螺旋の中の欠片

まみか

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第1章 玖珂家

7 反動

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翌朝。
れいはゆっくりと目を開けるとしばらく天井を眺めた。
すっかり見慣れた天井に窓から差し込んだ光が揺らめいている。
何度か瞬きを繰り返す。
今日、学校は休みだったっけ?
昨日は、何があったんだっけ?
思考がはっきりとせず、もやもや浮かんできては形にならないうちに簡単に消えていく。
ふと手を横に伸ばして、そこに何もない事に気付いた。
(あれ、悠真はるまは?)
寝坊助のはずの悠真がいない。
肘を杖代わりに体を起こすと、体重以上の重さを感じた。
「…悠真?…」
返事はなく、寝室のドアは閉じたまま。
頭を数回軽く振ってみる。
けれどやはりうまく働かない。
「…はるまぁ…」
何だか胸が苦しくなるぐらい、寂しくて、不安になった。
そこにいないだけで、どこかにいるはずなのに。
「悠真…」
いて欲しい人の名を呟きながら、やっとの思いで足をベッドに下ろした。
そのまま腕で体を押し上げると、足が支えきれずぐらついた。
それでもなんとか足を踏み出してみたけれど、ドアに倒れかかるようにぶつかった。
鈍い痛みを堪えながら手探りでドアノブを探す。
不意に支えがなくなってそのまま倒れこんだ。
「わ、澪!」
ドアを開けて入ってきた悠真が、倒れてきた澪をとっさに受け止めた。
澪は必死にしがみついて、顔を上げる。
「悠真」
驚いて目を見開く悠真を見て、小さな溜息を吐いた。
しがみつく手が悠真の服を握りしめる。
「大丈夫か?まだ寝てていいんだぞ」
「大丈夫」
悠真の肩に額をつけると、ふわりと悠真の体臭が香る。
すん、と鼻を鳴らして吸い込むとゆっくり吐き出した。
不思議な香り。
自分を昂らせたり、安心させたり。
時には不安にさせる。
酷く香る訳ではないし、もしかしたら澪だけが感じ取れる香りかもしれない。
「澪?」
自分にしがみついたまま動かなくなってしまった澪を悠真が覗き込もうと身を捩る。
「うん?」
それに答えるように澪は顔を上げた。
心配そうな瞳。
「ベッドに戻るか?」
澪は小さく首を振った。
「…ソファーがいい…」
寝室は悠真の存在がわからなくて、不安になる。
でも自分では辿り着けそうにない。
「…でも…歩けない、かも…」
澪が正直に呟くと、悠真がくくっと笑った。
「わかった」
悠真に腕を取られて肩に回されると、腰をしっかりと支えられ、よたよたとソファーに向かった。
ゆっくりソファーに腰掛けさせられると、思わずふうっと息を吐いた。
それを聞いて悠真が笑う。
「…なあに?」
「いや、俺、鍛えた方が良いかもな。澪を抱えられるくらいに」
それから髪をするりと撫でられる。
「何か食うか?」
「…んー、どうだろ…」
お腹が減っているようで、減ってない、気もする。
澪が考え込んでるうちに悠真が離れていってしまった。
「悠真?」
思わず呼びかける。
「ん?」
首を動かして悠真を探した。
「どこ?」
首を動かして見える範囲に悠真はいなかった。
じゃあ、後ろ?
身を捩ろうとすると視界の端から悠真が現れた。
手に持った皿にはサンドイッチが乗っていた。
それを澪の目の前のローテーブルに置く。
それからまたすっと離れて視界から消えた。
「悠真っ」
「なんだよ」
くすくす笑う声がする。
「どこ?」
「ちゃんといるって」
また現れた悠真の手にはペットボトルとお菓子の袋が数個。
それから澪の横に腰掛けた。
ペットボトルを澪の手に持たせると、お菓子の袋は膝に乗せる。
「澪、昨日からあんまり食べてないからな。ちょっとずつでも何か摘むといいって、賢木さかきが置いて行った」
それからお菓子の袋を一つ開ける。
開いた口を澪に向けた。
澪は手を入れて、お菓子を一掴みする。
それを口に運ぶと、ペットボトルを持った手ごと悠真に掴まれて、蓋を外してくれた。
「零すなよ」
澪が小さく頷くと、ちょっと身を乗り出してリモコンを手にした。
「さっき最新作持ってきて貰ったんだ。今日は部屋から出れないだろうと思ってさ」
「…うん…」
DVDのメニューが現れて、ファンファーレと共に画面に文字が現れる。
ぼうっとそれを眺めて、時々横を振り向いて悠真を確認した。
何の映画かわからない。
外人が話してる。
字幕が画面を流れていくけれど、読めない。
「澪?」
「…ごめん、悠真。吹き替えにして…」
悠真はまず字幕から見る。
いつもそうだから澪もそれに慣れてしまった。
でも今日は、文字が読めなくて。
悠真は何も言わず、メニューを呼び出すと吹き替えにしてくれた。
「ごめんね」
「いいよ、別に」
悠真がにっこりと笑いかけてくれた。
先ほどよりもましになったけれど、やはりストーリーはうまく飲み込めない。
それでも画面に映し出される人物や背景を眺める。
ペットボトルに口を付けて液体を少し流し込むと、ひやりとした感覚が喉を通っていく。
お菓子を摘んで、口に運ぶ。
ゆっくりと咀嚼しながら、時々飲み物を飲む。
画面を眺める。
繰り返してふと気付くと、悠真がいなかった。
泣きそうな程、胸が苦しくなって。
胸が張り裂けそうなほど、悲しくて。
「悠真?悠真ぁ!」
何度も呼んだ。
後ろから頭を撫でられて、顔を上げた。
悠真の姿は見えないけれど、代わりに声が届く。
「ちゃんといるよ」
「…うん…」
髪に神経など通っていないはずなのに、そこからじんわりと広がる暖かさに澪はそっと目を閉じた。

ぎゅっと悠真の手を握って、理解できない画面をただ眺めた。
頭の中は白く深い霧が立ち込めているようで、全てがぼんやり滲んで感じる。
その中で繋いだ手から伝わる暖かさだけがはっきりしていた。
それだけが確かな世界に、澪はじっと佇んでいる。
いつの間にか膝には毛布がかけられていて、肩にも上着が掛けられてた。
「澪?」
悠真の声でさえ、鈍く響く。
「…なあに?…」
答えてはみるけれど、本当に声が出ているのかさえわからない。
でも悠真から返事が来る。
「大丈夫か?」
「…どうして?…」
「ぼうっとしてるし、俺ばっか呼ぶし」
「…悠真がすぐいなくなるからだよ…」
「いなくなってないし」
悠真に顔を撫でるようにされて、心地よくて澪は目を閉じた。
髪を搔き上げた指がそっと耳に触れる。
びくっと澪は肩を震わせた。
「あ、ごめん」
「…ん…」
もぞもぞと悠真に体を寄せた。
「やっぱ、まだ早かったか?」
「…何のこと…」
「気付いてない?」
「…何を…」
「ピアス、全部外してある」
「…え…」
言われてそっと自分の耳を触る。
いつものぷつりとした突起がない。
「…ほんとだぁ…」
そのまま下ろした手を、繋いだいない方の悠真の腕に絡めた。
「え、それだけ?」
「…ん?…」
「あんなに昨日は嫌がってたのに」
「…わかんない…」
澪は体をずらして悠真に凭れかかった。
繋いでいた手を離して、ソファーと悠真の隙間に腕を通して悠真の背中を掴む。
もう片方は悠真の腕をなぞりながら掌を目指し、指を絡ませた。
「澪?」
「ん?」
「どうした?」
「…ん…」
何だかとても悠真の体温が恋しい。
悠真に触っていたい。
「したい?」
悠真に覗き込まれて、澪はきょとんと見返した。
たっぷりの時間をかけて悠真の言葉を理解するとくすっと笑った。
「ううん。こうしてたいだけ」
「そうか」

ずっとTVの画面を見てた。
ずうっと同じものを見てる気もするし、何度か違うものに変わった気もする。
呆然と眺めているだけなので、ついに映像と音声が合わなくなってきた。
「どうですか?」
「全然だめだ。ピアス、一個でも付けた方がいいんじゃないか?」
悠真の声が混ざってる。
「昨夜は大丈夫だったって言いませんでした?」
「ああ、言った!ここまでじゃなかったからな」
悠真が喋っている。
澪がふと隣を見ると悠真はいなかった。
途端に自分が宙に放り出されたような気分になって。
「悠真?どこ?」
「ここだよ」
必死に呼びかけると、すぐに頭を撫でられた。
ほっととしてその手を取ると、そのままぎゅっと握り返してくれる。
「ずっと、こんな感じだ。学校なんて無理だよ」
「…そうですか…」
悠真が誰かと話してるのはわかるが、誰かわからない。
すると悠真を探してきょろきょろしていた視界に、誰か入ってきた。
知っている人だけれど、名前が出てこない。
「…悠真ぁ…」
何だか怖くなって、悠真を呼んだ。
ぎゅっと手を握り返され、さらに頭を撫でてもらった。
うっとりとその手に頭を寄せる。
すると目の前に現れた人物がふわりと笑う。
「…なんだか、すごく可愛いですね、澪さん」
悠真が小さな咳払いをした。
澪はやはりきょろきょろと悠真を探す。
「悠真?」
「ほら、呼んでますよ」
目の前の人が澪の後ろに話しかけた。
「わかってるよ」
頭に触れていた手も、繋いでいた手も離れていく。
「…や…」
泣きそうになって悠真を呼ぼうとしたら、悠真が現れて隣に座った。
ほっと息を吐いて悠真に抱きついた。
「これ、発情期に似た、って感じじゃないだろ?」
「そうですね、抱えてる不安だけ増長されて、完全に思考が停止してますね」
「思考が停止、って。でも俺のことはわかるみたいだ。とりあえず食事もしたし、会話もできる」
「悠真さんとだけ、みたいですけどね」
悠真と話している人物がローテーブルに腰掛けた。
じっと覗き込んでくる眼差しはなんだか少し安心出来て。
名前、もう少しで出てきそう。
そんなことを考えていると、ふとその人が手を伸ばしてきて、びっくりして叩き落とした。
目の前の人が目を丸くした。
「あ、そういう反応するんですね」
「俺もびっくりした」
澪は悠真にしがみついて、胸元に顔を埋めた。
ちらりと盗み見た視界で、悠真の方へ小さな箱が差し出される。
「悠真さん、着けてあげてください」
「いいのか?」
澪は悠真の胸にぐりぐりと頭を擦り付けた。
「仕方ありません。ここまで日常生活に支障が出るとは思いませんでしたからね」
「まあな。ほら澪」
悠真に顔を掴まれて横を向かされる。
髪をかきあげて、耳に触れ、ずっ、と何かが擦れる感覚がした。
「んっ」
「あ、ごめん、痛かったか?」
「平気」
澪は答えながら頭を振った。
なんだか急に頭に血が集まり始めたみたいに頭痛がする。
「私が考えている以上に、抑制器の影響が大きかったみたいですね」
「でもさ、おかしくないか?こんな風になるなんてさ。性欲を抑制してる感じだと思ってた。だから昨夜はちょっとそういう感じになったけども、発情期って感じじゃなかったから、今朝賢木にもう一個外しても大丈夫じゃないかって言ったんだ」
「あ、そうか、賢木さんだ」
ふと流れている会話から、目の前の人物の名前を思い出した。
賢木は澪に、にこり、と笑ってくれた。
「悠真さんはご存知ないかもしれませんが、発情期はひどい時は自我をなくします。それこそ性行為のことしか考えられなくなって、会話もままならなくなる人もいますよ」
「でも澪は」
「性行為のことは考えてない、みたいですね」
「妙にくっつきたがるけど、それだけだ」
「一度とはいえ経験はあるはずなのに。Ωオメガ器官が未熟なせいで人恋しさだけ残ったんでしょうか」
「俺が知るかよ」
賢木が不意にくすくす笑いだす。
「まあ、悠真さんだけ認識されるということは、完全に選ばれてますね。良かったですねぇ、悠真さん」
「からかうなよ」
「ともかく、一旦は着けましたが、また外しますよ」
「え?けど」
「このままじゃいつまでたっても外せないじゃないですか」
「そうだけど」
「学校は無理そうなので、しばらくお休みですね」
「…学校、休むんですか?…」
流れていく会話をただ聞いていた澪が、不意に口を挟んできたので、一気に二人の視線が向いた。
「澪、戻ったか?」
「…何のこと…」
澪が首を傾げると、悠真が小さな溜息をついた。
「だめか」
「いきなり戻るわけないでしょ?」
「でもこれじゃ俺がトイレ行っただけでも泣きだすんだぞ」
悠真が少し強い口調で言ってる。
「泣く?誰が?」
どうしたんだろうと、澪が口を挟むと、悠真がくるっと澪を向いた。
「澪が!」
少し叫ぶように言われて、不安が募る。
「…悠真、怒ってるの?…」
怒らせたのかと、悲しくなる。
「怒ってない」
「…うそ…」
「怒ってないよ」
悠真がぎゅっと抱きしめてくれた。
悠真に抱きしめられると不安が綺麗にどこかへ消え、澪はほっと息を吐いて、悠真を抱き返した。
「ずっとそうしてあげてなさい」
賢木は楽しそうに笑いながら立ち上がった。
「計画は変更です。学校はしばらくお休みして、そうですね、2時間ごとに一個着けたり外したりしてみましょうか。寝る時は外して」
「ええ?!一個着けたままで、2個目を着けたり外したりでいいんじゃないか」
「澪さんが心配でしょ?」
「………」
「これだけ影響力があるということは悪影響もそれだけあるということですよ。早いほうがいいです」
会話が途切れ、悠真が考え込むように俯いている。
澪はじっと二人の会話を聞いていたけれど、ふとまた口を開いた。
「…賢木さんて、今日はおやすみじゃ、ありませんでした?」
いつも日曜日は合っていない気がして。
そうだ、今日は日曜日だ。
不意に澪は思い出す。
「そうですよ。でも、私にも責任がありますからね、様子を見にきました」
「そうなんですか?ご苦労様です」
澪は人ごとのように笑った。
「ありがとうございます」
そんな澪に賢木も笑いかけてくれた。
澪は安心したように悠真の腕の中で、体を預け目を閉じた。
悠真は澪の背を撫でてやる。
賢木はそんな二人を微笑みを浮かべながら眺めて、声を掛けた。
「悠真さんもしばらくお休みしてください」
「え、俺も?」
「悠真さんがいないと探して泣いてしまわれるんでしょ?」
賢木はちょっとからかうような含み笑いをする。
「そうだけど」
悠真は頬を染め、澪を見下ろした。
澪の瞳がきょとんと見返してくる。
「こんなに可愛い澪さんを放置できないでしょ?」
「………」
賢木はまだ含み笑いをしていて、悠真は少し拗ねるように顔を逸らした。
「家庭教師頼んでおきますから」
顔を逸らされたことを不思議そうに、澪に顔を覗き込まれ、悠真は小さく微笑みながら頷いた。
「わかった」
「もちろん、澪さんも」
悠真は思わず賢木を振り返った。
「…勉強、できないんじゃ…」
「とりあえずですよ。出来るようならすればいいし、出来なければそれでいいです」
相変わらず会話を聞いてはいるようだが、理解している様子はない澪を悠真は不安そうに見つめた。

どれだけそうしていたのかわからない。
変わらずソファーに座ってDVDを眺めながら夕飯を食べた後、確か悠真に引っ張られるようにお風呂に一緒に入った。
悠真が優しく洗ってくれたので、澪も洗い返した記憶がある。
思い出すと、急に恥ずかしさを覚え顔が熱くなった。
その後、やはりソファーに座ると言い張った澪に付き添って、悠真もソファーにいる。
今はTVにはニュースが流れている。
何となく、内容も理解できてきた。
頭の靄も少し晴れてきた気がする。
澪はちょっと痺れてきた悠真と繋いだままの手を引いた。
「悠真」
「なんだ」
悠真は眺めていたスマホから顔を上げて澪を見る。
「今、何時?」
澪の問いかけに即座に答えてくれる。
「18時過ぎ」
「もう、そんな時間なんだ」
澪はTVに視線を戻すと、苦笑いした。
だからニュースなんだ、と。
「………」
悠真はそんな澪の様子を伺うように見つめる。
「明日、学校休むの?」
再び澪が振り向きながら問いかけると、今度は少し間が空く。
「…ああ」
「悠真も?」
「…ああ。澪?」
「ん?」
「あ、いや」
悠真は俯き加減で顔を逸らした。
その悠真の肩にコツンと頭を乗せると、澪は小さく笑う。
「大丈夫、少しはっきりしてきた」
思考が明確になってきた理由に思い当たって、澪は手を動かした。
まだちょっと変な感じがする。
自分の手じゃないみたいだ。
耳を触ると馴染みの感触。
「また、外す?」
「…ああ、次は寝る前にな」
悠真が微笑みながら頷いた。
「そう。ごめんね、僕、こんなで」
澪が悠真の肩に頭を擦り付けながら言うと、悠真が笑った。
「何言ってるんだ」
「だって、悠真、何も出来なかったんじゃない?今日」
「覚えてるのか」
ちょっと驚いた声。
「なんとなくだけど、不安で、ずっとそばにいて貰ったから」
悠真の存在を感じるだけで、安心できたから。
何もかもが不安定な世界で、悠真の体温だけが確かだったから。
澪を見つめた悠真が顔を綻ばせる。
「いいよ。その不安が取れるまでそばにいるよ」
「うん」
繋いだ手を引き寄せて、澪は自分の胸に当てる。
その上からもう片方の手を添え、そっと抱きしめた。
「そんなんで不安が取れるなら」
「取れるよ」
「そうか」
「うん」
澪は悠真と繋いだ手を持ち上げて、口元に運ぶ。
そっと、悠真の手の甲にキスをすると、悠真がくすぐったそうに笑った。
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