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軍務長官、再び
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その日、レルシュ邸では、階下で騒ぎがあった。軍を引退して一か月ほど過ぎた頃だった。それは二階へと上がってくる。
「アミーユ、アミーユ!」
そのとき、アミーユは、柔らかいガウンに身を包んで、ベッドで朝食をつまんでいた。アミーユは、久しぶりに耳にするその声に思わず身を竦めた。
ドアを乱暴に開けていく音が続いたのち、ついにアミーユの寝室のドアが開いた。
「アミーユ! どういうこと! これは!」
伯爵夫人だった。王都に戻ってきたのだ。
アミーユを見るなり、叫んだ。
「この泥棒が!」
ズカズカと寝室に入り込んで、床のものを拾い上げる。
「まあ、これは何?!」
脱ぎ散らかしたままのダンの衣類だ。ダンはアミーユの用意した新しい服を着込んで、深夜に出て行った。
アミーユには大きすぎるサイズの衣類を夫人は踏んづけた。
「いやらしい!」
夫人はアミーユのベッドまで来ると、朝食の乗ったトレーを床に放り投げた。ガラスの割れる音が響く。
夫人は無遠慮にアミーユのシーツをはいだ。鼻を鳴らすと、顔をしかめる。そして、サイドテーブルの花瓶を手に取る。香りのよい柑橘樹の枝が水とともに床にぶちまけられる。
「この子は! この子は! やはりΩだった!」
夫人は花瓶を持ち上げた。そして、あろうことかアミーユにめがけて打ち下ろした。アミーユは咄嗟に腹をかばって背中を丸めた。
夫人は容赦なく花瓶を振り下ろす。
「けがらわしい! けがらわしい! 私は鼻が利くんだ。お前もΩだろうと思ってたよ。けがらわしい!」
夫人は何度もアミーユに花瓶を打ち付ける。
アミーユがベッドの反対側の床に転がり逃げれば、夫人も回ってきた。床にうずくまるアミーユを、足で蹴りつける。
「あの夜、そのけがらわしい匂いでゲイルを誘ったんだ! お前がゲイルを殺した! お前は! お前は! ゲイルを殺したくせに、この屋敷をわがものにして! この泥棒! 今すぐ出ておいき! 出ておいき!」
伯爵夫人は激しくわめきながらアミーユを蹴った。
そこに、ドタドタと足早に入ってきた足音があった。
「なにごとだ! やめぬか!」
伯爵の声だった。
伯爵夫人はようやくアミーユへの暴行をやめた。夫に訴える。
「あなた、こいつがここでのさばっているのなんか、許せますか! いいえ、許せません!」
伯爵夫人はそう言って、またアミーユの背中を蹴る。
「いいから、やめぬか! 子どもが見ているんだぞ」
その声に伯爵夫人の暴力はやっと収まった。
うずくまっていたアミーユがようやく顔を上げると、伯爵は幼い男の子を抱いていた。
♰♰♰
アミーユは追い立てられるようにしてレルシュ邸を後にした。
呆然と歩く。
ああ、ああ…………。どうしよう、どこにいけば………。
数歩も歩かないうちに、我慢できない痛みに襲われる。
背中の痛みに紛れていた腹の痛みが、急激に大きくなる。
激痛に、吐き気がしてきた。悪寒がして、脂汗がにじみ出る。
立ち止まって膝に手をつけば、通行人が声をかけてきた。
「どうかしましたか」
医者、医者にかからねば。
まともな医者にかかれるところ。
レオナルド、いやだめだ。アミーユの脳裏に浮かんだ完璧な家族写真に気が引ける。
アデレート宰相閣下。
「宰相閣下、アデレート夫人の屋敷に…………」
閣下ならきっと、助けてくださる。
通行人にそれだけ告げると、あとはわからなくなった。
♰♰♰
アミーユが意識を取り戻したときには、メイドがベッドの脇にいた。
アミーユが起き上がりかけると、飛び上がって部屋を出ていった。間もなくしてアデレート宰相が現れた。
その表情で、もう命は失われたことを知る。
「リージュ公…………」
また作ればいいだの、アミーユが助かっただけマシだの、そんな気慰めを一切言わなかった。ただ、アデレート宰相はアミーユの代わりに涙をつたわせた。
アデレート宰相の屋敷で、寝たり起きたりをして、半月もすれば体調も戻ってきた。
ようやくアミーユにも涙がこぼれてきた。
せっかくの命を守れなかった。せっかくの命を。
思えば邪だった。子をだしにしてダンを更生させようなどという邪な望みを抱いた。それが間違いだった。
母親に捨てられたことを恨んでいたくせに、俺はもっとひどいことをしようとしていた。
ダンは今、どこにいるのだろう…………。
その居場所も知らないとは。
アミーユはダンとのつながりが、恐ろしいほどに頼りないものであることを思い知った。
ダンが会いに来なくなれば、切れてしまう。それだけの関係。
ダンもアミーユを心配しているかもしれない。探しているかもしれない。
しかし、アミーユからはダンに連絡を取りようがないのだ。
アミーユは、アデレート宰相に、事情を話した。伯爵夫妻は自分をよく思っていないこと、夫妻が弟を連れて王都に戻ったために、アミーユはレルシュ邸に住めなくなったこと。
弟ができればもうアミーユを伯爵家に置いておく理由もない。アミーユは、遅かれ早かれ伯爵家を追い出される運命だった。
いつまでもアデレート宰相の屋敷に世話になることもできないために、下宿をさがすことにした。
「リージュ公、いつまでもいてくださっていいのですよ」
アデレート宰相はそう言う。そして、「それにしても」と腹を立てる。
「あなたのαはいったいどこで何をしているの?」
アミーユは何も言えずに黙り込む。
「立場ある方なのね?」
アデレート宰相は、アミーユの相手をそういう意味での訳のある相手だと勘違いしたようだ。まさか山賊上がりの夢追い人とは思いもよらない。
アミーユはあえてうなずいた。
「はい、名を言えば、その方に迷惑をおかけします」
アデレート宰相はうなずくと、顔つきを変えた。アミーユの友人の立場から、公人の顔になる。
「リージュ公、軍は今、わたくしの直下にあります」
「え?」
「軍務長官の席はまだ空席なのです。もう一度、軍務長官に……」
「いいのですか………?」
アミーユは、再び、軍服に身を包むことになった。
「アミーユ、アミーユ!」
そのとき、アミーユは、柔らかいガウンに身を包んで、ベッドで朝食をつまんでいた。アミーユは、久しぶりに耳にするその声に思わず身を竦めた。
ドアを乱暴に開けていく音が続いたのち、ついにアミーユの寝室のドアが開いた。
「アミーユ! どういうこと! これは!」
伯爵夫人だった。王都に戻ってきたのだ。
アミーユを見るなり、叫んだ。
「この泥棒が!」
ズカズカと寝室に入り込んで、床のものを拾い上げる。
「まあ、これは何?!」
脱ぎ散らかしたままのダンの衣類だ。ダンはアミーユの用意した新しい服を着込んで、深夜に出て行った。
アミーユには大きすぎるサイズの衣類を夫人は踏んづけた。
「いやらしい!」
夫人はアミーユのベッドまで来ると、朝食の乗ったトレーを床に放り投げた。ガラスの割れる音が響く。
夫人は無遠慮にアミーユのシーツをはいだ。鼻を鳴らすと、顔をしかめる。そして、サイドテーブルの花瓶を手に取る。香りのよい柑橘樹の枝が水とともに床にぶちまけられる。
「この子は! この子は! やはりΩだった!」
夫人は花瓶を持ち上げた。そして、あろうことかアミーユにめがけて打ち下ろした。アミーユは咄嗟に腹をかばって背中を丸めた。
夫人は容赦なく花瓶を振り下ろす。
「けがらわしい! けがらわしい! 私は鼻が利くんだ。お前もΩだろうと思ってたよ。けがらわしい!」
夫人は何度もアミーユに花瓶を打ち付ける。
アミーユがベッドの反対側の床に転がり逃げれば、夫人も回ってきた。床にうずくまるアミーユを、足で蹴りつける。
「あの夜、そのけがらわしい匂いでゲイルを誘ったんだ! お前がゲイルを殺した! お前は! お前は! ゲイルを殺したくせに、この屋敷をわがものにして! この泥棒! 今すぐ出ておいき! 出ておいき!」
伯爵夫人は激しくわめきながらアミーユを蹴った。
そこに、ドタドタと足早に入ってきた足音があった。
「なにごとだ! やめぬか!」
伯爵の声だった。
伯爵夫人はようやくアミーユへの暴行をやめた。夫に訴える。
「あなた、こいつがここでのさばっているのなんか、許せますか! いいえ、許せません!」
伯爵夫人はそう言って、またアミーユの背中を蹴る。
「いいから、やめぬか! 子どもが見ているんだぞ」
その声に伯爵夫人の暴力はやっと収まった。
うずくまっていたアミーユがようやく顔を上げると、伯爵は幼い男の子を抱いていた。
♰♰♰
アミーユは追い立てられるようにしてレルシュ邸を後にした。
呆然と歩く。
ああ、ああ…………。どうしよう、どこにいけば………。
数歩も歩かないうちに、我慢できない痛みに襲われる。
背中の痛みに紛れていた腹の痛みが、急激に大きくなる。
激痛に、吐き気がしてきた。悪寒がして、脂汗がにじみ出る。
立ち止まって膝に手をつけば、通行人が声をかけてきた。
「どうかしましたか」
医者、医者にかからねば。
まともな医者にかかれるところ。
レオナルド、いやだめだ。アミーユの脳裏に浮かんだ完璧な家族写真に気が引ける。
アデレート宰相閣下。
「宰相閣下、アデレート夫人の屋敷に…………」
閣下ならきっと、助けてくださる。
通行人にそれだけ告げると、あとはわからなくなった。
♰♰♰
アミーユが意識を取り戻したときには、メイドがベッドの脇にいた。
アミーユが起き上がりかけると、飛び上がって部屋を出ていった。間もなくしてアデレート宰相が現れた。
その表情で、もう命は失われたことを知る。
「リージュ公…………」
また作ればいいだの、アミーユが助かっただけマシだの、そんな気慰めを一切言わなかった。ただ、アデレート宰相はアミーユの代わりに涙をつたわせた。
アデレート宰相の屋敷で、寝たり起きたりをして、半月もすれば体調も戻ってきた。
ようやくアミーユにも涙がこぼれてきた。
せっかくの命を守れなかった。せっかくの命を。
思えば邪だった。子をだしにしてダンを更生させようなどという邪な望みを抱いた。それが間違いだった。
母親に捨てられたことを恨んでいたくせに、俺はもっとひどいことをしようとしていた。
ダンは今、どこにいるのだろう…………。
その居場所も知らないとは。
アミーユはダンとのつながりが、恐ろしいほどに頼りないものであることを思い知った。
ダンが会いに来なくなれば、切れてしまう。それだけの関係。
ダンもアミーユを心配しているかもしれない。探しているかもしれない。
しかし、アミーユからはダンに連絡を取りようがないのだ。
アミーユは、アデレート宰相に、事情を話した。伯爵夫妻は自分をよく思っていないこと、夫妻が弟を連れて王都に戻ったために、アミーユはレルシュ邸に住めなくなったこと。
弟ができればもうアミーユを伯爵家に置いておく理由もない。アミーユは、遅かれ早かれ伯爵家を追い出される運命だった。
いつまでもアデレート宰相の屋敷に世話になることもできないために、下宿をさがすことにした。
「リージュ公、いつまでもいてくださっていいのですよ」
アデレート宰相はそう言う。そして、「それにしても」と腹を立てる。
「あなたのαはいったいどこで何をしているの?」
アミーユは何も言えずに黙り込む。
「立場ある方なのね?」
アデレート宰相は、アミーユの相手をそういう意味での訳のある相手だと勘違いしたようだ。まさか山賊上がりの夢追い人とは思いもよらない。
アミーユはあえてうなずいた。
「はい、名を言えば、その方に迷惑をおかけします」
アデレート宰相はうなずくと、顔つきを変えた。アミーユの友人の立場から、公人の顔になる。
「リージュ公、軍は今、わたくしの直下にあります」
「え?」
「軍務長官の席はまだ空席なのです。もう一度、軍務長官に……」
「いいのですか………?」
アミーユは、再び、軍服に身を包むことになった。
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