螺旋の中の欠片

まみか

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最終章 旅立ち

36 就職

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龍一が勤める会社は、大学への通学路よりちょっとだけ外れたオフィス街にあった。
結局発情期は医者の宣言通り3日ほどしかなく、その間大学も休んだ澪は、なぜだか澪のバイトに猛反対をする悠真の説得に費やした。
理由を聞かれると黙り込む悠真は、賢木から同様の説得を受け、最後には嫌々ながら承諾した。
発情期が終わってしばらくすると、龍一から連絡があり、澪は会社に顔を見せに行くことになった。
悠真はしきりに一緒に行く、と言い張っていたが…。
「子供じゃないんだから一人で行けるよ」
「そういう意味じゃなくて!」
「僕が働くのに、悠真が面接についてくるっておかしいだろ」
「………」
そんなやりとりを繰り返して、結局置いてきたけれど、不機嫌そうだった。
帰っても不機嫌なままなのかな?
それを思うとちょっとだけ憂鬱だった。
賢木に貰ったメモ通り、小さなオフィスビルの3階を目指す。
会社名のプレートがかけてあるドアをノックすると、すぐに龍一が現れた。
「澪くん、いらっしゃい」
「龍一さん」
いつもの人好きのする笑顔で出迎えられて、ほっとしたものの、すぐに頭を深く下げた。
「今日はよろしくお願いします」
「そんな気負わなくていいよ」
笑い声とともに肩に軽く手が掛けられる。
頭を上げた澪に、龍一は笑顔のまま中を促した。
「面接、とかで呼んだんじゃないからさ。身元ははっきりしてるし、人柄も知ってるから採用は決定だし。今日は初対面の倉石さんに合って貰って、勤務時間なんかの相談に来て貰ってるんだからさ」
龍一に背中を押されるようにして入ったオフィスは、簡素な印象を受けた。
入口の正面に向き合った二人がけのソファーと間にコーヒーテーブル、白いパーテンションで仕切られた奥の方には机と椅子が見える。
「あっち側が就業スペース。後で澪くんの机も教えるからね」
澪の視線に気付いた龍一が教えてくれた。
「とりあえず、そこ座ってて。すぐに社長が来るからさ」
澪に奥側のソファーに座るように勧め、龍一は反対側の仕切りの向こうへ消える。
と言っても仕切りの上から龍一の頭が見えているけれど。
「ここ、炊事設備がなくてさ、コーヒーメーカーしかないんだ」
そう言いながら紙コップを二つ抱えて、澪の前のソファーへ腰掛けた。
「駐車場はすぐわかった?」
ビルの裏手に入り込む所に駐車場はあった。
一方通行だったりするので回り込んだりしたけれど、なんとか駐車出来た。
「はい」
賢木に聞いていた通り、そのすぐそばからビルの裏口に入り込めたし。
「ちょっと離れてて、悪いね」
「いえ、大丈夫です」
紙コップの一つが澪の前に置かれる。
コーヒーの芳ばしい香りがふわりと鼻をくすぐった。
「ガムとミルクは好きなだけどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
屋敷では悠真があまりコーヒーを飲まないことから習慣がなかったけれど、大学に入ってからはよく飲むようになった。
それでも目の前の龍一のようにブラックでは飲めないけれど。
ガムシロップとミルクを一つずつ貰って、順にコップに注いで行く。
「コーヒーは飲み放題なんだけど、他の飲み物は廊下の自販機で買うしかないんだよね。その辺がちょっと不便かな」
「あ、別に、僕平気です」
「そう?そう言ってもらえると助かるよ」
龍一がほっと息を付く。
それから微かな笑みを浮かべながら、オフィスを見渡してみせた。
「ここってびっくりするぐらい質素だろ?」
「え」
「いやあ、びっくりしたんじゃないかと思ってさ」
澪に向き直って苦笑いした。
「え、あ、いえ」
澪はごにょごにょと言葉を濁す。
元々は惣一が作った会社と聞いていたので、正直想像と違って驚いた。
質素、というより必要最小限の設備しかない。
見渡した室内も飾りなどほとんどない。
壁は白く、パーテンションも白い。
ソファーの黒がやけに目立つほど。
龍一は澪と一緒になってもう一度部屋を見渡す。
そう言いながらも龍一が悪く思っていないことは、表情でわかる。
これだけ質素だと、逆に威圧感を出し居心地悪くなったりするものだけれど、不思議と気にならない。
設置されている家具や道具が、空間に溶け込んでいるせいかもしれない。
きっと設立当初からこの場所にあって、在るべき物になっているのだろう。
それなのに古臭さや年季を感じさせないのは、何気に手入れが行き届いているから。
愛着を持って、使用されているものばかりなのを感じることができる
「ここってさ、おっさんが母さんと一緒に玖珂から逃げようとして作った会社なんだよ」
「家出、ってそういう…」
「そ。普通に働きにでるって発想がないところが、玖珂の御坊ちゃまって感じだけどさ」
龍一はけたけた笑う。
「持ってた資産で、母さんと一緒に働けて、なおかつガキも育てられて…。そういうのを目指してたから、必要最小限で始めたらしいよ。まあ結局、戻っちゃうんだけどね」
ふと一瞬、龍一の顔が真顔になったのを澪は見逃さなかった。
もし。
もしそのまま惣一が玖珂に戻らず、賢木とともにこの会社を経営していたらどうなっていたのだろう。
「倉石さんが引き継いだ時にさ、倉石さんも結構そういう装飾を嫌う人だから、そのまま質素な形態ごと続いてるってわけ」
次に話し始めた時には龍一はいつもの笑顔。
母子家庭の長男として苦労も多かったはず。
父親がいない寂しさとか。
龍一はおくびにも出さず、兄弟と接している。
「必要最小限でもケチってわけじゃないからね。必要なことには必要なだけ資金を投じてるよ」
悠真が慕う理由もわかるし、実際澪にとっても兄のような存在。
尊敬し、信頼できる人物。
それは多分に悠真の兄である、ということが大きな要因なので、もちろん恋愛対象としてではない。
それなのに。
悠真は何を心配してるんだろう。
澪が小さく溜息を吐くと、龍一がくすりと笑った。
「しかし、よく悠真がOKしたよな」
「…しぶしぶ、って感じでしたけど…」
澪が再び小さな溜息を吐くと、龍一がまた笑う。
「うん、そうみたいだね」
ポケットから取り出したスマホを眺めて、くすくす笑う。
「悠真からもう何回もメールきてるよ」
「え!?すみません、悠真ったら」
澪は真っ赤になって頭を下げた。
「いいって。心配なんだよ、君のことが」
「でも、何を心配するっていうんですか?龍一さんは婚約者がいるし、聞いても答えてくれないし」
澪が反論すると、龍一は頭を掻いた。
「俺がどうとかじゃなくて。君が離れて行くことが心配なんだよ」
「え、なんで…」
澪が悠真から離れるなどあり得ない。
どこをどう解釈したらそんな心配をするのだろう。
「君が新しい世界を知る、ということは新しい出会いがあるってことだろ?自分が知らない澪くんが増えて行くことが心配なんじゃないかな?」
「…よく、わかりません…」
思わず俯いた澪に、龍一が少し考えるような仕草をした。
「んー、例えば、君が知らない人と悠真が楽しそうに話してたら寂しくない?」
「え、それは、まあ…」
「それと一緒だよ」
「………」
本当に?
それにしてはちょっと度がすぎる気がするけれど。
ちょっと俯いて考え込む澪に、龍一が溜息を吐いた。
「まあ、俺も心配してはいるんだけど」
「ええ!?龍一さんまで?」
澪が驚いて顔を上げると龍一が苦笑いした。
「あ、いや俺が心配してるのは悠真の方」
「え」
思わず瞬きを繰り返す。
「君への依存が強いみたいだからさ」
「え、依存?」
「おっさんも母さんへの依存が強かったらしいからさ、家系かな?…いや、環境だな」
依存?
よくわからないけれど、心配するようなこと?
首を傾げる澪に、龍一はコーヒーを一口飲んで、澪にもわかるようにと説明を始めた。
「悠真の環境ってさ、他には何も信じられないようなものだろ?自分を騙したり利用しようと考えてる奴らばかりで、信じられるのは家族だけ。その中に君がいて、絶対的な信頼がある。まあ、当然といえば当然だけど」
「………」
「君がいないと不安になるんだよ、悠真は、きっと」
龍一は少し寂しそうに笑う。
「っていえば聞こえはいいけどね。君を束縛したり監禁したり、病的になりそうな雰囲気だよね、今」
「え!?そんなことはないですよ?」
澪がブンブンと手も頭も振って見せると、龍一は苦笑いする。
「うん、君に嫌われたくないから、我慢してるんだと思うよ」
「………」
「母さんやおっさんも心配してたからさ。ちょっと君にも知っててもらいたかったんだ」
「…はい…」
龍一の話はわかるようで、よくわからない。
依存、て何?
そういえば惣一もそんなことを話していた気がする。
賢木への依存が強いことを周りに心配されて…。
確か引き離されそうになったとか、言ってなかったけ?
じゃあ、澪と悠真も引き離される?
一緒にいて安心できるのは澪も一緒だ。
不安になる気持ちもわかる。
澪も一緒だから。
悠真がいてくれるだけで、安心できる。
でもそれって恋愛感情にはつきものなのでは?
それが悪いこと?
澪の考えはそこで中断された。
「やあ、待たせたね」
現れたのは賢木たちと同じぐらいの中年の男性。
澪は思わず立ち上がって頭を下げた。
「初めまして、志垣 澪、です。よろしくお願いします」
「あ、どうもどうも、僕が倉石です」
相手も軽く頭を下げた。
「まあまあ、座って座って。龍、俺にもコーヒーちょうだい」
「はいはい」
そう言いながら龍一が立ち上がったソファーに入れ替わりで座った。
優しげな目元。
家庭教師の倉石の旦那さん。
もうちょっと怖そうな人を想像していたので、澪は少しほっとした。
「澪くんのことは妻からも聞いてるよ。もちろん龍からも、賢木さんからもね」
「あ、はい」
「みんな、真面目ないい子、ってお墨付きだし、うちも人手が欲しいところだったから助かるよ」
「よろしくお願いします」
戻ってきた龍一が倉石の前にカップを置いた。
「あ、ミルク、入れて」
「もう、自分で入れてくださいよ」
そう言いながらも龍一はカップにミルクを注いだ。
「社長がこんなんだからさ、なかなか人が入らないんだよ」
澪に向かって苦笑いする。
「まるで僕が悪いみたいじゃないか」
「人手が足りない、とか言いながら求人手続き面倒くさがってなかなかしないでしょ」
「…実際、面倒なんだよね、あれ」
そう言いながら澪に向かって苦笑いする。
「今までは龍がバイトとして雑用をこなしてくれてたから助かったんだけど、社員になると他にしてもらう仕事があって、雑用が溜まるんだよね」
倉石の横に腰掛けた龍一も苦笑いした。
「みんなに社長の代わりに求人出してきてくれ、って頼まれてたところだったから、澪くんの話を母さんから貰って、ほんと助かったよ」
龍一も口を揃える。
なんだか多大な期待をかけられている気がして、澪はちょっと青ざめた。
知識も技術もないのに。
「で、早速だけどいつからきてもらえる?」
倉石は龍一にも確認するように視線を流した。
澪の様子には気付かないようだった。
「まだ、全然仕事の話ししてないです」
龍一は澄ました顔で答える。
「あ、そうなの?」
「世間話してました」
倉石はそれを咎める風でもなく、顎に手を掛ける。
「じゃあ、えっと何から話したらいいかな」
「澪くん、どのくらいの頻度で働けそう?」
龍一が助け舟を出すように口を挟んだ。
「あ、勉強もあるので、3日か4日ほど」
「時間は?」
間髪入れずに倉石が聞き返す。
「大学終わってからになります。あとは土曜か、日曜にもできれば…」
講義が午前中で終わる時とかに集中して働かせてもらって、長時間働ける土日にも働きたい。
この会社なら可能だと賢木には前もって聞いてある。
今までひと月あたり、自分がどれだけの金額を使わなければいけなかったか、調べてある。だから最低限それぐらいはバイト代として収入が欲しい。少し余裕があれば悠真や福田と出かけることだって可能になる。
できるだけ稼がなければ。
悠真に頼らなくてもいいように。
けれど澪の答えに龍一が驚いた顔をした。
「え!?週末、仕事して大丈夫か?悠真は反対するんじゃない?」
「…悠真は…関係ありません…」
小さく言い放ちながら、龍一の言う通りだろうと内心思った。
本当はその話もするはずだったのだけれど、悠真が頑なに反対するので結局言い損ねてしまった。
「…大丈夫かな…」
「うちは歓迎するけどね」
龍一が心配そうに溢す隣で、倉石が一口コーヒーを啜る。
「それじゃあ、都合のいい日を教えて貰って、1日4~5時間ぐらい働いてもらおうかな」
「はい」
澪は大きく頷いた。
「あ、うちの勤務形態は聞いてるかな?」
「はい、フレックスだと」
賢木に最初聞いた時はよくわからなかったけれど。
「そう。タイムカード押して貰えばいいから。最初は龍が澪くんの勤務時間に合わせてあげて?」
「はい、了解です」
トントン拍子に話が進んでいくけれど…。
賢木に紹介して貰った時から、澪には一つ不安材料がある。
「あの、僕、webの知識とかないんですけど、お役に立てますか?」
「パソコンは触ったことある?」
倉石に問いかけられて、澪は小さく頷いた。
「はい」
悠真のパソコンを大学のレポート作成に借りたこともあるし、大学でも使ってる。
技術はないけれど。
「やってもらう作業は、コピペぐらいだから大丈夫だよ。あとは龍が教えるし」
ちらりと倉石から視線を投げられると、龍一が笑顔で頷いた。
「はい、よろしくお願いします」
もう一度頭を下げて、澪ははたと思い出し慌ててバッグを漁った。
「あ、すみません、これ」
賢木に教えてもらいながら作成した、初めての履歴書。
白い封筒に入ったまま差し出した。
「あ、そうだった。はい、確かに」
倉石は両手で受け取って、小さく頭を下げる。
「龍、うちも書類渡さなきゃ」
「どこに置いてあるんですか?」
「僕の机の上」
「はいはい」
龍一が立ち上がるのを見送って、倉石はまたコーヒーを啜る。
「いやあ、ほんと、龍の性格は僕にぴったりで助かるよ」
「社長が無精者で、俺がお節介なだけでしょ」
戻ってきた龍一がクリアファイルに入った書類を差し出した。
「今度来るときまでに記入してきてくれればいいから。保証人は母さんでいいよ」
龍一がそう微笑みながら言う。
クリアファイル越しに見える書類には「契約書」と記載されていた。
なんだか、一歩大人になった気がして、澪は胸が高鳴った。
「うちはバイトも給料振込みだから、口座情報は忘れずにね」
「はい」
澪が頷くと、倉石はにっこりと微笑む。
それから不意に龍一を振り向いた。
「じゃあ、あとは龍に任せていいかな?もう一件、営業行かなきゃ」
「はい、わかりました」
龍一の返事を聞くと、すくっと立ち上がって、澪に手を振った。
「じゃあね、澪くん。慌ただしくて、ごめんね」
「あ、いえ、こちらこそ、お忙しい中ありがとうございました」
澪が頭を下げると、龍一にも手を振って、倉石は出て行った。
「悪いな、ほんと、慌ただしくて」
倉石を見送ると、龍一は苦笑いした。
「いえ、社長自ら営業って大変ですね」
「元々営業で入ってきてるし、得意先は自分で行かないと気が済まない人なんだよ」
苦笑いしながら、龍一は澪を手招きした。
「おいで。澪くんの机、教えるから」
「はい」
机の場所や諸々の場所を簡単に教わって、その日は終了した。
「給料の話をしなかったけど、俺の時と一緒でいいのかな?」
「はい。あ、でも僕、龍一さんみたいに優秀じゃないから」
同じ金額というのは、憚れる。
「俺も最初はおんなじだったよ。大丈夫大丈夫」
このまま仕事をするという龍一に見送られながら、澪は会社を後にした。
「悠真とはちゃんと話すんだよ」
最後の言葉には引っかかるものがあったけれど。
預かった書類のクリアファイルをしっかりと胸に抱く。
これで。
これで悠真から経済的に少しだけ自立できる。
職場の雰囲気もアットホームな感じで、悪くない。
何より初めての職場に、知り合いがいるというのは心強かった。
他にも3人ほど社員がいるというので、まだわからないけれど。
澪にとっては大きな一歩。
悠真には歓迎されていないけれど。
龍一の言っていた「依存」問題はよくわからないし、無視できない問題なのかもしれない。
けれど今澪の胸の中は新しい出来事、環境に向けての期待でいっぱいで心配事などかまっていられない。
それがたとえゆくゆく大きな問題になるのだとしても、今は一歩ずつ進むだけ。


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