噛みたいαと大きい背中

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 週末に照と出かけることになり、授業終わりに照と打ち合わせをすることになっていた。外出は遠巻きにSPが付くらしい。学としては落ち着かないと思うのだが、これに関しては照が家族を説得したらしかった。照もSPが近くにいないお出かけはほとんどないようで、やや興奮気味に字を走り書きして話す。スケジュールを考えて提示するように、と言われた照は行きたいところをピックアップしている。学もその予定が現実的かどうか確認をお願いされた。照は外出に慣れていないためか、距離感や交通手段が学と違って少々空想的だ。

 学は照を待って階段のある広場に座りこんでいた。レンガの階段が下まで続いている。開けた場所はステージのようだ。音がきれいに響き渡りそうな晴れた空。そんなところで演奏ができたら気持ちが良くて最高だろうな……、と思っていたその時だった。

 襟足に触れたものがある。ふっとかかる温かい風。続いてひんやりとしたものが首筋に当たった。後ろ髪が揺さぶられる、これは風が学の髪を掬ったのではない。

 それが誰かの顔だと気が付くより先に身体の芯から熱が発生して、学の全身を燃やす。駆け巡る熱い血潮。心臓が早鐘を打ち、その響きは身体全体を駆け巡った。耳から鼓動が聞こえる。身体はほてり、甘くしびれて、ふわふわとした脱力感が襲う。

 思わず学は荒いため息を吐いていた。全身のコントロールを失いそうな感覚は、強いヒートを起こした時とそっくりである。小さい頃以来の強烈な発情に学は驚く。甘い、身体を揺さぶる気持ちよさ、中心部の疼き、脳が蕩けてしまいそうな好意の爆発……。

 今なら何をされてもいい。感じたことがない快感が学を襲った。

 ──後ろにアルファがいる……!

 全身を襲った感覚に抗うように、学は勢いよく立ち上がっていた。黙っていれば、されるがままになると思ったのだ。しかし、強烈な快感を帯びた身体は言うことをきかない。学はよろめきそうになり、どうにか踏みとどまった。

 今まで出会ったことはないが、オメガのうなじに近づくことでヒートを誘発するアルファがいるという話は主治医から聞いている。大体は番同士でおこる発情ではあるが、フリーでもそういった力を持つ者もいるらしいのだ。

 学は首筋を押さえながら後ろずさった。知らないアルファに噛まれないように首のガードを付けているものの──残念なことに、科学が発展したこの時代でも、勝手にオメガの首筋に噛みついてくる人権侵害をするものはいるのである──、そこに顔を近づけられるのはあまり気分がいいことではない。

 ──気分が良くない?

 学は自らの思考と身体の感覚に乖離を感じていた。頭では番でもないオメガのうなじに近づいて来るとんでもないやつが出たと思っているものの、身体に流れた電流のような強い快感は好ましいものだ。

 きっと、いきなり現れた感覚に混乱しているのだろうと学は思った。……まさか、身体が感じたのが嫌なものではなかったなんて、そんなことはあるはずがない。無防備な首筋に寄られるなんて、でもなければ、ただただ危機感を感じるだけなのだ。強い刺激を与えられて身体が変な反応を起こしているに違いない。

 誰だ、と学は後ろをとった相手の顔を見た。

 学の後ろにいたのはきょとんとした顔をしている照だった。

 誰かもっと学よりも存在感のある相手、それか、大学内にいる不埒なアルファを想定していた学はあっけにとられた。身体が蕩けてしまいそうなしびれる感覚に襲われたのだ。それを誘発したのが照だとは到底信じられなかった。この小さい女の子が。どの性の男にも屈服させられてしまいそうな照が、学のヒートを誘発するような強い力を持っているとは思えない。その瞳の赤さはまごうことなきアルファの物だが、それは血筋上の話で、照自体の能力の話ではないと学は思っていた。

 だいたい、普段一緒にいるのにもかかわらず照は日常生活の中で学に影響を及ぼしたことはないのだ。彼女が学のヒートを誘発するのならば、日常生活を送れないくらいに毎日学は腰砕けになっているはずだ。それほど強い発情の感覚で、だからこそ、身体に感じた衝撃は照が学に与えたものではないのだろう、と学は考えた。

 ならば、学の発情期の周期が乱れているのだろうか。自分の周期を頭で浮かばせつつ、学は無防備なうなじに近寄った照を叱った。

「いきなり後ろから近づくとびっくりするだろ!」

 学はいくらか語気を強くする。いくら親しい中とは言え、プライベートソーンと言えるうなじに顔を近づけられるのは、相手が照だとしても驚くのだ。その声色に照が驚き、スケッチブックの代わりに使っている小さなメモ帳にごめんなさいと書いて学に見せた。いつものスケッチブックでないからか、照の委縮した感情を表しているような小さな文字である。学の大きな声でしょんぼりしているようだったので、いたたまれなくなって、学はしゃがんで照りと目線を合わせて言った。

「いや、びっくりしたけど、照だったから、……そこまで怒ってないけどさ。ていうか、お前だって家の方針があるんだろうから、むやみやたらにオメガの首筋に顔を近づけるなよ」

 学が照にそういうと、照がしぶしぶ頷く。

 そう、この御令嬢はちんまりしたなりをしてアルファなのだ。いばら家は代々アルファの血筋である。オメガやベータが生まれた過去はなく、結婚する相手もアルファの家計の生粋のアルファ血筋。照も例外ではなかった。照の知識に向ける情熱には才能があるとは思っていたが、本当に才能がある種族だったとは学もあとから気が付いた。

 令嬢であり、アルファの照がむやみやたらにオメガのうなじに近づくとなると、遊んでいると言われてもおかしくはない。ただでさえ、大学の中でオメガと一緒に行動して周囲から奇異の目で見られているのである。それに加えて、不純異性交遊なんて噂が立ったならば、照も大学にいられなくなるだろう。少なくとも、学が親だったとしたら、大学に行かせるのはやめると思う。スキャンダルを起こせば、財閥のイメージが悪くなるからだ。

「わかってると思うけど、オメガのヒートにあてられたらアルファは抗えないんだから、あんまり近づくなよ。僕はたまたま、発情期が薄いだけなんだから」

 学がそういうのはスキャンダルへの忠告だけではない。

 照はアルファだが、その身体はあまりに小さい。身長は学の胸の高さに届くか届かないかだし、身体の幅も薄さも学の半分ほどである。他のアルファはおろかオメガだったとしても、男に襲われたらひとたまりもないだろう。

 ヒートにあてられて自由が利かなくなった照を好き勝手にするのはたやすい。けがをするかもしれない。ケガだけじゃすまされないかもしれない。傷つくのは目に見えている。しかし、起こりうる可能性があるのが、アルファとオメガのホルモンの宿命である。

 一瞬、誰かに襲われた照が学の脳内をよぎる。嫌な想像を頭から打ち消す。

『学は大丈夫』

 照が書いて学に見せてきた。学が言う「学を含めた男」にあまり気安く近づくんじゃないということをわかっているのかいないのか、照はまじめな顔をしていた。学は照に危害を加えるつもりはないが、男全般は照りにとって脅威なのであるという話であるのに。もちろん、男だけではなく、アルファの女性を相手取っても照は勝てないだろう。

「僕は発情期の抑制剤をちゃんと飲んでるからな……。もう何年も困ったことはないけど、薬が合わなくて抑え込めていない奴だっているんだよ」

 学もオメガだということがわかり、思春期に突入してからはホルモンの状態が不安定で発情期が重たかったものの、科学技術の進歩が生んだ抑制剤を長く飲んで安定して発情期が軽くなってきた。先月は講義を休んでしまった日もあったが、それも一日だけの話だ。

 科学の力はすごい。今まで抑え込めないと思っていた発情期をコントロールすることが可能になったのだから。そのホルモン剤も刻一刻と変化している。いまや、発情期を押さえるだけではなく、身体が小さく成長しがちだったオメガに対して成長ホルモンを打ち、アルファやベータと同じくらいの身体の成長も促すことができる薬もある。学が並み以上の体格になったのも親が薬を使ってくれたからだ。

「僕だってお前より体が大きいんだから。発情期が来てる僕にも近づくんじゃないぞ」

 そう、オメガの学だって照を抑え込めるのはたやすい、と学は念を押した。

 照は実感がないのか首をかしげる。今度は、SPが付いてるから大丈夫だよ、と書いて学に見せてきた。

 この箱入りアルファは全く、世の中の悪意に対して頓着してないというか……。決して悪意にさらされてきたわけではいというのに、お嬢様な部分もあるんだなと、思った学である。

 ***

 そんな出来事があった帰り道、学は照に鼻で擦られた首筋に手を当てていた。首輪をしているから誰か知らないアルファに噛まれることはない。身長が皆同じだった小学生の時にはからかわれてハイタッチされる場所だったもののが、身長が伸びてからは容易にそこに触れられることもなくなった。だから油断をしていた。まさか身長の低い照に後ろをとられるなんて想像もつかなかった。

 学が自分だって男なのだと照に言ったように、照だってアルファなのだから、気をつけないと……、と自分に言い聞かせる。

 しかし、その鼻先のつるりとした感覚、身近に感じた吐息を思い出すと心臓が大きな音を立て始めた。それは、決して嫌な音ではなかった。

 ──嫌じゃなかったけど……。

 プライベートな場所に近づかれて、何してくれたんだと憤慨する気持ちはあるが、そこに近づいたのが照だとわかると、学は少し安堵した気持ちになったのも確かだった。きょとんとした顔をしていた照の顔を見て、今の感覚は照が引き起こしたのかもしれないと思ったのも事実だ。

 嫌じゃないとはどういうことだろう。全身を駆け抜けた火照り、甘くしびれた身体、とけそうな腰の感覚。できることならもう一度顔を近づけて鼻で首筋に触れてみてほしい。その感覚は感じたことがなく、確かめるために学はもう一度近づいてほしいとさえ思っていた。

 それすなわち、照というアルファに噛まれたいということではなかろうか。

 ──照に噛まれたい!?

 ──いやいや、無しだろ!

 自分の心の奥にそのような願望があるのだろうか。学は自らの思考にびっくりして、顔が歪んだのがわかった。顔に血液が回り、変なあせもかいている。

 いくら一緒に過ごしているからって、そう簡単にアルファに引き寄せられてたまるか。

 ──ただいっしょにいるから、居心地がいいだけだ。

 それに、相手は財閥の御令嬢だ。

 オメガで就職口さえ危ぶまれている学とは釣り合わない相手である。
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