2 / 33
2 すべてを失った日
しおりを挟む「――君との婚約を解消する」
目の前のユリアンが笑顔のままで言い放った。
そこは静謐な大聖堂。
婚約者の……元婚約者のユリアンと二人きりという状況は期待をあおるには十分だった。
会合と聞いていたが、やはりサプライズ発表でもあるのだろう、そう思い心を躍らせていた矢先の出来ごとだった。
あまりに突飛な言葉に、シリカは意味を把握できない。
きょとんとしたまま首を傾げ、言葉の意味を咀嚼する。
「婚約……解消ですか……?」
「そうだ。君とは結婚しない」
昨日、結婚について話したばかりだった。
それなのに一体どういうことなのか。
理解が及ばない中で、シリカの動悸は徐々に激しくなっていく。
これは現実なのかと、そう思わずにはいられなかった。
「い、一体どういうことでしょう?」
「言葉通りだ。君と結婚するのは嫌だと、そう言ったのさ」
縋るようにユリアンを見上げる。
いつもの優しい顔ではなく、下卑た笑顔がそこにはあった。
足元から崩れ落ちていく感覚に襲われたシリカは、目を泳がせる。
そんな中、コツコツと足音が響き始めた。
姿を現したのは枢機卿バルトルトと、見知らぬ赤髪の少女が一人。
少女は明らかに貴族であり、綺麗な刺繍が施されたスカートを優雅にたなびかせていた。
救いを求めるようにバルトルトに駆け寄るシリカ。
「バ、バルトルト卿! い、今の話をお聞きに?」
「ええ……非常に残念なことです」
鎮痛の面持ちで答えるバルトルトから、シリカは落胆と僅かな癒しを感じた。
それでも長年に渡り築いてきた、ユリアンとの絆がなくなったことには変わりがない。
心の奥に重い何かが落ちてくる。
その苦しさに耐えるのに必死だった。
バルトルトが優しくシリカの肩に手を置くと、やんわりと横に押しのけた。
「ユリアン王子、本当にシリカとの婚約を破棄なさるのですね?」
「ああ、もちろんだ。むしろ当然だろう?」
ユリアンは嫌悪感を隠しもせず、顔を歪ませながらシリカを睥睨した。
「そんな平民の孤児と結婚するはずがないだろう。聖女の力があるからと、父上の命で婚約したに過ぎない。第一王子である僕が、小汚い娘と結婚など……虫唾が走る」
何を言われているのかわからない、わかりたくもない。
シリカは耳を塞ぎたい衝動にかられたが、心がそれさえも許さない。
ただ愕然とし、元婚約者の言葉を聞くことしかできなかった。
「ようやく縁が切れて清々したね」
「そ、そ、そんな……い、今までの時間は……共に語らったあの言葉は……無駄だったのですか?」
「無駄? そんなもんじゃない。僕にとっては苦痛な時間だったよ」
顔を見ればわかる。ユリアンが嘘を言っているわけではないと。
これは現実なのだ。そう思わせるほどに、ユリアンの言葉は率直だった。
シリカはうなだれることしかできなかった。
家族ができる。愛しい人と共に生きる。そんな幸せな未来はなくなった……いや、元々なかったのだ。
「おお、なんと可哀想なシリカ。十年もの間、聖女として尽くしてきたにも関わらずこの仕打ちとは――」
バルトルトは仰々しく、悲しむように目を手で押さえる。
そんなバルトルトに、シリカは救いを求めるように手を伸ばした。
しかし――その手は強かに叩き落された。
バルトルトによって。
「――平民ごときが勘違いするからだ」
ニィと笑い、頬まで口腔が伸びた。
それはいつもの温和なバルトルトとは思えないほどに、おぞましい形相だった。
シリカは身震いする。
すぐに何かを察知し、そして悪寒を全身に感じた。
バルトルトと貴族の少女はユリアンの隣に並び立ち、そして同じような歪んだ表情でシリカを睨みつけた。
「聖女の力は聖神様が与えたもう神聖なるもの。十年前のこと。まさか下賤な平民に与えられるとは夢にも思わず。結果、その力を扱うため、聖女として丁重に扱うことすることを余儀なくされました」
「ああ。まったく由々しき事態だった。だが王族として、汚らわしくとも受け入れるしかなかった。愚かな平民には貴賤など理解できないからね。金、名誉、肩書、そして女としての幸せである結婚。それらを餌に、聖女として職務を全うさせなければならなかった。長きに渡る痛苦を苛む時間だったよ」
言葉にならない。声が出ない。
シリカはただバルトルトとユリアンの口上を聞いていた。
「だがそれも終わりですな」
「これでやっと解放される。『真の聖女』が見つかったのだからな。ドーリス!」
「ええ、今お見せしますわ」
バルトルトの隣に立つドーリスと呼ばれた少女が、右手の甲をこれみよがしに見せてきた。
そこには聖女だけが持つ『聖印』が浮かび上がりつつあった。
反射的に自分の右手の甲を見るシリカ。
聖印が薄くなっている。
その神々しい光はまばゆさを徐々に失い、主との繋がりである印は消失する。
真っ白な肌だけがそこにはあった。
「聖神様の御心のままに! 清らかなる乙女ことわたくしドーリス・クラフトが聖女の御力を拝受いたしますわ!」
ドーリスの聖印は濃く、そして輝き始める。
聖なる光はドーリスの身体全体から溢れ、その力の奔流をシリカは一身に感じていた。
ドーリスの赤い髪は徐々に青く染まっていく。
同時にシリカの青い髪は銀色へと変わっていた。
それは十年前、シリカが聖女になる前の髪色と同じだった。
今この瞬間、ドーリスが聖女となったことは一目瞭然だった。
「ど、どうして……聖神様のお力が消えて……」
「当然のことだろう。平民ではなく、貴き血を持つ人間に力が渡るのは」
「以前は他に聖女の素質を持つ人間がいなかった。だが、真の聖女がようやく目覚めた。公爵令嬢のドーリスがね」
シリカの疑問に、バルトルトとユリアンが丁寧に答える。
それは親切心からではなく、ただシリカを虐げるために。
現実を知らせて、より痛苦を与えるために。
シリカは現状を理解しつつあった。
ユリアン王子との婚約は破棄されたこと。
バルトルトは決して親しみを持っていなかったこと。
そして聖女の力を奪われてしまったことを。
長年に渡る絆はすべてまやかしであったことでさえも。
すべては砕け散り、消えてしまった。
全身に力が入らず、床に座り込んでしまうシリカ。
「おやおや、これははしたない。『元』聖女が、床に座るなどと」
「よいではないかバルトルト卿。もうこの女は聖神教とは関係がないのだから」
「確かにそうですね。ふむ、しかしまがりなりにも聖女として十年従事していた娘です。ただ放り出すわけにもいきますまい」
肩を竦めて演技がかった振る舞いをするバルトルトに、同様に仰々しい言動を見せるユリアン。
シリカは反応することもできなかった。
「ふっ、情に厚い男だ。ならばこうしよう。この女の結婚相手を見つけてやろうじゃないか。僕も婚約破棄には心を痛めているからね。確か、聖女には多くの縁談の申し出があっただろう?」
「ええ、ええ。もちろん。元、であろうと聖女であったことは間違いなく、お相手も満足なさるでしょう。では、そうですね。彼女にぴったりの相手がおります。貧困であえぐ小国ロンダリアにおわす『愚醜王(ぐしゅうおう)ヴィルヘルム陛下』などいかがでしょうか?」
「あはは! それはいい! 無知蒙昧で不遜、醜いことで噂の憐れな王に嫁ぐとは。平民の元聖女にぴったりじゃないか!」
「ではそのように手配を。逃げてもよいぞ? しかし聖神様に課せられた義務を放棄した元聖女の逃亡者、となればどうなるか想像に難くないがな。希少な奴隷として高値で売られるか、はたまた貧民街でみすぼらしく生きるか、あるいは聖神教徒たちから主を裏切った元聖女として迫害を受けるか……くくく、わかるだろう?」
事実がどうであれ、シリカ自身が周りの人間に説いたとしても、その言葉は聖神教団という巨大な組織に潰されるだろう。
それほどまでに聖神教団の力は大きい。
聖女としての肩書も力も失ったシリカは、ただの娘でしかない。
例え、十年間聖女として従事していたとしても、今の彼女ではもう何もできない。
シリカは、これほどの悪意を目の当たりにしたことはなかった。
悲哀と喪失感。そして強い疑問を抱く。
「な、なぜこれほどまでに私をお嫌いに……わ、私は人に、国に尽くしてまいりました。自らのことは二の次に、人々を癒してまいりました。それなのに平民であると、孤児であると、それだけでここまで……?」
「『それだけ』ではない。『それほど』のことだ。貴き存在の聖女に平民がなる。それがいかほど汚らわしいことか貴様は知らぬ!」
「僕たちに平民が話しかけること自体、侮辱そのものだ! 恥を知れ!!」
ああ、この方々にとっては、人格も、行動も、結果も、思いも関係ないのだ。
生まれと血。その二つだけが重要で、他は些末なことなのだ。
痛いほどに理解してしまったシリカは、ただただ嘆いた。
今までの時間はなんだったのかと、そう思わずにはいられなかった。
「これからはわたしくが聖女として、世界を救済いたしますのでご安心ください。『元』聖女様。それと――」
ドーリスがなまめかしくユリアンの胸に指を這わせる。
「ユリアン様のことも」
「ようやく運命の人と出会えたよ。愛しきドーリス」
「結婚はすぐに?」
「もちろんだ。偽の婚約とは違い、君との結婚はすぐに行う。安心していい」
「嬉しいですわ……ユリアン様」
ドーリスとユリアンは熱のこもった視線を絡み合わせる。
出会って間もない間柄でないことは明白だった。
表ではシリカとの婚約をあるように見せ、裏ではドーリスと愛を育んでいたのだ。
「平民が身の丈に合わない夢を見るなんて、愚かですわ」
小馬鹿にするように笑うドーリス。
文字通り見下ろされ、シリカは視線を落とした。
「あーーははははっ!」
「くーーーっくくく!」
「おーほほほっほっ!」
三人がシリカをあざける様に笑った。
鬱憤を晴らすように、執拗に粘つくような哄笑だった。
シリカは耐えるようにぐっと拳を握る。それ以上のことはできなかった。
何を言っても、何をしても、もう意味はない。
なぜならもう聖女ではないのだから。
もう……すべてを失ったのだから。
108
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
追放された地味令嬢、実は王国唯一の“魔力翻訳者”でした 〜役立たずと言われましたが、もう契約は終了です〜
あめとおと
恋愛
王太子から「魔法が何も起こらない役立たず」と断罪され、婚約破棄された伯爵令嬢リリア。
追放された彼女の能力は――
魔法の“意味”を読み解き、術式そのものを理解する力《魔力翻訳》。
辺境の魔導研究所でその才能を見出された彼女は、
三百年解読不能だった古代魔法を次々と再生させていく。
一方、彼女を失った王都では魔法事故が連鎖。
国家結界すら崩壊寸前に――。
「戻ってきてほしい」
そう告げられても、もう遅い。
私を必要としてくれる場所は、
すでに別にあるのだから。
これは、役立たずと呼ばれた令嬢が
本当の居場所と理解者を見つける物語。
『無能な聖女』と婚約破棄された私、実は伝説の竜を唯一従える『真の守護者』でした。~今さら国に戻れと言われても、もう遅いです~
スカッと文庫
ファンタジー
「魔力値たったの5だと? 貴様のような偽聖女、この国には不要だ!」
聖女として国を支えてきたエルナは、第一王子カイルから非情な婚約破棄を言い渡される。隣には、魔力値を偽装して聖女の座を奪った男爵令嬢の姿が。
実家からも見捨てられ、生きては戻れぬ『死の森』へ追放されたエルナ。しかし、絶望の中で彼女が目覚めさせたのは、人間には測定不能な【神聖魔力】だった。
森の奥で封印されていた伝説の銀竜を解き放ち、隣国の冷徹皇帝にその才能を見出された時、エルナを捨てた王国は滅びの危機に直面する――。
「今さら謝っても、私の結界はもうあなたたちのために張ることはありません」
捨てられた聖女が真の幸せを掴む、逆転劇がいま幕を開ける!
国外追放ですか? 承りました。では、すぐに国外にテレポートします。
樋口紗夕
恋愛
公爵令嬢ヘレーネは王立魔法学園の卒業パーティーで第三王子ジークベルトから婚約破棄を宣言される。
ジークベルトの真実の愛の相手、男爵令嬢ルーシアへの嫌がらせが原因だ。
国外追放を言い渡したジークベルトに、ヘレーネは眉一つ動かさずに答えた。
「国外追放ですか? 承りました。では、すぐに国外にテレポートします」
婚約破棄された宰相です。 正直、婚約者も宰相も辞めたかったので丁度よかったです
鍛高譚
恋愛
内容紹介
「婚約破棄だ! そして宰相もクビだ!」
王宮の舞踏会で突然そう宣言したのは、女性問題を繰り返す問題王太子ユリウス。
婚約者であり王国宰相でもあるレティシアは、静かに答えた。
「かしこまりました」
――正直、本当に辞めたかったので。
これまで王太子の女性問題の後始末、慰謝料交渉、教会対応、社交界の火消し……
すべて押し付けられていたレティシアは、婚約も宰相職もあっさり辞任。
そしてその瞬間――
王宮が止まった。
料理人が動かない。
書類が処理されない。
伝令がいない。
ついにはトイレの汚物回収まで止まり、王宮は大混乱。
さらに王太子の新たな女性問題が発覚し、教会は激怒。
噂は王都中に広がり、王宮は完全に統治不能に。
そしてついに――
教会・貴族・王家が下した決断は、
「王太子廃嫡」
そして。
「レティシア、女王即位」
婚約破棄して宰相をクビにした結果、
王宮を止めてしまった元王太子の末路とは――?
これは、婚約破棄された宰相が女王になるまでの
完全自業自得ざまぁ物語。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
「君は有能すぎて可愛げがない」と婚約破棄されたので、一晩で全ての魔法結界を撤去して隣国へ行きます。あ、維持マニュアルは燃やしました。
しょくぱん
恋愛
「君の完璧主義には反吐が出る」――婚約者の第一王子にそう告げられ、国外追放を命じられた聖女エルゼ。彼女は微笑み、一晩で国中の魔法結界を撤去。さらに「素人でも直せる」と嘘を吐かれた維持マニュアルを全て焼却処分した。守護を失いパニックに陥る母国を背に、彼女は隣国の軍事帝国へ。そこでは、彼女の「可愛くない」技術を渇望する皇帝が待っていた。
【完結】婚約破棄、その後の話を誰も知らない
あめとおと
恋愛
奇跡によって病を癒す存在――聖女。
王国は長年、その力にすべてを委ねてきた。
だがある日、
誰の目にも明らかな「失敗」が起きる。
奇跡は、止まった。
城は動揺し、事実を隠し、
責任を聖女ひとりに押しつけようとする。
民は疑い、祈りは静かに現実へと向かっていった。
一方、かつて「悪役」として追放された令嬢は、
奇跡が失われる“その日”に備え、
治癒に頼らない世界を着々と整えていた。
聖女は象徴となり、城は主導権を失う。
奇跡に縋った者たちは、
何も奪われず、ただ立場を失った。
選ばれなかった者が、世界を救っただけの話。
――これは、
聖女でも、英雄でもない
「悪役令嬢」が勝ち残る物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる