玉座の檻

萌於カク

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小さな命

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 アミーユは腹を撫でた。
 ここには命がある…………。

 次の新月の夜も、その次の新月の夜も、ヒートは起きなかった。
 ダンも首を傾げていた。
 アミーユはこれまでにない体の不調を覚えて、やっと思い至った。
 天幕の下、ダンと情を交わした夜は満月だった。
 どうして思いつかなかったのか。

 命を授かったんだ…………。
 だから発情が起きない。それもまた自然の摂理だ。
 アミーユはうろたえ、戸惑い、そして、覚悟した。

 Ωを自覚して、もう4年。
 ダンとの最初の夜に妊娠を忌避したころとは違っている。
 ダンを愛している。子を産んでいいとさえも思っている。いや、今のアミーユはダンの子が欲しい。

 まだ実感はない。赤子など具体的には想像もつかない。
 しかし、腹に子どもがいるのならば、その子を産めば。
 ダンは生き方を変えてくれるのではないか―――。

♰♰♰

 レオナルドとの話の翌日、アミーユはアデレート宰相の執務室を訪れた。
 レオナルドの話で、一刻の猶予もなく軍をやめなければならない、アミーユはそう決意した。
 飛ぶ鳥跡を濁さず、いろいろと準備を整えてからやめようと思っていた自分はやはり甘いのだ。

 俺はもう舞台に上がっている。注目の人となっている。
 少しでも早く舞台を去らねば。

 辞表を提出すると、アデレート宰相は息を呑んだ。しばらくの間、黙り込んでアミーユを見つめていた。

「理由を訊かせてくれますか」

 アデレート宰相は微笑んで、アミーユにソファを勧めて、自分も横に座った。
 アミーユは膝の上の拳をギュッと握った。

「私はΩなのです」

 これにはアデレートは驚愕していた。座っていなければ腰を抜かしたところだろう。
 口もきけないほどに驚き返っていたアデレートは、何度も口を開きかけては閉じ、やっとのことで尋ねた。

「本当に?」
「ええ、本当です。そして………、命を授かっています」

 アデレートは、今度ばかりは、座っていながらにして、腰を抜かした。ソファからずり落ちて、ペタンと絨毯に尻もちをついている。

 今やアミーユはΩであることを、そして子どもを授かっていることを、全世界に言いふらしたいほどの気持ちだった。
 愛する人の子どもを腹に宿したことに、喜びを感じている。静かに高揚するものがあった。

 アミーユに助け起こされたアデレートは、驚愕したまま、しばらく黙り込んでいた。
 戦争を勝利に導いたばかりの総司令官が、国の英雄が、Ωで、しかも、子を宿しているという。
 驚かせすぎて、アミーユはアデレートが心配になった。
 しかし、アデレートは、アミーユを見つめたときには、受け入れていた。

「驚きました。大変、驚きましたよ。しかし、こうしてみれば、あなたは少年のようにほっそりとした体つきのままだし、軍にあっても、乱暴でもなければ、いつもおしとやかでした」
「わ、私が、お、しとやか………?」

 アミーユは、目を白黒させる。軍人に使う言葉では決してない。

「ええ、それに、たおやかです」
「たっ? たおっ?」
「これは失礼しました。わたくし、混乱しているようですわ」

 アデレートは、アミーユに対して、いたわしげな顔になる。

「これまで、大変な苦労があったことでしょう。よくぞ耐えてこられました」

 不意にねぎらわれて、アミーユは張っていた気が緩む。鼻の奥がツンとしびれる。
 Ωを受け入れるには、そしてΩとして生きるには、それなりの苦労があった。
 しかし、Ωが軍人をやってこられたのも休暇を遠慮なく取れたおかげだ。

「ヒート休暇がなければ、今頃、私はここにはいませんでした。制度のおかげです。そしてそれはアデレート宰相のなされたことです」

 思えば、アデレート宰相の改革が軍にも行き渡っているのである。

「実はわたくしもΩなのです」

 今度はアミーユが目を見開く番だった。アデレートのように優秀であれば当然αだろうと思い込んでいた。

「わたくしは平民に生まれ、女で、しかも、Ωです。この社会は、貴族で、男で、αに生きやすくなっています。それをひっくり返してやろうと、いつも思っているのです」

 アデレートはおてんば娘のように笑った。

 アデレートは引き留めることもなくアミーユを見送った。最後に「お体を大切にするのですよ」と励ましの言葉まで告げてきた。

♰♰♰

 レルシュ邸に戻れば、そこは隅から隅まで居心地よく整えられていた。
 アミーユは、伯爵夫妻の寝室だった場所を、自分の寝室にした。内装もすべて変えた。やはり白でまとめた。

 もう『赤の間』などとは呼ばない。もうダンとの絆はしっかりとあるはずだ。そんなゲン担ぎのようなことはしない。
 今日から、ここは俺たち二人の家だ。いや三人の―――。

 アミーユは晴れやかな気持ちで、バルコニーから庭を眺めた。少し前までは荒れた庭だったが、今は手入れが行き届いている。

 通いの下女に加え、住み込みの夫婦を雇った。男のほうは用心棒になるほど逞しいし、女のほうは気遣いもできる。
 ダンとのことを考えると、使用人はこれ以上は増やせなかった。

 ダンにどう切り出そうかと迷っていたが、驚くことにダンもまた、ヒートの来ない理由に思い至っていたようだった。
 顔を合わせるなり、お互いにそのことを悟る。

 ダンは、アミーユをひしと抱きしめてきた。抱き上げてベッドまで連れていくと、ベッドに座る。そして、膝にアミーユを乗せた。
 ダンはアミーユの腹をそっと撫でてきた。

「アミーユ、ここには俺たちの子どもがいるんだね?」
「うん」

 ダンの様子に、アミーユの頬に涙がハラハラとつたう。
 よかった、子ができたことをダンは嫌がっていない。それどころか喜んでいる。

「お、れ、軍をやめてきた。怒る?」
「どうして?」
「もう、お前の役には立てない」
「そんなの!」
「お、俺はもうお前を守れない」
「アミーユ、守るのは俺だ。俺がお前たちを守る」

 アミーユは後ろを向いた。足でダンの膝をまたいで、腹から胸までダンに密着するようにくっつける。

「ホント?」 
「ああ、ホントだ」
「俺たちは家族だな。三人で家族だ」
「うん、そうだ」

 ダンも涙ぐんでいる。アミーユはその背中をぎゅっと抱きしめた。
 ああ、よかった、ダンは大人だ。大人になったんだ。

「じゃあ、ダン、ずっとそばにいろ」
「うん」
「そ、それはつまり、盗賊をやめるってことだぞ」

 途端にダンは眉尻をさげて、しょんぼりした顔になった。
 その顔をされれば、アミーユはもう何も言えなくなる。
 俺は10万の将兵を動かす立場にあったのに、たった一人を動かせないとはどういうことだ?

 アミーユには、やはりダンの生き方を変えることはできそうにない。予想していたことだ。
 しかし、子どもの顔を見るうちに、そのうちダンも落ち着くのではないか。

 それから、ダンはたびたび現れるようになった。出て行ってから、三日も空けないうちにレルシュ邸を訪れる。

 いい兆候だ。これなら盗賊稼業からも足を洗う日も近そうだ。貴族を討つなどと、そのうち、目も覚めるだろう。

 アミーユはダンに服を作らせたり、地方のウイスキーを取り寄せたりした。

 アミーユは浮かれていた。浮かれすぎていた。
 幸せだった。このうえなく幸せだった。
 浮かれてはしゃぐほどに幸せだった。

 しかし、その日々は長くは続かなかった。

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