとしたら、実に何十年ぶりになるのだろうな……」
感慨深げな伯父の言葉に、アルベルトも思わず過去へ思い馳せる。
過去と言っても、アルベルトが生まれるはるか昔のことだ。
祖父から父へ、父からアルベルトへと言い聞かされた話は、まるで生まれる前から知っていたかのように心に刻まれている。
当時のティペリッシュの残酷な行いと、精霊姫を奪われた当時の王子の深い嘆きを。
つい考え込んでいると、雰囲気を払拭するように伯父がわざとらしく明るい声を発した。
「だが、お前は別の理由があって彼女を攫ったのだろう? であれば、この最後の文言は必要なかったんじゃないか?」
伯父が指す『最後の文言』とは、子を成せばその後は自由にしていい、というあの一文だ。
伯父はこちらの想いをからかおうとしたようだが、逆にアルベルトは表情を陰らせ視線を落とした。
「私は彼女の父親を殺しました。それ以前は身分を偽らせた侍女をつけ、恐らく帰る場所も失くしたはずです。いつかは精霊姫のことを話し、彼女を攫った理由を伝えなければならない……。私はあと何度彼女を傷つけることになるのかと思うと、それくらいしかしてやれることがなく――」
ハッと我に返り顔を上げると、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべる伯父と視線が合った。
慌てて表情を取り繕おうとするが、頬が赤いのはどうしようもない。
「甥の珍しい表情が見れたな。だが正直なところを言えばどうなんだ? 彼女がお前の傍に居たいと言ったらどうする?」
(彼女が私の傍に居たいと?)
すぐには想像できないが、もしそう言われたなら答えは決まっている。
(彼女を二度と放しはしない)
湖のなかで溺れもがく彼女を助けようと、その細い手首を掴んだときのことをアルベルトはよく覚えている。
あの時のことを思い出すたびに思う。湖から上がったあとも彼女を放さず攫ってしまえば良かったと。
「お前の答えは決まっていたな。詮無いことを聞いた。そうなるよう、伯父として甥の幸せを願っているよ」
笑みを浮かべ、アルベルトが持ってきた書類に伯父が署名する。
それを見ながら内心で胸を撫で下ろし、アルベルトは型通りの礼を執った。
伯父に辞去の挨拶をし執務室をあとにすると、その足で領地の公爵邸へ帰りたい気持ちをぐっと堪え、王都にある邸宅に向かう。
アルベルトが王都に居ることを素早く察知し、すかさず『会いたい』と連絡を寄越して来た人物と会わなければならなかった。
正直無視したかったが、この数か月なにかと都合をつけて避けていた人物なので、そろそろそれも難しいと思っていた。
邸宅に戻ればすでにその人物が待っているというので、アルベルトは誰にも聞かれないようそっと息を吐いた。
憂鬱だから早く終わらせようと応接間へ向かいかけて、使用人に止められる。
訪問客は応接間ではなく庭園の東屋で待っているらしい。
それを聞いて余計に憂鬱になりながら、今度ははっきりと息を吐いてそちらへ向かった。
冬に咲く花が彩る庭園の真ん中に、小さな東屋がある。アルベルトの母親の趣味で造られた、真っ白の石材と丸い屋根が女性らしい華やかな雰囲気を醸している。
堅苦しい『堅物公爵』と言われるアルベルトには不似合いだが、おしゃれなテーブルにつくその人物にはとてもぴったりだ。
最近流行しているといわれる薄紫のドレスを着て、きれいなストレートのブロンドが美しい、白い肌の華奢な令嬢がこちらに小さく手を振っている。
傍まで行くと、大きな青い瞳がまっすぐにアルベルトを見上げてきた。
「ごきげんよう、アルベルト様。久しぶりにお会いできて嬉しいですわ」
「アストリッド……」
アストリッド――アストリッド・ダリアンは従妹にあたる。アルベルトの父親と彼女の母親が兄妹で、母親同士も仲がいいこともあり幼いころからよく顔を合わせていた。
ただ年齢が離れていることから、未だにアルベルトにとっては妹のような存在でしかない。彼女は違うようだが。
「近ごろちっともお会いしてくださらないのだもの。とても寂しかったんですよ?」
眉尻を下げ、小首を傾げる姿は愛らしい小動物のようだ。これが妹や家族としての立場で言ったのであれば素直に受け取れるのだが――。
「きみももう社交界に出れるような年頃だろう。従妹とはいえ単身で私に会いに来るのは控えた方がいい」
アルベルトも席につきながらため息交じりに忠告する。
単身とはいえ当然侍女や護衛はついているが、それは数に入らない。年頃の女性が婚約者でもない男の家に、家族も連れず一人で来るのはあまり風聞も良くないだろう。
だが、アストリッドはニコリと微笑み「気に致しませんわ」と軽く受け流してしまった。
「それより信じられないことを伺ったのですが……」
「……信じられないこととは?」
「アルベルト様がティペリッシュの女と婚約したと」
「……」
つい今しがた書類を提出したところだが、先んじてどこからか情報を得ていたのだろう。なまじ親戚として繋がりがあるので、情報を手に入れるための伝手を持っていることは想像に難くない。
だが、『信じられないこと』や『ティペリッシュの女』と口にしたときの、ほんのり侮蔑のこもった彼女の声音がアルベルトの神経を逆なでしていく。
「なぜですの? わたくしずっとアルベルト様のことをお慕いしていると、折に触れてお伝えしていたつもりだったのですが」
「……きみのことは妹としか見れないと、私もずっと伝えていたつもりだったが?」
「わたくしの何がダメなのでしょう? 教養も家柄も問題ないはずです。自分で言うのもおこがましいかも知れませんが、王族に嫁ぐことさえできるほど美しく育ったと皆おっしゃってくださいます」
「……」
「ティペリッシュの女は精霊姫の血を継いでいるとか。かつて奪われた精霊姫を取り戻したいのはわかります。ですが、アルベルト様でなければならないのですか? 誰かほかの方でも良かったのでは」
アストリッドの言葉が途切れ、一拍遅れてアルベルトは自分が椅子を蹴倒す勢いで立ちあがっていたことを自覚する。
自分の中に渦巻く衝動が、目の前の女性に向かわなくて良かったと安堵しつつも、これ以上彼女の甘ったるい声すら聞きたくなくてアルベルトに珍しく言葉を捲し立てた。
「私はきみの気持ちに応えられないと言った。それでこの話は終わりのはずだ。その話と私が誰と婚約するかは関係がない。それにこれはすでに陛下もお認めになり許可を頂いている。きみが口を差し挟むことじゃない、アストリッド、申し訳ないが見送りはできない。失礼する」
彼女が何かを言うよりも先に踵を返し、背を向けて東屋を立ち去る。
大人げないとわかってはいても、ふいに沸き上がった苛立ちと焦燥感をアルベルトは落ち着かせることができなかった。
「旦那様、今から出ても着くころには真夜中ですよ?」
厩舎まで追ってくる使用人にそう忠告を受けても、構わずアルベルトは馬に跨り「後を頼む」とだけ告げ王都を発った。
その間、ティペリッシュとの戦の状況などを伝えるため公的な謁見はあったが、アルベルトが求めていたのは私的なものだったため時間がかかったのだ。
戦のあとの事務処理などもあり、多忙な国王の予定とすり合わせたらそういうことになった。
訪問したのは執務室だったがすでに人払いはされており、国王はアルベルトの姿を見ると直前まで書付をしていた手を止めて破顔した。
「目的を果たしたのに、浮かない顔をしているな」
国王に――伯父にそう笑い含みに言われてアルベルトは微かに眉をしかめた。
この表情は自分をからかおうとしているのだと、幼いころから度々顔を合わせているからよくわかるのだ。
アルベルトはあえてそれには答えず、黙って胸元から二枚の書類を差し出した。
伯父の目の前にある執務机にそれを並べ、一歩下がる。
「約束通り、署名をいただきました。受理していただけますか、陛下」
「そうだな……」
伯父はあごに手をやり紙面を視線でなぞると、流れるようにまたその視線をアルベルトに向けた。
「戦いが長引くことはないだろうと思ったから、即日に終わったのは想定内だ。だが、彼女を攫って公爵邸に着いたのは数日前だろう。すんなり署名してもらえたようだが――脅してはおるまいな?」
アルベルトの眉間のしわが深くなる。
署名の文字が震えていることを指しているのだろう。アルベルトに脅すような意図はなかったが、彼女が胸中で考えていそうなことはわかる。
『自分に逆らう権利などない』と、大方そんなことを考えて署名したに違いない。
どんなに下手に出たところで、まだ二人の関係は“支配者”と“被支配者”でしかないのだ。
それはどう取り繕ったところで『脅している』と同義ではないのか。
アルベルトが答えずにいると伯父が苦笑をこぼした。
「すまん、お前のことだから脅していないというのはわかっている。ただ――」
「『ただ』……なんでしょう?」
「気が急いてはいただろうな、と思ってな。すぐに彼女を公爵邸に連れて行ったのもそうだ」
「?」
「使用人が反発しただろう。公爵邸で働くような者は矜持が高い。『ティペリッシュの女など』と言って冷遇してもおかしくはないと思うがな」
「許されるかどうかは置いておいて」と伯父は付け加え、公爵邸に連れて行く前に縁のある子爵家か伯爵家で様子を見ても良かったのではと話す。
考えてもいなかったことを指摘されて、アルベルトは若干血の気が引く。慌ててマリアーナの部屋を訪問したときの様子を思い出す。
床に荷物が放置されていた記憶はない。きれいに片付いていたと思う。着替えてはいなかったが、あてがった侍女が部屋の隅に控えていて、テーブルの上にカップがあったから世話をされていないことはないはずだ。
(だが、彼女はすべて自分でできるんだったか……)
ティフマ城に潜入させたソフィアからの報告では、幼いころは国境の町に放置され使用人にあまり世話をしてもらえず、そこで日常の雑務は自分でできるようになった、と聞いている。
(そんなことを我が邸に来てまで――)
それはまだアルベルトの推測でしかなかったが、それを想像して握った拳に力がこもる。
「アルベルト、おい、戻って来い」
伯父が視界に入るよう手を振っているのを見て我に返り、小さく頭を下げて謝罪する。
「失礼しました……」
「うん、まぁ、お前らしくないな。私はその娘に会ったことがないから、『ティペリッシュの者』としか思えないが……精霊姫の血を継いでいるのなら公爵夫人として我が国に迎え入れるのは、やぶさかではない」
「血を継いでいるのは確実です。道中、森のなかの湖周辺で不思議な光を見たと」
馬車の中に居た彼女が気づいたかはわからないが、あの時周囲ではちょっとした騒ぎになったらしい。
アルベルト自身その光を見てはいないが、それを疑おうとは端から考えていない。
その光は彼女が居たから現れたのだ、と。
「ああ、報告書にあったな。それが精霊だとしたら、実に何十年ぶりになるのだろうな……」
感慨深げな伯父の言葉に、アルベルトも思わず過去へ思い馳せる。
過去と言っても、アルベルトが生まれるはるか昔のことだ。
祖父から父へ、父からアルベルトへと言い聞かされた話は、まるで生まれる前から知っていたかのように心に刻まれている。
当時のティペリッシュの残酷な行いと、精霊姫を奪われた当時の王子の深い嘆きを。
つい考え込んでいると、雰囲気を払拭するように伯父がわざとらしく明るい声を発した。
「だが、お前は別の理由があって彼女を攫ったのだろう? であれば、この最後の文言は必要なかったんじゃないか?」
伯父が指す『最後の文言』とは、子を成せばその後は自由にしていい、というあの一文だ。
伯父はこちらの想いをからかおうとしたようだが、逆にアルベルトは表情を陰らせ視線を落とした。
「私は彼女の父親を殺しました。それ以前は身分を偽らせた侍女をつけ、恐らく帰る場所も失くしたはずです。いつかは精霊姫のことを話し、彼女を攫った理由を伝えなければならない……。私はあと何度彼女を傷つけることになるのかと思うと、それくらいしかしてやれることがなく――」
ハッと我に返り顔を上げると、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべる伯父と視線が合った。
慌てて表情を取り繕おうとするが、頬が赤いのはどうしようもない。
「甥の珍しい表情が見れたな。だが正直なところを言えばどうなんだ? 彼女がお前の傍に居たいと言ったらどうする?」
(彼女が私の傍に居たいと?)
すぐには想像できないが、もしそう言われたなら答えは決まっている。
(彼女を二度と放しはしない)
湖のなかで溺れもがく彼女を助けようと、その細い手首を掴んだときのことをアルベルトはよく覚えている。
あの時のことを思い出すたびに思う。湖から上がったあとも彼女を放さず攫ってしまえば良かったと。
「お前の答えは決まっていたな。詮無いことを聞いた。そうなるよう、伯父として甥の幸せを願っているよ」
笑みを浮かべ、アルベルトが持ってきた書類に伯父が署名する。
それを見ながら内心で胸を撫で下ろし、アルベルトは型通りの礼を執った。
伯父に辞去の挨拶をし執務室をあとにすると、その足で領地の公爵邸へ帰りたい気持ちをぐっと堪え、王都にある邸宅に向かう。
アルベルトが王都に居ることを素早く察知し、すかさず『会いたい』と連絡を寄越して来た人物と会わなければならなかった。
正直無視したかったが、この数か月なにかと都合をつけて避けていた人物なので、そろそろそれも難しいと思っていた。
邸宅に戻ればすでにその人物が待っているというので、アルベルトは誰にも聞かれないようそっと息を吐いた。
憂鬱だから早く終わらせようと応接間へ向かいかけて、使用人に止められる。
訪問客は応接間ではなく庭園の東屋で待っているらしい。
それを聞いて余計に憂鬱になりながら、今度ははっきりと息を吐いてそちらへ向かった。
冬に咲く花が彩る庭園の真ん中に、小さな東屋がある。アルベルトの母親の趣味で造られた、真っ白の石材と丸い屋根が女性らしい華やかな雰囲気を醸している。
堅苦しい『堅物公爵』と言われるアルベルトには不似合いだが、おしゃれなテーブルにつくその人物にはとてもぴったりだ。
最近流行しているといわれる薄紫のドレスを着て、きれいなストレートのブロンドが美しい、白い肌の華奢な令嬢がこちらに小さく手を振っている。
傍まで行くと、大きな青い瞳がまっすぐにアルベルトを見上げてきた。
「ごきげんよう、アルベルト様。久しぶりにお会いできて嬉しいですわ」
「アストリッド……」
アストリッド――アストリッド・ダリアンは従妹にあたる。アルベルトの父親と彼女の母親が兄妹で、母親同士も仲がいいこともあり幼いころからよく顔を合わせていた。
ただ年齢が離れていることから、未だにアルベルトにとっては妹のような存在でしかない。彼女は違うようだが。
「近ごろちっともお会いしてくださらないのだもの。とても寂しかったんですよ?」
眉尻を下げ、小首を傾げる姿は愛らしい小動物のようだ。これが妹や家族としての立場で言ったのであれば素直に受け取れるのだが――。
「きみももう社交界に出れるような年頃だろう。従妹とはいえ単身で私に会いに来るのは控えた方がいい」
アルベルトも席につきながらため息交じりに忠告する。
単身とはいえ当然侍女や護衛はついているが、それは数に入らない。年頃の女性が婚約者でもない男の家に、家族も連れず一人で来るのはあまり風聞も良くないだろう。
だが、アストリッドはニコリと微笑み「気に致しませんわ」と軽く受け流してしまった。
「それより信じられないことを伺ったのですが……」
「……信じられないこととは?」
「アルベルト様がティペリッシュの女と婚約したと」
「……」
つい今しがた書類を提出したところだが、先んじてどこからか情報を得ていたのだろう。なまじ親戚として繋がりがあるので、情報を手に入れるための伝手を持っていることは想像に難くない。
だが、『信じられないこと』や『ティペリッシュの女』と口にしたときの、ほんのり侮蔑のこもった彼女の声音がアルベルトの神経を逆なでしていく。
「なぜですの? わたくしずっとアルベルト様のことをお慕いしていると、折に触れてお伝えしていたつもりだったのですが」
「……きみのことは妹としか見れないと、私もずっと伝えていたつもりだったが?」
「わたくしの何がダメなのでしょう? 教養も家柄も問題ないはずです。自分で言うのもおこがましいかも知れませんが、王族に嫁ぐことさえできるほど美しく育ったと皆おっしゃってくださいます」
「……」
「ティペリッシュの女は精霊姫の血を継いでいるとか。かつて奪われた精霊姫を取り戻したいのはわかります。ですが、アルベルト様でなければならないのですか? 誰かほかの方でも良かったのでは」
アストリッドの言葉が途切れ、一拍遅れてアルベルトは自分が椅子を蹴倒す勢いで立ちあがっていたことを自覚する。
自分の中に渦巻く衝動が、目の前の女性に向かわなくて良かったと安堵しつつも、これ以上彼女の甘ったるい声すら聞きたくなくてアルベルトに珍しく言葉を捲し立てた。
「私はきみの気持ちに応えられないと言った。それでこの話は終わりのはずだ。その話と私が誰と婚約するかは関係がない。それにこれはすでに陛下もお認めになり許可を頂いている。きみが口を差し挟むことじゃない、アストリッド、申し訳ないが見送りはできない。失礼する」
彼女が何かを言うよりも先に踵を返し、背を向けて東屋を立ち去る。
大人げないとわかってはいても、ふいに沸き上がった苛立ちと焦燥感をアルベルトは落ち着かせることができなかった。
「旦那様、今から出ても着くころには真夜中ですよ?」
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