噛みたいαと大きい背中

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 その日から、学と照はスケッチブックでコミュニケーションをとることに決めた。照にとってはその方法が気が楽らしい。話せず、意思疎通ができないことは、学にとってだけではなく、照にとっても疲れることだったようだ。

 最初は難しそうな顔をしていた照だったが、次第に学の前ではリラックスした表情を見せるようになってきた。眉間に寄っていた皺も今は見られない。学の話を聞いて、ちょっとだけにやにやするときもある。笑い声をあげるのも苦手なのかと聞いたら、照はお上品に笑いなさいとしつけられている、と教えてくれた。

 一言聞けば、照からは百くらい返事が返ってくる。学のTシャツの裾を引っ張って呼んだ後、小さな手がちょこまかとスケッチブックの上で文字を書く。矢継ぎ早に書くため、待ってるよ、と言ったものの、照には話したいことがたくさんあるらしい。最後の方はほとんど走り書きで、字が汚いのが意外である。

 その無口で退屈そうな雰囲気からは想像がつかないくらい、とぼけた話にも学は笑ってしまった。最近の大学の話を家族に聴取されたと照が話した時のことだ。

 満員電車で大学に通っているのは家族には秘密らしい。そして、万が一ばれても、家の人間はリムジンに慣れているから、朝、通学で満員電車に乗っている照には追い付けないのだという。その話を真剣に書いて自信満々に学に見せてきたのだ。付添人はそれについてもしっかりと報告しているのも知らずに。

 学は付添人と自分とのやり取りを思い出して照にバレないように、ちょっと笑った。

 課題をやっている時は話が少なかった。むしろ、まったくと言っていいほど照は話さない。課題に手を付けながらスケッチブックで筆談をするのは大変だからでもあるが、やはり考え事は一人で解決する質らしい。課題が終わった後にふーっと一息ついて、照は学と再び話を始めるのだ。

 照の専攻は経済学だった。同じ文系科目だと思って覗いた照の手元には数字と数式が並び、学は一瞬で頭がパンクした。子供のようでぽやんとしている照を見ていると、意外な専攻だと学は感じる。

 経済学が好きなのかと問うと、首をひねって、将来使うからと照は話した。彼女はいばら財閥の総帥になる気満々らしい。周囲の人間の評判はわかっているというが──小さくて頼りない、姿かたちが中学生なものだから、勉学もそれなり──、実力で乗り切ると小鼻を膨らませて話す。この発言も勇ましくて学は驚く。

 そして、照は読書家でもあった。最近読んだ本を聞くと、新発売の重たそうなミステリーから海外の昔ながらの童話まで幅広く名前が連ねられる。経済学専攻なのにフィクションを読んでいるのが不思議だと話すと、照は経済学もフィクションであると共通点を話し始めて学を混乱させた。

 物語以外にも、照は図鑑も眺めていることも多い。図鑑を眺めるのは小学生の時以来の学だが、照と一緒に読む図鑑は楽しかった。虫の図鑑は気持ちが悪かったが、照は好きらしい。確かに、外で芋虫を見たり、蟻を眺めていたりしたのを学は思い出して、納得する。

 筆談で話す照は相変わらず生真面目なそうな顔をしているが、学はそれにも慣れてきた。それよりも、照と話ができるようになって、今までの生活が嘘のように楽しい。勉強をして家に帰って、という生活に照が加わっただけなのに。今日は照と何を話すかについて考えることが増えている。

 コミュニケーションが取れるようになると、おのずと照の表情や態度から、なんとなく、筆談をしなくてもどんな考えをしているのかわかるようになってきた。物をとってほしいとか、この本のページが好きだとか、気温の変化で体調が変わったときとか、ちょっとした眉の動きや肩のすくめ方が違う。学も話したいことがあると、不思議と照も同じ話題を話したがっていることも増えた。

 それは、九郎といる時やバンドのメンバーと過ごしていた時と同じような感覚に似ている。それが照ともできるようになってきた、ということは、友達になりましょうと始まった関係が、本当に友達になったと言えるような関係に変わったからではないだろうか。

 ──友達って、確かにこんな感じかも。

 学はそう思っていた。照といると疲れるなんてことはすっかり忘れていた。むしろ、照がいない方がそわそわとしてしまうくらいに生活が変化していたのだった。

 そんな日々がしばらく続き、照りに渡したスケッチブックは紙をめくって最後の一ページになってしまった。あっと口を開きながら目を丸くして、照が固まる。無表情なりに、ちいさな百面相をすることもわかってきた。今は口をとがらせて、残念そうに眉を落としている。そして、スケッチブックに終わったと書いて、学を笑わせた。

「今度、もう一冊買いに行こう」

 学が誘うと、迷ったように視線をうろうろさせた後、照はうんと頷いた。

 今週末は文房具屋に行く約束をした。
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